07.幸せなら、俺はいいよ
同じ頃。
古い雑居ビルの一室で、一人の青年がスマートフォンを見つめていた。
名前は、ダイキ。
隣には、青い髪のエルフの少女が座っている。
青い瞳。細長い耳。青黒い魔導衣。
胸元で両手を組み、不安になると指先を握り込む癖のある、気の弱い少女だった。
名は、ブルー。
邪神陣営のSRキャラクターであり、氷魔法による拘束と防御を得意としている。
彼女には、双子の姉がいた。
赤い髪のエルフ、シンク。
同じ邪神陣営のSRキャラクターで、妹とは正反対に気が強く、攻撃的な炎魔法を操る少女。
ブルーが敵を凍らせ、動きを止める。
シンクがその隙に炎を叩き込み、焼き払う。
二人を同時に編成した時だけ聞ける掛け合いと、炎と氷が重なって敵を倒す連携演出を、ダイキは何度も見てきた。
決して最強の組み合わせではなかった。
最高レアでもなく、もっと効率よく敵を倒せる編成はいくらでもあった。
それでも、ダイキはシンクとブルーを外さなかった。
強気な姉が、気弱な妹を引っ張っていく。
怖がりながらも、ブルーが姉の隣に立とうとする。
その関係が好きだった。
だから、キャラクターたちが現実へ現れた日。
目の前に来たのがブルーだけだった時、ダイキは少しだけ寂しかった。
本当なら、二人そろって来てほしかった。
けれど、怯えた顔で自分を見上げるブルーの前で、そんなことを言う気にはなれなかった。
「シンクはシンクで、たぶん別の大事な人のところへ行ったんだろ」
初めて会ったブルーへ、ダイキは笑ってそう言った。
「それで幸せなら、俺はいいよ」
その瞬間、ブルーは泣いた。
自分だけが来たことを責められると思っていたのだろう。
だが、ダイキにとってブルーは、シンクの代わりではなかった。
二人とも好きだった。
ただ、それだけだ。
今日一日、ダイキはランキングを上げるために動いていたわけではない。
街に湧き出したモンスターから、逃げ遅れた人を助けた。
倒壊した店舗に取り残された子供を見つけ、ブルーが氷で魔物を足止めしている間に助け出した。
避難する人々へ襲いかかる獣を凍らせ、警察が誘導するための時間を作った。
幸い、決闘を仕掛けてくるプレイヤーとは遭遇しなかった。
ただ、目の前で困っている人間を助け、襲ってくる魔物をブルーと一緒に退け続けた。
そして今。
何気なく開いたランキング画面には、思いがけない順位が表示されていた。
《現在順位:93位》
ダイキは、驚いたように瞬きをした。
「……俺たち、こんなところまで来てたのか」
ブルーも画面を覗き込む。
けれど、嬉しそうにするより先に、申し訳なさそうに俯いた。
「ダイキさん……」
「ん?」
「私が、もっと強ければ……」
「お姉ちゃんだったら、もっと多くの方を助けられたのに……」
ダイキは、すぐに首を振った。
「何言ってんだよ」
ブルーが、恐る恐る顔を上げる。
「確かに、シンクならもっと派手に倒せたかもしれない」
ダイキは、無理に否定しなかった。
それでも、穏やかに続ける。
「でも、お前の魔法がなかったら、助けられなかった人だっていただろ」
「俺一人なら、最初に出てきた魔物に追い回されて終わってる」
「でも……」
「俺は、シンクも好きだったよ」
ブルーの肩が、小さく揺れた。
「だからって、来てくれたお前を代わりだと思ったことはない」
「俺のところに来てくれたのがブルーで、よかったと思ってる」
ブルーの青い瞳が潤む。
彼女は、泣かないように唇を結び、それから小さく笑った。
「……私も」
「ダイキさんのところへ来られて、よかったです」
その時だった。
ダイキのスマートフォンが、突然大きく震えた。
画面が強制的に暗転する。
赤黒い文字が、不気味に浮かび上がった。
《緊急イベント発生》
《個別レイドボスが出現しました》
《参加資格:ランキング上位100名》
《討伐成功報酬:大量ポイント》
《参加しますか?》
《参加/不参加》
ダイキの表情が、僅かに強張る。
「……上位百人だけのイベントか」
ブルーが、不安そうに画面を見る。
「ダイキさん……」
「ランキングに入りたかったわけじゃないんだけどな」
ダイキは、困ったように頭を掻いた。
ポイントのために誰かを襲ったわけではない。
誰かのキャラクターを傷つけてまで、上位へ行きたかったわけでもない。
だが、この先も今日のような混乱が続くなら、できることは増やしたかった。
「ポイントがあれば、この先、避難場所を作れる権利とか、何か人を助けるための手段が手に入るかもしれない」
ダイキは、ブルーを見る。
「危険かもしれないけど……行ってみてもいいか?」
ブルーは、しばらく黙っていた。
胸元で組んだ両手が、強く握られている。
「……怖いです」
その声は、小さく震えていた。
「でも、ダイキさんが行くなら……私も、傍にいます」
ダイキは、ブルーの手を握った。
冷たい指先が、僅かに震えている。
「危なくなったら、すぐ降伏する」
「勝つために、お前を失う気なんかないから」
ブルーは、その手を握り返した。
「……はい」
ダイキが、参加の表示へ指を触れる。
スマートフォンから溢れ出した光が、狭い部屋を真っ白に塗り潰した。
次の瞬間。
二人の姿は、雑居ビルの一室から消えていた。
*
視界が戻った時、ダイキは巨大な石造りの床の上に立っていた。
見渡す限り、円形の闘技場が広がっている。
観客席には誰もいない。
暗闇だけが何段にも重なり、その遥か上では赤黒い雲が、ゆっくりと渦を巻いていた。
風はない。
人の気配もない。
どこにも出口らしきものは見当たらなかった。
「……何だよ、ここ」
ダイキは反射的に、隣にいるブルーの手を握った。
ブルーも、すぐに握り返す。
「ダイキさん……私から、離れないでください」
「分かってる」
そう答えた直後だった。
闘技場の反対側で、小さな炎が灯った。
一つだった炎は、すぐに二つ、三つと増えていく。
やがて炎は人の輪郭を作り、赤い髪を、長い耳を、赤い魔導衣を形作った。
その手には、炎を宿した杖。
ダイキの呼吸が止まる。
その姿を、何度も見てきた。
スマートフォンの画面の中で。
イベント会話の立ち絵で。
ブルーと並ぶ編成画面で。
「……シンク?」
声が、掠れた。
赤髪のエルフの少女は、答えない。
「おい……嘘だろ」
ダイキの足が、一歩前へ出る。
「何で……お前が、そこにいるんだよ」
「お前は……別の誰かのところへ行ったんじゃなかったのかよ」
シンクの赤い瞳は、濁っていた。
そこに、ダイキが知っている勝ち気な少女の表情はない。
誰かを見ているようで、何も認識していない目。
ただ周囲を漂う炎だけが、ゲームで知っていた彼女の姿とは比較にならないほど荒々しく燃え上がっている。
「俺だよ!」
ダイキは、思わず叫んだ。
「お前とブルーを、ずっと一緒に使ってた俺だ!」
「シンク! 分かるなら、何か言ってくれよ!」
シンクの杖先へ、炎が集まり始めた。
答えではない。
明確な攻撃の予兆だった。
「ダイキさん、下がってください!」
ブルーが、ダイキの前へ飛び出した。
青い杖を構える手が、激しく震えている。
「ブルー……?」
「今のお姉ちゃんに、近づかないでください……!」
「何言ってんだよ。シンクなんだろ?」
「お前の姉ちゃんなんだろ?」
ブルーの瞳から、涙が一筋零れた。
「分かります……」
震える声で、ブルーは姉を見つめる。
「お姉ちゃんの中に……誰かを呼び続けている声があるんです……」
「でも、届かなくて……それで……全部、壊れてしまいそうなくらい……」
「誰かを……呼んでる?」
「分かりません……」
「でも、今のお姉ちゃんは……ダイキさんを、殺します……!」
シンクの杖が振り下ろされた。
炎の塊が、轟音と共に一直線に飛来する。
ブルーが、両手で杖を握りしめた。
「《凍壁》……!」
二人の前へ、青白い氷壁が立ち上がった。
次の瞬間、炎が正面から激突する。
爆音。
氷壁の表面が、一瞬で白い蒸気に包まれた。
中心から大きくひび割れ、壁の半分が崩れ落ちる。
「……っ!」
ブルーが、苦しそうに息を呑んだ。
一撃で、ここまで削られた。
ダイキは、目の前で荒れ狂う炎に言葉を失う。
ゲームの中で知っていたシンクより、遥かに強い。
けれど、それは頼もしい強さではなかった。
燃え広がる炎の向こうで、赤い少女の顔は、少しも笑っていない。
*
シンクの濁った意識の底で、消えかけた記憶が揺れていた。
昨日。
彼女の目の前には、一人の男が立っていた。
シンクを特に気に入っていたプレイヤー。
何度も彼女を編成に入れ、炎魔法の火力を上げ、専用装備を与えてくれた男。
現実に現れたシンクを見るなり、男は信じられないように目を見開いた。
「本当に……シンクなのか?」
シンクは、腕を組んで鼻を鳴らした。
「何その顔。私が来たら不満なわけ?」
「違う! 違うけど……本当に来てくれるとは思わなくて」
男は、子供のように笑った。
「俺、お前がいてくれたら……この世界でも、絶対やっていけると思う」
その言葉が、嬉しかった。
自分を選んでくれたことが。
自分なら勝てると信じてくれたことが。
シンクは、得意げに胸を張る。
「当たり前でしょ」
「私が選んだんだから、負けるなんて許さないわよ」
「あんたは後ろで見てなさい。邪魔する奴は、全部私が焼くから」
男は、何度も頷いた。
その時間は、あまりにも短かった。
男のスマートフォンへ、決闘申請が届いた。
相手のキャラクターは、自分より明らかに格上には見えなかった。
男は迷っていた。
だが、シンクがいる。
自分が勝たせる。
そう思って、彼女は男の背中を押した。
「受けなさいよ」
「私がいるのに、何を怖がってるの?」
男は、覚悟を決めたように受諾ボタンを押した。
戦闘が始まる。
シンクは、すぐに炎を展開した。
敵の女を焼けば終わる。
それだけのはずだった。
だが、敵のキャラクターは、シンクへ向かってこなかった。
炎を避け、床を蹴り、最初から男だけを狙って駆け抜ける。
「待ちなさい!」
シンクが炎を放つ。
間に合わない。
刃が、男の胸を貫いた。
鮮血が宙へ散る。
男の身体が、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
「……は?」
シンクの思考が止まった。
敵が離れていく。
倒れた男の身体の下に、赤い血が広がっていく。
シンクは杖を投げ捨てるようにして、男のもとへ駆け寄った。
「ちょっと……何してんのよ」
肩を掴み、揺さぶる。
「立ちなさいよ」
返事はない。
「私が勝つって言ったでしょ」
「ねえ、聞いてる!?」
「早く起きなさいよ! あんた、私の旦那なんでしょ!?」
男は、動かなかった。
耳に届いたのは、冷たいシステムの通知だけだった。
《所有プレイヤーの死亡を確認》
《敗北判定》
《伴侶接続を解除します》
「……嫌」
シンクの声が震える。
その瞬間、身体の奥から何かが抜け落ちていった。
力ではない。
記憶でもない。
自分が自分でいるために、確かにそこにあった支え。
この世界へ現れた自分を繋ぎ止めていたものが、男の死と一緒に切り離されていく。
シンクは、男の身体へ縋りついた。
「待って……」
「まだ、私……何も返してない……」
「私を呼んでくれたのに……」
「私、あんたに……まだ……」
声が崩れる。
「置いてかないでよ……!」
返事はない。
男との繋がりは、もう戻らない。
崩れていく意識の中で、別の記憶が浮かび上がった。
自分とブルーを、いつも二人一緒に編成していた男。
性能だけなら、自分だけを入れた方が強い場面もあった。
それでも、彼は妹を外さなかった。
二人の掛け合いが解放されるイベントを、何度も繰り返し遊んでいた。
炎と氷の連携演出を見るたび、嬉しそうにしていた。
ダイキ。
自分を大事にしてくれた、もう一人の人。
けれど、自分は彼を選ばなかった。
他の男を選んで、その人のところへ行った。
それを後悔したことなど、一度もなかったはずなのに。
「……どうして最後にあの人ことを思い出すの?」
涙が、男の服へ落ちる。
「ブルーが傍に……いれば……」
そこから先を、考えることはできなかった。
守れなかった悲しみ。
置いていかれた恐怖。
自分を壊した敵への怒り。
それすら分からなくなるほどの喪失。
全部が混ざり合い、シンクという形を崩していく。
目の前へ、黒い表示が浮かび上がった。
《伴侶喪失個体を確認》
《人格安定率:規定値以下》
《災厄個体として再配置します》
《個別レイドボス化を開始》
「嫌……」
シンクは、最後にもう一度だけ男の遺体へ手を伸ばした。
「私を……一人にしないで……」
その指先が触れるより先に、闇が彼女の意識を呑み込んだ。
*
闘技場では、シンクの炎がさらに勢いを増していた。
炎の矢が、雨のように降り注ぐ。
石床のあちこちから火柱が噴き上がり、逃げ道を削っていく。
ブルーは、何枚もの氷壁を展開していた。
一枚で止められないなら、何枚も重ねる。
正面から受けきれない炎は、冷気で軌道を逸らす。
ダイキへ届きそうな火柱だけを、発生する前に凍らせて遅らせる。
攻撃する余裕などなかった。
ただ、ダイキを守るためだけに、ブルーは必死で杖を振り続けている。
「ダイキさん……下がってください……!」
「私が……守ります……!」
「ブルー! もういい、無理するな!」
ダイキは叫んだ。
ブルーの頬には煤がつき、腕には炎が掠めた火傷が残っている。
息も乱れている。
それでも、彼女はダイキの前から退かなかった。
「無理でも……やります……!」
「ダイキさんまで失ったら……私……!」
その先の言葉を、ブルーは呑み込んだ。
けれど、ダイキには分かってしまった。
姉がこうなった理由を、ブルーは理解している。
だからこそ、怖いのだ。
自分もまた、ダイキを失えば同じように壊れてしまうのではないかと。
シンクが、杖を振り上げる。
その構えを見た瞬間、ダイキの身体が反応した。
知っている。
何度も見た。
ゲームでシンクを使っていた時、炎弾を連射する直前の動きだ。
「ブルー!」
ダイキが叫んだ。
「次、炎弾が三つ来る!」
「一発目は壁で受けろ! 二発目は正面から止めるな、冷気で逸らせ!」
「三発目の後、シンクの右側が空く!」
ブルーが、驚いたように振り返る。
「どうして……?」
「知ってるんだよ!」
ダイキの声も、震えていた。
「何年、お前ら二人を見てきたと思ってるんだ!」
シンクの杖から、一発目の炎弾が放たれた。
ブルーの氷壁が受け止める。
激しい蒸気が噴き上がり、壁が大きく削られた。
二発目。
ブルーは正面へ壁を出さず、炎の横から冷気を叩きつけた。
炎弾は完全には消えない。
だが、その軌道は逸れ、二人から離れた石床へ炸裂した。
三発目。
「……っ!」
ブルーが新たな氷壁を作り出す。
しかし、炎弾は薄い壁を砕き、砕けた熱がブルーの腕を焼いた。
「ブルー!」
「大丈夫……です……!」
痛みに顔を歪めながらも、ブルーは前を見た。
シンクの右側に、僅かな隙が生まれている。
「今だ!」
ブルーは、涙を堪えるように唇を噛んだ。
「……ごめんなさい、お姉ちゃん!」
青い杖から、何本もの氷の鎖が飛び出した。
鎖はシンクの腕へ、足へ、杖へ絡みつき、燃え上がる身体をその場に縫い止める。
シンクの炎が、氷を内側から融かし始める。
長くは持たない。
けれど、その一瞬。
濁りきっていた赤い瞳の奥に、微かな光が戻った。
「……ブ……ルー……」
ブルーの手が止まる。
「お姉ちゃん……?」
その声は、確かに姉のものだった。
次の瞬間、シンクの身体から炎が爆発した。
氷の鎖が砕け散る。
ブルーの小さな身体が吹き飛ばされ、石床の上を転がった。
「ブルー!」
ダイキが駆け寄る。
ブルーは苦しそうに息を詰まらせながら、それでも杖を手放していなかった。
「だ、大丈夫……です……」
震える脚に力を入れ、立ち上がろうとする。
その正面で、シンクがゆっくりと杖を掲げた。
彼女の頭上へ、周囲の炎が集まっていく。
小さな火の粉が吸い込まれ、やがて巨大な炎の塊へと膨れ上がる。
ダイキの顔から、血の気が引いた。
これも知っている。
シンクの最大火力魔法。
発動すれば、前方一帯を炎で焼き尽くす必殺技。
今のブルーの防御では、耐えられない。
だが、その技には隙があった。
全ての力を攻撃へ集中させる直前、シンク自身の守りが消える、ほんの一瞬。
ゲームの攻略情報ではない。
何度も彼女を使い続けてきたから、覚えている癖だった。
ダイキは、泣きそうな顔でシンクを見た。
会いたかった。
ブルーと並んで、自分の前に現れてほしかった。
笑って、また二人で言い争って、それを見ながら馬鹿みたいに喜びたかった。
けれど、目の前にいるシンクは、もう自分の意思で炎を振るっているわけではない。
「ブルー……」
ダイキは、絞り出すように言った。
「次で、終わらせる」
ブルーの瞳が、大きく揺れる。
「嫌……です……」
涙が、頬を伝う。
「私……お姉ちゃんを、倒したくない……」
「俺だって嫌だよ!」
ダイキの声が、誰もいない闘技場へ響き渡った。
「俺だって、シンクに会いたかった!」
「お前と一緒に、二人で来てくれたらって思った!」
「別の誰かを選んだとしても、そいつのところで笑ってるなら、それでよかった!」
シンクの炎が、赤黒い雲まで照らすほどに膨れ上がる。
ダイキは、涙を流しながらも目を逸らさなかった。
「でも……あれがシンクの苦しんでる姿なら……」
「もう、こんなふうに戦わせたくない……!」
ブルーは、声を押し殺すように泣いた。
やがて、小さく頷く。
「……はい……」
彼女は、震える両手で杖を構えた。
「ダイキさん……教えてください……」
「私に……お姉ちゃんを、止める方法を……」
シンクの炎が、限界まで収束する。
ブルーの足元から冷気が広がり、青白い氷が石床を覆っていく。
かつて、二人で並んで敵へ向けていた炎と氷。
今は、姉を終わらせるために、妹の氷だけが向けられている。
炎が、シンクの杖へ集まり切る。
守りが消える、たった一瞬。
「ブルー! 今だ!」
ブルーは、涙で歪む視界の向こうへ杖を向けた。
「お姉ちゃん……!」
声が、震える。
「ごめんなさい!」
青白い氷の槍が、一直線に放たれた。
それは巨大な炎を中心から貫き、そのままシンクの胸へ突き刺さった。
炎が、音もなく砕け散る。
闘技場を覆っていた熱が、一瞬で消えた。
シンクの杖が、石床へ落ちる。
その身体が、ゆっくりと崩れ落ちた。
「シンク!」
「お姉ちゃん!」
ダイキとブルーが、同時に駆け出した。
赤い髪が、冷たい床へ広がる。
ブルーは姉の身体を抱き起こし、震える手で頬へ触れた。
「お姉ちゃん……」
「お願い……目を開けて……」
濁っていたシンクの瞳に、ゆっくりと光が戻っていく。
彼女はまず、泣きながら自分を抱きしめる妹を見た。
それから、その向こうにいる青年へ視線を移す。
現実では、一度も会ったことのない人。
けれど、覚えている。
自分と妹を、何度も並べてくれた人。
「……ダイキ……」
名前を呼ばれ、ダイキは息を呑んだ。
「シンク……」
「俺のこと、分かるのか?」
シンクは、ほんの僅かに笑った。
「分かるよ……」
声は弱く、今にも消えそうだった。
「私たちは……覚えてるから……」
「誰が……私たちを、大事にしてくれたのか……」
ブルーが、姉の手を強く握りしめる。
「お姉ちゃん……一緒に帰ろう……」
「私と、ダイキさんと……」
「今度は、三人で……」
シンクは、妹の手を握り返そうとした。
けれど、その指先は既に赤い光の粒子へ変わり始めていた。
「嫌……」
ブルーの声が震える。
握ったはずの手が、少しずつ指の間から消えていく。
「嫌だよ……」
「お姉ちゃん……消えないで……!」
シンクは、自分の身体が消えていくのを見つめ、それから静かに目を伏せた。
「私ね……」
途切れそうな声で、呟く。
「選んだ人を……守れなかった……」
ダイキの胸が、強く締めつけられた。
「私が……勝たせるって言ったのに……」
「目の前で……死んじゃった……」
シンクは、泣きそうな顔で笑った。
「それから……ずっと……あの人を呼んでた気がする……」
「でも……もう、何も分からなくなって……」
ブルーは、姉の身体へ縋りついた。
「もういいよ……」
「もう、何も言わなくていいから……!」
「ブルーは……ダイキのところへ、行ったんだね……」
シンクは、泣きじゃくる妹を優しく見つめた。
「よかった……」
「この人を……一人にしなくて……」
「よくねえよ……!」
ダイキの声が、嗚咽で崩れた。
シンクの瞳が、彼へ向く。
「俺は……お前も好きだったんだよ……!」
ダイキは、涙を拭うこともできなかった。
「お前が俺じゃない奴を選んでも……それで幸せなら、俺はいいと思ってた!」
「俺のところに来なくても、お前がどこかで笑って生きてるなら……それで、本当によかったんだよ……!」
シンクの目から、静かに涙が零れた。
「……ごめんね……」
消えかけた指が、僅かに動く。
「あなたを……選ばなくて……」
「謝るなよ……!」
ダイキは、掴めなくなっていく彼女の手へ、自分の手を重ねた。
「そんなことのために、お前を好きだったんじゃねえよ……」
「俺が欲しかったのは……お前が最後に謝って消えることじゃない……!」
シンクは、声もなく涙を流した。
赤い光が、腕から肩へと広がっていく。
「でも……」
彼女は、震える息を吐いた。
「止めてくれて……ありがとう……」
「もう……苦しくない……」
ブルーが、首を振り続ける。
「嫌だよ……」
「私……まだ、お姉ちゃんの後ろにいたいよ……」
「私一人じゃ……怖いよ……」
シンクは、そんな妹を見つめて、弱く笑った。
「もう……あなたが、守る側だよ……」
ブルーの涙が、止まらない。
「ダイキを……お願いね……」
ブルーは、姉の消えかけた手を抱きしめながら、何度も頷いた。
「うん……」
「守る……」
「私が……ダイキさんを、守るから……」
「だから……だから、お姉ちゃん……!」
シンクは、最後にもう一度だけダイキを見た。
赤い光に包まれた顔に、ようやく穏やかな笑みが浮かぶ。
「……私も」
「あなたに……会えて、よかった……」
ダイキは、何も返せなかった。
声にすれば、全てが崩れてしまいそうだった。
「さようなら……ダイキ」
「ブルー……」
赤い光が、静かに舞い上がる。
抱きしめていたはずの身体が、手の中から失われていく。
やがて、シンクの姿は、どこにもなくなった。
闘技場の中央に残されたのは、泣き崩れるブルーと、その身体を抱きしめるダイキだけだった。
空中へ、無感情な表示が浮かび上がる。
《個別レイドボスを討伐しました》
《大量ポイントを付与します》
ダイキは、その文字を見ることさえできなかった。
人を助け続けた結果、偶然得た参加資格。
その報酬として与えられたのは、愛していた少女を、自分たちの手で終わらせる役目だった。




