05.いいぜやってやる
同じ頃。
街では、誰もがスマホの画面と、隣を歩く異形の存在に怯えていた。
ゲームのキャラクターだった者たちが、現実に立っている。
華やかな衣装の少女。鎧を着た騎士。獣耳を持つ弓兵。黒いローブの魔術師。
少し前までなら、画面を指で撫でて満足していた相手だ。
それが今は、呼吸をし、こちらを見て、同じ道を歩いている。
そして、傷つくかもしれない。
死ぬかもしれない。
そんな空気の中で、一人だけ、楽しそうに歩いている男がいた。
「ほな、次いこか」
軽薄な声で呟きながら、雑に金髪へ染めた髪の男――キョウヤはスマホを操作した。
少し先には、ピンク髪の魔法少女らしきキャラクターを連れた若い男がいる。持ち主の方は怯えきった顔で周囲を見回していた。
キョウヤは物陰へ隠れた後、迷いなく対戦申請を送る。
数秒後。
《対戦申請が拒否されました》
《拒否ペナルティーにより、ポイントの一部が申請者へ移譲されます》
「ははっ。やっぱ断るよなぁ」
キョウヤは、肩を揺らして笑った。
相手の男は、スマホの通知を見て青ざめながら足早に立ち去っていく。隣の魔法少女は、怯える主人を気遣うように手を伸ばしていた。
「せっかく嫁が現実に出てきてくれたんや。そら、殺し合いなんかさせたくないわなぁ」
言葉だけ聞けば、理解を示しているようにも思える。
だが、その顔には他人への同情など欠片もなかった。
「情ぃ移しすぎた奴から、勝手にポイント落としてくれる。ほんま、ええ仕組みやで」
キョウヤの半歩後ろを、音もなく歩く少女がいる。
紫色のショートヘア。
黒紫の軽装。
手には細身の短剣。
顔立ちは整っているが、目元にはほとんど感情が浮かばない。
胸元だけが、静かな雰囲気とは不釣り合いなほど豊かだった。
邪神陣営UR、ヴォイド。
彼女は、逃げていく男の背中をしばらく眺めたあと、小さく呟いた。
「……悪趣味」
「なんやヴォイド。俺のやり方、気に食わんのか?」
「……別に」
「せやろ? 向こうは嫁を傷つけずに済む。俺はポイントを貰える。お前も戦わんでええ。誰も困っとらんやんけ」
「……確かに」
「せやろせやろ? ほな、次いこか」
キョウヤは笑いながら、次の獲物を探した。
彼自身、ヴォイドを戦わせたいわけではない。
昨日、彼女が現実に現れた時は、柄にもなく声が震えた。
画面の中で何年も育ててきた存在が、実際に自分を見て、名前を呼んだ。
その瞬間から、彼女をデータのように捨てることなどできなくなっている。
だから、勝てそうな相手だけを選んだ。
怖がって拒否する相手に申請を投げ、拒否ペナルティーだけを積み上げる。
卑怯だろうが、賢いやり方だ。
少なくとも、キョウヤはそう思っている。
「戦いたない奴が多いうちに稼げるだけ稼ぐ。怖がって立ち止まった奴から脱落や。結局、こういう状況で上に行くんは、愛だの何だの言わんと割り切れる奴なんよ」
ヴォイドは答えなかった。
その時、キョウヤの目が、通りの向こうで止まった。
一人の男が歩いている。
年齢は自分より少し若い程度だろう。気だるそうな顔でスマホを片手に持ち、周囲の緊張など意に介していないように見える。
その隣を歩いていたのは、白い女だった。
純白の髪。青い瞳。黄金の装飾が施された白い鎧。背丈ほどもある巨大な大剣。
街の喧騒の中にいても、その女だけ空気が違った。
キョウヤは、思わず目を細める。
「……なんや、あれ」
ヴォイドも足を止める。
「女神陣営か……?」
キョウヤは、記憶を探るように眉を寄せた。
「……あんなキャラ、いたか?」
彼は邪神陣営を中心に遊んでいた。女神陣営の全キャラクターを知っているわけではない。
だが、それでも分かる。
白い女は、そこらの低級キャラではない。
装備も、立ち姿も、放っている圧も、明らかに上位だ。
「……強い」
ヴォイドが、淡々と告げる。
「お前がそう言うなら、相当やな」
「……正面では、難しい」
「正面からやる必要なんかあらへんやろ」
キョウヤは、マキトを観察した。
歩き方は無防備。
周囲を警戒している様子もない。
隣の女が強いから安心している一般プレイヤーにしか見えない。
しかも、今いるのは細い路地や雑居ビルの多い区画だ。視界が切れやすく、ヴォイドにとっては悪くない。
「見た感じ、兄ちゃんの方は何も分かっとらんやろなぁ。たまたま強い嫁に選ばれて、守ってもらえる思うとるタイプや」
ヴォイドは、静かにキョウヤを見た。
「……やるの?」
「まあ、できれば断ってほしいけどな。拒否ポイントだけ貰って終わりが一番ええ」
キョウヤは口元を歪める。
「せやけど、受けてきたら受けてきたで、勝てる目はある。あの白いのがどれだけ強くても、主人を落としたら終わりや」
ヴォイドは少し黙ったあと、短く頷いた。
「……分かった」
キョウヤは建物の陰へ入り、スマホから対戦申請を送った。
できれば、拒否してほしい。
白い女は強い。
ヴォイドを危険に晒すことなど、本当はしたくない。
だが同時に、あれほどの高位キャラクターを持つ運がいいだけのプレイヤーからポイントを奪ってやりたいという欲も捨てられなかった。
「さて。どう出るんやろな、兄ちゃん」
◇
スマホが震えた。
マキトは画面を見下ろす。
《プレイヤーバトル申請を受信しました》
《対戦を承認しますか?》
《承認/拒否》
「お?」
思わず、口元が緩む。
「喧嘩売られた」
隣にいたシエルの表情が緊張する。
「旦那さま。相手の姿が見えません。ここは慎重に――」
「これ、了承押せば始まるんだよな?」
「それは……恐らく、そうですが」
「なら、いいぜ」
マキトは迷わず承認を押した。
「やってやる」
直後。
背筋に冷たい感覚が走るより先に、シエルの大剣が動いた。
金属のぶつかり合う鋭い音。
マキトの首へ飛来していた黒色の小刃が、大剣に弾かれて地面へ突き刺さる。
「旦那さま、お下がりください!」
シエルの声が、今までになく鋭かった。
彼女の視線が、刃の飛んできた方向へ向く。
「敵の位置を把握しました」
次の瞬間、白い鎧が跳ねた。
シエルは、建物の陰へ向かって地面を蹴る。大剣を片手に、狙撃者へ一気に距離を詰めていく。
マキトを、その場に残して。
◇
「はっ」
シエルが自分たちの側へ向かってくるのを見て、キョウヤは笑った。
「ほんまに来よったわ」
白い女は速い。
圧倒的な速度で距離を潰し、隠れていたヴォイドの姿を捉える。
「主人ほったらかして、撃ってきた敵に一直線かいな。強いだけで、守り方は分かっとらんらしいなぁ」
ヴォイドは既に短剣を構えている。
シエルは何も言わず、大剣を叩き込んだ。
重い衝突音が響く。
ヴォイドの身体が、受けた勢いのまま後方へ滑った。細い靴底がアスファルトを擦り、火花が散る。
二撃目。
短剣で軌道を逸らしたはずなのに、衝撃だけで腕が跳ねる。
三撃目。
ヴォイドは身を翻して回避した。直後、空振りした大剣が地面を砕き、破片が壁へ突き刺さる。
「……重い」
ヴォイドの声には、焦りも怒りもない。
ただ、事実を確認するような静けさだけがあった。
キョウヤは、その光景を見ても狼狽えなかった。
「そら正面ならそうなるわ」
むしろ、予想以下だ。
「こっちは最初期の暗殺型や。真正面から馬鹿力と殴り合うための嫁ちゃうねん」
ヴォイドは、『ラグナロク・オーダー』の初期に実装された邪神陣営URだった。
後から追加された派手なキャラクターと比べれば、火力も耐久力も見劣りする。広範囲を薙ぎ払う必殺技も、正面から敵を押し潰す能力もない。
だから、評価は落ちていった。
環境遅れ。
型落ち。
使い道の狭い暗殺役。
攻略掲示板でそう書かれるたび、キョウヤは鼻で笑った。
使い込んでもいない連中が、数値だけで分かったような顔をしている。
ヴォイドは、正面に立たせるキャラではない。
所有者から離れた護衛を抜け、敵プレイヤー本人を沈める。
それが、彼女の役割だ。
そして、その本領は、誰でも使えるものではなかった。
レベルを上限まで上げた。
装備を厳選した。
専用素材のために、同じステージを何百周もした。
絆値を最大まで積み上げ、最後のイベントを見届けた。
その時、初めて解放された裏スキル。
敵の護衛が所有者から一定距離以上離れた瞬間、護衛の防御判定を透過し、持ち主本人へ直接接近する暗殺能力。
シエルがマキトから離れた時点で、条件は満たされている。
「悪いなぁ、兄ちゃん」
キョウヤの笑みが深くなる。
「嫁が強いだけで勝てると思ったんが、間違いや」
シエルの大剣が、ヴォイドの身体を捉えた。
だが、切り裂くことはなかった。
ヴォイドの輪郭が、紫色の霧のように揺れる。
大剣は、存在しない影を斬ったかのように彼女をすり抜けた。
初めて、シエルの表情が崩れる。
「……っ!」
ヴォイドは、シエルのすぐ横を通り過ぎながら、静かに嘲笑った。
「……置いてきたね」
その目が、遠くに立つマキトへ向く。
「守る人を」
次の瞬間、ヴォイドの姿が紫色の影となって掻き消えた。
キョウヤは、胸の奥に熱がこみ上げるのを感じた。
これだ。
火力だけを見てヴォイドを馬鹿にした連中には、決して分からない勝ち方。
「俺しか、この嫁の本当の使い方は知らん」
画面の中にいた頃、ヴォイドは絆最大の最後に、一度だけ微笑んだ。
――あなたのためなら、もう迷わない。
あの台詞を聞いたのは、自分だけだ。
自分だけが、彼女をここまで育てた。
自分だけが、彼女の強さを引き出せる。
「終わりや、初心者」
◇
紫色の影が、マキトの目前で形を取った。
さっきまで離れた場所でシエルと戦っていた女が、何の前触れもなく目の前にいる。
紫色のショートヘア。
感情の薄い瞳。
細い手に握られた、黒紫の短剣。
ヴォイドは、怯えも迷いも見せなかった。
「……終わり」
刃が、マキトの胸へ向かって振り抜かれる。
だが、それより速く。
横から、巨大な刃が割り込んだ。
肉を断つ鈍い音が、一度だけ響く。
ヴォイドの右腕が、短剣ごと宙を舞った。
続いて、両脚が膝上から切断される。
支えを失った身体が、マキトの足元へ崩れ落ちた。
アスファルトの上に短剣が転がり、紫髪が広がる。
「……え」
ヴォイドの口から、小さな声が漏れた。
マキトの前へ、黒いドレスの少女が歩み出る。
赤い瞳。
黒いツインテール。
手には、ヴォイドを一撃で斬り倒した巨大なハルバート。
メルシーは、地面に倒れた相手を見下ろし、愉快そうに笑った。
「あはっ。なにそれ」
その声には、同情など一片もない。
「ずいぶん大事に育ててもらったみたいだけど、所詮は後ろから刺すしかできない雑魚じゃない」
離れた場所で、キョウヤの顔から血の気が引いた。
「……は?」
目の前の光景が理解できない。
「もう一人……おったんか?」
白い女だけではなかった。
マキトには、黒い女も付いていた。
しかも、ヴォイドを一撃で行動不能にするほどの化物が。
「待てや……なんでやねん」
キョウヤの声が裏返る。
「普通、来るんは一人やろ……? 一人のプレイヤーに、二人も来るなんて……そんなん、あるんかよ……!」
メルシーは、動けなくなったヴォイドのすぐ前まで歩み寄る。
「私のクズ亭主に手ぇ出したんだから、これくらいで済むと思わないでよ」
ヴォイドは、切断された傷口から血を流しながらも、悲鳴を上げなかった。
ただ、メルシーを見上げる。
「……そう」
息が細い。
それでも声は静かだった。
「あなたが……いたの」
メルシーの笑みが、薄く歪む。
「負けたくせに、まだそんな澄ました顔してるんだ」
「その目、いつまで保てるか試してあげよっか」
ハルバートの石突きが、ヴォイドの目前で軽く地面を叩く。
ヴォイドの瞳が、僅かに揺れた。
その様子を見ても、メルシーは楽しそうに目を細めるだけだった。
「ねえ、あんた。大事に育ててもらったんでしょ?」
「だったら、もうちょっとマシなところ見せなさいよ。これじゃ、あんたに時間かけた男が惨めすぎて笑えるじゃない」
「……性格、悪いね」
「褒め言葉として受け取っとくわ」
そのやり取りを、マキトは冷めた目で見下ろしていた。
ヴォイドの短剣は、自分を狙っていた。
あと一歩遅ければ、本当に刺されていたかもしれない。
なら、情けを掛ける理由などない。
「メルシー」
「なによ、クズ亭主」
「いいからトドメ刺せ」
遠くで、シエルが息を呑む音がした。
メルシーは一瞬目を丸くしたあと、実に満足そうに微笑んだ。
「いいわ。あんたならそう言うと思ってた」
ハルバートが、ゆっくりと持ち上がる。
◇
キョウヤの指は、スマホの上で震えていた。
画面には、赤い警告と共に、一つの選択肢が表示されている。
《降伏》
押せば、ヴォイドは助かる。
代わりに、今まで稼いだポイントのほぼ全てが相手へ渡る。
ゲームだった頃なら、絶対に押さなかった。
戦闘中の降伏は、最悪の選択だった。
キャラクターが倒されても、失うポイントは一部で済む。復活させ、次の戦闘へ出せばいい。
だから、負けると分かっていても最後まで戦わせる。
それが、ゲームでは合理的だった。
けれど。
今、地面に倒れているヴォイドは、画面の中のデータではなかった。
切断された腕。
失われた脚。
苦痛に耐えながら、それでも騒がずにいる姿。
昨夜、初めて現実に現れた彼女は、キョウヤを見て、静かに名前を呼んだ。
その声を聞いた時、何年も画面の中で育ててきた時間が、本物になった気がした。
メルシーのハルバートが振り下ろされようとしている。
「……ヴォイド」
キョウヤの喉が詰まる。
地面に倒れたヴォイドが、ゆっくりと彼を見る。
「……降りる必要ない」
「何言うてんねん……」
「……私は、戻れる」
呼吸のたびに、声が僅かに掠れる。
「あなたが……失う必要はない」
それでも、表情は変わらない。
キョウヤを責める気配も、助けを求める様子もなかった。
それが、余計に耐えられなかった。
「アホ言えや……」
キョウヤは、歯を食いしばった。
「お前がそんな状態で転がっとるのに、ポイントがどうとか言えるかいな……!」
指が、降伏の表示を叩いた。
マキトのスマホが、通知音を鳴らす。
《プレイヤー《キョウヤ》が降伏しました》
《バトルを終了します》
《保有ポイントの移譲を実行します》
《ランキング順位が更新されました》
キョウヤは、声を張り上げた。
「もう終わりや! 勝負は終わった! ヴォイドから離れろ!」
マキトは、画面に表示された獲得ポイントを一度見た。
そして、顔を上げる。
「知らねえよ」
「……は?」
「俺の命を狙ったんだから、死ね」
キョウヤの顔が強張る。
マキトは、メルシーへ顎を動かした。
「やれ」
「もちろん」
メルシーの赤い瞳が、嬉しそうに細まる。
「命乞いしたくらいで助かると思ってんの? 甘すぎでしょ」
振り下ろされたハルバートが、ヴォイドの首へ迫る。
その刃は、届かなかった。
透明な何かに激突し、鋭い金属音と共に弾かれる。
「……なによ、これ」
メルシーが眉を寄せる。
もう一度、角度を変えて刃を振るう。
だが結果は同じだった。
ヴォイドの身体を覆うように、見えない壁が攻撃を拒んでいる。
キョウヤは、その場に膝をつきながら、荒い息を吐いた。
「無駄や……」
口元には、悔しさと安堵が入り混じっていた。
「降伏が成立した後は、勝者側から敗者の攻撃は通らへん。決闘終了後の追撃はできん仕組みや」
メルシーは、露骨に不機嫌な顔をする。
「ほんっと、つまんない仕組みね」
「ほんまの初心者やったんか……。そんな奴に、俺、負けたんか……」
キョウヤの呟きに、マキトは見えない防壁を指先で軽く叩いた。
何も触れない。
そして確かに、メルシーの刃は確実に弾かれている。
「へえ」
マキトは、感心したように言った。
「降伏すれば、その時点で安全圏に入るのか」
「……お前、ほんま腹立つな」
人生を賭けたような敗北を喫した男の前で、マキトは新しい仕様を一つ覚えた程度にしか受け止めていなかった。
◇
キョウヤは、足元をふらつかせながらヴォイドのもとへ駆け寄った。
「ヴォイド。今、戻したる」
彼女は、失った手足を見ようともせず、静かにキョウヤを見上げた。
「……ごめん」
「謝んなや」
「……しくじった」
「ちゃうやろ」
キョウヤは、苛立った声を出した。
その怒りは、ヴォイドではなく自分に向いている。
「二人目がおるかもなんて考えもせんで、突っ込ませた俺が悪い。お前は言うた通りに動いただけや」
ヴォイドは、ほんの少しだけ目を細めた。
「……そういう顔も、するんだね」
「うるさいわ」
キョウヤはスマホを操作する。
《キャラクター:ヴォイド》
《重傷状態を確認》
《一時退避を実行しますか?》
《再出撃可能まで:二十四時間》
迷わず、実行を押す。
紫色の淡い光が、ヴォイドの身体を包んだ。
血に濡れた髪も、失われた手足も、少しずつ光の粒子へ変わっていく。
ヴォイドは消える直前、キョウヤへ静かに言った。
「……次は」
「ああ」
「……ちゃんと、見て」
キョウヤは、苦く笑った。
「……せやな。次は、そうするわ」
ヴォイドの姿が消え、スマホの画面へ収まった。
マキトが、少し意外そうに目を向ける。
「……スマホに戻せんのか、それ」
「重傷負ったキャラは、一時的に端末へ戻して保護できんねん」
キョウヤは立ち上がる気力もないまま、吐き捨てるように答えた。
「復帰まで使えへんけどな。俺も昨日、別の奴とやった時に知ったわ」
「便利だな」
「ほんまに何も知らんのやな、お前……」
「知らなくても勝ったなら、別にいいだろ」
あまりにも平然とした返答に、キョウヤのこめかみが引きつった。
「……覚えとけよ、兄ちゃん。俺、こういう負け方した相手の顔、絶対忘れへんからな」
「好きにしろ」
マキトはもう興味を失ったように、スマホのランキングを眺めている。
キョウヤは舌打ちをしてから、視線をシエルへ向けた。
白い女は、急いでマキトの傍へ戻ろうとしている。
圧倒的な力を持ちながら、主人を危険に晒したことを心底恐れている顔だった。
「そっちの白い姉ちゃんは知らん。俺、女神陣営はそこまで詳しないからな」
そして、キョウヤの視線が、メルシーで止まる。
「けど……黒い方」
メルシーは、血のついていないハルバートを肩へ担ぎ、薄く笑った。
「あら。負け犬の癖に、私のこと気になるの?」
「邪神陣営に、あんなキャラおったか?」
メルシーの笑顔は崩れない。
ただ、その場の空気が僅かに冷える。
「俺は邪神陣営をずっと使っとった。ヴォイドだけやない。上位キャラなら、大体は知っとる」
キョウヤは、先ほどの一撃を思い返しながら続ける。
「お前みたいに目立つ見た目しとる奴、俺が知らんはずないんやけどなぁ」
メルシーが口を開くより先に、マキトが答えた。
「知らねえよ」
キョウヤが振り返る。
「キャラなんて腐るほどいたんだろ。お前が全部把握してると思ってんのか?」
「……まあ、そらそうやけどな」
キョウヤは、苛立たしげに髪を掻いた。
「一万以上おったし、全部覚えとる奴なんかおらんわな」
それでも、納得しきった顔ではない。
スマホの中に戻ったヴォイドの表示を確認し、キョウヤはようやく立ち上がった。
「せやけど、そいつ最上位レアやろ? それで見たことないっちゅうのは、やっぱ変や」
去り際、彼はマキトを睨む。
「兄ちゃん。お前、自分が何連れとるんか、分かっとるんか?」
「さあな」
「……ほんま、気に食わん奴やわ」
キョウヤは、負傷したヴォイドを収めたスマホを握りしめ、路地の奥へ消えていった。
◇
姿が見えなくなるなり、シエルはマキトの元へ駆け寄った。
「旦那さま!」
息を乱しながら、彼の身体を見回す。
「お怪我はありませんか? どこか痛む場所は……!」
「ねえよ。見りゃ分かるだろ」
「ですが、あの刃は確かに旦那さまへ――」
「届かなかった。それで終わりだ」
マキトは取り合わず、ランキングの変動を確認している。
シエルの顔は、安心よりも恐怖の方が強かった。
「もし、メルシーが間に合わなければ……」
その言葉を聞いたメルシーが、愉快そうに笑った。
「危ないところだったわねえ、シエル」
シエルが振り返る。
「旦那さまを守るとか言ってたくせに、目の前の敵に釣られて、まんまと道空けてんじゃない」
メルシーは、ハルバートの柄で軽く肩を叩く。
「そのデカい剣、ただの飾り?」
「……私は」
シエルは言い返せなかった。
ヴォイドを正面から圧倒できた。
だが、彼女をマキトのもとへ行かせてしまったのも事実だった。
その沈黙を見て、マキトが面倒そうに口を挟む。
「別にいいだろ」
「旦那さま……?」
「あいつが俺を狙うところまで、予想通りだ」
シエルが黙る。
驚いたのは、彼女ではなかった。
メルシーは最初からその言葉を待っていたように、小さく肩をすくめる。
「ほんっと、趣味の悪い男ね」
マキトは画面から目を離さない。
「二人とも見せて歩いてたら、警戒されるだろ」
つい先ほど、シエルが一人で殲滅したモンスターの共有経験値によって、メルシーはレベルアップしていた。
そこで解放された新スキルが、《影入り》。
他者の影へ潜み、自分の姿と気配を隠すための能力だった。
シエルの戦果で得た力だと知ったメルシーは、当然のように彼女を散々煽った。
役に立たない天使サマの稼いだ経験値で、自分の方がまた使える女になってしまった、と。
そしてマキトは、その新しい力を聞いた直後、すぐに使い道を決めた。
街へ出る際、マキトはシエルだけを自分の隣に置いた。
メルシーには、自分の影へ潜ませた。
実体化したキャラクターを連れた人間がいる。
ランキングがある。
ポイントの増減に戦闘が絡む。
それだけ分かれば、他人の戦力を見て襲いかかる人間が出てくることくらいは予想できた。
二人とも見せて歩けば、相手は警戒する。
だが、シエル一人だけを連れて歩けば、話は変わる。
強力な護衛を一人だけ連れた、油断したプレイヤー。
そう見せれば、食いついてくる奴がいる。
そして、街を歩いている間に不審な行動をしている男、キョウヤをみつけ尾行した。
キョウヤは何度もキャラクター連れの人間へスマホを向けていた。
マキトは、それを見逃していなかった。
「さっきから、あいつはキャラ連れの奴ばっか見てた。申請か何か飛ばしてるのは見りゃ分かる」
シエルの表情が固まる。
「では……あの男性が申し込んでくると分かった上で……」
「勝てると思わせた方が食いつくだろ。一人しかいないように見せれば、なおさらな」
メルシーが、口元を吊り上げる。
「私を隠して、シエルだけ餌にするとか、随分な扱いしてくれるじゃない」
赤い瞳が、楽しそうに細くなる。
「まあ、相手が綺麗に引っかかって、大事な嫁を守るために全部吐き出した顔は笑えたけど」
シエルは、青ざめたままマキトを見る。
「旦那さま……ご自身が狙われることまで、分かっていたのですか?」
「護衛を倒せないなら、持ち主を狙うだろ」
「それは……あまりに危険です」
「危険だから、相手も本気になったんだよ」
マキトはようやく顔を上げる。
「殺す気で来た相手が、逆に嫁を殺されそうになって降伏した。俺は生きてる。ポイントも入った。何か問題あるか?」
シエルは、言葉を失った。
合理的に見れば、勝利だ。
だが、マキトは自分の命すら、相手を踏み込ませるための餌として扱っている。
それが、怖かった。
「旦那さま……お願いです」
シエルは、胸元で手を握りしめた。
「今後は、ご自身を囮にするような真似はなさらないでください。私は、旦那さまを守るためにここにいるのです」
「俺が安全なところに引っ込んでたら、相手も勝負してこねえだろ」
「ですが……!」
「大丈夫でしょ、シエル」
メルシーが、柔らかな声で割り込む。
その内容には、一切の優しさがなかった。
「あんたが使えなくても、私が守れば済む話なんだから」
シエルの目が、静かにメルシーへ向く。
「……あなたは」
「なによ?」
「旦那さまが、本当に傷ついていたとしても、同じように笑えたのですか?」
その瞬間だけ、メルシーの表情が止まった。
ほんの一瞬。
すぐに、いつもの余裕のある笑みへ戻る。
「くだらないこと聞くんじゃないわよ」
メルシーはシエルの横を通り過ぎ、マキトの隣に立つ。
「私がそばにいたのよ。クズ亭主がやられるわけないでしょ」
「それとも、守れなかった自分の失敗を、私の気持ちの話にすり替える気?」
シエルは黙り込んだ。
メルシーは笑っている。
だが、先ほどの一瞬の沈黙を、マキトは見逃さなかった。
もっとも、今それを指摘する必要もない。
マキトはスマホを操作し、戦闘履歴を開いた。
申請。承認。戦闘開始。降伏。ポイント移譲。
さらに、キョウヤから聞き出した重傷時の退避機能。
画面の記録と、実際に起きたことを繋ぎ合わせる。
「大体分かったな」
シエルとメルシーが、彼を見る。
「決闘が始まるまでは、キャラ同士で直接潰し合えないがフレンドリーファイアーは有効なのか?昨日お前らが殺し合っていたのは味方判定だったからか?」
シエルは、気まずそうに視線を下げた。
「プレイヤーバトルが始まった後は、キャラもプレイヤーも攻撃対象。降伏が成立したら追撃は通らない。負傷したキャラは端末に避難できるが、すぐには戻せない」
マキトの指が、ランキング表示を開く。
さっきまで下の方に沈んでいた自分の順位が、一度の決闘だけで大きく上がっていた。
キョウヤが拒否ポイントで相当稼いでいたのだろう。
その成果が、まとめてこちらへ転がり込んだ。
「効率いいな」
シエルが、恐る恐る声を出す。
「旦那さま……まさか、また戦われるおつもりなのですか?」
「やらない理由がねえだろ」
マキトはスマホをポケットへ入れた。
「こっちは家も金もなくなったんだ。勝てる相手が持ってるなら、奪う」
その返答を聞いて、メルシーが満足そうに微笑んだ。
「いいじゃない。それでこそ私のクズ亭主よ」
ハルバートを肩に担ぎ、彼女は先ほどキョウヤが消えていった道を眺める。
「次はもうちょっと骨のある奴がいいわね。あの男も、最後に必死こいてた顔だけは、まあまあ面白かったけど」
シエルだけは笑えなかった。
「……旦那さま。どうか、命だけは軽く扱わないでください」
マキトは返事をしなかった。
代わりに、ポケットの中でスマホが振動する。
《ランキング更新》
《新規対戦可能プレイヤーを確認しました》
表示された通知を見て、マキトは小さく笑った。
家を失った翌日。
世界は壊れ始めていて、政府はキャラクターを暴れさせないよう呼びかけている。
そんな中で、マキトは最初のポイントを奪った。
守ってもらうだけで生き残る気など、初めからなかった。




