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10.護衛として正しい判断です



階段を下りて数歩で、地上の音は聞こえなくなった。


背後には、まだ朝の光が見えている。


それなのに、車の音も、遠くで響いていた爆発音も、風の気配さえも途切れていた。


あるのは、湿った石の匂いと、一定間隔で浮かぶ青白い炎だけだった。


その時、マキトのポケットでスマートフォンが震えた。


取り出して画面を見ると、見覚えのない表示が浮かんでいる。


《地下迷宮領域へ侵入しました》


《攻略中に撤退した場合、獲得ランキングポイントの一部を失います》


《撤退》


画面の端に、小さな赤いボタンが表示されていた。


「……へえ」


マキトが、僅かに口元を緩める。


シエルが振り返った。


「旦那さま。何かございましたか?」


「いや。逃げ道は用意されてるらしい」


マキトは画面をシエルへ見せた。


対人戦での降伏ペナルティーは、かなり重かった。


一度負ければ順位を大きく落とし、下手をすれば取り返しのつかない差がつく。


だが、迷宮からの撤退は、獲得ポイントの一部を少量失うだけらしい。


「無理そうなら、これを押して帰ればいいってことか」


「でしたら、少しは安心できますね」


「まあな」


マキトは画面を閉じながら、暗い通路の奥を見た。


考えてみれば当然だった。


これらの事象は、元々はソシャゲの仕組みだ。


対人戦のような、勝敗そのものに価値がある戦いならともかく、ダンジョン探索なんてプレイヤーが何度も潜る日常枠だったのだろう。


毎回、負けたら致命傷になるような緊張感を求めていたわけではない。


「つまり、危なそうなら逃げればいい。行けそうなら奥まで覗く」


マキトは、楽しそうに笑った。


「ちょうどいいじゃねえか」


シエルは、その笑みに少しだけ不安そうな顔をした。


「旦那さま。撤退できるからといって、危険へ進んでよい理由にはなりません」


「分かってる。だから、お前が前を歩くんだろ」


「……そういう問題ではありません」


シエルは小さく息を吐き、それでも大剣を構え直した。


「旦那さま。足元にお気をつけください。何が潜んでいるか分かりません」


「分かってる」


マキトは、壁へ視線を向けた。


白いタイルは、階段の途中で終わっている。


その先に続いているのは、地下鉄駅を真似て造ったような、不自然な石造りの通路だった。


改札があるはずの場所には、錆びついた金属の柵が並んでいる。


自動改札の形だけはしているが、読み取り部分には黒ずんだ指のようなものが何本も挟まっていた。


その横を通り過ぎた瞬間。


――ピンポーン。


聞き慣れた、残高不足の警告音が鳴った。


シエルの肩が、びくりと跳ねる。


マキトが横を見ると、彼女はすぐに背筋を伸ばした。


「……何でしょう。今の音は」


「改札の音だな」


「改札……」


「駅を使う時に鳴るやつだ。たぶん、勝手に反応しただけだろ」


「そうですか」


シエルは落ち着いた声で答えた。


だが、大剣を握る手には、明らかに余計な力が入っている。


足元の影から、メルシーの声が響く。


『何よ、シエル。まさか怖いの?』


「いいえ。警戒しているだけです」


『ふーん。肩、跳ねてたけど?』


「反応が早かっただけです」


『本当に?』


シエルは返事をしなかった。


反論する余裕がないらしい。


マキトは小さく笑い、影へ目を落とした。


「メルシー」


『何よ』


「ここなら、見られる心配もねえ。出てきて好きに暴れていいぞ」


一拍、間が空いた。


『……本当に?』


「わざわざ影に隠れて戦う必要もねえだろ。街中じゃねえんだ。多少派手にやっても、困る奴はいねえ」


次の瞬間、マキトの影が大きく揺れた。


黒い光が噴き上がり、その中心からメルシーが勢いよく飛び出してくる。


地面へ降り立つと同時に、黒と赤のバトルドレスの裾が広がり、巨大なハルバートが彼女の手に現れた。


「やっとよ! 昨日からずっと、周りを気にして抑えろだの隠れろだの、鬱陶しかったんだから!」


「シエルが前に出て、自分は俺の影で楽できるって、最初は喜んでたじゃねえか」


「それとこれは別よ! 好きに暴れていい場所でまで、引っ込んでる理由ないでしょ!」


「はいはい」


「その返事、腹立つわね!」


メルシーが噛みついた、その時だった。


通路の奥で、ざり、と何かが擦れる音がした。


三人の視線が、同時に向く。


青白い炎の下に、人影が立っていた。


スーツ姿の男だった。


だが、首から上がない。


代わりに、首の断面から吊革が何本も生えていた。


白い輪が、揺れるたびに金属棒へぶつかり、乾いた音を立てている。


男は片手に鞄を提げたまま、よろめくように歩き出した。


「……遅刻……する……」


首のない身体から、くぐもった声が漏れる。


「……乗ら……ないと……会社……」


シエルの足が、僅かに止まった。


「旦那さま。あれは……」


「見たまんまだろ。気色悪い化け物だ」


「ず、随分と冷静ですね」


「冷静っていうか、怖がっても消えてくれねえからな」


マキトも、決して平気ではなかった。


顔のないスーツ姿が、吊革を揺らしながら近づいてくる。


そんなものを見て、楽しいと思えるほど感覚は壊れていない。


ただ、隣でシエルが明らかに怯えているせいで、自分まで取り乱すわけにはいかなくなっていた。


メルシーは、そんな二人を一度見てから、唇を吊り上げた。


「何よ。私に見せ場を譲ってくれるってわけ?」


ハルバートを肩に担ぎ、怪物へ向かって歩き出す。


「だったら、ありがたく貰ってあげる!」


吊革の怪物が、突然走り出した。


首から生えた白い輪が伸び、蛇のようにメルシーへ絡みつこうとする。


だが、その前にハルバートが振り抜かれた。


黒い刃が、怪物の胴体を真横から叩き潰す。


肉を断つ音ではなかった。


湿った紙袋の中身をまとめて踏み潰したような、嫌な音が通路へ響いた。


怪物の身体は石床へ叩きつけられ、黒い液体を撒き散らしながら崩れ落ちた。


吊革だけがしばらく揺れ続け、やがて溶けるように消えていく。


「ふん。こんなもの?」


メルシーが得意げに鼻を鳴らした。


同時に、マキトのスマートフォンが震える。


画面には、簡素な表示が浮かんでいた。


《敵性存在を撃破しました》


《ランキングポイントが加算されました》


《経験値を獲得しました》


メルシーが、自分の手を開いて見つめる。


数秒待ったが、何か大きな変化が起きる様子はない。


「……何よ。これだけ?」


「いきなり劇的に強くなるほど甘くはねえってことだろ」


「分かってるわよ! でも、久しぶりに好きに暴れたんだから、もう少しくらい何かあってもいいじゃない!」


「雑魚一匹倒しただけで贅沢言うな」


シエルは、消えていった怪物の跡へ視線を向けたまま、大剣を握り直した。


「旦那さま。あれは異様な姿をしていましたが、少なくとも撃破は可能なようです」


「ああ。敵の強さだけなら、今のところ街で襲ってきた奴らと大差はなさそうだな」


マキトは画面を閉じる。


「ただ、まだ入口で一匹倒しただけだ。奥に何がいるかまでは分からねえ」


「でしたら、なおさら慎重に進むべきですね」


「分かってるわよ」


メルシーが、ハルバートを肩に担ぐ。


「慎重に進むのは好きにすればいいけど、次に出てきた奴も私がやるから。さっきの一撃だけで私の実力を判断されちゃ困るもの」


「誰に見せたいんだよ」


「決まってるでしょ。あんたによ!」


言い切った直後、メルシーは自分の言葉に気づいたのか、僅かに顔を赤くした。


「……じゃなくて! 屑亭主が私の価値を勘違いしないように、見せておく必要があるって意味よ!」


「はいはい」


「その返事、やめなさいよ!」


メルシーは、先ほどまでの不気味さなど忘れたように、ハルバートを手に通路の奥を睨んだ。


「さあ、次はどこ!? この私を待たせるんじゃないわよ!」


その声に反応するように、地下の奥から構内放送が流れた。


『まもなく、一番線に電車が参ります』


男の声だった。


やけに鮮明で、穏やかで、普通の駅の放送と変わらない。


だからこそ、不気味だった。


『危険ですので、黄色い線の内側まで――』


一度、音声が途切れた。


ざりざりとノイズが入り、続いた言葉だけが低く歪む。


『――お戻りにならないでください』


シエルが、無言でマキトのシャツの裾を掴んだ。


マキトは視線だけを落とす。


白い指が、黒いシャツをしっかり握っている。


「シエル」


「……はい」


「掴んでるぞ」


「申し訳ありません。足元が、不安定でしたので」


石床は、どこまでも平らだった。


「そうか」


「はい。足元が」


「じゃあ、離す必要はねえな」


シエルが、僅かに顔を上げた。


マキトはそれ以上何も言わず、通路の奥を見たまま歩き出す。


シエルは迷った末に、シャツを掴んだまま、その後へ続いた。


前を歩いていたメルシーが振り返る。


「ちょっと、シエル! 何やってんのよ!」


「警護に必要な距離を保っているだけです」


「どこがよ! 思いっきり屑亭主の服掴んでるじゃない!」


「旦那さまから離れないことは、護衛として正しい判断です」


「その震えてる手でよく言うわね!」


シエルは答えず、マキトの背中へ少し近づいた。


メルシーのこめかみに、青筋が浮かぶ。


「……あざとい。何なのよ、その怯えてますけど健気に頑張ってますみたいな立ち位置。ペ天使のくせに、こういう時だけ女出してんじゃないわよ!」


「メルシー」


マキトが、面倒そうに口を挟む。


「怖いもんは、怖いままでいいだろ」


「はぁ!?」


「無理に平気な顔させたところで、戦いやすくなるわけでもねえ。それに、敵が出たらシエルは動くだろ」


シエルの手が、ぴくりと動いた。


「旦那さま……」


「別に庇ってるわけじゃねえぞ。俺も、こういうのは好きじゃねえからな」


メルシーが目を細める。


「……あんたも怖いの?」


「気味悪いだろ、普通に。顔のない会社員だの、誰もいねえ駅の放送だの。俺一人なら、帰る理由を探してたかもしれねえ」


「だったら、何でそんな普通に歩いてんのよ」


「俺より怖がってる奴が隣にいると、逆に落ち着くんだよ」


シエルが、気まずそうに俯いた。


「……お役に立てているのであれば、幸いです」


「そこで律儀に受け取るなよ」


「ちょっと待ちなさいよ!」


メルシーがハルバートの柄を床へ打ちつけた。


「何その空気! 私はあんたに格好いいところ見せるために出てきたのに、何でシエルが服掴んで慰められてんのよ!」


「知らねえよ。勝手に競争して勝手に負けた気になってんじゃねえ」


「負けてないわよ! 私の方が百倍役に立つって、今すぐ証明してやるんだから!」


怒鳴った直後、通路の天井から何かが落ちてきた。


スーツ姿の人型が三体。


一体は顔全体が定期券の読み取り機に変わっている。


一体は腰から下がなく、両腕で床を這いながら、折れた社員証を何度も石床へ押しつけていた。


もう一体は、膨れ上がった腹から複数の革靴が突き出し、それぞれがばらばらの方向へ歩こうとしている。


『急いで……』


『遅刻……』


『もうし……わけ……』


メルシーの顔が、ひくりと引きつった。


「……本っ当に気持ち悪いわね、こいつら!」


苛立ちのまま、ハルバートを横薙ぎに振るう。


黒い衝撃が通路を走り、三体の怪物をまとめて壁へ叩きつけた。


一体はそのまま砕け、残る二体が無理やり身体を起こす。


だが、起き上がった動きは明らかに遅い。


関節が軋み、身体に浮かんでいた黒い筋が、腐るように広がっていく。


「ほら、見なさいよ!」


メルシーが笑う。


「私の攻撃を一度でも受けたら、まともに動けると思わないことね。立つ力も、襲う力も出せず、そうやって腐っていくのよ!」


二撃目。


残った怪物も、黒い染みだけを残して崩れ落ちた。


スマートフォンが、短く連続で震える。


《敵性存在を撃破しました》


《敵性存在を撃破しました》


《敵性存在を撃破しました》


《ランキングポイントが加算されました》


《経験値を獲得しました》


それだけだった。


白い光も、黒い魔力の膨張もない。


メルシーは、しばらく期待するように自分の身体を見下ろしていたが、何も起きないと分かると、露骨に眉を吊り上げた。


「……上がらないじゃない」


「何がだよ」


「レベルよ! ここまで私が片づけたんだから、そろそろ何かあってもいいでしょ!」


「四体程度で騒ぐな。でも街で雑魚を倒すのと、ポイントは大して変わってねえな?」


マキトは画面を操作し、現在順位を確認する。


《現在順位:23位》


順位も変わっていなかった。


迷宮の怪物を倒したところで、ランキング上の価値はそれほど高くないらしい。

メルシーが不満そうに舌打ちする。


「何よ。気色悪いだけで、稼ぎとしては大したことないってわけ?」


「今のところはな」


「でしたら、引き返されますか?」


シエルが尋ねる。


声は落ち着いていたが、その視線は先ほどから何度も通路の奥とマキトの背中を行き来している。


マキトは、暗闇の先へ目を向けた。


街で雑魚を探して歩き回るのと、ここで怪物を倒すのとで、ポイントに大差はないらしい。


それなら、危険度の分だけ割に合わない可能性もある。


だが、未踏破領域である以上、奥には何かあるはずだった。


敵か。


報酬か。


それとも、もっと別の何かか。


「ここで帰ったら、入口で気色悪い奴を何匹か潰しただけだろ」


「では、進まれるのですね」


「ああ。せめて、この迷宮の奥に何があるのかは見ておきたい」


「本当に物好きね、あんた」


「入ってすぐ帰る方が間抜けだろ」


メルシーは、まだ納得していない様子でハルバートを握り直した。


「いいわ。次に出てきた奴が大物なら、今度こそ私がまとめて経験値にしてやる」


「期待してるぞ」


「ふん。当然よ」


その声に反応するように、通路の奥から湿った音が聞こえてきた。


何かを引きずる音。


壁を爪で引っ掻く音。


遠くで、電車のブレーキに似た甲高い悲鳴が響く。


シエルの指が、またマキトのシャツを強く掴んだ。


マキトは何も言わず、そのまま歩き続けた。


通路を抜けた先には、ホームがあった。


かつて地下鉄駅だった場所を、そのまま巨大化させたような空間だ。


床には黄色い点字ブロックが残っている。


だが、その先にあるはずの線路は、底の見えない黒い穴へ変わっていた。


向かい側のホームには、破れた広告ポスターが並んでいる。


笑顔で化粧品を勧めていたはずの女性の顔は、目と口の部分だけを抉られていた。


旅行広告に写っていた家族は、全員の顔が黒く塗り潰されている。


天井から下がる電光掲示板には、現在時刻の代わりに文字が表示されていた。


《終点 回送》


《終点 回送》


《終点 回送》


「……嫌な場所だな」


マキトの呟きに、シエルが小さく頷く。


「はい……非常に」


その時。


ホームへ、発車メロディが流れた。


明るく、軽快な音だった。


仕事へ向かう朝に、何度も耳にしたことのある音。


続いて、車内アナウンスのような声が響く。


『まもなく、最終列車が参ります』


黒い穴の奥で、光が灯った。


一つ。


二つ。


電車の前照灯のような、丸い光。


だが、近づいてくる音は、車輪の音ではなかった。


ぬちゃり、ぬちゃりと。


巨大な肉の塊が、狭い穴を這いずってくる音だった。


シエルの顔から、血の気が引く。


「旦那さま……あれは……」


「見るなって言っても、来るんだから仕方ねえな」


黒い穴から、列車が現れた。


車両の形をしている。


銀色の車体。


閉じた扉。


並んだ窓。


しかし、車体の下から伸びているのは車輪ではなく、無数の人間の腕だった。


何百本もの手がホームの縁へ指をかけ、巨大な列車を引きずり上げている。


窓の中には、通勤服の人間たちが隙間なく詰め込まれていた。


男も女もいる。


学生服の少女も、作業着姿の老人もいる。


誰も声を上げない。


ただ全員が、曇った窓の内側から爪を立て、外へ出ようとしていた。


先頭車両の正面には、駅員の制服を着た人型が埋め込まれていた。


不自然に長い手足。


帽子の下に顔はなく、割れた電光掲示板がはめ込まれている。


そこに赤い文字が流れた。


《お降りになることはできません》


マキトのスマートフォンが震える。


《領域守護体を確認しました》


《終電の車掌》


《撃破により領域攻略可能》


《警告:高密度残留情報を検知》


「ボスってことか」


メルシーが、ハルバートを持ち直した。


「何よ、あれ。趣味悪すぎでしょ」


「メルシー。任せられるか」


「当然でしょ。むしろ、私以外に誰がやるのよ」


メルシーは一歩前へ出た。


けれど、すぐには突っ込まなかった。


一度だけ振り返る。


シエルは、マキトのシャツを掴んだまま、青ざめた顔で列車を見ていた。


マキトは、それを振り解こうともしていない。


メルシーの眉が、ぴくりと動く。


「……ねえ、屑亭主」


「何だ」


「あれ、壊していいんでしょうね?」


「構わねえ。ただ、窓の中の奴らが本当に人間なら、できるだけ巻き込むな」


「注文が多いのよ」


メルシーの足元から、黒い影が噴き上がる。


赤い瞳が、怒りと苛立ちで鋭く光った。


「まあ、いいわ。今ちょうど、無性に何かを滅茶苦茶にしたい気分なの」


シエルが、僅かに目を逸らす。


メルシーはそれを見て、ますます苛立ったように笑った。


「そこの気色悪い玩具。運が悪かったわね」


ハルバートの刃が、黒い魔力を纏う。


「私の八つ当たりのために、壊れなさい!」


メルシーが踏み込んだ。


一瞬で距離を詰め、終電の車掌へハルバートを叩きつける。


車掌の腕が伸び、刃を受け止めようとした。


だが、触れた瞬間、腕の表面に黒い亀裂が走った。


電光掲示板の文字が乱れる。


《お降りに――》


《おおおお――》


《かえ――》


その瞬間、列車全体が、大きく痙攣した。


窓の内側で、押し込められていた人々が一斉に揺れる。


「一撃で倒れないのは褒めてあげる!」


メルシーが笑い、二撃目を叩き込む。


終電の車掌の片腕が、黒く腐り落ちた。


その瞬間、列車の扉が一斉に開く。


中から、人が落ちてきた。


一人、二人ではない。


何十人もの人間が、ホームへ転がり落ちる。


スーツ姿の男。


パンプスを片方失った女。


学生服の少年。


作業着の中年男。


普段着姿の老人。


誰もが身体の一部を潰され、血を流し、どう見ても生きてはいなかった。


それなのに、全員がゆっくりと立ち上がる。


口々に、同じような言葉を呟きながら。


「……遅れる……」


「連絡……しないと……」


「今日だけは……行かなきゃ……」


「……苦しい」


「眠……い……」


「行きたくない……」


マキトの顔から、笑みが消えた。


シエルが息を呑む。


「この方々は……怪物ではありません」


「分かるのか」


「はい。肉体はすでに失われています。ですが、残された意識が……この迷宮に捕らわれ、動かされています」


スマートフォンの画面にも、新たな文字が浮かんでいた。


《迷宮残留体を確認》


《現実世界における死亡者情報と一致》


《領域支配下にあるため、自律行動不能》


画面の端には、今も《撤退》の文字が残っていた。


押せば帰れる。


ポイントを少し失うだけで、この気色悪い駅から抜け出せる。


マキトは、その表示を一度だけ見た。


それから、列車から吐き出され、なおもホームを歩こうとする死者たちへ視線を戻す。


「……逃げるなら、見ちまう前だったな」


指は、撤退ボタンへ伸びなかった。


メルシーが、露骨に顔をしかめる。


「……最悪ね。死んだ人間まで、手駒にしてるってわけ?」


「死んでも出勤かよ」


マキトは、乾いた声で笑った。


「嫌だねえ。生きてる時とあんまり変わらねえじゃねえか」


口では笑った。


だが、気分は悪かった。



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