10
翌朝、ひどい寝不足の頭を抱えて一階に降りた私に、「おはよう」とダニエルがコーヒーを差し出したとき、私は得も言われぬ感情でいっぱいになった。
安心。歓喜。あのときの感情をたった一つの単語で言い換えることなど、絶対にできまい。感情というものは時に私自身を驚かせるほど、複雑な様相を呈す。
爽やかに晴れ渡った朝の中で、ダニエルはぱりっとしたスーツを着込み、髪を整えていた。英国の典型的な紳士だ。
絡み合った髪を肩の上に垂らし、酷い隈をこさえている私の方が、傍から見ればよっぽど殺人犯のようであった。
「気持ちの良い朝だというのに、君は何だか疲れているなあ。あれから寝られなかったのかい?」
「本を読んでいたんだ。寝る前の十分前だけにしようと思ったら、夢中になって朝まで読んでいた。さっき一時間ほど寝たが、寝不足だ。今夜は早く寝る」
嘘だった。あの晩、私は一睡もできなかった。
闇の中で、彼のナイフの煌めきが見えないか。娼婦が彼にとびかかる音が聞こえないか。常に神経を張り巡らせていた。とろりとろりと浅い眠りに落ちることもあったが、その度に悪夢で飛び起きた。
血だらけのダニエルが、地面に這いつくばっていた。今にも命の灯が消えかかりそうなダニエルは、呆然としている私の足を掴んだ。濃い血液の匂いが鼻をついた。夢の中で絶叫すると同時に、現実でも叫んでいた。しまいには疲弊した喉がちくちくと痛むのだった。
これも全て私の弱さのせいだ。彼に放った心ない発言についても同じことだ。くそったれ。
「いかにも君らしい理由だな。むしろ安心するくらいだが……しんどかったら、仕事を早めに済ませることをおすすめするよ。君は納得いかないだろうが、客の要望よりも自分の体の訴えに耳を済ませたほうがいい」
「分かっている。ほどほどにするさ」
ダニエルの視線が、私の頭の先から足のつま先までを舐め回した。私はさりげなく右手を背に隠した。
悪夢が続き、もはや睡眠は不可能だと悟ったとき、私はナイフで手首を傷つけた。傷つけるといっても、刃先を軽く肌に押しつけただけだ。血だって少ししか流れていない。
意味のない、愚かな行為だった。成人した大人がやることではない。
何よりも愚かなのは、その行為で心がほんの少しでも静まった私自身だった。
逃げるようにして、仕事に出かけた。
その日、私が宝石を縫いつける予定の客は一人だけだった。
芸術家だというその男の部屋は、キャンバスやらガーゼルやら絵の具やらの雑多なもので埋まっていた。油絵具特有の独特な臭気が、窓のない小部屋を満たしていた。
英国では、窓を取りつけるだけで一定の税がかかる。最低限の生活に金を消費してもなお余裕がある者なら話は別だが、労働者階級の生活は常に切迫している。
「僕の皮膚にぴったりと寄り添うような宝石を見繕ってくれ」
若い画家は得意そうに言った。才能はないが、自分の作品が認められないのは耐えられないというプライドだけが高い男だった。
「縫石職人の君の眼から見て、僕にふさわしいと思う宝石を縫ってほしいんだ」
私は半透明のオパールを、男の肩に縫いつけた。光の当て方によって、その小さな石は虹色に変化する。
「こんなに小さいのに、内に秘めているものはまさに無限大だ。まさに僕のようじゃないか」
男は喜んだ。
様々な色に光ることから、赤や青や緑や黄色の小さな石がいくつも詰まっている特別な宝石だと考えられてきたオパールだが、その外見に似合わない「名誉の保護」という意味を持っている。
私の皮肉は、男には伝わらなかったらしい。
「ああ、そうだ」
さっさと帰り支度を始める私に、男は言った。
「そこの広場で、見世物小屋が今きているらしい。知っているか」
男の下宿から一番近い広場は、コヴェントガーデンだ。ロンドン中心部シティ・オブ・ウエストミンスターの中にある。テムズ川の水運を利用して運搬された商品が売り飛ばされる、ロンドン最大のマーケット。
「見世物小屋ですか」
「ああ。何でも奇妙な出し物をやっているらしい。実は今、新作が行き詰っていてね。息抜きをするがてら、明日あたりに観に行こうかと思ってるんだ。ほら、新しいものを見れば創作意欲が湧いてくるかもしれないだろう? 君も時間があれば見に行くといい。同じ芸術家同士、刺激をもらおうじゃないか」
正直、創作意欲だの芸術家同士だのについては耳を素通りしたのだが、奇妙な出し物というその単語には心惹かれるものがあった。
濃く纏わりつく霧の中を、私はコヴェントガーデンまで歩いた。




