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09.経験値は増えねえだろ



窓の外では、夜が明け始めていた。


高層階のスイートルームから見下ろす街は、薄い朝焼けに染まりながらも、一昨日までの姿を取り戻してはいない。


遠くで鳴り続けるサイレン。


時折、どこかから響く破砕音。


夜が終わったからといって、崩れ始めた世界が元に戻るわけではなかった。


それでも、部屋の中だけは静かだった。


柔らかなベッドの上で、マキトは深く眠っている。


昨夜、個別レイド戦から戻り、シエルとメルシーに明日からの方針を告げた後、ほとんど倒れ込むように眠ってしまった。


スマートフォンは枕元へ置かれたまま。


その画面には、まだ消えないランキングの表示が薄く浮かんでいる。


《現在順位:21位》


昨夜見た時は、28位だった。


七つ上がっている。


ただ、ランキング全体が大きく荒れたというほどではない。


一覧から消えている名前が、いくつかある。


おそらく、同時に行われていた個別レイド戦を越えられなかった者たちだろう。


マキトは眠ったまま、その変化を知ることもない。


ベッドの脇では、シエルが大剣を立て掛けたまま、静かに腰掛けていた。


一晩中、眠らずに見張っていた。


部屋の隅に落ちた影が、ゆらりと揺れる。


黒い水面から浮かび上がるように、メルシーの身体が影の中から姿を現した。


黒いツインテールが、少しだけ乱れている。


シエルが静かに振り返った。


「お戻りになったのですね」


「何よ。私が出てきたら悪いわけ?」


「いいえ。よくお休みになれましたか?」


「……は?」


メルシーの眉間に、露骨な皺が寄った。


「寝てないわよ。嫌味のつもり?」


「そのようなつもりではありません。ただ、旦那さまの影の中は、休むのには適しているのかと思いまして」


「あんなところ、落ち着いて眠れるわけないでしょ」


メルシーは小声で吐き捨てると、ベッドへ視線を向けた。


眠るマキトは、二人の会話に反応する様子もない。


メルシーはしばらくその顔を見つめ、それから、さらに声を落とした。


「……影の中、落ち着かないのよ」


「落ち着かない?」


「こいつの中に潜ってるみたいで……近すぎるのよ。体温とか、匂いとか、そういうのが」


言った直後、メルシーは自分で何を口にしたのか気づいたらしい。


一気に眉間へ皺を寄せる。


「何、その顔」


「いえ。随分と、旦那さまを意識していらっしゃるのですね」


「はぁ!? そういう意味じゃないわよ!」


声が大きくなりかけ、メルシーは慌てて口を閉じた。


ベッドの上で、マキトが僅かに身じろぎする。


二人は同時に固まった。


数秒。


マキトは起きなかった。


規則正しい寝息を立てたまま、また静かになる。


メルシーはほっと息を吐き、それから悔しそうに睨んだ。


「……何で私が、こいつを起こさないように気を遣わなきゃいけないのよ」


「旦那さまが、お疲れだからでしょう」


「分かってるわよ」


メルシーは不機嫌そうに言いながら、ベッドの反対側へ回った。


そのまま、シエルと向かい合うようにして眠るマキトを見下ろす。


しばらく、二人とも黙っていた。


昨夜は、余裕などなかった。


マキトが戻ってきたことに安堵し、伴侶を失った者がどうなるのかを知り、自分たちが未完成のままこの世界へ来てしまったのだと悟った。


だが今、目の前の男は、何事もなかったかのように眠っている。


危険な勝負を楽しみ。


自分の命すら平然と駒にし。


二人が未育成だと分かっても、失望するどころか育てればいいと言い切った男。


メルシーの赤い瞳が、眠るマキトの顔をじっと追う。


「……ほんっと、腹立つ顔してるわね」


シエルが首を傾げる。


「眠っていらっしゃるのに、ですか?」


「眠ってるからよ。黙ってれば性格の悪さが消えるじゃない」


「それは、確かに」


「でしょ?」


「ええ。困ったことに、とても整ったお顔です」


メルシーの眉がぴくりと動く。


「……あんた、普通に認めるのね」


「否定する理由がありませんから」


「妻だから?」


「妻だから、というのもありますが」


シエルは、眠るマキトを見つめたまま、少しだけ微笑んだ。


「それ以前に、私自身がそう思っております」


メルシーは、あからさまに嫌そうな顔をした。


だが、その視線もまた、マキトの顔から離れない。


「……顔だけよ。こいつの良いところなんて」


「本当に、そうでしょうか」


「何よ。反論する気?」


「昨夜、旦那さまがお戻りになった時、あなたは随分と安心なさっていました」


「それは……こいつが死んだら私たちまで面倒なことになるからでしょ」


「それだけでしたか?」


メルシーは答えなかった。


唇を噛み、寝ているマキトを睨む。


本当に、それだけなら。


自分はあの時、あんな顔で駆け寄ったりはしなかった。


傷がないか、血を流していないか、息をしているか。


目で確認するまで、胸の奥が締め付けられるようだった。


それを認めるのが腹立たしい。


目の前の男は、優しくもない。


誠実でもない。


守られることを当然だと思い、必要なら自分の命すら危険に晒して、私たちの心配など笑って受け流す。


なのに。


「……安心したわよ」


メルシーは、悔しそうに吐き出した。


「生きて戻ってきた時、本気で安心した。悪い?」


シエルは首を横に振る。


「いいえ。私も戻ってこれた際、同じ気持ちでしたから」


「……あんたまで素直に認めるの、なんかむかつくわね」


「ですが、事実です」


メルシーは小さく鼻を鳴らした。


それから、眠るマキトの眉間へ視線を落とす。


起きている時は、いつも退屈そうで、何かを馬鹿にしているような目をしている。


だが今は、眠っているせいか、不思議なくらい静かだった。


長めの深緑の髪が、額から目元へわずかに落ちている。


黒に近い色の髪は、窓から差し込む朝の光に触れた部分だけ、薄く緑色を帯びていた。


メルシーはぼそりと呟いた。


「……ねえ。男って、みんなこんな性格してるわけじゃないわよね」


シエルが、一瞬だけ目を瞬く。


「私に尋ねられても困ります。こちらへ来る前に、候補として何人かのお姿を拝見しただけで……こうして言葉を交わし、傍にいる男性は、旦那さまだけですから」


「……あんたもそうなのね」


メルシーは、少しだけ遠い目をした。


「私たち、男を知らないどころか……ラグオダの世界ですらまともに過ごしたことすらないものね」


シエルの瞳が、僅かに伏せられる。


《ラグナロク・オーダー》の世界。


そこには、数え切れないほどの美しい女たちがいた。


女神も。


邪神も。


騎士も。


魔女も。


竜も。


悪魔も。


そして、実装された彼女たちには、それぞれの時間があった。


戦いへ連れて行かれた記憶。


育てられた記憶。


贈り物を受け取った記憶。


画面の向こうにいるプレイヤーへ、想いを重ねていった記憶。


男という存在を直接知ることはなくとも、誰かに選ばれ、愛され、傍に置かれた時間を、彼女たちは持っていた。


けれど、シエルとメルシーには、それすらなかった。


二人は、未実装だった。


世界の中で誰かと出会ったこともない。


戦場へ立ったこともない。


育てられたこともない。


プレイヤーに名前を呼ばれたことも、愛されたと感じたこともない。


他のキャラクターたちが知っているはずの景色も、思い出も、温度も。


二人にとっては、最初から存在しないものだった。


サービス終了の果てに、突然こちらの世界へ放り出され。


転移先としていくつかの男の姿を見せられ。


そして、初めて自分たちの意思で選んだ相手が、マキトだった。


二人が初めて直接言葉を交わした男。


初めて温度を知った男。


初めて、伴侶として傍に立った男。


それが、この眠っているクズ亭主だった。


シエルは、静かに言う。


「だからこそ、時折分からなくなります」


「何がよ」


「旦那さまが、本当に特別な方なのか。それとも、私が初めて得た繋がりに、勝手に夢を見ているだけなのか」


メルシーは、思わず笑いそうになった。


だが、笑えなかった。


自分にも、同じものがあるからだ。


「……夢を見るなら、もっとまともな男で見たかったわよ」


メルシーは、小さく吐き捨てる。


「何でよりにもよって、初めて自分で選んだ相手が、こんなクズ亭主なのよ」


「それでも、目を離せないのでしょう?」


「……あんたもでしょ」


「はい」


迷いのない返事だった。


メルシーはしばらくシエルを見ていたが、やがて諦めたように息を吐く。


「そこまで真っ直ぐ言われると、煽りづらいのよね」


「そうなのですか?」


「そうよ。もっと恥ずかしがりなさいよ。私ばっかり馬鹿みたいじゃない」


「では、少し恥ずかしがりましょうか」


「後からやるな。余計腹立つ」


シエルは小さく微笑み、マキトへ手を伸ばした。


額に落ちた髪を、そっと払おうとしたのだろう。


その指先が触れる直前、メルシーが素早くシエルの手首を掴んだ。


シエルが目を上げる。


「どうなさいました?」


「……何してんのよ」


「髪が目元へかかっておりましたので、直そうかと」


「寝てるんだから、別にいいでしょ」


「では、なぜ止められたのですか?」


「……あんたが先に触るのが、ちょっとむかついただけよ」


シエルは、少し驚いたように目を見開いた。


それから、どこか嬉しそうに笑う。


「でしたら、あなたが直されますか?」


「誰がやるか、馬鹿」


そう言いながらも、メルシーは掴んだ手をすぐには離さなかった。


その時だった。


眠っていたマキトが、小さく寝返りを打つ。


枕に沈んでいた顔が僅かに動き、シエルが伸ばしていた指先へ、頬が軽く触れた。


二人の動きが止まる。


シエルの白い指に、眠るマキトの頬が触れている。


シエルの顔が、見る見る赤くなっていった。


メルシーの頬も引きつる。


「……ずるい」


「わ、私がしたのではありません」


「分かってるから、余計に腹立つのよ……!」


メルシーは声を押し殺しながら、悔しそうに睨みつける。


シエルは手を引こうとした。


だが、動かしたことで起こしてしまうのが怖いのか、しばらくそのまま固まっている。


その間も、マキトは何も知らずに眠っていた。


「……何だよ」


突然、低い声が落ちた。


二人は同時に硬直した。


マキトの緑色の瞳が、眠たげに薄く開いている。


起きたばかりの掠れた声で、マキトは言った。


「朝から、人の顔の前で何やってんだ。お前ら」


シエルが勢いよく手を引いた。


「だ、旦那さま。お目覚めでしたか」


「今、起きた」


メルシーは反射的に顔を背ける。


「寝顔があまりにも馬鹿そうだったから、見てただけよ。勘違いしないで、クズ亭主」


「ふうん」


マキトはベッドの上で身体を起こし、二人の顔を順番に見る。


シエルは露骨に頬を赤くしている。


メルシーも隠す気はあるのだろうが、耳まで赤い。


マキトは数秒黙ってから、口元を緩めた。


「俺の顔に見惚れてたのか」


「はぁ!?」


メルシーの声が、一気に跳ね上がる。


「何でそうなるのよ! 寝起きで頭まで腐ったの!?」


「違うなら、その顔の赤さは何だよ」


「朝日よ!」


「カーテン閉まってるぞ」


「うるさい!」


シエルも珍しく慌てている。


「旦那さま。そのように女性を追及なさるのは、あまり品の良いことではありません」


「寝てる男の顔を、勝手に触ろうとしてた奴が言うか?」


「そ、それは……髪が目元にかかっておりましたので」


「で、俺の顔に見惚れてたって方は否定しねえのな」


シエルは、頬を赤らめたまま僅かに目を伏せた。


「……否定は、いたしませんが」


「シエル!」


メルシーが小声で叫ぶ。


マキトは、思わず笑った。


昨夜までの重さなど、まるで知らない顔で。


「まあ、悪い気はしねえよ」


「何がよ」


「朝起きたら、美人が二人もベッドの傍にいるんだぞ。男としては、普通に得した気分だろ」


今度は、二人とも黙った。


シエルは顔を伏せる。


メルシーは、一度口を開いたものの、罵声がすぐには出てこなかった。


「……あんた」


「何だよ」


「急に、そういうこと言うな!」


「褒めただけだろ」


「その褒め方が気持ち悪いのよ!」


「妻なんだろ。俺に褒められたくらいで動揺すんなよ」


「誰のせいで動揺してると思ってんのよ、このクズ亭主!」


メルシーが枕を掴んで投げようとした、その時だった。


部屋のテレビが、突然大きな警告音を鳴らした。


三人の空気が、一瞬で切り替わる。


画面には赤い帯が表示されている。


《緊急報道》


女性アナウンサーの強張った声が、部屋に流れ始めた。


『昨日未明より、国内外の複数地域において、正体不明のモンスターによる襲撃被害が相次いでいます』


画面が切り替わる。


崩れた道路。


炎の上がる建物。


銃を構える警察官たちの背後で、巨大な獣のような影が暴れている映像。


別の国では、戦車の列が何かへ向けて砲撃を続けていた。


『警察、自衛隊、ならびに各国軍が対応に当たっていますが、討伐された個体と酷似したモンスターが、一定時間後に再び出現する事例が確認されています』


『この再出現現象により、世界各地の治安維持能力は急速に逼迫しています』


メルシーの表情から、先ほどまでの照れが消える。


「無限に湧くってこと?」


シエルが静かに画面を見つめる。


「そのようですね」


ニュースは続く。


『国内では、本日午前零時をもって、鉄道、地下鉄、航空便、長距離バスを含む主要交通機関が原則運行停止となりました』


『特に地下鉄構内においては、駅構造と一致しない通路、地図上に存在しない広大な地下空間、未確認生物の出現が多数報告されています』


映像が変わる。


どこかの地下鉄駅の入口。


警察によって封鎖された階段の奥で、青白い光が不気味に揺れている。


そこは、どう見ても現代の駅構内ではなかった。


石造りの壁。


地下へ続く、あり得ないほど深い階層。


その奥を横切る、巨大な影。


『政府は、この現象を暫定的に“迷宮化”と呼称し、調査を開始しています』


『一般市民の皆様は、絶対に地下鉄駅、地下通路、ならびに迷宮化が疑われる施設へ近づかないでください』


マキトの緑の瞳に、眠気とは違う光が灯った。


昨日まで退屈そうに伏せられていた目が、面白いものを見つけた子供のように輝く。


シエルは、その変化に気づいた。


「旦那さま」


「地下鉄が迷宮化、か」


「まさかとは思いますが」


『また、昨日までの注意喚起を一部変更いたします』


アナウンサーが、さらに緊張した声で告げる。


『昨日は、《ラグナロク・オーダー》のキャラクターと思われる存在が周囲に現れた場合、刺激せず、可能な限り攻撃的行動を取らないよう説得していただくようお願いしておりました』


『しかし現在、通常戦力のみで全てのモンスター被害へ対応することは困難となっています』


『もし、ご自身の傍に《ラグナロク・オーダー》のキャラクターが存在し、意思疎通が可能な場合は、決して無理のない範囲で、周囲の避難誘導およびモンスター排除への協力をお願いいたします』


昨日は、暴れさせるなと言っていた。


今日は、守ってくれと言っている。


たった一日で、社会はそこまで追い詰められていた。


マキトはベッドから降りると、枕元のスマートフォンを手に取った。


「迷宮ってくらいなら、中にはモンスターがいるんだろ」


シエルの声が、わずかに強くなる。


「旦那さま。今の報道は、地下鉄へ絶対に近づかないよう求めるものでした」


「俺たちは安全な場所に籠もってても強くならねえだろ」


「ですが――」


「昨日決めた通りだ。今日は、お前らを育てる」


メルシーが額を押さえた。


「……注意喚起を狩場情報として聞くな、このクズ亭主」


マキトは軽く笑う。


「分かりやすくて助かるだろ。経験値がいそうな場所を、国が教えてくれたんだから」


「本当に頭おかしいんじゃないの、あんた」


「今さらだろ」


その時、マキトのスマートフォンが短く震えた。


メールの着信。


画面に表示された送信元を見て、マキトの笑みが消える。


『株式会社災厄ホーム――総務部』


「……会社かよ」


それだけで、朝から気が滅入る。


一昨日までなら、通知を無視するという選択肢はなかった。


呼ばれれば行く。


怒られれば頭を下げる。


理不尽でも、社会人だからという理由だけで飲み込む。


だが、今は違う。


世界中でモンスターが暴れ、地下鉄が迷宮になり、帰る家すら吹き飛んでいる。


こんな状況で、会社に呼ばれたところで行くつもりなど欠片もなかった。


それでも、画面に会社の名前が出ているだけで、反射的に気分が沈む。


マキトは舌打ちしながら、新しく届いたメールを開いた。


件名は、短かった。


『臨時休業のお知らせ』


本文を読み進める。


『昨日、出社対応のため移動中だった社員複数名が、モンスターによる襲撃被害に遭いました』


『現在までに多数の死亡が確認されており、管理職を含む複数の社員とも連絡が取れておりません』


『政府および自治体からの指示を受け、弊社は安全が確認されるまで全業務を停止し、臨時休業といたします』


マキトは黙ったまま、画面を指で送る。


直後、社内の連絡用チャットから通知が流れ込んできた。


『部長と課長、まだ連絡取れないらしい』


『昨日電車通勤を選んだ人たち、ほとんどやられたって』


『これ、いつ復旧するんだ? 止まってる案件どうするんだよ』


『顧客からの問い合わせ、もうかなり溜まってるらしいぞ』


『早く通常業務に戻らないと、取引先に切られるんじゃないか』


『こんな状況でも納期って延ばしてもらえるのか?』


マキトは、その文字列をしばらく見つめていた。


それから、小さく鼻で笑う。


「……ざまあ」


シエルの瞳が、僅かに曇る。


「旦那さま」


「何だよ」


「亡くなられた方々へ向ける言葉としては、褒められません」


「非常事態宣言が出てんのに、俺へ出社しろって怒鳴り散らしてた連中だぞ」

「俺まで出てたら、今頃そいつらと一緒に死んでたかもしれねえ」


シエルは、すぐには返さなかった。


その言葉を否定できなかったからだ。


代わりに、メルシーが鼻で笑う。


「私は同情しないわよ」


「メルシー」


「嫌がってる奴を危険な場所へ引っ張り出そうとしたんでしょ。自分たちが痛い目を見たから急に休業です、なんて笑えるじゃない」


「人の死を笑うものではありません」


「でも、クズ亭主が行かない選択をしたのは正解だったわ」


メルシーは、マキトへちらりと視線を向ける。


「こいつが馬鹿みたいに真面目な人間だったら、昨日のうちに死んでたかもしれないでしょ」


マキトはスマートフォンをポケットへ入れた。


「おかげで会社は休み。帰る家は吹っ飛んだけど、出勤する必要もなくなった」

「つまり、今日から気兼ねなく迷宮へ行けるな」


「切り替えが早すぎるのよ!」


「死んだ連中のために一日泣いてても、経験値は増えねえだろ」


シエルは複雑そうに目を伏せたが、それ以上は責めなかった。


マキトの言葉は、冷たい。


だが昨夜、自分たちを育てると決めたのも、この男だった。


善人ではない。


きっと、これからも善人になるつもりなどない。


それでも、自分たちを置いていく気がないのなら。


どれほど危うく、身勝手な方であっても。


シエルは、マキトの傍を離れたくなかった。


*


三人が身支度を整え、スイートルームを出た頃には、朝の光がホテルの吹き抜けへ差し込んでいた。


だが、ロビーに昨日までの華やかさはない。


ソファには、不安そうに身を寄せ合う宿泊客がいる。


床には、持ち込まれた荷物や毛布が並べられていた。


外へ出ることのできない客たちが、このホテルへ取り残されているのだろう。


受付前を通り過ぎようとした時、スーツ姿の中年男性が慌てて近づいてきた。


胸元の名札には、支配人と書かれている。


「お客様。少々、お待ちいただけませんでしょうか」


マキトは足を止めた。


「何だ。宿代なら、もう払っているぞ?」


「はい。その件でございますが……ご宿泊代は、返金させていただきます」


「は?」


マキトが眉をひそめる。


高級ホテルのスイートルーム。


一晩泊まっただけでも、マキトにとっては笑えない額になる。


それを返すと言われて、素直に喜べるほど彼も馬鹿ではなかった。


「何が目的だよ」


支配人は、シエルとメルシーへ視線を向けた。


シエルの白い鎧と巨大な大剣。


メルシーの黒いバトルドレスと、常人では扱えないほど大きなハルバート。


昨日までなら、仮装だと誤魔化せたかもしれない。


だが、今の世界でその姿を見て、何も察しない者はいない。


「お連れの方々は、《ラグナロク・オーダー》のキャラクターなのでしょうか」


マキトは答えなかった。


否定もしない。


支配人は、それだけで十分だと判断したらしい。


深く頭を下げる。


「このホテルには、外へ出ることのできないお客様が多数いらっしゃいます。従業員もおります」

「しかし、もしモンスターがこの建物へ侵入した場合、我々には抵抗する術がありません」


支配人の声は震えていた。


ロビーにいる客たちも、遠巻きにこちらを見ている。


期待と、恐怖と、縋るような視線。


「本日も、当ホテルにお戻りいただけませんでしょうか」

「宿泊費はいただきません。可能な限り、お食事も、お部屋も用意いたします」

「その代わり……もしもの際には、我々を守っていただきたいのです」


シエルが、僅かに目を伏せた。


メルシーは面倒そうに顔をしかめる。


マキトは、少しだけ考えた。


ここに戻れば、寝る場所がある。


食事もある。


二人を連れて夜ごと安全な場所を探し回る必要もなくなる。


条件としては悪くない。


だが、安請け合いする気もなかった。


「先に言っとくけど、戻ってくる保証はねえぞ」


支配人が顔を上げる。


「俺たちはこれからモンスター退治へ行く」

「途中で死ぬかもしれねえし、帰れなくなるかもしれない」

「別の場所へ逃げ込むことだってある」

「ここを二十四時間守ってやるなんて約束はできねえ」


「それでも構いません」


支配人は、迷わず答えた。


「お戻りいただけた時だけで結構です」

「その時、このホテルに危険が迫っていたなら……どうか、力を貸していただけませんでしょうか」


マキトは、小さく息を吐いた。


「なら、いいぜ」


支配人の表情が明るくなる。


「本当ですか」


「戻ってきた時に何か来てたら、追い払ってやる」

「その代わり、部屋と飯は残しとけよ。迷宮から帰ってきて、寝床もねえのは勘弁だからな」


「もちろんでございます。必ず、ご用意いたします」


支配人は、何度も頭を下げた。


その様子を見ながら、メルシーが小声で囁く。


「ずいぶん安く護衛を引き受けたものね」


「寝床と飯が無料なら十分だろ」


「ま、どうせ寝床を守らなきゃいけないなら、あんたの吹き飛んだ実家より、この高級ホテルの方がいいけど」


「吹き飛ばしたの、お前らだからな」


「…………」


メルシーが、すっと視線を逸らした。


シエルもまた、申し訳なさそうに目を伏せる。


「そこは二人とも黙るんだな」


「……うるさいわね。少しくらい、悪かったとは思ってるわよ」


「私も、深く反省しております……」


「だったら、もう二度と家の中で喧嘩すんなよ」


マキトは呆れたように言いながら、ホテルの自動ドアへ向かう。


その背後で、支配人と宿泊客たちが、祈るような顔で三人を見送っていた。


*


外へ出た瞬間、マキトは足を止めた。


「……静かだな」


昨日とは、まるで違う。


昨日も、街は混乱していた。


サイレンは鳴り、人々は怯え、モンスターが出たという噂が飛び交っていた。


それでも、まだ人は外にいた。


駅へ向かおうとする者。


携帯電話を握ったまま走る者。


何が起きているのか分からず、道路の向こうを見つめる者。


そして、自分たちのように、ゲームのキャラクターを連れた人間もいた。


だが今日は。


歩道に、人影がない。


交差点にも、誰もいない。


コンビニも飲食店もシャッターを下ろし、店内の照明だけが虚しく点いている。


道路の端には、乗り捨てられた車が何台も停まっていた。


信号だけが、誰も渡らない横断歩道へ向けて規則正しく色を変えている。


遠くで爆発音が鳴った。


続いて、何かが吠えるような低い声が響く。


しかし、ここから見える範囲には、人間も、モンスターもいない。


朝日を背に受けたマキトの影が、無人の歩道へ長く伸びていた。


メルシーは、その影へ視線を落とす。


一瞬だけ、迷うように唇を結んだ。


だが、すぐに何も言わず、その上へ足を乗せる。


黒い光が、彼女の身体を足元から包み込んでいった。


マキトが横目で見る。


「にしても、お前。あれだけ近すぎるだの落ち着かねえだの言ってた割には、入るの早かったな」


メルシーの身体が、半分ほど影へ沈んだところで止まった。


「……は?」


「体温とか、匂いとか。そういうのが気になるんじゃなかったのか?」


メルシーの顔が、一瞬で赤くなる。


「っ……! あんた、起きてたの!?」


「途中からな」


「今、起きたって言ったじゃない!」


「あの場で正直に言ったら、お前がうるせえだろ」


「今言っても同じよ! 最っ悪……!」


メルシーは両手で顔を覆いかけ、しかし途中で怒りの方が勝ったのか、赤い瞳でマキトを睨みつけた。


「忘れなさいよ! 今すぐ!」


「嫌だね。面白えから覚えとく」


「この……クズ亭主! 迷宮に入ったら真っ先に囮にしてやるんだから!」


「守るために影へ入った奴が言う台詞じゃねえな」


「うるさい! あんたは黙って私に守られてなさいよ!」


怒鳴った直後、メルシーは自分で何を言ったのかに気づいたらしい。


さらに顔を赤くし、そのまま逃げるように影の中へ沈んでいった。


シエルが口元へ手を添え、静かに微笑む。


「旦那さま。あまりからかわれては、メルシーがお可哀想です」


『あんたも笑ってんじゃないわよ、ペ天使!』


影の中から、噛みつくような声が響く。


マキトは小さく笑った。


「安心しろよ。隠れてても、うるささは全然変わらねえから」


『誰のせいで騒いでると思ってんのよ!』


先ほどまでの重苦しい空気が、ほんの少しだけ薄れた。


だが、街に人の気配が戻るわけではない。


シエルが周囲へ警戒を向けながら言う。


「昨日よりも、人の気配がありませんね」


『そりゃそうでしょ。一晩であれだけ被害が出たのよ。普通の人間が外をうろつけるわけないじゃない』


マキトは、スマートフォンを取り出した。


画面を操作し、ランキングを表示させる。


《現在順位:21位》


順位は、ホテルを出る前に確認した時から変わっていない。


マキトは画面を見つめながら、周囲へ視線を流した。


「……昨日みたいな対人戦は、今日はあんまり起きねえかもな」


シエルが振り返る。


「なぜ、そう思われるのですか?」


「見れば分かるだろ。普通の人間どころか、キャラ連れの奴も一人も歩いてねえ」


マキトは、誰もいない道路へ目を向ける。


「昨日はまだ、出歩いてたプレイヤー同士が街中で遭遇した。だから、俺たちもヴォイドの奴とぶつかった」


「ですが、今日は違うと?」


「ああ。こんな状況で外へ出る奴がいるなら、目的はモンスター狩りか、クエストか、迷宮だろ」


足元の影から、メルシーが鼻で笑う。


『喧嘩相手を探してうろつく馬鹿も、さすがに今日は少ないってこと?』


「たぶんな。それに、雑魚を何体倒したところで、上位が一気にひっくり返るほどのポイントにはならねえはずだ」


マキトは画面を閉じた。


「だったら、順位を追って無茶するより、やっぱりお前らのレベル上げだ」


『雑魚狩りで満足しろってこと?』


「育ってねえ奴が偉そうに選り好みすんな」


『はぁ!? 素質は最上位なのよ! まだ本来の私に戻ってないだけなんだから!』


「明日から本気出すって言いだすダメ人間みたいだな」


『誰がダメ人間よ! 悪魔よ、悪魔!』


「悪魔でも似たようなもんだろ」


『全然違うわよ! あと、本気を出してないんじゃなくて、出せないだけなんだから!』


「もっと駄目じゃねえか」


『ほんっとうに言い方が気に入らないのよ!』


姿は見えない。


だが、影の中から響く悪態は、昨日よりもどこか軽かった。


シエルもまた、静かに大剣を握り直す。


「旦那さま。本日の戦いでは、どうか無茶だけはなさらないでください」


「今日は経験値稼ぎが目的だ。わざわざ死にに行くほど馬鹿じゃねえよ」


「昨日、自ら敵の標的となった方の言葉とは思えませんね」


「必要だったからやっただけだろ」


『今日も必要だとか言って前へ出たら、影の中から引きずり倒すからね』


メルシーが言う。


マキトは笑った。


「お前ら、俺への扱いが日に日に雑になってねえか?」


『扱いが雑なのは最初からよ、クズ亭主』


「私は、丁寧に扱っているつもりなのですが」


『シエルは甘やかしすぎでしょ』


メルシーの呆れた声が響く。


「旦那さまがお疲れなら、支えるのは当然です」


『ほらね。こうやって駄目な男が出来上がるのよ』


「誰がダメ男だ、誰が」


『あんたよ! 自覚がないのが余計悪いわ!』


言い合いながらも、三人は足を止めない。


人気の消えた街を進み、地下鉄駅へ向かう。


昨日までなら、買い物客で溢れていたはずの道。


その中心を、今はマキトとシエルだけが歩いている。


そして、マキトの影の中には、メルシーがいる。


やがて、駅の入口が見えてきた。


地下へ続く階段の前には、警察のバリケードが置かれている。


《立入禁止》


《地下構内危険》


《近づかないでください》


赤い文字の看板が、いくつも並べられていた。


だが、そこに警察官の姿はない。


他の現場へ回されたのか。


あるいは、ここを封鎖したあと、留まる必要がないと判断したのか。


マキトには分からない。


階段の奥には、灯りの落ちた地下鉄駅が口を開けていた。


白いタイルの壁。


手すり。


消えかけた案内表示。


見える範囲だけなら、いつも使っていた駅と何も変わらない。


ただ、誰もいない。


電車が動いている気配もない。


駅員の声も、利用客の足音も聞こえない。


地上では遠くでサイレンが鳴り続けているのに、階段の下だけが音を吸い込むように静まり返っていた。


マキトが、階段の奥を覗き込む。


「見た感じは、普通の駅だな」


『普通の駅に、あんな看板を何枚も立てるわけないでしょ』


足元の影から、メルシーが呆れた声を返す。


「それもそうか」


シエルは大剣を握ったまま、暗い駅構内へ警戒を向けていた。


「旦那さま。地下へ入られる前に、もう一度だけ申し上げます。内部の状況は分かりません。危険だと判断した場合は、すぐにお戻りください」


「分かってる。今日は、お前らを育てるために来ただけだ。無駄に死にに行くつもりはねえよ」


『昨日、自分から敵の目の前へ出ていった奴の台詞とは思えないわね』


「必要だったからやっただけだろ」


『今日も必要だとか言って前へ出たら、影の中から足を引っかけて転ばせるから』


「護衛のやり方が雑すぎるだろ」


『死なれるよりマシよ、クズ亭主』


メルシーの声は、いつも通り喧嘩腰だった。


だが、マキトの影から出ようとはしない。


街中で余計な注目を集めないためでもあるのだろうが、それだけではない気もした。


マキトは小さく笑い、スマートフォンを取り出した。


階段へ一歩近づいたところで、画面が震える。


黒い画面の上に、白い文字が浮かび上がった。


《異常領域を確認しました》


《領域名:新緑台駅迷宮》


《未踏破領域》


《侵入可能》


《推奨戦力:算出不能》


マキトは、表示を見て眉を上げた。


「地下鉄迷宮、ね」


シエルの表情が険しくなる。


「推奨戦力が算出できないということは、内部に存在する敵の強さも不明ということですね」


「ああ。未踏破なら、何が待ってるかも分からねえ。……なかなか面白そうじゃねえか」


『本気で入るつもり?』


「そのために来たんだろ。街で雑魚を探して歩き回るより、敵がいる場所へ入った方が早い」


『簡単に言うけど、何が出るか分からないのよ』


「だから、お前らがいる」


その言葉に、シエルが僅かに目を見開いた。


マキトは画面を閉じ、彼女へ視線を向ける。


「シエル。前は任せる」


「……はい」


白い鎧を纏った胸の前で、大剣を握る手に力が入る。


命じられたのではない。


頼られた。


それだけで、シエルの表情に静かな熱が宿った。


「旦那さま。私が先行します。どうか、私の後ろから離れないでください」


「ああ。頼むぞ」


足元の影から、メルシーの声が響く。


『シエル。何か出たら、まずあんたが止めなさいよ。クズ亭主のすぐ傍は私が見るから』


「はい。背中はお任せします、メルシー」


『言われなくても分かってるわよ』


マキトは、封鎖用のバリケードを跨いだ。


靴底が、階段の一段目へ触れる。


その瞬間。


地下の奥から、かすかに音が聞こえた。


電車が来る時に流れる、聞き慣れた発車メロディだった。


だが、ほんの数秒で途切れた。


続きはない。


電車の走る音も、人の声も聞こえない。


ただ、何もなかったように静寂だけが戻ってくる。


シエルが、無言で大剣を構え直した。


影の中で、メルシーも黙る。


マキトは階段の下を見つめた。


一昨日までなら、仕事へ向かうために下りていた場所。


今日からは、何が待っているかも分からない迷宮の入口。


けれど、目的は決まっている。


順位を上げる前に、まずはシエルとメルシーを育てる。


最上位として生まれながら、未実装だったために力を取り戻せていない二人を、戦える状態まで引き上げる。


「さて」


マキトは、僅かに口元を歪めた。


「使える場所かどうか、確かめに行くか」


『あんた、本当に怖いもの知らずね』


「怖がるのは、使えねえと分かってからで十分だろ」


『そういうところが馬鹿だって言ってんのよ!』


シエルが小さく微笑む。


だが、その瞳は暗い階段の奥から逸れなかった。


「参りましょう、旦那さま」


シエルが、最初の一段を下りる。


マキトも、その後へ続いた。


影の中には、メルシーがいる。


地上の光が、少しずつ遠ざかる。


見慣れたはずの地下鉄駅は、何も語らないまま、三人を静かに呑み込んでいった。


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