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04.最初の被害者

枕が、腹立つくらい柔らかかった。


マキトは、天井を見上げたまま目を覚ました。


白い天井。広いベッド。足元には、昨日まで自分の生活とは縁のなかった厚手の絨毯。窓の向こうでは、朝の街がやけに綺麗に見えている。


実家が壊れた翌朝に見る景色としては、あまりにも場違いだった。


「……最悪だ」


寝返りを打ちながら呟く。


身体は痛くない。昨日、自宅が切り崩されるほどの騒ぎに巻き込まれた割には、擦り傷一つなかった。


問題は、それ以外が全部痛いことだ。


家。金。親への説明。これからの生活。


特に、旅行中の父親が帰ってきた時のことを考えると、胃の奥が重くなる。


マキトはベッドから起き上がり、テーブルの上に置かれたホテルの案内冊子へ視線を向けた。


スイートルーム、一泊の料金。


見なかったことにしたくなる数字だった。


「旦那さま。お目覚めですか?」


声を掛けてきたのは、窓辺に立っていたシエルだった。


純白の髪は朝の光を受けて淡く輝き、巨大な大剣は壁際に立てかけられている。昨日、あれで家の壁を切り落とした張本人だというのに、今は普通の顔で朝食のワゴンを整えていた。


「お身体に、痛むところはありませんか?」


「身体はな」


マキトは、もう一度料金冊子を見た。


「家と財布は致命傷だけど」


「……申し訳ありません」


昨日の出来事を思い出したのかシエルが目に見えて落ち込む。


その横で、ソファに深く座っていたメルシーが、紅茶のカップを片手に鼻を鳴らした。


「まだ言ってんの? 家なんか、また建て直せばいいでしょ」


黒いツインテールを揺らし、メルシーは当然のように続ける。


「それより、ここは悪くないわね。ベッドも飯も、まあ許せる程度にはマシじゃない」


「その最低限の品位で、俺の貯金が死にそうなんだけどな」


「細かいわねえ、屑亭主」


「お前のせいでもあるんだが?」


「私だけのせいにすんのやめてよ。そっちの甘ったるい女だって、結構ノリノリで剣振り回してたでしょ」


「楽しんではいません!」


シエルが慌てて反論した、その時だった。


部屋の隅で流れていた朝の情報番組が、不意に途切れた。


軽い音楽も、天気予報の明るい画面も消える。

代わりに現れたのは、赤い帯で囲まれた緊急速報の文字だった。


『政府は本日午前六時、全国を対象とした非常事態宣言を発令しました』


シエルも静かに画面へ視線を向ける。


『昨夜未明より、サービスを終了したスマートフォン向けゲームアプリ《ラグナロク・オーダー》に登場していたキャラクターと酷似する存在が、国内外で相次いで確認されています』


画面が切り替わる。


道路の中央に立つ、騎士らしき女。

商業施設の屋上で翼を広げる少女。

炎に包まれた交差点。

逃げ惑う人々の撮影した、手ぶれの激しい動画。


どれもゲームの演出では済まされない、生々しい破壊を伴っていた。


『さらに、実体化したキャラクターとは別に、正体不明の怪物の出現も各地で確認されています』


アナウンサーの声が、そこで一段低くなる。


『これらの怪物は、ゲーム内に登場していたモンスターと酷似しているとの情報もありますが、現在、詳細は確認中です。都市部の道路、地下施設、商業施設周辺などから突如出現し、通行人や車両を襲撃する事例が相次いでいます』


映像がまた変わった。


割れたアスファルト。

その隙間から這い出してくる、青黒い獣のようなもの。

悲鳴を上げて逃げる人々。

横転した車。

噛み砕かれた街灯。


『政府は、これら一連の異常事態が国民の生命、身体、財産に重大な危険を及ぼしているとして、全国を対象とした非常事態宣言の発令に踏み切りました。不要不急の外出を控え、安全な場所で待機してください』


マキトは、口の端を上げた。


「へえ。俺んとこだけじゃなかったのか」


『また、実体化した存在の多くは、特定の人物を“マスター”あるいは“契約者”“主君”などと呼び、傍を離れない傾向が確認されています』


アナウンサーの表情が、さらに険しくなる。


『もし、ご自身のそばに《ラグナロク・オーダー》のキャラクターと思われる存在が現れている場合、絶対に刺激せず、可能な限り攻撃的な行動を取らないよう説得してください。繰り返します。刺激せず、暴れないよう説得をお願いします』


数秒の沈黙が落ちた。


マキトは、ゆっくりと左右を見た。


片方には、昨夜自宅を一撃で切り裂いた巨大剣の女。

もう片方には、同じ家を反対側から壊した巨大ハルバートの女。


説得。

暴れないように。


マキトの喉から、乾いた笑いが漏れた。


「政府も無茶言うなあ。こいつらを説得しろって?」


「……旦那さま」


シエルが申し訳なさそうに目を伏せる。


「昨夜のことは、本当に……」


「反省してるって話はもう聞いた。家が元通りになるわけでもないし、何回謝られても仕方ねえよ」


「はい……」


シエルの肩が目に見えて落ちる。


一方、メルシーは窓の外を見ながら、露骨に視線を合わせようとしなかった。


「なによ。あんなところで喧嘩を売ってきた白いのが悪いんでしょ。私ばっか悪いみたいに言わないでよ」


「あなたが先に武器を向けたのではありませんか」


「あんたが気に入らない顔して近づいてきたからでしょ」


「お前ら、反省する気ある?」


マキトの一言で、二人とも黙った。


テレビでは、実体化事件とモンスター出現地点をまとめた地図が映し出されていた。


赤い点が、都市部を中心に増えている。

その一部には、ゲームキャラクターと思われる存在。

別の一部には、正体不明の怪物。

そして、その両方が同時に確認された地点まであった。


昨夜は世界が壊れたなどと大げさに考える余裕もなかった。

自宅が吹き飛び、ホテル代をどうするかで頭がいっぱいだった。


だがこうして見せられると、明らかに昨日までの日本ではない。


会社。

生活費。

明日の予定。


そういうもの全部を、馬鹿みたいに吹き飛ばしかねない何かが、もう始まっている。


マキトはスマホを取り上げた。


「そういや、会社休まねえとな」


「会社、ですか?」


シエルが顔を上げる。


「ああ。昨日までは一応、働いてたからな。こんな状況で出社させられたら流石に死ぬ」


「旦那さまが働いて……」


「その感心したみたいな顔やめろ。俺が無職のダメ男にみえるか?」


メールアプリを開く。


宛先は上司。

文面は、三十秒もかけずに打ち込んだ。


『本日、政府より非常事態宣言が発令されたため、安全が確認されるまで休みます。出社が必要な場合は、ご連絡ください。』


「よし」


送信。


一分もしないうちに、スマホが震えた。


一件目。


『社会人として無責任すぎる。非常事態だからこそ各自が責任を持って――』


二件目。


『他の社員は出社可否を確認中です。あなた一人が勝手な判断で――』


三件目。


『至急電話してください。メール一本で済む話では――』


通知欄だけで怒鳴り声が聞こえてくるようだった。


『社会人としての自覚が足りない』


『出社している社員もいる中で、新人が最初に逃げてどうする』


『こういう時の姿勢は、今後の評価にも響くからな』


マキトは一件も開かないまま、画面を伏せた。


「知るかボケ。世界が終わる時くらい休ませろ」


メルシーが、くすりと笑う。


「屑亭主のくせに、そこだけは気が合うじゃない。そんな命令しかできない無能、燃やしてあげよっか?」


「勝手に俺の職場を焼くな。辞める前に犯罪者になるだろうが」


「今さらでしょ。もう家一軒ぶっ壊してるんだから」


「壊したのお前らだからな?俺じゃない、責任を押し付けんな」


やがてテレビの内容が、昨夜から今朝にかけて確認された主な事件一覧へ切り替わった。


『昨夜午後十時四十分頃、都内住宅街の民家一棟が不自然に倒壊。爆発物や火災の痕跡は確認されておらず、壁面や柱の一部が、巨大な刃物で切断されたような状態になっているということです』


画面に映ったのは、見覚えのありすぎる瓦礫だった。


屋根がない。

二階部分もない。

玄関の辺りだけが申し訳程度に残り、庭には昨日まで室内にあった家具が散らばっている。


マキトの目が細くなった。


「あ」


シエルが凍りついた。


メルシーが口元を引きつらせた。


『近隣住民によりますと、倒壊直後、住宅で二人の若い女性が争っている様子が目撃されていました』


映像が、顔をぼかされた近所の女性への取材に切り替わる。


年配の女性が、興奮を隠せない様子でマイクへ語っていた。


『ええ、見ましたよ。もう、本当に信じられないくらい綺麗なお嬢さんが二人いてねえ。白い服の子と、黒い服の子。二人とも、とんでもなく大きな刃物みたいなものを持っていて……光ったとか爆発したとかじゃないんです。普通に、こう、ガンッ、ガンッて切り合って。そしたら家が、ばらばらっと……』


映像が再び瓦礫へ戻る。


『警察は、この件についても実体化したゲームキャラクターによる事件の可能性が高いと見て、周辺住民への聞き取りを進めています』


マキトはしばらく、自宅だったものを見つめていた。


昨夜、目の前で壊された時は、怒る余裕しかなかった。

親が帰ってきたらどう説明するのか、修理費をどうするのか、ホテル代は誰が払うのか。


だが、自分の家が全国ニュースに載り、世界で起きた異常事件の最初期の一件として読み上げられると、急に現実味よりも妙な可笑しさが勝ってきた。


「……俺の家が最初の被害者かよ」


苦笑いが漏れた。


「すげえな。世界がぶっ壊れる最初の被害者が、俺ん家って。運がいいのか悪いのか分かんねえ」


「申し訳ございません、旦那さま……」


シエルは今にも泣きそうだった。


メルシーは、頬をわずかに赤くしながら腕を組む。


「……まあ、その。家くらい、稼げば直せるでしょ」


「お前、今は強がらずに謝った方が可愛いぞ」


「はぁ!? 誰があんたに可愛がられるために謝るのよ、この屑亭主!」


「声でかい。ホテルで騒ぐな」


「元はと言えばあんたが――」


「元はと言えばお前らが家を壊したんだよ」


メルシーの口が止まった。


勝った。


マキトは満足してスマホを持ち直した。


ホーム画面には、昨日勝手にインストールされたアプリがまだ残っている。


《ラグナロク・オーダー2》。


黒い背景に、金色の文字。

その下には、昨夜まで存在しなかったはずのメニューが並んでいた。


所有ユニット。

ランキング。

イベント。

獲得ポイント。


マキトはランキングの項目を押す。


画面には、見知らぬプレイヤー名と数字が表示された。

だが、肝心の稼ぎ方がどこにも書いていない。


「なあ」


「はい、旦那さま」


「これ、ポイントってどうすりゃ上がるんだ?」


シエルは困ったように瞬きをした。


「ポイント、でございますか?」


「ランキングのやつ。上位になりゃ領地が貰えるんだろ?」


「申し訳ございません。私は、旦那さまの敵と戦い、勝利をお渡しするために存在しておりましたので……そのような仕組みについては……」


「知らねえの?」


「はい……」


マキトは、今度はメルシーを見る。


「お前は?」


「私に聞かないでよ。弱い奴ぶっ潰して、敵陣営踏みにじって、最後に私が笑う。それ以外のルールなんか知るわけないでしょ」


「戦う以外、分かんねえってことか?」


「そうよ。文句ある?」


「使えねえな」


シエルが小さく傷ついた顔をした。


メルシーのこめかみに青筋が浮いた。


「……あんた、本っ当に性格悪いわね」


「褒め言葉として受け取っとく」


「褒めてない!」


マキトは二人の反応を眺めながら、ランキング画面へ視線を戻した。


戦えば増える。

それだけ分かれば、とりあえず十分だ。


外には、キャラクターが暴れている。

下手をすれば化け物まで出てくるかもしれない。


つまり、稼ぐための獲物は、向こうから現れてくれる。


昨日までなら考えられなかった状況に、マキトの口元は自然と吊り上がっていた。




同じ朝。


同じニュースを、まるで違う気持ちで見ている男がいた。


築二十年を越えた戸建ての居間で、ダイスケは座布団の端に正座していた。


五十歳。

くたびれたワイシャツの袖口は薄く擦れ、頭頂部には目立たない程度の薄さがある。身体は大きくもなく、声も小さい。会社では強く出られず、家に帰ればさらに口数が減る。


テレビでは、政府の非常事態宣言が繰り返し流れていた。


その音声を遮るように、目の前の女が吐き捨てた。


「それで?」


アキエはソファの中央に腰を下ろし、腕を組んでいた。


丁寧に染めた髪。

手入れされた爪。

机の端には、昨日届いた高級化粧品の箱がそのまま置かれている。


ダイスケが今月、小遣いとして渡された金額より遥かに高い商品だった。


「ソシャゲのキャラが現実に出てきたのは分かったけど。その子を、この家に住まわせたいって?」


「いや、その……住まわせたいというか……行く場所がないみたいで……」


「はあ?」


アキエの眉が跳ね上がる。


「五十にもなって、何言ってんの。ゲームの女に入れ込んで、挙げ句に現実へ出てきたから家に置きたい? 気持ち悪いにも程があるんだけど」


「ご、ごめん……ただ、本当に困っているみたいだから……」


「困ってるのはこっちでしょ」


テーブルの上に置かれていたリモコンを、アキエが乱暴に叩いた。


鈍い音に、ダイスケの肩が反射的に縮こまる。


「こっちはあんたみたいな冴えない男と何年も暮らして、人生無駄にしてるの。子供もいない。大した稼ぎもない。なのに今度はその猫耳の女を養いたいって?」


「養うとか、そういうんじゃ……」


「じゃあ何? その子と暮らしたいなら勝手にすれば?」


アキエの唇が歪む。


「慰謝料払って、ローンもちゃんと払い続けた後で、どこへでも行ってよ。ついでに死んでくれたら保険金も入るし、私としては助かるけど?」


ダイスケは何も言えなかった。


目の前にいるのは、かつて結婚した女だった。


もっと前には、笑って話した日もあったのかもしれない。

けれど、いつからだったか思い出せない。


毎月の住宅ローン。

アキエの美容院代と娯楽費。

化粧品代。

食費。

光熱費。

少ない小遣い。


余った僅かな金を使って、ダイスケはラグオダを続けていた。


酒もほとんど飲まなかった。

同僚と出かけることもなかった。

趣味らしい趣味も、それしか残っていなかった。


そんな中で、何度も画面の中から笑いかけてくれたキャラクター。


女神陣営の獣人メイド、ラキア。


最高レアでもなかった。

環境を壊すほど強いキャラクターでもなかった。


けれど、期間限定イベントで運よく迎え入れてから、ダイスケはできる限り彼女を編成に入れていた。


自由に使える時間は、ほとんどなかった。

朝から働き、家に帰ればアキエの機嫌を窺い、落ち着いてゲームをする余裕さえない。


だから、仕事帰りの電車の中や、駅から家まで歩く僅かな時間だけが、ダイスケにとってラグオダを開ける時間だった。


疲れ切った一日の終わり。

小さな画面の中で、ラキアは戦闘を終えるたび、静かに微笑んでくれた。


それが嬉しかった。


だから、ダイスケはラキアが好きだった。


そのラキアが、今はダイスケの隣に立っている。


淡い色をした藍色の髪。

頭の上にある、柔らかそうな猫耳。

白と紺を基調とした落ち着いたメイド服。

決して派手ではないが、豊かに膨らんだ胸元と、冷静で気品のある立ち姿が目を引く。


彼女は最初からずっと、口を挟まず話を聞いていた。


ダイスケが何度も頭を下げることも。

アキエがそれを当然のように見下ろしていることも。

「死んでくれたら助かる」と言われてなお、ダイスケが怒るより先に謝ろうとしたことも。


その全てを見たうえで、ラキアは静かに口を開いた。


「ご主人様」


ダイスケの身体が、びくりと震えた。


「な、何だい、ラキア。大丈夫だから。少し話せば、きっと……」


「いいえ」


ラキアは微笑んだ。


穏やかな微笑みだった。

だが、その声音に揺らぎはなかった。


「私と、この家を出ましょう」


「……え?」


アキエが鼻で笑った。


「何? キャラクターの分際で口挟むの?」


「私は、ご主人様に申し上げております」


ラキアは、アキエを正面から睨みつけることもなかった。

ただ、ダイスケへ身体を向けたまま話す。


「ご主人様は、先ほどから何度も謝っておられます。けれど私には、ご主人様がここまで侮辱され、それでも許しを乞わねばならない理由が分かりません」


「いや……俺が、変な話を持ち込んだから……」


「それでも、死んでほしいと告げられて当然の理由にはなりません」


ダイスケは言葉を失った。


アキエが立ち上がる。


「何それ。私たち夫婦のこと、昨日今日出てきたゲームの女に何が分かるの?」


「昨日今日で十分でございます」


ラキアは初めて、アキエを見た。


目は冷たくなかった。

怒鳴ってもいなかった。


だからこそ、その言葉には逃げ道がなかった。


「ご主人様は、あなたの声が少し大きくなっただけで身体を縮められました。物音がしただけで、次に何が起きるのか怯えるように視線を動かされました。今のお言葉を聞いても、怒るのではなく、ご自分が悪いのだと受け止めようとしておられます」


「だから何?」


「それを、夫婦として当然の状態だと私は認めません」


居間が静まり返った。


テレビだけが、遠い場所の火災映像を映し続けている。


ダイスケの膝の上で、拳が小さく震えた。


ラキアはその震えを見て、声を少し柔らかくした。


「ご主人様。慰謝料を払わねばならないのか、お金をどうすべきなのか、この世界の制度を私はまだ知りません。ですから、正しい知識を持つ方へ相談いたしましょう」


「でも……もし払わないといけなかったら……俺だけじゃ、とても……」


「その時は、私が働きます」


ダイスケが顔を上げた。


ラキアは、当たり前のことを言うように微笑んでいた。


「この世界で私にできる仕事を探します。戦うことが必要なら戦います。給仕でも護衛でも、必要とされることがあるなら何でも覚えます」


「ラキア……」


「必要な費用があるのなら、私が稼いでお支えします。ですから――」


彼女は一歩だけ、ダイスケへ近づいた。


「もう、この方に許しを乞うために、ご自分を削らないでください」


アキエの顔が赤く染まる。


「ふざけないでよ! あんた、自分が何言ってるのか分かってる!? ダイスケ! まさか本気にしてるんじゃないでしょうね!」


怒声が飛んだ。


いつもなら、それだけでダイスケは謝っていた。


機嫌を損ねないように。

家の空気を悪くしないように。

これ以上酷い言葉を聞かずに済むように。


けれど今日は、隣にラキアがいた。


自分が課金して手に入れたキャラクター。

ただ画面の中で微笑んでくれていただけの存在。

なのに、長年一緒に暮らしてきた妻より先に、自分が怯えていることに気づいた女。


ダイスケは、ゆっくりと立ち上がった。


足が震えていた。


「……ごめん、アキエ」


「は?」


「俺……少し、外に出るよ」


「何勝手なこと言ってんの? 逃げる気? この家もローンも私の生活も、全部放り出して?」


「放り出さない。ちゃんと、相談する。払うべきものがあるなら……逃げずに考える」


喉が詰まった。


それでも、ダイスケは初めて顔を逸らさずに続けた。


「でも、もう……ここで、毎日怒鳴られながら暮らすのは、無理だ」


アキエが何かを言い返すより前に、ラキアが静かに頭を下げた。


「失礼いたします」


ダイスケが持ち出せた荷物は、財布とスマホ、古びた鞄一つだけだった。


玄関を出る時、背中へ罵声が飛んできた。

情けない。

薄情者。

今さらどこへ行くつもりだ。

一人じゃ何もできないくせに。


どれも、これまで何度も聞いてきた言葉だった。


なのに、外気に触れた瞬間、その一つ一つが妙に遠く聞こえた。


いつもとは違う朝だった。


空は明るい。

けれど遠くでは黒い煙が上がり、道路の向こうにはパトカーが何台も走っている。テレビで告げられた非常事態は、家を一歩出たところから現実になっていた。


ダイスケは歩道に立ち尽くした。


隣で、ラキアが黙って待っている。


「……ごめんな、ラキア」


「どうしてですか?」


「俺、格好悪いだろ」


ダイスケは力なく笑った。


「五十にもなって、嫁に怒鳴られて、何も言い返せなくて。君に言われるまで、家を出ることさえできなかった」


「それは――」


「それに、俺……君のことは、本当に好きだったんだ」


言いかけたラキアの口が、静かに閉じる。


ダイスケは自分の靴先を見つめた。


「ゲームの中で、ずっと好きだった。君が出てきてくれただけで嬉しかった。正直、今こうして隣にいてくれることが、夢みたいだ」


声が震えた。


「でも、俺はもう若くないし……今すぐ、嫁だの恋人だのって考えられるほど、気持ちも整理しきれていない。君が好きなのに、君に応えられる自信もない。助けてもらってばっかりで……本当に、情けなくてごめんな」


ラキアは、すぐには答えなかった。


代わりに、ダイスケが握りしめていた鞄の持ち手へ、そっと手を添えた。


奪うのではなく、支えるように。


「ご主人様」


彼女の声は、家の中でアキエへ向けたものより、ずっと柔らかかった。


「私は、ご主人様に今すぐ何かを返してほしくて、ここにいるのではございません」


ダイスケが目を上げる。


「私を愛してくださったこと。それだけで、私はもう十分に救われています」


「でも……」


「ですから、ご主人様も、急いで何かを決めようとなさらないでください。私のことは嫁だと認めてくれなくても構いません。恋人として見ていただけなくても、怒ったりいたしません」


ラキアは微笑む。


凛としているのに、不思議なくらい温かい笑顔だった。


「今はただ、隣を歩かせてください。今日、ご主人様がご自分の足であの玄関を出られたことが、私には何より嬉しいのです」


ダイスケの目の奥が熱くなった。


泣くまいと唇を噛む。


自分の人生に、こんな言葉をくれる人がいるとは思っていなかった。


「……ありがとう」


辛うじて、それだけ絞り出した。


ラキアは、恭しく頭を下げる。


「はい。どういたしまして、ご主人様」


その瞬間だった。


地面が、低く唸った。


最初は大型トラックが通っただけかと思った。

だが、揺れは一度で終わらなかった。


歩道のタイルが、内側から押し上げられるように割れる。

道路の向こうで、誰かの悲鳴が上がった。


黒紫色の亀裂が、アスファルトを縦に走る。


そこから、異形の腕が突き出した。


爪の長い、青黒い腕。

続いて頭部。

犬にも狼にも似ているが、口は耳元まで裂け、首筋には硬い鱗が並んでいる。


一体。

二体。

三体。


道路の割れ目から、次々と獣の姿をしたモンスターが這い上がってくる。


「ひっ……!」


通行人たちが悲鳴を上げ、一斉に走り出した。


車が急ブレーキを踏み、後続車がぶつかる音が連続する。

遠くで誰かが叫んだ。


「化け物だ! 逃げろ!」


ラキアの表情が変わった。


優しいメイドの顔から、戦場に立つ従者の顔へ。


腰元から、細身の双剣を自然と手に取る。


「ご主人様、私の後ろへ」


「あ、ああ……!」


ダイスケは言われるまま、一歩下がった。


その時、家の方向からも悲鳴が聞こえた気がした。


実際にアキエの声だったのかは分からない。

ただ、長年暮らした家のある方角へ、ダイスケの身体は反射的に向いていた。


「大変だ……アキエが……」


さっきまで自分を罵っていた女。

死んで保険金になれとまで言った女。


それでも、一緒に暮らした時間が消えるわけではない。

危険が迫ったと考えた途端、放っておけないという習慣だけが、まだ身体の奥に残っていた。


ダイスケは一歩、家の方へ足を向けかけた。


ラキアは、止めなかった。


腕を掴むことも、戻るべきではないと叫ぶこともしなかった。


ただ、双剣を構えたまま、静かに問いかけた。


「ご主人様」


ダイスケが振り向く。


「助けに行きたいですか?」


その問いは、残酷だった。


けれど同時に、何より優しかった。


ラキアは選択を奪わない。

恩を着せて、アキエを見捨てろとも言わない。

ダイスケがどうしたいのかを、初めて本人へ返してくれた。


モンスターの唸り声が近づいてくる。


家の方角。

ラキアの背中。

逃げ惑う人々。


ダイスケは、拳を握りしめた。


怖い。

胸が痛い。

自分だけ逃げるようで、罪悪感がある。


それでも。


「……いや」


声は掠れていた。


「俺は……行かない」


ラキアが静かに耳を傾ける。


ダイスケは、家の方角を見つめたまま続けた。


「もう、あの人のために……怖い思いをするのは嫌だ」


吐き出した瞬間、身体の奥に溜まっていた何かが崩れた。


格好いい言葉ではなかった。

正義でも勇気でもない。


ただ、もう嫌だった。


怒鳴られることも。

見下されることも。

殴られるかもしれないと身構えることも。

その相手のために、今度は命まで危険に晒すことも。


「俺は……生きたい」


ラキアの猫耳が、小さく揺れた。


彼女は微笑まず、ただ深く頷いた。


「はい」


双剣を握り直す。


「それでは、ご主人様。走れますか?」


「す、少しなら……」


「十分でございます。前を見てお進みください。ご主人様の背中は、私が守ります」


ダイスケは頷いた。


そして、家に背を向けた。


五十歳になって初めて、自分のために逃げた。


ラキアと共に、生き残るために走り出した。





その頃。


高級ホテルの正面玄関前では、巨大な白い大剣が、道路を跳ね回っていたモンスターをまとめて薙ぎ払っていた。


青黒い獣型のモンスターが三体、空中で真横に吹き飛び、植え込みを越えてアスファルトへ叩きつけられる。


追撃は必要なかった。


シエルの一撃を受けた時点で、三体とも光の粒となって崩れ始めていた。


「旦那さま。周囲の脅威は排除いたしました」


大剣を下ろし、シエルが振り返る。


白い髪が朝の光を受けて揺れ、その姿だけ見れば、崩壊寸前の街中に降り立った救世の天使そのものだった。


もっとも、その背後には、昨日この天使自身が破壊した家を持つ男がいる。


マキトはホテルのエントランス脇で、スマホを片手に立っていた。


道路の先ではサイレンが鳴っている。

コンビニから飛び出してきた人々が走り去り、車道には乗り捨てられた車が斜めに止まっている。

遠くの交差点では、別のモンスターらしき影が何かをひっくり返していた。


普通なら、震えて部屋へ戻るところだろう。


マキトは、目の前で消えていくモンスターの残骸を見ながら、額へ手を当てた。


「ホテル出た瞬間にこれかよ……」


シエルが心配そうに近づいてくる。


「旦那さま、やはりお部屋へ戻られた方がよろしいのではございませんか。私がお守りいたしますが、街全体がどのような状況になるか分かりません」


「いや、待て」


マキトの声が止まった。


遠くで何かが破裂する音。

人々の悲鳴。

警察車両の拡声器。

スマホには、緊急速報と、ラグオダの戦闘結果らしき通知。


それらを一度に見て、マキトの目がゆっくりと輝き始める。


「これ……会社、もう二度と行かなくて済むんじゃね?」


「……旦那さま?」


「だってそうだろ。ゲームのキャラが現実に出てきて、化け物まで街に湧いてきたんだぞ? 電車乗って出勤して、上司に頭下げて、くだらねえ作業やってる場合じゃねえだろ」


シエルは返す言葉を失った。


少し離れた場所で、メルシーがハルバートを肩に担いだまま、呆れた顔を向ける。


「まさかあんた、この状況で喜んでるわけ?」


マキトは数秒、黙っていた。


それから、耐えきれなくなったように腹を抱えた。


「ラッキーーー! 最高じゃねえか!」


出てきたのは満面の笑みだった。


ホテルの従業員が玄関の内側から怯えた顔で見ている。

避難してきた宿泊客も、信じられないものを見るようにマキト達へ視線を向けた。


だが、マキトは気にしない。


「昨日まで人生終わってると思ってたのによ! 今日から毎日、化け物倒して遊べるってことだろ!? こんな面白そうな世界、異世界にだってありはしないだろ!会社に縛られてる場合じゃないだろ!」


「旦那さま……」


シエルの声には、明らかな引きが混じっていた。


メルシーでさえ、わずかに頬を引きつらせている。


「……クズだとは思ってたけど、想像以上に終わってるわね、あんた」


「褒めんなよ。照れるだろ」


「吐き気のする意味で言ってるのよ!」


「それよりポイントだ」


マキトは笑いを収めると、スマホへ目を落とした。


画面には戦闘終了の表示が出ている。


《敵性モンスター討伐完了》

《パーティ経験値を獲得しました》

《ランキングポイントを獲得しました》


その下に、数字が増えていた。


けれど、相場が分からない。


マキトは画面を二度見し、首を傾げた。


「なあ、これってどのくらい溜まってるんだ?」


シエルが覗き込む。


「申し訳ございません。私にも基準が……」


「また分かんねえのかよ」


「すみません……」


「だから白いのは駄目なのよ。胸がデカいだけで、肝心な時に使えないんだから」


メルシーが横から画面を覗き込み、次の瞬間、鼻で笑った。


「ぷっ」


「何笑ってんだよ」


「いや、笑うでしょ。あんたがあんまり得意げな顔してるから、もっと稼いだのかと思っただけよ」


メルシーは口元へ手を当て、わざとらしく肩を震わせる。


「全然溜まってないわよ、これ。道端の雑魚を何匹か潰したくらいで、ランキング上位に行けると思ってたの? 初心者ってほんっと可愛いわねえ」


マキトの額に青筋が浮かんだ。


「……お前、今かなり俺の機嫌がいいから許されてるだけだからな?」


「あ、怒った? 現実教えてあげただけじゃない。クズ亭主のくせに、雑魚狩り一回で稼げると思ってたとか、夢見すぎでしょ」


「お前を先頭に放り込んで、どのくらい稼げるか試してやろうか」


「できるもんならやってみなさいよ。私を使いこなせない無能が、偉そうに――」


そこで、メルシーの言葉が止まった。


黒いバトルドレスの裾から、薄い紫色の光が立ち上る。


最初は煙のように淡く、それから一気に濃くなる。

メルシーの身体を囲むように光の輪が回転し、彼女の頭上に通知音と共に文字列が浮かび上がった。


《LEVEL UP》

《新規スキル解放》


シエルが目を見開く。


「メルシーさん……?」


メルシーは、自分の手のひらを見た。


一度、指を開く。

何かを確かめるように、ゆっくり握り込む。


そして、唇の端を持ち上げた。


「あ」


マキトが眉を寄せる。


「何だよ」


メルシーは顔を上げた。


赤い瞳の奥で、悪意のある愉悦がきらりと光る。


「スキル、覚えたわ」


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