25. 呼ぶ声
「……すこし輪郭が浮かんできたみたい。ほら、みて」
暗闇の声に促されて気付くと、影というには薄く、形の定まりきらない霧が発生していた。
霧は、黒い空間に揺らぐ灰色を確認する。一部を動かそうとすればもやも思い通りに連動した。馴染みがよい、気がする。
不思議そうな霧の様子に、声はうふふと笑った。
「あなたがあなたを取り戻すまで、もうすこしね。聴こえるでしょう? 何度も、あなたを呼ぶ声が」
霧へ語り掛ける声以外、静寂だと思われた真っ黒の空間は、遠くでかすかな音がする。
それが声であるかまでは、霧には認識できなかったものの、確かに聴こえていた。あれは〝誰の声〟だろう?
「ふふ……あなたが意識を戻し始めたお蔭で、欠片が傍にやってきたわ。それじゃあ、話を聞いてくれたお礼に、今度はあの子の欠片を借りてみましょうか」
霧が疑問を覚えると、急に、この黒い空間へも違和感を抱いた。
どうしてここにいるのか。なぜひとりでいるのか。もうひとり、一緒に誰かがいたはずなのに。
「……そう、思い出して。あなたの愛しい子を。応えてあげて。その呼ぶ声に、もう一度」
◆
――クライ
クライ……ココハクライ……
いつからそうだったか。いつからこうだったのか。〝それ〟にはわからない。
ただ、暗闇よりも恐ろしい、漠然とした空白を抱えていることだけは、理解をし始めている。
――ヒトリ……ヒトリ……ココニ、ヒトリ
その時、ほんの微かな、ちいさな光が射した。
「あなたは――……だれ?」
だれ? だれだろう。
分からないので、〝それ〟は光に向けてえいや、と向かってみる。できない。できないのであれば、作ればいい。光に届く、手を。
森の中のとある泉が、間欠泉を作った。
その飛沫の中から、黒い布の塊が草の上に落下する。布がごろごろ、もにもに、動き始め、包まれたものが次第に質量を増していく。
「ぷあっ」
と悪戦苦闘した布からは、三歳ほどの子供が顔を出す。きゃあーと甲高い音がした。
《目醒めたよ。災いが目醒めたよ》
《また繰り返すの? いつまでするの?》
《みんなきらい。だいっきらい。いなくなっちゃえ》
《うるさいなあ。眠らせておくれよ。もうたくさんだよ》
騒ぎは一斉に森中に広がり、殺気立った獣も魔物もあちこちで争い出した。
そんな騒ぎに我関せず、巻き付いた布に足を取られつつも、太陽が高くなる頃には、〝それ〟は歩けるようになっていた。
森の中には様々な光があった。
観察して歩きながら、〝それ〟は植物の光、生き物の光を次第に見分けていく。
その中でも先程から、一際強く光を放ち、分散させるものがある。〝それ〟は導かれるようにその光を目指して歩いた。
途中、何度か魔物に牙を剥かれたが、容易くあしらってしまう。〝それ〟は自分の力に首を傾げたが、深く考えずに光に進む。
崖や谷の不便な場所を渡りながら、都度今できるもっとも大きな身体へと、〝それ〟は身体を作り変えていった。
「――き、響、お姉ちゃんが、すぐ行くから……泣かないでね、無事で、いて」
そこに、その赫い生き物はいた。
ぶつぶつとダイジョウブだとか、ヒビキだとか鳴き声を発しながら進む、奇妙な生き物だ。
なんだか懐かしいような、胸がきゅっとするような、不思議な心地を〝それ〟は覚えた。形も似ているし、いい匂いもする。
〝それ〟が赫いのを観察していると、赫いのの側の茂みがガサリと鳴った。
「うあっ……――――!?」
茂みから飛び出した魔物に、驚いた赫いのは逃げようとした。けれども濃霧で足元に気付かず、赫いのは崖へ踏み外してしまう。
〝それ〟は、行動していた。まるで赫いのを庇うように、自身より大きな身体を受け止めていた。
「?」
赫いのはぐったりと目を閉じて動かない。
〝それ〟は首を傾げて、赫いののほっぺたをつついてみたり、伸ばしてみたりした。
すこしして赫いのが呻くので、地面に置いて様子を窺う。起きた生き物はしばらくうずくまっていたが、再び歩き出した。
夜が訪れ、森が暗がりに近付くと、赫いのは木にしがみついて、震える声で歌をうたい始めた。
どきどきと不思議な胸の高鳴りを覚え、もっと近くに行こうともしたが、なにより、歌声が心地好い。寂しくて優しい音色が〝それ〟を包み込み、赫い生き物とこの暗闇を共有できた。
うとうとと微睡み、赫いのを狙って来た邪魔な魔物を時々排除しながら、夜は通り過ぎて行った。
赫いのは〝それ〟とよく似た形をしている。
ただし、〝それ〟よりよっぽど鈍臭くて、よく転ぶし、キノコを前に口に入れようか激しく悩み、ナメクジに素っ頓狂な鳴き声を上げて逃げたりした。その挙動がいちいち大袈裟で面白いので、赫い生き物を見飽きることはない。
《おれたちじゃ無理だって。あんなの》
《あのニンゲンはいつまでいる?》
《出て行ってくれよ。放っておいてくれよ》
にんげん。散らばる音の中からその言葉を拾い、赫いのと一致させる。〝それ〟を作った情報の一部。
「に、人間だあっ」
ついに動かなくなった人間に声を掛けてみたら、とても元気だった。
赫い髪の人間は「**」と名乗り、一緒においでと〝それ〟に言う。一緒にいていいらしい。ふわりと喜びが満ちて、〝それ〟は笑った。
**といると、〝それ〟はくふくふとよく笑った。
一緒にいるだけで、わけもなく嬉しくなったり楽しいでいっぱいになるし、**も笑ってくれるととびきり嬉しい。
**が〝それ〟よりよっぽど鈍臭く、貧弱な生き物だというのは、一緒にいればより分かってきた。
「おれがいるよ」
だというのに**は、〝それ〟を気遣い、守ろうとなぜか必死になる。
「**といるよ」
必死になって、くれるのだ。
そんなの〝それ〟に任せてしまえばいいのに。
「なにもの? ……**は、おれがなにものだったらいい?」
**の問いに、〝それ〟は尋ね返す。
何者でもいいと**は返して「***」という名前をくれた。
**は〝それ〟に、あたたかい優しさをくれる。嬉しいをたくさんくれる。
「**。ありがとう」
嬉しい時はありがとうと言うらしい。焚き火が照らす寝顔に〝それ〟はそっと囁いて、頬をゆるゆる緩ませる。きゅふーっと嬉しさに笑みがこぼれる。
『――…と生まれて来るな 化け物』
だが、突然聴こえた声にびくんと震えて、〝それ〟は周囲を見渡す。恐ろしい何かが〝それ〟の奥底で、激情が途絶えることを許さない。
《どっかいっちゃえ》
《竜もニンゲンもいらないのに。やつら、いつも争ってばっかだもん》
《精霊たちはなぜ黙ってる? おれたちにとっても危ないってのにさ》
言葉の意味は分からないが、きぃきぃと鳴くこれらが味方ではないことも理解してる。ひどく冷たく、寒いような感覚が〝それ〟へと這い寄る。
「……ぇ…りた……かえりたいよ……」
**の声に、ハッと顔を窺う。起きた気配も、怪我をした様子もないのに、痛そうに眉根を寄せている。
「……だいじょうぶ」
よく**が使う言葉が気に入っている。道中で「大丈夫?」と尋ねられる度、胸にあたたかさを宿すからだ。
「だいじょうぶ。だいじょうぶ」
赫い髪を撫で、**も寒くないようにその言葉を紡ぐ。やがて呼吸が安定し、穏やかになるまで、何度も。
だいじょうぶ。
さよ、
だいじょうぶだよ――…
そう、もう、大丈夫だ。
「私も、いつまでも眠っちゃいられないよね」
早く戻って安心させてやらねばならない。
小夜は、奏小夜であることを思い出した。
一面が黒い空間であるはずのその場所でも、取り戻した姿は黒に紛れず、はっきりとした意思で立っている。
「あらためて、はじめましてになるかしら」
女性の声は子守唄を歌うように、穏やかに声を掛けた。
「だけど、初めて会った気がしない……あなたは、神様か何かなの? 私死んじゃったわけじゃないですよね?」
最後の記憶は、氷の剣が自分の腹を…小夜はもったりとしたお腹を押さえた。
「ええ、生きているわ。ここは星の中心、すべての心の在るところ。私はそのひとつ。想像するような、なんでもできる超常的な存在ではないわね」
正体不明な空間は依然掴めないまま、小夜は片眉を下げる。状況としては充分超常現象の真っ最中だ。
「この場所はね、本当は誰でも来ることができるのよ。すこし気付き難いだけ。あなたはここを見つけるのが上手だから、今までも夢という形で現れていたみたい」
「夢? 眠るたびに、この真っ暗に来ていたんですか……?」
「そう。見つけるのが上手だからこそ、アルスと地球の境界が曖昧で、とても近かったのね」
地球。久しく聞くことのなかった故郷に熱い指先を握る。血が沸き立つような高揚感が、小夜の全身を駆けた。
「アルスはもうひとつの地球の姿。夢から醒めれば忘れてしまう双子の星。けれどサヨは憶えていて、無意識に願いを掛けたんじゃないかしら」
歌声に導かれるようにして、時々不思議な夢を見ていた。
お伽噺の街並みを行き交う人々、ドラゴンと戦う兵隊、そんなファンタジックな世界の夢を。
「この世界を知りたいと」
こんな世界に行ってみたいと。
そうして、あの〝声〟を、聴いたのだ。
「鍵は手にすれば、あとは扉を開くだけ」
さよ。
自分を呼ぶ別の声、舌足らずな丸っこい響きに、小夜は頭上を仰ぐ。
黒だけが広がる空間に、一点の光の筋が射していた。決して強くはないが、やわらかなその光はとても懐かしく、とてもとても嬉しくさせる。
「……どうして、あなたの大切な話を、私に聞かせてくれたの?」
最後に、小夜はひとつだけ尋ねた。
アルスに語り継がれる物語は、上澄みを掬ったに過ぎないらしい。泥の中にこそ真珠のように積み重ねられた想いがあるというのに。
「……あなたには、知っていてほしかったのかもしれない。赫い髪の女の子と、竜の男の子。そんなふたりだからこそ、サヨ、あなたにだけは」
ふわりと、赫い髪に風が通った気がした。
小夜は母親に抱きしめられるような照れ臭さを覚えてはにかんだ。
「ありがとう。……私、もう起きなきゃ。お別れは、言わないでおきますね」
どこかでこうして繋がっているなら、きっと永遠のさよならはないはずだと、小夜は信じる。
「忘れないで。あなたが望めば、世界が応えてくれることを」
信じる。声の主の心を。
小夜は少年の名前を、呼んだ。




