08.そうだった可能性が高い
マキトとシエルが転送された先も、円形の闘技場だった。
冷たい石床。
人影のない観客席。
見上げた空では、赤黒い雲が渦を巻いている。
先ほどまでいたホテルの気配など、どこにもない。
マキトは、手元のスマートフォンへ目を落とした。
画面には、次々と文字が流れている。
《適合レイド対象を検索中……》
《所有履歴照合……》
《因縁対象:該当なし》
《代替災厄個体を選出します》
「因縁対象なしって何だよ」
マキトは、眉をひそめた。
「まあ、俺このゲームほとんど知らねえし、当然か」
シエルは笑わなかった。
画面の文言を見つめたまま、大剣の柄へ手を掛ける。
「旦那さま。お気をつけください」
「このイベントは……何か、おかしいです」
「上位百人限定で、逃げられないボス戦だろ」
「最初からまともじゃねえよ」
その時、闘技場の反対側で黒い光が揺れた。
地面から染み出すように広がった闇が、一人の女の姿を形作っていく。
黒く長い髪。
細い身体。
人の姿をしているのに、濁った瞳には意思の色がない。
女の身体から溢れ出した黒い魔力が、足元の石床を軋ませ、細かな亀裂を走らせていた。
マキトは、その姿を見て首を傾げる。
「……あれがボスか?」
女は答えなかった。
代わりに、腕を振り上げる。
黒い衝撃が石床を抉り、一直線にマキトへ向かって走った。
シエルが即座に前へ出る。
大剣を横に構え、真正面から衝撃を受け止めた。
轟音が闘技場に響く。
シエルの白い鎧が軋み、足元の石が砕ける。
それでも、彼女は一歩も退かなかった。
「旦那さま。私の後ろから、決して出ないでください」
マキトは、シエルの背後から女を見つめる。
「今回は出る理由もねえよ」
「お前一人しか連れてきてないんだからな」
「はい」
シエルは、大剣を握る手に力を込めた。
「だからこそ、今度は必ずお守りします」
昼間、ヴォイドが自分をすり抜け、マキトへ刃を届かせかけた。
あの瞬間を、シエルは忘れていない。
後から聞かされた、あれは作戦だったらしい。
メルシーが影に潜んでいることも分かっていた。
それでも、自分の守りを抜けた敵がマキトの目前へ現れた光景は、胸の奥に鋭く残っている。
今度は、離れない。
敵を早く倒すより、マキトへ一撃も届かせないことを優先する。
女が、再び腕を振るった。
今度は、空中へいくつもの黒い刃が生まれる。
刃は弧を描きながら、シエルと、その後ろのマキトへ襲いかかった。
シエルは大剣を振るう。
一つ。
二つ。
三つ。
黒い刃を次々と弾き落とし、最後の一つを剣の腹で受け流す。
衝撃で腕が痺れた。
だが、背後のマキトには届かない。
「強えな」
マキトが、低く呟く。
シエルが返す。
「ですが、戦い方があまりに単調です」
「こちらを見ているようで……何も見ていません」
女は、攻撃を防がれても表情一つ変えない。
怒りもない。
焦りもない。
ただ、マキトを殺すためだけに、黒い魔力を振るい続けている。
マキトは、シエルの背後から女の動きを観察していた。
黒い刃を放った後。
地面を抉る衝撃を撃った後。
女の身体が、一瞬だけ止まる。
呼吸を整えるためでも、相手の出方を見るためでもない。
力を無理やり吐き出し、次の攻撃まで動けなくなっているように見えた。
「シエル」
「はい」
「あいつ、でかい攻撃の直後だけ止まる」
シエルが、僅かに視線を動かす。
「次に同じのを撃たせろ」
「受けた直後に、潰せ」
シエルは迷わず頷いた。
「承知しました」
女が、両腕を広げた。
周囲を漂っていた黒い魔力が、急速にその身体へ集まっていく。
今までの攻撃とは、明らかに規模が違う。
空気が震え、石床の亀裂が一気に広がった。
シエルは逃げなかった。
マキトの前へ大剣を突き立て、自分の身体ごと盾にする。
「旦那さま。少しだけ、衝撃に備えてください」
「言われなくても分かる」
マキトは、シエルの背後で身を低くした。
女の両手から、黒い奔流が放たれる。
闘技場の床を飲み込みながら押し寄せる闇が、大剣へ激突した。
耳を塞ぎたくなるほどの轟音。
シエルの足元が砕け、白い鎧へ亀裂のような傷が走る。
大剣を握る腕が震える。
膝が沈む。
それでも、退かない。
彼女の背後には、マキトがいる。
「……っ!」
歯を食いしばり、シエルは最後まで攻撃を受け止めた。
やがて、黒い奔流が途切れる。
女の身体が、力を失ったように僅かに揺れた。
「今だ!」
マキトの声が飛ぶ。
同時に、シエルが地面を蹴った。
白い鎧が黒い残光の中を突き抜ける。
女が次の攻撃を放つより早く、大剣が振り下ろされた。
重い衝撃が、女の身体を石床へ叩きつける。
黒い魔力が爆ぜ、闘技場の空気を震わせた。
それでもシエルは追撃しない。
すぐにマキトの前へ戻り、大剣を構え直す。
倒れた女の身体から、黒い魔力が噴き上がる。
だが、二度目の攻撃は来なかった。
暴れていた力が少しずつ薄れ、黒い光が地面へ溶けるように消えていく。
「終わったのか?」
マキトが尋ねる。
シエルは大剣を構えたまま、倒れた女を見た。
「……お待ちください」
「何だよ」
「まだ、何か……」
女の指が、僅かに動いた。
濁りきっていた瞳が揺れる。
ゆっくりと焦点が戻り、彼女は目の前に立つマキトを見た。
誰かを探すように。
どこかにいるはずの相手を、最後まで諦めきれないように。
「……あなた……」
女の瞳に、困惑が広がる。
「……誰……?」
マキトも、素直に眉を寄せる。
「いや、お前が誰だよ」
シエルが絶句する。
「旦那さま……!」
「いや、知らねえもんは知らねえだろ」
女は、一瞬だけ呆然とした。
それから、寂しそうに目を伏せる。
「……違う……」
「何がだよ」
「あなたじゃ……ない……」
女の声は、ひどく寂しかった。
「私が……探してた、人じゃ……」
その言葉を最後に、女の身体が淡い光へ変わり始めた。
指先から、腕へ。
腕から肩へ。
崩れるのではなく、そこに存在する理由そのものを失ったように、静かに消えていく。
シエルが、苦しそうに息を呑んだ。
マキトは、消えかけた女とスマートフォンの画面を見比べる。
画面には、新たな表示が浮かび上がっていた。
《災厄個体の消滅を確認》
《伴侶喪失個体:処理完了》
《討伐報酬を付与します》
マキトの目が、細くなる。
「……伴侶喪失個体」
シエルは、静かに目を伏せた。
マキトは、その表示だけで理解した。
二人が初めて現れた夜、聞かされた話。
彼女たちは、選んだ伴侶との繋がりを足場にして、この世界で人格と力を保っている。
その相手を失えば、いずれ意思を保てなくなる。
目の前で消えた女は、その先にいた。
「死んだプレイヤーのキャラを、敵として再利用してんのか」
マキトの声に、初めて露骨な不快感が混じった。
「上位の奴らに倒させて、ポイントに変えるために」
シエルは、何も答えなかった。
答えられなかった。
否定する材料など、どこにもなかった。
マキトは舌打ちする。
「趣味悪ぃな。このゲーム」
消えていく女は、もう声を発することもできない。
最後に一度だけ、何もない空間へ手を伸ばした。
その手が、探していた誰かへ届くことはない。
淡い粒子が散り、女の姿は完全に消えた。
闘技場に、静寂が戻る。
その直後だった。
シエルの身体を、白い光が包んだ。
彼女の前へ、新たな文字が浮かび上がる。
《大量の経験値を獲得しました》
《LEVEL UP》
シエルの顔から、血の気が引いた。
嬉しそうな様子はない。
まるで、見たくなかった証拠を突きつけられたように、表示を見つめている。
「……そういう、ことなのですね……」
マキトが眉を寄せた。
「何だよ」
「レベルが上がったなら、得したんじゃねえのか」
シエルは、ゆっくりと首を振った。
「旦那さま」
「私は、今……初めて成長しました」
「……だから?」
「私には、育成された記録がありません」
マキトは、数秒黙った。
やがて、言葉の意味に気づく。
「待て」
「お前、最上位なんだよな?」
「はい」
「でも、今まで一度もレベルが上がってなかった」
「はい……」
シエルは、悔しそうに拳を握る。
「私とメルシーは、実装される前のキャラクターでした」
「ゲームの中で、誰かに育てられたことがありません」
「経験を与えられたことも、装備を整えられたことも、戦場へ出されたことも……」
マキトの表情から、先ほどまでの余裕が消えた。
「つまり……性能だけは最上位でも、レベルは最初からってことか」
「おそらくは」
シエルの声が、僅かに震える。
「実装済みの方々は、プレイヤーに育てられた状態で現れている可能性があります」
「ですが、私たちは……土台だけが優れていても、力を十分に引き出せないまま現れてしまった」
マキトは、昼間の戦闘を思い返した。
ヴォイドは、シエルの正面攻撃を受けながらも止まらなかった。
シエルをすり抜け、自分の目前まで到達した。
あの時は、相手の能力が特殊だったからだと思っていた。
だが、それだけではない。
シエルは俯いた。
「本来の私であれば、真正面から捉えた時点で、戦闘を終わらせていなければなりませんでした」
「ですが、今の私は……そこまでの力を持っていません」
「じゃあ、さっきの奴に勝てたのも」
「相手が、力だけで暴れていたからです」
「攻撃は強力でしたが、判断も技術も失っていた」
「もし同格以上の方が、十分に育った状態で、理性を保ったまま戦えば……」
シエルの唇が、苦しそうに震えた。
「今の私では、旦那さまを守り切れないかもしれません」
マキトは、しばらく何も言わなかった。
自分の手札は、最上位URが二人。
それだけを見れば、圧倒的に有利だと思っていた。
他のプレイヤーは、自分のキャラクターを傷つけることを恐れている。
自分には、その躊躇がない。
だから勝てる。
そう考えていた。
だが、実際には違った。
自分の持つ二枚は、確かに強い。
ただし、まだ育っていない。
昼間の戦いも、今のレイドも、相手の条件が悪かったから勝てただけ。
次に完成された上位キャラクターを連れたプレイヤーと当たれば、自分が死ぬ可能性は十分にある。
そして、自分が死ねば。
シエルも、メルシーも、先ほどの女と同じように処理されるかもしれない。
「……とんだ当たりくじだな」
マキトが、低く呟いた。
シエルは、申し訳なさそうに顔を伏せる。
「申し訳ありません……」
「私は、旦那さまを守れるものだと……」
「謝るなよ」
シエルが顔を上げた。
マキトは、消えた女がいた場所を見つめたまま続ける。
「育ってないだけなら、育てればいい」
「素質まで嘘だったわけじゃねえんだろ」
「それは……はい」
「私は、本来ならば大規模な戦場で味方を率い、力を高めて戦う前衛指揮官です」
「メルシーは敵を弱らせる方だったな」
「はい。十分に成長すれば、格上へも勝ち筋を作れるはずです」
マキトは、スマートフォンを持ち直した。
「なら、目的変更だ」
「目的……ですか?」
「ポイントだけ集めて上位に居座るつもりだったけど、それじゃ駄目だ」
「明日からは、お前らを育てる」
「雑魚でも何でも、経験値になる相手を狩る。対人戦は後回しだ。」
「完成された奴にぶつかる前に、こっちも戦える状態にする」
シエルは、息を呑んだ。
それは慰めではない。
優しく抱きしめて、心配する言葉でもない。
マキトは、勝つために必要だから育てると言っているだけだ。
けれど、その言葉はシエルの胸へ真っ直ぐ届いた。
役に立てないから捨てるのではない。
足りないなら、足りるところまで引き上げる。
自分はまだ、旦那さまの隣にいていい。
「……はい」
シエルは、大剣を胸の前へ立て、深く頭を下げた。
「必ず、旦那さまを守れる力を得てみせます」
「期待してるぞ」
「死なれたら困るからな」
「旦那さまも、どうかご自身を軽く扱わないでください」
「は?」
シエルは、消えた女がいた場所を見つめる。
「あなたを失えば、私たちも……」
そこで、言葉を止めた。
それ以上は言わなくても、マキトにも分かる。
マキトは自分の胸元を見下ろした。
昼間、あと少しで短剣が届いていた場所。
「……死にたいわけじゃねえけど」
マキトは、面倒そうに息を吐いた。
「安く死ねる立場じゃなくなったな」
シエルは、その言葉に何も返せなかった。
しばらく、闘技場には沈黙だけが続いた。
やがてマキトが周囲を見回す。
「で、勝ったんだから帰れるんだろうな」
「おそらくは……」
「今夜のホテル代、もう払ってんだぞ」
「こんなところで朝まで放置されたら、さすがに納得いかねえ」
シエルは、一瞬だけ言葉を失った。
つい先ほどまで、死と喪失の話をしていたというのに。
マキトの関心は、もう高級ホテルの宿泊費へ移っている。
「……旦那さまは、本当に……」
「何だよ」
「いえ」
「戻れることを、私も願っております」
その直後、二人の足元へ白い光が広がった。
闘技場の景色が薄れていく。
赤黒い雲も、冷たい石床も、暗い観客席も、すべてが光に呑み込まれて消えた。
*
ホテルのスイートルームへ、眩しい光が弾けた。
マキトとシエルが、部屋の中央へ戻ってくる。
その瞬間、ソファに座っていたメルシーが跳ね起きた。
「遅い!」
怒鳴りながら、勢いよくマキトへ駆け寄る。
「何してたのよ、クズ亭主!」
「私を置いて行ったくせに、いつまで戻ってこない気――」
言葉の途中で、メルシーの目がマキトの身体を走った。
胸元。
腕。
顔。
脚。
血はついていない。
大きな傷もない。
ちゃんと立っている。
その確認が終わると同時に、彼女はわざとらしく顔を背けた。
「……まあ、生きてるならいいけど」
マキトが眉を上げる。
「心配してたのか?」
「はぁ!? するわけないでしょ!」
メルシーは即座に噛みついた。
「あんたが死んだら契約が面倒になるから、確認しただけよ!」
「勝手にいい気になんな、クズ亭主!」
「はいはい」
マキトは、ベッドの上へスマートフォンを放った。
メルシーの眉が動く。
「で?」
「何と戦ってたのよ」
マキトは、僅かに表情を落とした。
「知らねえ女」
「知らない女?」
「俺と因縁があるキャラがいなかったから、代わりを出されたらしい」
「倒した後、一瞬だけ正気に戻って、自分が探してた相手じゃないって言って消えた」
メルシーが、口を閉じる。
マキトは続けた。
「表示に出てた」
「伴侶喪失個体、処理完了だと」
メルシーの赤い瞳が、僅かに揺れた。
シエルが、静かに口を開く。
「おそらく、伴侶を失い、人格を保てなくなった方です」
「このイベントは、そのような方々をレイドボスとして利用しています」
部屋の空気が、急に重くなった。
メルシーは、何も言わなかった。
目だけが、マキトの胸元へ向かう。
昼間。
ヴォイドの短剣が、あそこへ届きかけた。
もし、自分の一撃が間に合っていなければ。
「……最低」
メルシーが、低く吐き捨てた。
マキトが彼女を見る。
「ゲームがか?」
「全部よ」
メルシーは、苛立たしげに爪を噛みかけて、途中で拳を握った。
「あんたも」
「私を置いて勝手に出て行くし、昼間は自分を餌にするし」
「挙げ句、死んだら私たちまでそんな扱いされるとか……」
怒鳴り声になりかけた言葉が、最後だけ小さくなる。
「……冗談じゃないわ」
マキトは、少しだけ黙った。
それから、いつもの調子で言う。
「だったら、俺を死なせるなよ」
メルシーの顔が一瞬で赤くなる。
「はぁ!?」
「誰のせいで危ない目に遭ってると思ってんのよ!」
「あんたが馬鹿みたいなことしなきゃ、私がこんな……!」
「こんな?」
「……っ、何でもない!」
メルシーは、怒りを誤魔化すようにソファへ蹴りを入れた。
柔らかなクッションが、情けなく沈む。
シエルが、申し訳なさそうに口を開く。
「メルシー」
「もう一つ、お伝えしなければならないことがあります」
「何よ」
「これ以上、嫌な話があるっていうの?」
シエルの表情が、苦しそうに歪む。
「私たちは、未育成の状態でこちらへ現れているようです」
メルシーの動きが止まった。
「……は?」
「先ほどの戦闘で、私は初めてレベルアップしました」
「私は未実装だったため、ゲーム内で育てられた記録がありません」
「おそらく、あなたも同じです」
メルシーは、呆然と自分の手を見た。
朝方、低級モンスターを倒した共有経験値で得た『影入り』。
あれは、元から持っていた力が目覚めたのだと思っていた。
最上位の自分が、当然のように新しい技能を得ただけだと。
けれど、違った。
あれは、自分が今ようやく成長を始めた証拠だった。
「……ちょっと待って」
メルシーの声が、低くなる。
「じゃあ、私たちって……最強状態で来たんじゃなくて」
「強くなれる素質だけ持ったまま、最初から放り出されたってこと?」
「そう考えるのが自然です」
シエルの返答に、メルシーのこめかみが引きつる。
「ふざけんな……」
「私、未完成のまま、クズ亭主を守ってたってこと?」
「守れてたんだから、今のところは問題ねえだろ」
マキトが横から言った。
メルシーが振り返る。
「問題しかないでしょ!」
「それ、たまたま相手が弱かっただけだったらどうすんのよ!」
「実際、そうだった可能性が高い」
「冷静に言うな!」
マキトは、ベッドへ腰を下ろした。
「シエルでも、完成された上位キャラ相手だと今は厳しいらしい」
「お前も同じだろ」
メルシーは、言い返せなかった。
自分は強い。
そう思っている。
いや、素質としては本当に強いのだろう。
けれど、今この瞬間、マキトを絶対に守り切れるのかと問われれば、答えられない。
昼間は、たまたま影からの一撃が通った。
もし次の敵が、自分の介入より早くマキトを殺せる相手だったら。
メルシーの顔から、苛立ち以外の色が消えていく。
「……だったら、なおさら」
彼女は、絞り出すように言った。
「あんた、自分を餌にする戦い方やめなさいよ」
「私たちがまだ育ってないなら……次は、本当に間に合わないかもしれないでしょ」
シエルが、静かにマキトを見た。
同じことを言いたかったのだろう。
マキトは、二人の視線を受けながら数秒考えた。
「分かった」
メルシーが、僅かに目を見開く。
「……本当に分かったの?」
「ああ」
「今のまま格上に当たったら危ないってことは分かった」
「そうよ。だから――」
「先に育てる」
メルシーの言葉が止まる。
マキトは、スマートフォンを拾い上げた。
レイド報酬が反映され、ランキングの数字が変わっている。
《現在順位:28位》
《ランキング終了まで:残り6日3時間21分》
「上位にいるだけなら、今のポイントで十分余裕がある」
「なら、無理に対人で大物を狙う必要はない」
「明日からは、モンスターと勝てる相手を使って、お前らのレベルと技能を上げる」
「他に必要なもんがあるなら、それも集める」
メルシーは、納得できないように睨みつける。
「……それで、自分を餌にするのは?」
「勝つために必要なら考える」
「そこをやめろって言ってんのよ!」
メルシーの怒声が、部屋中に響いた。
マキトは、耳を押さえることもなく平然と答える。
「ただし、今までより条件は厳しくする」
「お前らが間に合わない可能性があるなら、俺が前に出る意味は薄い」
「死んだら、お前らまでレイドボスにされるみたいだからな」
メルシーは、言葉に詰まった。
完全にやめるとは言わない。
優しく心配しているわけでもない。
けれど、マキトの中で自分たちが壊されることは、避けるべき損失として計算に入った。
それが何だか腹立たしい。
腹立たしいのに、少しだけ息がしやすくなる。
「……ほんっと、可愛くない男」
「今さらだろ」
「知ってるわよ、クズ亭主」
シエルが、静かに息を吐いた。
「旦那さま」
「明日からの戦いでは、私も今まで以上に慎重に動きます」
「経験を得ることも必要ですが、あなたを失っては意味がありません」
「頼むぞ」
「二人とも育つ前に俺が死んだら、笑えねえからな」
「笑い事じゃないのよ!」
メルシーが、また怒鳴る。
だが、先ほどまでより声に力が戻っていた。
*
しばらくして、部屋の明かりが落とされた。
外では、今もサイレンが鳴っている。
時折、遠くの道路で何かが破裂するような音が響く。
高級ホテルの柔らかなベッドに寝転がりながら、マキトはスマートフォンを見ていた。
ランキングは28位。
昨日までの彼なら、順位を見て単純に笑っていただろう。
だが今は、画面の数字よりも、その下に隠れている危険の方がはっきり見える。
自分の手札は強い。
最上位の素質を持つ女が二人。
ただし、まだ未完成。
完成されたキャラクターを相手にすれば、今のままでは勝ち切れない。
しかも、自分の死は、自分一人の敗北で終わらない。
「……まずは育成か」
マキトは、小さく呟いた。
「育てて、使える技能増やして、アイテムがあるならそれも拾って……」
「強い奴を食うのは、その後だな」
シエルは、ベッドの近くで大剣を傍らに置き、静かに彼の言葉を聞いていた。
「はい」
「必ず、その時までに力を得ます」
「お前、寝ないのか?」
「今夜は、ここにおります」
シエルは、穏やかな声で答える。
「旦那さまがお休みの間に、何かが起きないとも限りませんから」
「真面目だな」
「守るために来たのですから」
マキトは、それ以上何も言わなかった。
疲れていたのだろう。
スマートフォンを胸元へ置いたまま、ほどなく目を閉じる。
ソファでは、メルシーが膝を抱えたまま、そんなマキトを睨んでいた。
無防備に眠っている。
あれだけ危険な目に遭ったくせに。
自分が死ねば何が起きるか分かった直後だというのに。
「……馬鹿じゃないの」
小さく呟く。
返事はない。
当然だ。
マキトはもう眠っている。
メルシーは、視線をベッドの足元へ落とした。
室内の明かりが落ちたことで、マキトの影は薄く広がり、暗がりへ繋がっている。
昼間、あの中にいる間は苛立っていた。
狭い。
退屈。
自分ばかり隠されて、シエルだけが表で戦っているのが気に入らない。
けれど、今は。
「……今夜だけだからね」
メルシーは、誰に聞かせるでもなく言った。
「寝てる間に死なれたら、寝覚め悪いだけだから」
ソファから立ち上がり、影の前へ歩み寄る。
シエルが、何も言わずにその姿を見ていた。
「何よ」
メルシーが睨む。
「何も」
「心強いと思っただけです」
「気持ち悪いこと言わないで、ペ天使」
吐き捨てるように言って、メルシーの身体が黒い影へ沈んでいく。
最後に残った赤い瞳が、眠るマキトを一度だけ見た。
「……何があっても守り切るわ」
その声は、マキトには届かなかった。
影が静かに閉じる。
ベッドの上で眠るクズ亭主のすぐ傍に、二人の未完成な最上位キャラクターが残る。
一人は、剣を抱えて眠らずに見張り。
もう一人は、彼の影の中へ潜み、次に刃が届くより先に飛び出すために息を潜める。
外では、崩れ始めた世界がまだ騒がしい。
けれど、明日からやるべきことだけは決まった。
生き残るために。
勝ち上がるために。
そして、誰一人、壊れた敵として使い潰されないために。
マキトは、二人を育てる。




