03.もう忘れたのか?
最初に向かったのは、駅近くの安いビジネスホテルだった。
一晩寝るだけなら十分。
マキトはそう思っていた。
しかし、受付へ入る前に、メルシーが足を止めた。
「……ここ?」
「ああ。三人で入れる部屋があればな」
「冗談でしょ」
「こうなった原因が宿へ文句言うな」
「だって狭いし、空気悪いし、外から人の気配が近すぎるし、こんな場所であの女と一晩同じ空間とか無理」
シエルも、おずおずと口を挟む。
「旦那さま。私自身は、どのような場所でも構いません。ですが……旦那さまは今日、大変な目に遭われました。できれば、心身を休められる場所を選ばれた方が……」
「俺の疲労の原因、お前らな?」
「はい……申し訳ありません……」
「謝りながら高い宿へ誘導するの、やめてもらえる?」
結局、マキトは検索画面を開き直した。
騒ぎのせいか、周辺のホテルは予約が埋まり始めている。
三人で入れて、二人を離して座らせられるだけの空間があり、余計な人目を避けられそうな場所。
候補は、馬鹿みたいに高いホテルの広い部屋だけだった。
決済画面に表示された金額を見て、マキトの頬が引きつる。
「……絶対に払わせる」
「何をですか、旦那さま?」
「宿代も、家も、晩飯も、全部だよ」
「細かいわねえ、屑亭主」
「一番多く払わせるからな、お前には」
「はぁ!? 何で私が多めなのよ!」
「態度が悪い追加料金だ」
高級ホテルの部屋に入った頃には、日付が変わりかけていた。
広いリビングスペース。
窓の向こうに広がる夜景。
柔らかなソファと、無駄に大きなベッド。
マキトはその光景を楽しむ余裕もなく、ソファの正面に立った。
シエルとメルシーは、距離を空けて座っている。
さすがに先ほどの命令が効いているのか、互いに睨みはするものの、武器を出す気配はない。
「じゃあ、話せ」
マキトは腕を組む。
「お前らが何なのか。何で俺のところに来たのか。何で俺を旦那扱いしてるのか。あと、何ができるのか」
メルシーが不満げに足を組んだ。
「注文多すぎない?」
「家を壊した分、説明くらいしろ」
「……旦那さまの仰る通りです」
シエルが、静かに姿勢を正した。
「改めまして、私はシエル。女神陣営に属していた、未実装の最上位キャラクターです」
「私はメルシー。邪神陣営の同じく最上位。言っとくけど、そっちの甘ったるい女より私の方がずっと使えるから」
「……今の発言は、聞き捨てなりませんね」
シエルの微笑みが、わずかに冷える。
「事実を言っただけだけど? 役に立たない天使サマは、後ろで旦那さまを甘やかしてれば?」
「では、もう一度お相手して差し上げましょうか」
シエルの指が、大剣の柄へ触れた。
メルシーの黒い尻尾が、ゆっくりと持ち上がる。
「……やってみる?」
「二人とも、もう忘れたのか?」
マキトの低い声が落ちた。
二人の動きが、ぴたりと止まる。
「次にこの部屋を壊したら、二人まとめて外で寝かせるぞ」
シエルは申し訳なさそうに手を離し、メルシーは舌打ちしながらソファへ座った。
マキトは眉を寄せた。
「女神陣営と邪神陣営……それ、もしかしてラグオダか?」
シエルの表情が、ぱっと明るくなった。
「はい。ご存じの通り、私たちはあの世界から参りました」
シエルは、そこで安堵したように微笑んだ。
メルシーも、僅かに肩の力を抜いた。
マキトがラグオダを知っている。
ならば、話は早い。
女神陣営と邪神陣営の対立も、キャラクターの存在も、契約者という立場も、この男なら理解しているはずだ。
二人は、そう受け取った。
マキトは、そこまでの思い込みが起きているとは知らず、話の続きを促した。
「で? 未実装ってどういう意味だ」
シエルは、少し寂しそうに目を伏せる。
「私たちは、あなた方の側では存在だけを知らされていたようです。名前や立場は示されながら、実際に召喚され、共に戦う機会を与えられる前に……私たちの世界は終わりました」
メルシーが、苛立たしげに窓の外を見る。
「女神陣営と邪神陣営の最終戦争。馬鹿みたいに殺し合って、最後にはどっちが勝ったかも分からないまま、全部消えた」
「メルシー……」
「事実でしょ。綺麗に言い換えたところで、滅んだものは戻らないわよ」
シエルは否定できず、声を落とした。
「実装されていた方々には、それぞれ強く結ばれた相手がおりました。長く共に戦ってくださった方。毎日会いに来てくださった方。多額の金額をつぎ込みながら愛着を向け続けてくださった方。その繋がりを辿って、こちらの世界へ現れた方々がほとんどのはずです」
マキトは、先ほど見たSNSの投稿を思い出す。
部屋に現れたキャラ。
マスターと呼ばれた誰か。
街で目撃された武装した少女。
「でも、お前らにはそれがなかった」
「はい」
シエルは、静かに頷いた。
「私たちは、誰かに召喚されたことがありません。誰かの編成に入り、戦ったこともありません。特定の方から、長く愛していただいた記憶がありませんでした」
メルシーが、ふんと鼻を鳴らす。
「実装される前に世界ごと終わったんだから、当然でしょ。こっちのせいじゃないわ」
「責めてねえよ。それで、どうして俺になる」
「先ほど話した通り現界には、こちらの世界へ存在を繋ぎ止めるため伴侶契約が必要でした」
シエルが続ける。
「特定の相手との強い繋がりを持たない私たちは、過去にラグオダへ登録された方々の中から、契約対象を選ぶことになりました」
「……選んだ?」
「はい」
シエルの白い頬が、わずかに赤くなる。
「候補者の情報を拝見して……その……旦那さまのお姿を見て、私は……」
言い淀むシエルの代わりに、メルシーがあっさり言った。
「顔で選んだのよ」
「メルシー!」
「何よ。本当のことでしょ。誰にも思い入れがないんだから、見た目で選ぶ以外に何があるのよ」
メルシーは、マキトを上から下まで眺め、悔しそうに口を尖らせる。
「まあ、顔だけは悪くないし。顔だけはね。候補の中じゃ一番ましだったから、私が選んであげたの」
シエルは、ますます申し訳なさそうに頭を下げる。
「不純な理由であることは分かっております。ですが、私も……旦那さまを見て、心が惹かれたことは否定できません」
マキトは、数秒黙った。
自分の容姿が整っていることは知っている。
女に対して、それが有利に働くことも理解していた。
まさか異世界じみた女二人に、現実世界へ来るための足場として選ばれる材料になるとは思わなかったが。
「まあ、理由は分かった」
マキトはソファの背へ寄りかかる。
「けど、一つ確認していいか」
「何でしょうか、旦那さま」
「俺、ラグオダやってないぞ」
シエルの微笑みが止まった。
メルシーの足が、組んだ状態のまま固まる。
「……はい?」
「ゲームの名前は知ってる。友達が昔やってたからな。女神と邪神の二陣営で戦うゲームだったってくらいは聞いたことがある」
マキトは二人を交互に見る。
「でも俺、シエル、メルシーは当然、その他主要キャラすら知らねえし、契約だの陣営だの性能だのも分からん。プレイした覚えもほとんどない」
「……そんなはずは」
シエルの顔から血の気が引く。
「旦那さまは、候補者として登録されていました。ラグオダと何の接点もない方が、契約対象となるはずは……」
「よく思い出しなさいよ!」
メルシーが身を乗り出した。
「アカウント作ったとか、ログインしたとか、何かあるでしょ! 忘れているだけでしょ!」
「困るのはお前らの都合だろ」
「そのお前らの相手に選ばれたのがあんたなのよ!」
「勝手に選んだのもお前らだろうが」
マキトは顔をしかめ、記憶を探った。
ラグオダ。
友人。
スマートフォン。
大学時代だったか、高校の終わり頃だったか。
飲食店で、友達がやたら熱心に勧めてきたことがあった。
無料で始められる。
今ならキャンペーン中。
とりあえず登録だけしろ。
後から一緒に陣営戦をやろう。
「……ああ」
マキトは、ようやく思い出した。
「一回だけ、友達に勧められて入れたかもしれない。名前入れて、何か選ばされて……その辺で面倒になってやめた気がする」
「その辺って、どの辺よ」
「知らねえよ。ガチャ引いた記憶も、戦った記憶もない」
沈黙。
シエルは、青い瞳を伏せた。
「……登録だけで、伴侶候補として記録が残っていたのですね」
メルシーは、両手で顔を覆った。
「嘘でしょ……」
「何だよ」
「私たち、チュートリアルも終わってない男を選んだの……?」
「顔で選んだ結果だな」
「うるさい! あんたの顔が無駄によかったのが悪いのよ!」
「褒めてんのか怒ってんのかどっちだよ」
シエルは、戸惑いを隠せないまま呟いた。
「私たちは……旦那さまが、ラグオダを遊ばれていた方だと思っておりました」
「だから、やってないって」
「私たちは未実装でしたから、旦那さまが私たち個人の性能をご存じとは考えておりませんでした」
シエルは、胸元で手を握りしめる。
「ですが、能力の詳細をお伝えすれば、ゲームの仕組みに照らして理解してくださるものと……編成や戦術の中で、私たちを正しく扱ってくださるものと思っておりました」
メルシーが、床を睨みつける。
「それが何? システムどころか、何も知らない初心者以下? どうして私が、そんな奴の指示に従わなきゃいけないのよ……」
「嫌なら契約切るか?」
「すぐそれ言うのやめなさいよ!」
マキトは、二人の落胆に付き合う気はなかった。
ゲームを知らない。
二人の性能も分からない。
確かに、最初から知識を持っているプレイヤーなら有利なのだろう。
だが、それがどうした。
マキトはテーブルに置かれていたホテルのメモ帳を取り、ペンを持った。
「じゃあ、教えろ」
シエルが顔を上げる。
「……はい?」
「お前らが何ができて、何ができないのか。力を使う条件。距離の制限。二人を同時に使った場合に何が起きるか。俺が前に出た場合、何ができなくなるか」
「旦那さま、ご自身が前に出られるおつもりなのですか?」
「それも聞いてから決める。勝手に心配する前に情報を出せ」
メルシーが、信じられないものを見るように目を細めた。
「……あんた、本当に何も知らないのに、私たちを使う気なの?」
「知らないなら聞く。聞いて分からなきゃ、実際にやって確かめる。使えない部分は切って、使えるところだけ使う」
シエルの表情が、僅かに強張った。
マキトは、平然と続けた。
「お前らは俺を選んだんだろ。だったら、俺にわかるように説明しろよ」
それは、憧れていたキャラクターと出会った人間の態度ではなかった。
知っている性能を最大化する熟練プレイヤーでもない。
目の前へ突然落ちてきた戦力を、聞き出し、値踏みし、必要なら危険ごと試す男の顔だった。
シエルは戸惑いながらも、誠実に答えた。
「私は、味方を強化し、集団を率いて戦うことに特化しております。自身も前衛として大剣を振るうことはできますが、本領は多数の味方と領域があってこそ発揮されます」
「今は?」
「領域も、私が支えるべき味方もありません。加えて……邪神陣営の者へ加護を与えることには、抵抗があります」
メルシーが嗤う。
「頼まれてもいらないけど? あんたの甘ったるいバフなんか浴びたら吐きそう」
マキトはペンを止めた。
「必要ならかけろ。必要なら受けろ。お前らの好き嫌いで性能落とすのは禁止だ」
「……旦那さま」
「はぁ!? 勝手に決めないでよ!」
「もう決めた。次、メルシー」
メルシーは不満を露わにしながら、腕を組む。
「私は敵を弱らせる。戦場に踏み込めば、相手全体の力も動きも連携も鈍る。単体相手なら、このハルバートで直接傷を入れれば、私より格上だろうと何だろうと落とせるところまで弱らせられるわ」
「条件は?」
「直接当てること。最大まで弱らせるなら、私はそいつから離れられない。その間、あんたのところに戻って面倒を見るなんてできない」
「遠距離攻撃は?」
「ない」
「シエルは?」
「私も、遠くの敵を撃ち落とすための力は持っておりません」
「俺を守れるか」
シエルが、答えに詰まった。
メルシーは、忌々しそうに視線を逸らす。
やがてシエルが、震える声で答える。
「……できません」
「自分は守れるのに?」
「私自身が前線に立ち、生き残るための力はあります。味方のキャラクターを強化することもできます。ですが、旦那さまのような生身の方を庇い、直接防護し、致命傷から救うための能力は……」
「私にもないわよ」
メルシーが吐き捨てる。
「私は敵を弱らせる側。あんたに飛んできた攻撃を止める能力も、傷を治す能力もない。私なら耐えられる攻撃でも、あんたが食らったら普通に死ぬ」
「なるほど」
マキトは、メモ帳へ短く書き込んだ。
白は強化。
黒は弱体化。
どちらも前に出る。
どちらも自分を守れない。
シエルが、不安を隠せず尋ねる。
「旦那さま……まさか、それでも戦場へ出るおつもりでは……」
「お前らが前で何するか、後ろから眺めてるだけじゃ分からないだろ」
「ですが!」
「死ぬ可能性がゼロなら、そもそも面白くない」
その言葉に、シエルは息を失った。
メルシーも、初めて軽口を挟まずにマキトを見る。
その時だった。
テーブルに置いたスマートフォンが、短く震えた。
「……ん?」
マキトが画面へ目を向ける。
通知が来たのだと思った。
だが、表示されていたのはメッセージではなかった。
ホーム画面の中央で、見覚えのないアイコンが淡く点滅している。
黒い空を裂く黄金の剣。
その背後に重なる、白い天輪と赤黒い翼。
アイコンの下には、文字があった。
『ラグナロク・オーダー2』
「……は?」
マキトはスマートフォンを手に取った。
「何だ、これ」
インストール中を示す円形の表示が、アイコンの周囲をゆっくり満たしていく。
マキトは慌てて画面を操作した。
長押ししても削除表示は出ない。
設定画面へ移ろうとしても、指が触れる直前に画面が弾かれるように元へ戻される。
「おい。俺、こんなの入れてねえぞ」
シエルが立ち上がった。
「ラグナロク・オーダー……2……?」
メルシーも、険しい顔でスマートフォンを覗き込む。
「何よ、それ。私たちの世界に、そんな名前のものはなかった」
インストール表示が、静かに進んでいく。
四十パーセント。
六十パーセント。
八十パーセント。
通信を切ろうとしても駄目だった。
機内モードを選択しても、表示は切り替わらない。
電源ボタンを長押ししても、スマートフォンは反応を返さない。
マキトの操作を無視するように、円は最後まで満ちた。
《インストールが完了しました》
その瞬間、アプリが勝手に起動した。
画面が暗転する。
続いて、黒い背景の中央へ、白い文字が一行ずつ浮かび上がった。
《『ラグナロク・オーダー2』へようこそ》
《旧作『ラグナロク・オーダー』登録者情報を確認しました》
《契約者:マキト》
「……サービス終了したゲームが、勝手に続編始めてんじゃねえよ」
マキトの声に、冗談めいた軽さはなかった。
シエルは、青ざめたまま画面を見つめている。
「旦那さま……続きを、お確かめください」
「言われなくても見る」
マキトが画面へ指を触れる。
黒い画面に、新たな白い文字が表示された。
《最終戦争の終了に伴い、旧世界は継続不能状態へ移行しました》
《キャラクターの現界処理を開始します》
シエルが口元を押さえる。
メルシーは、黙ったまま尻尾を震わせた。
マキトは、さらに画面を滑らせる。
《新世界を新規運用領域として登録しました》
《今後、段階的に以下の機能を適用します》
《クエスト》
《ダンジョン》
《世界災害》
《対人戦》
そこまで読み進めたところで、画面が一度暗転した。
次に表示された文字だけが、赤く強調されていた。
《重要通知》
《ランキング制度が適用されます》
《初回ランキング測定開始:本日零時》
《測定期間:開始時刻より七日間》
《測定終了時点の順位を、初回ランキングとして確定します》
マキトの指が止まる。
日付が変わるまで、もうほとんど時間はない。
そして、その瞬間から一週間。
たった七日間の結果で、最初の椅子が決まる。
《初回ランキング確定時に限り、上位百名へ守護領域選択権を付与します》
《守護領域の選択権付与は、一度だけ行われます》
《初回確定後、同権利の再付与は行われません》
《守護領域管理者は、当該領域へ所属する契約者およびキャラクターに対し、作戦指揮権を有します》
一度だけ。
日付が変わった瞬間から始まる、一週間限りの奪い合い。
その最初の上位百人だけが、領地を得る。
後からポイントを集めても、同じ権利が手に入る保証はない。
通知は続く。
《女神陣営・邪神陣営による固定所属を解除します》
《以降、現界キャラクターの所属は、契約者および守護領域管理者を基準として再編成されます》
「……何ですって?」
メルシーが立ち上がった。
「固定所属を解除? ふざけないで。私がこいつと同じ側で扱われるってこと?」
シエルも、青ざめた顔で画面を見る。
「女神陣営も、邪神陣営も……もう、以前の形では存在できないということですか……」
表示が切り替わる。
《登録者情報を確認しました》
《契約者:マキト》
《契約キャラクター:シエル/メルシー》
《所属:契約者マキト配下》
《混成契約状態:有効》
《ランキング参加資格:有効》
メルシーの顔が、心底嫌そうに歪んだ。
「配下……? 誰が、こいつの配下よ!」
マキトは、画面を見たまま答える。
「通知によると、お前とシエル」
「殺す!」
「許可なく戦うなって言ったばっかりだろ」
「この程度の暴言まで止める気!?」
シエルは、まだ動揺したまま呟く。
「私が……邪神陣営の彼女と、同じ契約者のために……」
「そこはもう諦めろ」
マキトは通知を閉じずに言った。
「お前らが昔どっち側だったかなんて、俺には関係ない。今、俺の戦力として登録されてるなら、必要な時は一緒に働いてもらう」
「旦那さま、しかし……」
「お前のプライドで俺が負ける方が困る。使える力は全部使え」
シエルは、返す言葉を失った。
メルシーは睨みつけてくるが、反論の中身は出てこない。
マキトは、通知の文面へ視線を戻した。
まだ聞くべきことがある。
「なあ」
「何よ、クズ亭主」
「キャラが来なかった奴らは、どうなる」
メルシーが、僅かに目を細めた。
シエルは、すぐには答えなかった。
その沈黙だけで、マキトには答えの形が見えた。
「……よくはならないんだな」
「旦那さま……」
シエルが、苦しそうに口を開く。
「守護領域が正しく築かれれば、戦う力を持たない方々も保護できます。安全な場所を設け、避難していただくことは可能かと……」
「つまり、守護領域がなきゃ危ない世界になるんだな?」
「はい……」
メルシーが、面倒そうに続ける。
「ダンジョンが出て、レイドボスまで来て、対人戦も認められるんでしょ? 何も持ってない普通の人間が、今まで通り暮らせるわけないじゃない」
彼女は窓の外に広がる街を見下ろす。
「強いキャラを持ってる契約者のところへ逃げ込んで、守ってもらう。その代わり、そいつの決めたルールに従う。そういう世界になるんじゃない?」
「メルシー、言い方を……」
「綺麗に言ったって同じよ。守られる側は、守る側に逆らえなくなる。あんたの大好きな善意だけで回るほど、滅んだ後の世界は優しくないわ」
シエルは、何も返せなかった。
マキトは、窓の外の夜景を見た。
今までなら、ただの街だった。
会社へ向かう電車が走り、夜遅くまで働く人間がいて、コンビニへ寄り、家へ帰り、眠り、また朝が来る。
自分も、その中の一人だった。
明日も働く。
来週も働く。
一年後も、何十年後も、似たような日々を続ける。
それが、たまらなく嫌だった。
なのに今、その街のルールが崩れようとしている。
ダンジョン。
世界災害。
対人戦。
領地。
契約者。
そして、初回だけのランキング上位百名。
家をどう直すか。
親へどう謝るか。
明日、会社へ何と言うか。
本来なら、真っ先に頭を抱えるべきことだった。
だが、マキトの意識は、そこへ戻らなかった。
自分の前には、最上位の戦力が二人いる。
癖が強く、仲は最悪で、守りたい相手を直接守れない欠陥まである。
それでも、使い方次第で、他の連中より遥かに前へ行けるかもしれない。
そして領地を得る権利は、初回の一度きり。
ここで出遅れれば、永遠に誰かの下へ入ることになるかもしれない。
マキトの肩が、僅かに震えた。
シエルは、それを恐怖だと思った。
彼女はソファから立ち上がり、マキトのそばへ歩み寄る。
「旦那さま……」
声音は、どこまでも柔らかかった。
「大丈夫です。突然このようなことになり、不安でおられるのは当然です」
マキトは答えない。
「お住まいのことも、ご家族のことも、この世界のことも……すぐにすべてを受け入れられなくて当然です」
シエルは、傷ついた者へするのと同じように、そっと手を伸ばす。
「ですが、あなたはお一人ではありません。私がいます。私にできることでしたら、何でもいたします。ですから、どうか――」
「くっ……」
マキトの喉から、声が漏れた。
シエルの表情が曇る。
「旦那さま……」
「く、はは……」
それが泣き声ではないと気づいた瞬間、シエルの手が止まった。
マキトは笑っていた。
声を堪えきれず、片手で顔を覆いながら、笑っている。
「……マジかよ」
メルシーが、警戒するように立ち上がる。
「クズ亭主……?」
「マジで、こんなことになるのか」
マキトは窓の外を見た。
そこにあるのは、明日の日常が続くような街ではない。
これから、自分が取り分を奪いに行ける盤面だ。
「会社行って、頭下げて、毎日同じことして生きるだけかと思ってた」
シエルが、青い顔で首を振る。
「旦那さま……まさか、この状況を……」
「最高だろ」
「……え?」
「ルールが壊れる。今まで強かった奴がそのまま強いとは限らない。何も持ってない奴は、持ってる奴に従うしかない」
マキトは、通知画面を指で叩く。
「しかも、最初の一回だけ。百位以内に入れば、領地と指揮権が手に入る」
メルシーが、初めて露骨に引いた顔をした。
「……あんた、怖がってたんじゃないの?」
「怖いよ。死ぬかもしれないしな」
マキトは、楽しそうに笑った。
「でも、死ぬかもしれないから面白いんだろ」
シエルが、震える声を絞り出す。
「いけません。旦那さまは生身なのです。私たちには、あなたを完全にお守りする術がありません」
「知ってる。さっき聞いた」
「でしたら、なおさら――」
「だから面白いって言ってんだよ」
シエルの顔が、絶望に近い色へ変わる。
メルシーは、唇を引きつらせた。
「こいつ……本当にクズとか以前に、頭おかしいんじゃないの……?」
「褒め言葉として受け取っとく」
マキトは、もう一度通知を見た。
画面の隅には、初回ランキング測定開始までのカウントダウンが表示されていた。
《測定開始まで 00:01:37》
その下で、最初のクエスト配信時刻が点滅している。
日付が変われば、もう始まる。
猶予は一週間。
最初の百席を奪うための時間としては、あまりにも短い。
「家は後回しだな」
「旦那さま?」
シエルが、信じられないように聞き返す。
「世界がこうなるなら、あの家を今すぐ直したって仕方ない。領地を取れば、住む場所も拠点も後でどうにかできるかもしれない」
「ですが、ご両親には何と……」
「親父には悪いけど、時代が悪かったってことで納得してもらう」
メルシーが思わず叫ぶ。
「納得するわけないでしょ! 息子の留守番中に家が消えてんのよ!」
「お前のせいだということは忘れんなよ。まあ帰ってきた時に、家のことで怒れるくらい平和なら、その時は素直に殴られてやるよ」
マキトは、ホテルのメモ帳へ新しく文字を書き込んだ。
百位以内。
その下に、二つの名前。
シエル。
メルシー。
「お前ら、明日から覚悟しろ」
シエルは、まだ顔を青くしたまま尋ねる。
「何を、なさるおつもりですか……?」
マキトはペンを置いた。
疲れ切って帰宅した会社員の顔は、もうどこにもなかった。
「決まってるだろ」
窓の向こうでは、再び遠い空へ光が立ち上っている。
サービスを終了したはずのゲームが、現実のルールへ変わろうとしている。
その最初の席を奪うために、マキトは笑った。
「俺たちは、この一週間で絶対にランキングの百位以内に入る」
シエルは、言葉を失った。
メルシーは、罵ることすら一瞬忘れた。
二人が顔だけで選んだ男は、ゲームの知識など持っていなかった。
愛着も、思い出も、攻略経験もない。
それでも、自分たちを見て、条件を聞き、弱点を握り、もう戦力として使うつもりでいる。
世界が壊れ始めた夜。
マキトは初めて、自分の人生を面白いと思った。




