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06.絶対、許さないから



夜になっても、街は静かにならなかった。


昨日までなら、コンビニの灯りや飲食店の看板が夜道を照らしていたはずの通りは、今では半分以上の店がシャッターを下ろしている。


路肩には乗り捨てられた車が並び、割れたガラス片が街灯の光を鈍く返していた。遠くでは救急車のサイレンが鳴り続け、その合間に、何か大きなものが崩れる音が響く。


その道路の真ん中を、マキトはスマートフォン片手に歩いていた。


隣には、白い鎧をまとったシエル。


そして、もう一人。


メルシーの姿は、どこにも見えない。


「はぁ!? 何でまた私が隠れるのよ!」


マキトの足元から、苛立った声が響いた。


夕暮れ前、共有経験値によってメルシーが得た新たな技能――『影入り』。


彼女は今、マキトの影の中へ潜り込んでいる。


「しかも、またあんたの影!? 私を何だと思ってんの!」


「俺を狙う奴がいるなら、一番近くにいた方がいいだろ」


マキトは振り返りもせずに答えた。


「姿も見えない。俺を襲った奴が油断したところを潰せる。便利じゃねえか」


「便利って言うな! 私はあんたの隠し武器じゃないのよ!」


声は荒い。


だが、メルシーは影から出てこなかった。


昼間、ヴォイドの短剣がマキトの胸元へ届きかけた。


ほんの一瞬遅れていれば、どうなっていたか分からない。


「……まあ、いいわ」


影の中から、吐き捨てるような声が返ってくる。


「またあんたが刺されかけるくらいなら、私がここにいた方がマシだし」


マキトの口元が僅かに上がった。


「へえ。ずいぶん大人しいじゃねえか」


「調子乗んな、クズ亭主!」


影が、苛立ちに合わせるように大きく揺れる。


「あんたが死んだら私が困るから、監視してやってるだけ! 勘違いしたらぶっ殺すわよ!」


シエルは、二人の会話を聞きながら静かに歩いていた。


メルシーを影に潜ませる判断は、戦術として間違っていない。


表に見えるのはシエルだけ。


相手がそこだけを計算してマキトを狙えば、死角からメルシーが叩き潰す。


昼間のヴォイドと同じように。


「旦那さま」


不意に、シエルが足を止めた。


その視線の先で、車道の中央が黒く歪む。


何もなかったアスファルトの上から、黒い煙のようなものが噴き上がり、いくつもの形を作っていく。


骨だけの兵士。


腹を異様に膨らませた巨大な虫。


四つ足で地面を引っ掻き、涎を垂らす黒い獣。


近くにいた人々が悲鳴を上げ、我先にと逃げ始めた。


女性キャラクターを連れていた数人の男たちも、彼女たちの手を引いて退こうとしている。


シエルが、自然な動きで、背の大剣を手に掛けた。


「こちらは私が対処します」


マキトは、湧き出た魔物ではなく、逃げていく人々を見ていた。


正確には、その中にいるプレイヤーたちを。


「任せた。俺は別の方をやる」


「はい。旦那さまは、どうか安全な場所へ――」


シエルが言い終えるより先に、マキトはスマートフォンを操作し始めた。


白い鎧が街灯の下を駆ける。


シエルの大剣が横薙ぎに振り抜かれ、先頭にいた骨兵がまとめて砕け散った。続けて踏み込んだ一撃が、巨大な虫の胴体を真っ二つに断ち切る。


黒い体液が舗装路へ散り、逃げ遅れた人々が悲鳴を呑み込んだ。


シエルはその前へ立ち、迫る魔物を一体ずつ確実に斬り伏せていく。


その背後で、マキトの指は別の獲物を捉えていた。


少し先を、学生服姿の少年が走っている。


足を負傷した女性キャラクターへ肩を貸し、必死に彼女を連れて逃げていた。


少年のスマートフォンへ、対戦申請を送る。


数秒後、マキトの画面へ通知が表示された。


《対戦申請が拒否されました》

《拒否ペナルティーによるポイント移譲を確認しました》


「そりゃ断るよな」


マキトは小さく笑った。


次に狙ったのは、剣士風の女性キャラクターの手を引きながら、物陰へ逃げようとしている男だった。


背後から迫る魔物に気を取られ、男はスマートフォンの通知に気づかない。


《対戦申請が期限切れとなりました》

《申請者へポイントを付与します》


「気が付かなくても取られるのか。楽でいいな」


マキトは、ためらいなく次の対象を探す。


その間にも、シエルの大剣が黒い獣の首を叩き落とした。


獣は地面へ倒れ込み、黒い粒子となって崩れていく。


同時に、マキトの画面へ別の通知が表示された。


《低級モンスターを討伐しました》

《討伐報酬としてポイントを獲得しました》


マキトは獲得数を見て、僅かに眉を寄せる。


「……あれだけ倒しても、この程度か」


シエルが振り返った。


「旦那さま。周囲の方々は、無事に避難できたようです」


「そうか」


マキトの目は、まだ申請履歴に向いていた。


「モンスター倒すより、逃げてるプレイヤーに申請投げた方が手軽じゃねえか」


シエルの表情が止まる。


「……旦那さま」


「あ?」


「今の方々は、怪物に襲われていたのですよね」


「見りゃ分かるだろ」


「そのような方々へ、対戦を申し込まれたのですか?」


「だからだよ」


マキトは悪びれもしなかった。


「逃げるのに必死な奴が、わざわざ対戦なんて受けるわけねえだろ。断るか、気づかず時間切れになる。確実に取れる相手から取っただけだ」


シエルは言葉を失った。


彼女が人々を守るために剣を振るっていた、すぐ後ろで。


マキトは、その逃げる人々からポイントを奪っていた。


助けた相手かどうかなど、彼には関係ない。


狙いやすいか。


稼げるか。


ただ、それだけだった。


マキトは、スマートフォンに並ぶ通知を眺め、小さく息を吐いた。


「……つまらねえな」


シエルが、意味を測りかねたように彼を見る。


「旦那さま?」


「世界がこんなになっても、まだまともな奴ばっかりだ」


マキトは、逃げていく人影を一瞥する。


「怪物が湧いて、街が壊れて、昨日までの常識なんてとっくに崩れかけてる。なのに、まだ律儀に善人やってる」


呆れたように、口元だけで笑った。


「非日常に放り込まれても、モラルだけは手放せないらしい」


シエルの顔が、わずかに強張る。


「それは……悪いことではないはずです」


「悪いとは言ってねえよ」


マキトは画面から目を離さない。


「ただ、つまらないだけだ」


その沈黙を破るように、マキトの足元から怒鳴り声が響いた。


「ほんっと、つまんない!」


近くで逃げ遅れていた人間が、ぎょっとした顔で振り返った。


声は聞こえるのに、姿は見えない。


「何なのよ、どいつもこいつも! ビビって拒否するだけの腰抜けばっかじゃない!」


影の中で、メルシーが苛立たしげに喚く。


「こっちはずっと待ってんのよ! 一人くらい受けて、私にぶっ潰されなさいよ!」


シエルが困ったように眉を寄せた。


「メルシー。戦わずに済むのであれば、それが最善です」


「はぁ!? あんたは表で好き放題ぶった斬ってたから満足でしょ!」


マキトの影が、棘のように尖って伸びる。


「私はクズ亭主の足元に押し込まれたまま、獲物が逃げてくの眺めてるだけなんだけど! 偉そうにいい子ぶってんじゃないわよ、白乳!」


「その呼び方はやめてください……!」


「じゃあペ天使でいい!?」


「悪くなっています!」


二人の言い争いを、マキトは聞き流していた。


画面に並ぶ通知と、増えていくポイントを見比べる。


「やっぱ、拒否だけじゃ効率悪いな」


シエルの表情が曇る。


「旦那さま……」


「戦闘まで持ち込んで、まとめて吐かせる方が早い」


影の中から、即座に返事が来た。


「そうよ。次は逃げ道ごと潰しなさいよ。受けるしかない状況にして、全部奪えばいいの」


声だけ聞けば、いつものメルシーだった。


傲慢で、口が悪くて、他人を踏みにじることを何とも思わない。


だが、彼女は影から出ようとはしなかった。


昼間の出来事が、まだ彼女の中に残っていた。


*


夜の街を歩けば歩くほど、マキトには理解しづらい光景が増えていった。


通りの脇では、中年の男が、傷ついた若い女性キャラクターを背負い歩いていた。


くたびれたスーツの肩に、彼女の腕を回させている。


「大丈夫だ。無理しなくていい」


男の声は、情けないほど震えていた。


「戦わなくていい。俺が、どこか安全な場所を探すから……」


女性キャラクターは苦しそうに顔を歪めながら、何かを言おうとしていた。


おそらく、自分を置いて逃げろとでも言っているのだろう。


少し離れた場所では、決闘申請を受け取った男が、隣にいる赤髪の女性キャラクターへ何度も謝りながら拒否ボタンを押していた。


「ごめん。ポイント、取られるけど……いいよな」


震える指で画面を押し、男は無理に笑った。


「俺、お前を戦わせてまで上に行きたくないんだ」


赤髪の女性は何も言わず、男の腕へそっと手を添えた。


マキトは、バトルを拒絶されその姿を見て顔をしかめる。


「戦える奴が隣にいるのに、何で逃げてんだよ」


シエルが足を止めた。


「旦那さま……」


「使わなきゃ、結局一緒に襲われるだけだろ。守りたいとか言って、揃って死ぬ方が馬鹿じゃねえか」


シエルは、彼らと女性キャラクターの背中を見つめた。


「大切だからこそ、傷ついてほしくないのではありませんか」


「大切なら、使わずに守れるのか?」


「守れるかどうかではなく……」


シエルは、少しだけ言葉を探した。


「失うことが、怖いのだと思います」


マキトは、なおさら分からないという顔をした。


シエルも、メルシーも、昨日突然現れた。


自分を旦那さまだのクズ亭主だのと呼び、勝手に伴侶扱いして、初日に実家を吹き飛ばした女たちだ。


綺麗だとは思う。


強いとも思う。


そして、使えるとも思う。


だが、画面の向こうで何年も愛でてきた記憶など、マキトにはない。


苦労して育てたわけでもない。


彼女たちの物語を知っているわけでもない。


だから、危険な場所へ出せる。


自分が囮になってでも、勝てる手段として使える。


そのことに、ためらいはなかった。


「まあ、戦わねえ奴が多いなら、こっちは稼ぎやすいけどな」


マキトは、興味を失ったように歩き出した。


シエルは何も答えなかった。


足元の影も、しばらく黙ったままだった。


*


夜が深くなる頃には、街の混乱はさらに広がっていた。


コンビニの棚はほとんど空になり、飲料水や保存食を抱えた人間が、周囲を警戒しながら足早に出てくる。


ATMの前には長い列ができている。誰もがスマートフォンを握り、ニュースや通知を確認しながら、不安げに空と道の先を見ていた。


交差点では、警察が街中に現れた低級モンスターへ対応していた。


盾を構えた警察官たちが避難路を作り、その向こうで黒い獣が唸り声を上げている。


乾いた銃声が響く。


何発も撃ち込まれた獣は怯みこそするが、倒れない。


そこへ、どこかのプレイヤーが連れた弓兵の少女が飛び出した。


放たれた矢が獣の額へ突き刺さり、ようやくその身体が崩れ落ちる。


昨日までの日本なら、あり得ない光景だった。


シエルが、マキトへ静かに尋ねる。


「旦那さま。今夜は、どちらでお休みになりますか?」


マキトは、赤色灯が反射する濡れた道路を眺めた。


一晩で、世界はここまで変わった。


明日もホテルが通常営業している保証はない。


金が今と同じように使える保証もない。


考え込んだのは、ほんの数秒だった。


「……今日も、あのホテルに泊まる」


シエルが僅かに目を見開いた。


「よろしいのですか? かなり高額だったはずですが」


「こんな魔境になったんだぞ。金がいつまで普通に使えるか分かんねえだろ」


マキトは、サイレンの鳴り続ける街を振り返る。


「貯金だけ抱えて、壊れた家の前で寝る方が馬鹿だ。価値があるうちに、使えるもんは使っとく」


足元の影が揺れた。


そこから、メルシーが顔だけを出す。


「それでいいわ。昨日の部屋なら、まあ我慢してあげる」


「お前が選ぶ側みたいな顔すんなよ」


「はぁ? 私を泊めるなら、あれくらい当然でしょ」


メルシーは、ふてぶてしく鼻を鳴らす。


「変な部屋に押し込めたら、本気で暴れるから」


「壊すなよ。今日はもうニュースに出たくねえ」


シエルが、真剣な表情で頷いた。


「室内で武器を振るうことは、今後決していたしません」


「まず喧嘩するな。そうすりゃ、だいたい解決する」


「……はい」


シエルは素直に返事をした。


その足元で、メルシーが鼻で笑う。


「喧嘩売ってきたの、そっちの白いのでしょ」


「あなたが余計なことを言ったからです!」


「ほら、もう始まってんぞ」


マキトはため息をつきながら、二人を連れてホテルへ向かった。


*


二日続けて泊まることになった高級ホテルのスイートルームは、今日も馬鹿みたいに広かった。


窓の向こうには、夜景と呼ぶには不穏すぎる街の光が広がっている。


赤色灯。


止まった車列。


遠くで上がる煙。


その全てを、分厚いガラスが音の遠い風景に変えていた。


シエルは部屋へ入ると、自然な動作で大剣を壁際へ置き、窓と入口を確認する。


メルシーはマキトの影から飛び出すなり、ソファへ身体を投げ出した。


「あー、もう無理。疲れた」


柔らかなクッションを抱き寄せ、赤い瞳でマキトを睨む。


「クズ亭主。甘いもの頼んで。今すぐ」


マキトが呆れた顔をする。


「お前、今日ずっと俺の影にいただけだろ」


「影の中にいるのだって疲れるのよ!」


メルシーはソファの上で起き上がり、クッションを強く抱きしめた。


「外を常に警戒しないといけないし、あんたは勝手に歩き回るし、いつ何が飛んでくるか分かんないし……」


そこで、言葉が止まる。


マキトの目が、面白そうに細められた。


「ずいぶん真面目に働いていたんだな」


「はぁ!? 違うし!」


メルシーは即座にクッションを投げつけた。


マキトが片手で受け取る。


「私が出番もないまま負けるのがムカつくから見てただけ! 勝手に勘違いすんな、クズ亭主!」


シエルが、少しだけ柔らかな表情になる。


「それでも、傍にいてくださったのは心強いことです」


「うっさい! あんたに褒められる筋合いないのよ、ペ天使!」


「またその呼び方を……」


マキトはクッションをソファへ投げ返しながら、室内を見回した。


昨日は、こんな部屋に泊まること自体が現実離れしていた。


だが今では、シエルは当然のように室内の安全を確かめ、メルシーは自分の定位置とでも言うようにソファを占領している。


「……お前ら、もうここが普通みたいな顔してないか?」


メルシーが、当然のように脚を組んだ。


「だって今日もここにしたの、あんたでしょ」


「一泊の料金、普通に笑えねえんだからな」


「いちいち貧乏臭いこと言ってないで、さっさと食事頼みなさいよ」


メルシーは顎を上げる。


「私、今日は甘いの多めね。昼からずっと我慢してたんだから」


「お前、昨日より偉そうになってねえか?」


シエルが、控えめに口を挟んだ。


「旦那さま。お食事を頼まれるのであれば、私も少しだけいただいてもよろしいでしょうか」


「お前まで普通に順応してんじゃねえよ」


「……申し訳ありません」


「謝るところじゃねえし、そうやって謝られると俺が悪いみたいになるだろ」


メルシーが鼻で笑った。


「実際、クズ亭主が悪いんじゃないの?」


「お前、甘いものなしな」


「はぁ!? それは横暴でしょ!」


騒がしい声が、広い部屋に響いた。


それだけを見れば、世界が壊れ始めているとは思えない。


けれど窓の外では、今もサイレンが鳴り続けている。


ホテルの下の道路を、警察車両と避難する人々が絶え間なく行き交っている。


昨日までの日常は、もう戻ってこないのかもしれなかった。


*


ルームサービスが運ばれてくると、メルシーは注文したデザートから真っ先に手を付けた。


シエルはマキトの前へ食事を整え、自分はその隣に静かに腰掛ける。


マキトはベッドの端へ座ったまま、スマートフォンを開いた。


ランキング画面が更新されている。


《現在順位:35位》

《ランキング終了まで:残り6日》


「……35位か」


思わず、口元が緩む。


シエルが手を止めた。


「それは、高い順位なのですか?」


「まだ一日目が終わるところで三十五位だぞ」


マキトは画面を眺めながら笑った。


「残り六日あるなら、百位以内はかなり余裕じゃねえか?」


メルシーが、フォークを咥えたまま身を乗り出した。


「じゃあ、明日は私を出しなさいよ」


「何でそうなる」


「今日ずっと私を影に押し込めて、そっちの白乳ばっかり暴れさせたでしょ!」


メルシーはフォークを皿へ戻し、苛立たしげにマキトを睨む。


「次は私が出る番よ。逃げる奴がいるなら足を潰して、逆らう奴がいるならぶっ潰す。あんたは後ろでポイント数えてればいいの」


「お前まで見せたら、余計に誰も対戦受けねえだろ」


「だったら受けるしかない状況を作りなさいよ!」


メルシーはテーブルへ身を乗り出した。


「頭使って人から奪うの、得意なんでしょ。クズ亭主」


マキトはその悪態を聞き流し、順位画面を指で送った。


昼間に一度勝った。


夜には、逃げているプレイヤーから拒否ペナルティーで細かく稼いだ。


シエルが雑魚モンスターを狩まくった。


何人いるのかわからないがそれだけで35位。


対人戦を避けているプレイヤーが、想像していた以上に多いのだろう。


シエルは、小さく息を吐いた。


「戦いを避ける方が多いのであれば……私は、よかったと思います」


「俺にとっては、まとめて稼げる相手が少ないってことだけどな」


マキトはもう一度、順位の数字を確認する。


35位。


上位百人までには、まだ十分な余裕がある。


「まあ、今日くらいのペースで拒否分を拾って、勝てそうな奴だけ狙えば残れるだろ」


シエルの表情が僅かに強張る。


「旦那さま。順位が高いからといって、どうか油断はなさらないでください」


「油断するつもりはねえよ」


マキトは、画面を眺めたまま答えた。


「勝てる相手だけ潰す。危ない相手、特に胸が大きい女には近づかない。それでいい」


昼間、ヴォイドの短剣が自分の胸へ届きかけたことは、もう彼の中で結果に塗り替えられつつあった。


危なかった。


だが、勝った。


ポイントも得た。


順位も上がった。


なら、次も勝てばいい。


その時だった。


マキトのスマートフォンが、大きく振動した。


食器が微かに鳴るほどの、異様に強い震えだった。


画面が強制的に暗転する。


同時に、室内の照明が一度だけ不自然に揺らいだ。


メルシーが椅子から立ち上がる。


「何よ、今の」


シエルもすぐに大剣へ手を伸ばした。


暗くなった画面の中央へ、赤黒い文字が浮かび上がる。


《緊急イベント発生》

《個別レイドボスが出現しました》

《参加資格:ランキング上位100名》

《討伐成功報酬:大量ポイント》

《参加しますか?》

《参加/不参加》


マキトは、画面を食い入るように見つめた。


「個別レイド……」


指先が、画面の上で止まる。


「参加資格は、上位百人だけか」


シエルが、即座に警戒を露わにした。


「旦那さま。内容が分からなさすぎます」


一歩、マキトへ近づく。


「参加する前に、慎重に考えるべきです。罠である可能性もあります」


メルシーは、逆に目を輝かせた。


「いいじゃない!」


テーブルへ両手をつき、楽しそうに笑う。


「やっと逃げない敵が出てくるんでしょ!? 今日ずっと雑魚と腰抜けばっかで、こっちはイライラしてんの!」


赤い瞳が、期待に濡れている。


「さっさと押しなさいよ、クズ亭主! 今度こそ私がぶっ潰してやるわ!」


マキトの視線は、《大量ポイント》という表示へ向いていた。


ここで報酬を取れば、順位はさらに安定する。


残り六日、同じような上位限定イベントが続くのなら、初日から参加権を持っている者が有利に決まっている。


「これで稼げれば、百位以内どころかもっと上も狙えるな」


シエルの声が強くなる。


「旦那さま……!」


「受ける」


マキトは、参加を押した。


画面の文字が即座に切り替わる。


《参加を受理しました》

《随伴可能キャラクター数:1》

《イベント終了まで離脱不可》

《随伴キャラクターを選択してください》


メルシーの顔が引きつった。


「はぁ!? 一人だけ!?」


次の瞬間には、彼女はマキトの前へ回り込んでいた。


「じゃあ私でしょ! 今度こそ私を選びなさいよ!」


シエルは口を挟まなかった。


ただ静かに、マキトの判断を待っている。


画面には、二人の名前が表示されていた。


シエル。


メルシー。


マキトが迷ったのは、ほんの数秒だった。


指が、シエルの名前を選ぶ。


《随伴キャラクター:シエル》


メルシーの顔が硬直する。


「はあああ!? 何でそっちの女なのよ!」


怒鳴り声が、部屋中に響き渡った。


「昼間、あんたを殺そうとした奴を潰したのも私なんだけど!? 忘れたわけ!?」


マキトは、淡々と答えた。


「相手が最初から正面にいるなら、隠し球はいらねえ」


「はぁ!?」


「お前は敵を弱らせるのは得意なんだろうけど、ボスに張り付いている間俺をフォローできるか不安だ」


マキトは、画面を指で示す。


「一人だけ連れていくなら、俺の近くで前を潰し続けられる方を選ぶ。今回はシエルだ」


メルシーは、口を開いたまま動かなくなった。


反論したい。


自分の方が強いと言い張りたい。


自分を連れていけと怒鳴り続けたい。


だが、マキトの言っていることは分かる。


メルシーの力は、敵へ踏み込んで弱体化を重ねることで真価を発揮する。


その間、マキトのもとへ戻ることはできない。


昼間のような奇襲に対応するならともかく、何が起きるか分からない場所へ一人だけ連れていくなら、マキトがそう判断する理由はあった。


理解できる。


理解できるからこそ、腹が立つ。


「っ……うっざ!」


メルシーが拳を強く握りしめた。


「分かったような顔で、勝手に決めてんじゃないわよ!」


怒鳴る声の奥に、僅かな震えが混じる。


「死んだら許さないからね、クズ亭主!」


マキトが、軽く振り返った。


「死んだら怒られても聞こえねえだろ」


「そういう話してんじゃないのよ!」


シエルが、大剣を握りしめる。


「旦那さま。必ず、私がお守りします」


スマートフォンの画面から、強い光が溢れ出した。


部屋の景色が、白く滲んでいく。


メルシーが、一歩踏み出す。


「ちょっと待ちなさいよ!」


光が、マキトとシエルの身体を包み込む。


「本当に私を置いて行く気!? クズ亭主!」


二人の輪郭が、薄れていく。


「これ、距離制限は大丈夫なのよね!? ちょっと、答えなさいよ!」


伸ばした手は、何にも届かなかった。


次の瞬間、マキトとシエルの姿は、光の中へ消えていた。


あとに残ったのは、広すぎるホテルの部屋と、立ち尽くすメルシーだけだった。


窓の外では、赤い光が街を流れている。


サイレンの音は、分厚いガラスに遮られ、遠く霞んで聞こえた。


メルシーは、二人が消えた場所を睨みつける。


怒鳴りたい。


何かを壊したい。


今すぐ追いかけて、勝手なことをするなと蹴り飛ばしてやりたい。


けれど、どうすることもできない。


マキトの影に潜り込んでいた間は、どれだけ悪態を吐いても、近くには彼がいた。


声を出せば返事が来た。


いつでも自分が割り込める距離にいた。


今は、どこにもいない。


「……ふざけんな」


こぼれた声は、さっきまでの怒鳴り声よりもずっと小さかった。


握った拳が、僅かに震える。


「本当に死んだら……」


メルシーは唇を噛み、誰もいない空間へ吐き捨てた。


「絶対、許さないから……クズ亭主」

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