11.怖いものは怖いままでいい
少し前まで、自分も毎朝、同じように電車へ乗っていた。
眠気を殺し、肩を押し潰され、会社へ向かっていた。
新卒一年目。
辞めたいとは、入社してそれほど経たないうちから思っていた。
朝早く起き、満員電車に詰め込まれ、会社へ着けば頭を下げる。
定時を過ぎても仕事は終わらない。
先輩が残した事務処理を回され、部長の気分次第でやり直しを命じられ、帰宅する頃には一日のほとんどが終わっている。
明日も同じことを繰り返す。
考えるだけで、反吐が出た。
それでも、すぐには辞められなかった。
一年目で会社を辞めれば、次の面接で必ず聞かれる。
どうして続かなかったのか。
また嫌になれば、すぐ逃げるのではないか。
職歴も実績もない新人を、わざわざ雇う理由がどこにあるのか。
だからマキトは、歯を食いしばっていた。
いつか辞めるために。
次へ行くための最低限の経歴くらいは作ろうと、毎日あの会社へ通っていた。
そんな日々の中で、最も嫌いだった男がいる。
部長だった。
あの男は、マキトには手を出さなかった。
マキトが黙って俯く人間ではないと、早い段階で分かったからだ。
入社して二ヶ月ほど経った頃。
会議室で、気の弱い同期の男が資料の不備を理由に頭を小突かれていた。
一度ではない。
部長は笑いながら、何度も掌でそいつの後頭部を叩いた。
「お前さあ、これくらい言われないと分からないのか?」
同期は、小さな声で謝り続けていた。
「すみません……直します……」
「男のくせに、いちいち情けない顔するなよ。こっちが虐めてるみたいだろ」
その言葉に、周囲は誰も何も言わなかった。
マキトだけが、書類から顔を上げた。
「実際、やってることは虐めに見えますけど」
部長の手が止まった。
「……マキト。お前、上司に向かって随分な口を利くな」
「資料の直し方を教えるのに、頭叩く必要あります?」
部長は、しばらくマキトを睨んでいた。
だが、殴らなかった。
代わりに、その日からマキトへ回される雑務が露骨に増えた。
定時直前に、明日の朝まででいいからと書類を置かれる。
失敗すれば皆の前で責められる。
成功しても、自分の指導のおかげだと笑われる。
それでも、マキトは黙って片付けた。
相手が手をあげてこない程度には、言い返すことは効いていた。
しかし自分以外へ向かう悪意までは止められなかった。
部長は、地味で大人しい女性社員にも絡んでいた。
給湯室で肩に手を置き、笑えば可愛いのにと言う。
飲み会では隣の席を指定し、断られれば翌日から些細な失敗を大声で責める。
ある日、女性社員が顔を引きつらせながら頭を下げている横で、部長は笑っていた。
「社会人なんだからさ。愛想くらい必要だよ? 君のために言ってるんだから」
マキトはその場で、手元の書類を机へ置いた。
「部長。俺の処理、確認お願いします」
「今じゃなくていいだろ」
「今日中に確認しろって言ったの、部長ですよね。まさか忘れたんですか?」
部長は舌打ちして、女性社員から離れた。
救ったつもりはなかった。
次の日から何かが変わったわけでもない。
ただ、見て見ぬふりをするよりはマシだっただけだ。
そして昨日の朝。
非常事態宣言を見たマキトは、会社へ休む連絡を送った。
安全が確認されるまで出社しない。
出勤が必要であれば、連絡してほしい。
最低限の丁寧さを守った、当然の判断だった。
返ってきたのは、部長からの怒りのメールだった。
『社会人としての自覚が足りない』
『出社している社員もいる中で、新人が最初に逃げてどうする』
『こういう時の姿勢は、今後の評価にも響くからな』
それを見て、マキトは通知を閉じた。
もう二度と会社へ行く必要などないかもしれない状況で、よくもまあ評価などと言えるものだと呆れた。
そして、今。
列車から吐き出された死者の群れの中に、その男がいた。
スーツの襟は乱れ、額には血がこびりついている。
手には、会社名の入った社員証がぶら下がっていた。
髪の薄くなった頭頂部だけが、青白い炎の下で妙にはっきり見える。
虚ろな顔で、部長は前へ足を進める。
「……出社……しろ……」
口が、壊れた機械のように動いた。
「……新人が……先に……逃げるな……」
マキトは、思わず笑った。
「部下だけ出社させて、自分は安全な場所でふんぞり返ってる屑だと思ってたんだけどな」
血のこびりついたスーツ姿を見て、さらに口元が歪む。
「違ったか。屑じゃなくて、ただの馬鹿だった」
シエルが、マキトを見上げる。
「旦那さま。お知り合いですか」
「ああ。昨日、俺に出社しろって連絡入れてきた馬鹿だ」
部長は、一歩、また一歩と近づいてくる。
「……評価に……響くぞ……」
「死んでまで評価か。救えねえな、部長」
メルシーが、苛立った様子でハルバートを振り上げる。
「知り合いだろうが何だろうが、邪魔ならまとめて消すわよ!」
「待て、メルシー」
「何よ!」
「あいつだけは残せ」
メルシーが、迫ってくる死者の群れを見渡す。
「どいつよ。全員同じような服着てて分かんないんだけど!」
「あの、てっぺんが禿げてる奴だ」
「てっぺんが……ああ、あの中途半端に禿げ散らかしてるやつ?」
「そう。それ」
部長が生きていた頃、一度も口に出したことのない陰口だった。
会社では、何を言っても自分の不利益になる。
だから腹の中で笑うだけにしていた。
だが、もう遠慮する必要はない。
メルシーは、マキトの顔を見て、にやりと笑った。
「分かったわ。あの禿げだけは避ければいいのね」
「頼む」
「任せなさい。そういう意地悪、嫌いじゃないわ」
メルシーがハルバートを大きく振りかぶる。
終電の車掌が、列車の奥からさらに死者を吐き出そうとした。
その前に、シエルが恐怖を押し殺すように息を吸った。
マキトのシャツから手を離し、大剣を両手で構える。
白い光が、刃から放たれた。
「メルシー。援護します」
シエルはそう言って、大剣を構え直した。
白い光が、刃の根元に集まりかける。
だが、次の瞬間。
列車の奥から、また死者たちが吐き出された。
曲がった腕。
潰れた顔。
破れたスーツ。
それらが折り重なるようにホームへ落ち、壊れた足取りでこちらへ向かってくる。
「……っ」
シエルの喉が、小さく鳴った。
大剣を握る指に力は入っている。
けれど、振れなかった。
白い光は刃に宿ったまま、放たれない。
先ほどまでマキトのシャツを掴んでいた手が、今度は剣の柄を握り締めたまま震えていた。
「シエル?」
マキトが横目で見る。
シエルは答えようとした。
だが、声が出ない。
敵そのものが怖いわけではない。
戦う覚悟がないわけでもない。
ただ、この場所だけは違った。
生きていたはずの人間の形をしたものが、生前の未練を吐き漏らしながら迫ってくる。
その気味悪さが、シエルの足を床へ縫い止めていた。
「……申し、訳……」
最後まで言えなかった。
その横を、黒い影が駆け抜ける。
「そこで固まってなさい、ペ天使!」
メルシーが笑った。
馬鹿にするような声だった。
けれど、その声はいつもより少しだけ鋭い。
シエルが動けないことを責めているというより、その隙を自分が埋めると決めた声だった。
「援護なんてなくても、私一人で十分よ!」
ハルバートに赤黒い魔力が走る。
メルシーは一気に踏み込み、群がる死者の間を駆け抜けた。
黒い一閃が、ホームを薙ぐ。
部長の身体だけを避け、残る死者たちが次々と崩れ落ちる。
叫び声は上がらなかった。
ただ、身体を縛っていた黒い糸が切れるように砕け、崩れた身体が淡い粒子へ変わって消えていく。
最後に残った表情だけが、一瞬、苦痛から解放されたように見えた。
シエルが、安堵と悲しみの混じった顔で目を伏せる。
だが、終電の車掌はまだ動いていた。
電光掲示板の顔に、文字が乱れながら浮かぶ。
《乗車を――》
《拒否――》
《できま――》
「まだ喋れるの?」
メルシーは、心底不快そうに眉を吊り上げた。
「目障りなのよ!」
ハルバートが、車掌の胸を貫いた。
黒い亀裂が、車体全体へ広がっていく。
窓が割れ、扉が弾け飛び、床を這っていた無数の腕が一斉に力を失った。
発車メロディが、壊れた音で繰り返される。
終電の車掌は、掲示板の文字を明滅させながら、最後に一度だけ大きく震えた。
《終点――到着――》
その文字を最後に、巨大な列車は内側から崩壊した。
鉄の形をした肉塊が黒い塵となり、ホームの上へ降り積もる。
同時に、空間全体が低く軋んだ。
壁に浮かんでいた青白い炎が消え、代わりに非常灯のような白い光が、ホームの端から順番に灯っていく。
先ほどまで耳にまとわりついていた発車メロディも、死者たちの声も聞こえない。
静寂の中で、マキトのスマートフォンだけが震えた。
《領域守護体を撃破しました》
《地下鉄迷宮:攻略完了》
《未踏破領域:初回踏破達成》
《初回踏破経験値ボーナスを付与》
続いて、画面に新たな表示が連続して浮かび上がる。
《シエル:LEVEL UP》
《シエル:LEVEL UP》
《シエル:LEVEL UP》
《メルシー:LEVEL UP》
《メルシー:LEVEL UP》
《メルシー:LEVEL UP》
《メルシー:LEVEL UP》
その瞬間、シエルとメルシーの身体から、これまでとは比べ物にならない光が噴き上がった。
「……っ」
シエルが、息を呑む。
白い光が鎧の表面を流れ、金色の装飾が順に輝きを取り戻していく。
彼女の周囲には、淡い光の粒子が一瞬だけ舞った。
メルシーの足元からは、濃密な影が広がった。
ただ床へ落ちていただけの黒が、今は意思を持つように揺れ、彼女の身体へまとわりつく。
ハルバートの刃にも赤黒い魔力が走り、柄を握る指に力を込めた瞬間、周囲の空気が軋んだ。
メルシーは、自分の手を見つめたまま、しばらく声を失っていた。
やがて、ゆっくりと口元を吊り上げる。
「……何よ、これ」
低い笑いが漏れる。
「さっきまでとは、全然違うじゃない。身体が軽い。魔力の通り方も、影の動きも……やっと少し、私らしくなってきたわ」
シエルも、大剣を見つめながら静かに頷いた。
「旦那さま。私も、力が一気に戻っています。先ほどまでの戦闘では感じなかったほど、明確に」
「やっぱり、ボスは経験値が違うな」
マキトは、スマートフォンの画面を見つめる。
入口からここまで、何体か怪物を倒した。
だが、二人に目立った変化はなかった。
ポイントも、街で雑魚を倒した時とほとんど変わらない。
大きな変化が起きたのは、ボスを倒し、未踏破迷宮を初めて攻略した今だけだ。
「初回踏破ボーナスのおかげか?」
メルシーが、興奮を隠しきれない声で振り返る。
「つまり、こういう迷宮を見つけて潰していけば、私たちは一気に育つってこと?」
「たぶんな」
マキトはランキング表示を開いた。
《現在順位:23位》
順位は、攻略前と変わっていない。
ボスを倒し、未踏破迷宮を一つ攻略しても、ランキングにはほとんど影響していなかった。
メルシーが、画面を覗き込んで顔をしかめる。
「あれだけ気色悪い目に遭って、順位が一つも上がってないじゃない」
「ちょっと待て……これはいい」
「何がよ」
「これ、他のプレイヤーには大して価値がねえ」
シエルが、マキトへ視線を向ける。
「どういうことでしょうか」
「ランキングポイントだけなら、街で雑魚を狩るのとそこまで変わらない。ボスまで倒してこれなら、順位を上げたい奴にとっては割に合わねえ」
マキトは、画面に残るレベルアップ表示を指先でなぞった。
「その代わり、初回踏破の経験値だけはでかい。お前らみたいに育ってないキャラには、馬鹿みたいにうまい」
「育ってないって何度も言うんじゃないわよ!」
メルシーが噛みついたが、その声には先ほどまでの苛立ちよりも、力を得た喜びの方が強く滲んでいた。
「私は本来、最上位なのよ! 今まで育つ機会がなかっただけなんだから!」
「分かってる。だから、ここを使えるって話だ」
マキトは、昨日戦ったプレイヤーのことを思い出す。
あの男が連れていたキャラクターは、最初から完成された戦力だった。
動きも、攻撃の重さも、シエルやメルシーとは明らかに違った。
恐らく、他の多くのプレイヤーも同じなのだろう。
サービス終了まで遊び続け、選ばれるほど愛したキャラクターなら、すでに育成を終えている可能性が高い。
そういう連中にとって、経験値の多い迷宮など大した魅力にはならない。
カンストしたキャラクターに、追加の経験値など必要ないからだ。
「他の連中は、もう育て終わってる。だから経験値より、順位に直結するポイントを狙う つまり対人戦を狙うはずだ」
マキトは笑った。
「けど、俺たちは逆だ。今すぐポイントを稼いだところで、一度負けたら奪われちまう」
メルシーが、楽しそうに目を細める。
「なるほどねー!順位しか見てない連中は、旨味のない迷宮なんてわざわざ狙わない。けど、私たちにとっては大当たり。だったら、今のうちに、こっちは勝手に強くなればいいってこと?」
「ああ。他の奴らが見向きもしない迷宮を探して、初回踏破ボーナスだけ拾っていく」
シエルは、自分の大剣を握り直した。
「目立たずに、私たちの不足している力を補えるのですね」
「今のところは、それが一番安全だ。装備の差もあるだろうし、レベルの差もある。今のお前らで、育成済みの最上位キャラと真正面からぶつかって勝てるとは限らねえ」
「勝てないって決めつけるのは気に入らないけど」
メルシーは、濃くなった自分の影を踏みながら、不敵に笑った。
「なら次も迷宮で決まりね。もっと私を育てなさい。そうすれば、カンストだか何だか知らないけど、偉そうにしてる連中もまとめて地面へ這わせてあげるわ」
「頼もしいことで」
「ちゃんと感謝しなさいよ、クズ亭主」
シエルが小さく微笑んだ。
その顔には恐怖の色がまだ残っている。
それでも、二人の力が大きく戻ったことだけは確かだった。
マキトはスマートフォンを閉じ、崩れた列車の跡へ視線を向けた。
「方針は決まったな。ポイントを集めるのは後回しだ」
足元に残る黒い塵を踏み越え、口元を歪める。
「まずは、未踏破迷宮を探して、お前らを育てる」
その時、ホームの端で、ずるりと足音がした。
三人の視線が向く。
崩れた列車の跡を越え、部長だけが歩いていた。
ボスは消えた。
他の死者たちも、メルシーの一撃で姿を消した。
それでも部長は、破れたスーツのまま、誰もいないホームを歩き続けている。
崩れた列車の向こうには、先ほどまで存在しなかった改札が浮かび上がっていた。
迷宮の出口なのだろう。
薄暗い構内の先で、現実の駅の出口へ続く階段がぼんやりと見えている。
部長は、その改札へ向かって歩いていた。
「……出社……」
濁った目を正面へ向けたまま、覚束ない足取りで進んでいく。
「……遅刻……まずい……」
やがて、改札まであと数歩という場所へ辿り着いた。
その瞬間。
部長の身体が、ぴたりと止まった。
前へ出そうとした足が、何もない空間に阻まれる。
もう一度、進もうとする。
だが、進めない。
目の前には何も見えない。
柵も、壁も、鎖もない。
それなのに、部長の身体はその一線を越えられなかった。
「……出社……」
部長は、何度も同じ場所へ身体を押しつける。
肩をぶつける。
手を伸ばす。
爪を立てる。
だが、見えない壁に遮られたように、改札へは一歩も近づけない。
「……通せ……」
壊れた声が、僅かに揺れた。
「……会社……行かないと……」
シエルが、息を詰める。
「旦那さま。あの方は……出口へ向かうことすら許されていません」
「ああ。見れば分かる」
マキトは、部長の横を通り過ぎた。
部長を阻む見えない境界は、生きているマキトたちには何の意味もないらしい。
マキトはそのまま改札を越える。
シエルも、迷いながら後へ続いた。
メルシーも、何も言わない。
改札の向こう側へ出たところで、マキトは足を止めた。
振り返る。
部長は、ほんの数歩先にいる。
けれど、その数歩を永遠に越えられない。
濁った目が、改札の向こうに立つマキトを捉えた。
「……マキト……」
部長の口が、ぎこちなく動く。
「……出社……しろ……」
マキトは、思わず笑った。
「無理ですよ、部長。俺、もう休みの連絡入れたんで」
「……新人が……先に……帰るな……」
「帰るんじゃありませんよ。俺は休みです」
部長は、見えない壁へ手を押しつけた。
何もない空間を掻きむしるように、指だけが動く。
「……評価……下げる……ぞ……」
「好きにしてくださいよ」
マキトは、改札の向こうから部長を見下ろした。
「それより、早く出勤した方がいいんじゃないですか?」
部長の身体が、びくりと震える。
「……出社……」
「ほら。会社、行かなきゃまずいんでしょう?」
マキトは、わざと穏やかな声で続ける。
「遅刻したら評価に響きますよ。我々に散々言ってたじゃないですか」
「……通せ……」
「俺に言われても困りますよ。社会人なら、自分でどうにかしてください」
部長は、何度も見えない壁へ身体をぶつける。
改札は目の前にある。
出口も見えている。
それでも、絶対に辿り着けない。
メルシーが呆れたような声で言った。
「……消してあげようか、そいつ」
マキトは、首を横に振る。
「いや。いい」
「本当に? 見てるだけで気分悪いんだけど」
「俺は部長と違って、優しい男だからな。殴ったり、消したりなんてしねえよ」
部長へ向けて、マキトは薄く笑う。
「部長。安心してください」
「……出社……しないと……」
「あんたの大好きな仕事は、まだ終わってませんよ」
見えない壁の向こうで、部長の指が空を引っ掻く。
「そこから会社へ向かって、ずっと歩いてればいい」
マキトは、改札の向こう側から最後に告げた。
「いつか辿り着けるといいですね。部長」
部長は答えなかった。
いや、答えられなかった。
ただ、出社しなければならないという壊れた執念に動かされ、何もない壁へ何度も身体をぶつけ続ける。
改札は、目の前にある。
地上への階段も、その先にある。
それでも部長は、永遠にそこから出られない。
メルシーが、低く笑った。
「……あんた、本当に性格悪いわね」
「何もしてねえよ。本人が出社したがってるから、応援してやっただけだ」
「そういうところが性格悪いって言ってんのよ、クズ亭主」
シエルは、改札の向こうに残された部長を一度だけ振り返った。
何かを言いかけるように、唇が僅かに動く。
だが、暗いホームの奥から発車メロディに似た音が流れた瞬間、その顔が強張った。
シエルは、反射的にマキトのシャツを掴む。
「……旦那さま」
「何だ」
「早く出ましょう」
マキトは、震える指で自分のシャツを掴むシエルを見下ろした。
それから、見えない壁の向こうでなお改札へ進もうとする部長へ、興味を失ったように背を向ける。
「ああ。出るか」
三人は、地上へ続く階段へ向かった。
その背後では、いつまでも声が響いていた。
階段を上がる途中で、マキトは足元の影へ視線を落とした。
「メルシー。外へ出る前に、影へ戻れ」
「……」
「街で姿を晒す必要ねえだろ。敵に見られる可能性もある」
メルシーは、マキトの影を見下ろした。
昨日なら、近すぎるだの、落ち着かないだの、一言二言では済まないほど文句を言ったはずだった。
けれど今は、口を尖らせただけだった。
「……分かったわよ」
「随分素直だな」
「うるさい。やっぱりこんな気持ち悪い場所を歩いて帰るより、あんたの影の中の方がまだマシってだけ」
「そういうことにしといてやる」
「本当に一言多いのよ、あんたは!」
悪態を吐きながら、メルシーの身体が黒い光に包まれる。
そのままマキトの影へ沈み、姿を消した。
今度は途中で止まることも、文句をつけることもなかった。
シエルが、それを見て静かに微笑む。
「メルシーも、旦那さまのお傍が落ち着くようになったのですね」
『聞こえてんのよ、ペ天使! 勝手に綺麗にまとめるんじゃないわよ!』
「元気そうで何よりだ」
『あんたも笑うな!』
マキトは、シエルを連れて階段を上がった。
一段進むごとに、石造りだった壁が白いタイルへ戻っていく。
青白い炎が消え、代わりに壊れかけた蛍光灯が天井で明滅していた。
やがて、封鎖用バリケードの置かれた地下鉄入口へ辿り着く。
地上へ出た瞬間、朝の光が三人を包んだ。
遠くでサイレンが鳴っている。
人気のない街は、入る前と変わらず静まり返っていた。
それでも、地下の空気と比べれば、外の景色は信じられないほどまともに見えた。
シエルが、深く息を吐く。
「……地上は、落ち着きますね」
「お前、本当に駄目だったんだな」
「敵そのものは、怖くありません。ですが、あの場所は……少々、好ましくありませんでした」
『少々どころじゃなかったでしょ。最後、完全に帰りたがってたじゃない』
「メルシー。今は、影の中にいらっしゃるのですから、少し静かにしていただけますか」
『嫌よ。あんたがクズ亭主の服を掴みっぱなしだったこと、一生擦ってやるんだから』
シエルが、自分の手元を見た。
地上へ出てもなお、マキトのシャツを掴んだままだった。
慌てて手を離す。
「……失礼いたしました、旦那さま」
「別にいい。破れてねえしな」
「そういう問題なの……?」
影の中から、メルシーの呆れた声が聞こえた。
マキトはスマートフォンを取り出し、改めて攻略報酬を確認した。
画面には、経験値以外の報酬も表示されていた。
《踏破報酬を獲得しました》
《特殊素材:血塗られた切符》
《分類:高位装備素材》
画面の上に、黒い乗車券の画像が浮かんでいる。
端が焦げたように崩れ、中央には読めない文字で行き先が刻まれていた。
メルシーが影の中から覗くように声を上げる。
『高位装備素材ですって。いい物じゃない』
「素材ってことは、このままじゃ使えねえだろ」
「加工すれば、私たちの武器をさらに強化できる可能性があります」
「誰が加工すんだよ」
シエルが、困ったように黙る。
メルシーも、一度言葉を詰まらせた。
『……そのうち、そういう能力のキャラでも見つかるでしょ』
「結局、探す必要があるってことか」
『何よ。不満なの?』
マキトは、黒い切符の表示を閉じた。
「いや。やることが増えるのは悪くねえ」
影の中で、メルシーが笑った気配がした。
「旦那さま。次も、迷宮を探されるおつもりですか?」
「ああ」
シエルとメルシーは確実に強くなった。
最上位でありながら、未実装だったために育成されていない二人。
その弱点を埋めるには、他のプレイヤーが見向きもしない迷宮踏破が最適答だった。
地下で怯えていた顔には、もういつもの穏やかさが戻り始めていた。
「旦那さま。次の迷宮へ向かわれる際は、どうか十分に観察を行ってから入ってください」
「分かってる。でも次もあんな気色悪い場所とは限らねえだろ?」
「はい……私としてはできれば明るい迷宮が望ましいです」
『何よ、やっぱり怖かったんじゃない』
「怖いものを怖いままでいいと、旦那さまがおっしゃってくださいましたので」
『それを盾に開き直るんじゃないわよ!』
マキトは、二人の言い合いを聞きながら歩き出した。
人の消えた街。
どこかで暴れているモンスター。
順位を上げるために、これから互いを潰し合うであろうプレイヤーたち。
その中で、自分たちがやるべきことは決まった。
目立つ必要はない。
今すぐ勝負に出る必要もない。
順位に現れない場所で、二人を育てる。
誰も価値を感じない未踏破領域を、未完成の最上位キャラクター二人のために使い潰す。
マキトは、楽しそうに口元を歪めた。
「よし。次も迷宮を探すぞ」
『当然よ。次はもっと私が活躍できる場所にしなさい』
「選べるならな」
「旦那さま。可能であれば、地下ではない場所を……」
『甘えるんじゃないわよ、猫かぶり女!』
「お前も影から出られなくなったら笑うぞ」
『出れるわよ! 出れるに決まってるでしょ!』
騒がしい声を連れたまま、マキトは無人の道路を進んでいく。




