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布は正直だ。色んな感情を全身で伝えようとしてくれる。
型紙通りに鋏で裁つとき。細い針を突き刺したとき。出来上がった服に客が腕を通したとき。
布が僕に向かって発する歓喜の声は、一つ一つ違っている。
葉が風と擦れあうときのような、かさかさとした音。ナイフが皿に当たったときの、こつんとした軽い音。凍える冬の空で冴え冴えと光を放っている月の音。客の要望によって、鋏の入れ方によって、その日の天気によって、布は幼子のように感情を変える。
そして、それは僕も同じだ。僕が布に対して持つ想いは、決して画一的ではない。斑だ。僕が生きている以上、そして布が僕と共に呼吸している以上、お互いの感情は砂浜に寄せる波のように、決まった形というものを持たない。
砂浜に寄せる波。斑の感情。陳腐な表現だ。今まであまり本というものに触れてこなかった僕にとって、己の感情をほとんど正確に言語化するなど、全くの素人が挑むサーカスの空中ブランコに等しい。
ノア。君なら、僕の感情をもっと上手く言い表せることができるだろう。
君は詩人だ。本が好きだとか、自室が小説やら戯曲やらで埋まっているとか、そんなことは関係ない。
君の体の内側には、今まで君が読んだ文豪だとか英国の有名な詩人だとかの言葉の源流が流れている。
あの口から紡がれる言葉は、耳を傾けるべき言葉だ。一つ一つの音符がお互い作用しあって名曲が生まれるように、君の言葉の一つ一つが君自身を構成している。
そんな君が、朝食の時間を過ぎても下に降りてこなかった。
思えば、前日仕事から帰ってきたときから様子がおかしかったのだ。芸術家の男の家に行くといっていたから、数日前のように何か変なものを見たのかと思ったが、声をかけようとすると「ごめん。疲れたから、もう寝る」とさっさと自室に引き篭もってしまった。
無性に心配になった。
僕はコーヒーの香りもそこそこに一気に飲み干した。ノアの仕事場兼自宅の二階へ向かう。
階段を上り、右に曲がったら廊下が続いている。手前の扉がノアの仕事場だ。
ここ最近は客の自宅へ訪れることが多くなっているが、「縫石屋」の看板を掲げ始めたときには、外出することを彼が苦手としていて、ここまで客に来てもらっていた。
扉を閉めていても、君が客のために、そして自分自身のために収集した宝石の輝きが漏れ出ているような錯覚に囚われる。
廊下の突き当りがノアの自室だ。ノックをして、返事がなかったが気にせずに開けた。
狭い部屋は、彼がここに引っ越してきた頃から何一つ変わっていない。
壁にぴったりとベッドが据えられ、横には衣装箪笥や机といった必要最低限のものが並んでいる。残った空間を埋め尽くすのは本棚だ。天井にまで届く本棚のどれもに、分厚い本がぎっしり詰まっている。君はこの何十冊もの本を全て読破したと言っていたな。全く、感嘆すべきことだ。
そこここに埃が積もり、明かりもろくに点いていないことも相まって、忘れ去られた廃村の図書館のような様相を呈していた。
ノアは本棚の下で蹲っていた。周りに、何冊もの本が開いたままで散乱していた。
寝ていないのだと、その顔を見て分かった。扉と窓を開け放し、部屋内に籠った空気を逃がす。
「どうした、ノア君」
濃い隈を持つ瞳が、こちらを向いた。一瞬、ぞくりとする。
奇妙なほどに、生気が感じられなかった。人間が発する空気ではなかった。まるで人工物。いつもは柔らかいその皮膚さえも、まるで人形のような質感だ。
蝋人形。数日前からノアが異常なほど執着していた、グロブナー夫人の邸宅にあったという人形。
まさか彼自身が人形になってしまったとでもいうのか。
「どうした」
訊ねても、ノアは何も答えなかった。ただ洞のような視線を床に投げ、「……別に」と答えた。その声も、洞窟の底で人知れず滴り落ちる水滴のように存在感がない。
「何かあった、って言っているようなものだな」
「……気にしないでくれ。お願いだから。僕に関わらないでくれ」
「……本当に何があったんだ」
何も反応してくれなかった。つい手を差し伸べそうになるが、部屋に入ってノアを見たときから薄々気がついてはいた。
今の君に必要なのは僕ではない。他の誰かだ。恐らく、というか間違いなく、僕もよく知っている人物……。
君が僕を頼らないことに腹が立つ、など幼子のようなことは言うまい。しかし君を救えるのが、君が助けを求めるのが、自分以外の誰かだということに少々の嫉妬を覚えるのは止めようがなかった。
嫉妬? 浮かんだ感情を一笑する。彼は僕の所有物ではない。
ノアをベッドに寝かせた。抵抗することなく、彼は僕の腕に身を任せた。
まるで死人だ。




