12.こんなホラーゲームだったっけ?
地下鉄迷宮を出たあと、マキトたちはそのまま街を歩き続けた。
人の気配はほとんどない。
マキトはスマートフォンを取り出し、画面を確認した。
地下鉄迷宮を攻略したことで、シエルとメルシーの力は明らかに戻っていた。
街をうろつく通常の魔物程度なら、もうそれほど時間をかけずに処理できる。少なくとも、昨日のように一つひとつ性能を確かめながら慎重に動く必要は薄くなっていた。
なら、やることは決まっている。
「未踏破迷宮を探すぞ」
シエルが、わずかに顔を上げる。
「続けて向かわれるのですか?」
「今が一番うまいんだろ。未踏破とついているのなら時間が経つほど減っていくはずだ、それならすぐに向かうに越したことはない」
『いいじゃない。分かってきたわね、クズ亭主』
「お前を育てるためだ。少しは感謝しろ」
『何で私が感謝する流れなのよ。あんたが私に頼ってるんでしょ』
「そうだな」
あっさり認めると、影の中のメルシーが一瞬黙った。
シエルが、少しだけ微笑む。
「では、参りましょう。旦那さま」
「次は怖くない場所だったらいいな」
『まだ言ってる』
そうして三人は、街を回った。
最初に見つけたのは、営業を停止した大型デパートだった。
正面玄関は固く閉ざされていたが、地下駐車場へ続く搬入口の奥に、明らかに現実とは違う青黒い光が揺れていた。
階段を下りた先は、地下食品売り場だった。
ただし、そこに並んでいたものは商品ではない。
氷の張った冷蔵ケースの中で、人の形に似た何かが折り畳まれるように詰め込まれている。
精肉売り場の札には読めない文字が並び、値引きシールの赤だけが妙に鮮やかだった。
棚の間を、買い物籠を提げた異形が歩いている。
首のないマネキンに似た怪物が、特売品を探すように棚へ手を伸ばしていた。
天井のスピーカーからは、壊れた館内放送が流れ続けている。
『本日はご来店いただき――』
『閉店――』
『お買い忘れのないよう――』
『お帰りください――』
「帰らせる気ある雰囲気じゃねえだろ」
マキトは顔をしかめた。
シエルは大剣を構え、足音を殺して前へ出る。
「旦那さま。背後にお気をつけください」
「お前が前で全部斬れ」
「はい」
その返事は落ち着いていた。
だが、いつもより少しだけ早口だった。
『怖がってるわねえ、白乳』
「警戒しているだけです」
『へえ。じゃあ、その肩の力は何?』
「メルシー。後ほどお話ししましょう」
『その言い方が怖いんだけど』
シエルが踏み込んだ。
白い刃が暗い売り場を裂き、買い物籠を持った怪物がまとめて崩れ落ちる。
メルシーも影から飛び出し、ハルバートで冷蔵ケースごと異形を砕いた。
最奥にいた領域の主は、無数の値札を貼り付けられた巨大な肉塊だった。
値段の数字が脈打つたびに、床へ赤黒い液体が滴る。
長く見るものではなかった。
シエルの大剣が中心を断ち、メルシーの黒い魔力が残骸を押し潰す。
売り場の照明が一斉に落ちたあと、マキトのスマートフォンが震えた。
《デパート地下迷宮:攻略完了》
《未踏破領域:初回踏破達成》
《踏破報酬を獲得しました》
《特殊素材:血塗られた値札》
画面に表示された値札は、端が焼け焦げ、中央に黒ずんだ血が染み込んでいた。
「……いらねえ見た目してるな」
『素材なんだから見た目に文句言っても仕方ないでしょ』
「素材でも限度があるだろ」
シエルは周囲を見回し、静かに息を吐いた。
「次は、もう少し健全な場所ですと助かります」
その願いは、あまり叶わなかった。
二つ目に見つけたのは、廃病院だった。
古い看板は外れかけ、入口には立入禁止のテープが何重にも貼られている。
だが、自動ドアだけが勝手に開閉を繰り返していた。
中へ入ると、待合室には誰もいない。
椅子は整然と並び、受付にはカルテのような紙束が積まれている。
天井の蛍光灯が一本ずつ明滅し、そのたびに廊下の奥が見えたり消えたりした。
壁の表示板には、呼び出し番号が浮かんでいる。
三桁の数字が、音もなく切り替わる。
そのたびに、どこかの診察室の扉が少しだけ開いた。
「病院系は駄目だろ。絶対ろくなもん出ねえじゃん」
「……はい。私も、ここはあまり好ましくありません」
『あんたたち、さっきから文句多くない?』
メルシーは影から半身だけを出し、廊下の奥を眺めた。
『気持ち悪いのは分かるけど、怖がるほどじゃないでしょ』
「だったらお前が先に行け」
『嫌よ。効率が悪いじゃない』
「怖くないんだろ」
『怖くないけど、面倒なのは嫌なのよ!』
「使えないな」
『うるさい』
空のストレッチャーが、曲がり角の向こうから滑るように現れた。
乗っているものはない。
それなのに、白いシーツだけが人の形に膨らんでいる。
シエルが一息で距離を詰め、大剣を振り下ろした。
ストレッチャーは真っ二つに割れ、中から黒い触手のようなものが溢れ出た。
マキトは即座に後ろへ下がる。
「うわ、無理」
『本当に顔に出るわね、あんたら』
「無理なもんは無理だろ」
シエルも大剣を構えようとした。
だが、白いシーツの下から溢れた黒い触手を見た瞬間、その動きがわずかに止まる。
「……っ」
ほんの一瞬。
戦えないほどではない。
けれど、前の迷宮でマキトの袖を掴んで離せなかった時と同じ種類の恐怖が、シエルの指先を強張らせた。
メルシーが影の中で呆れたように息を吐く。
『はいはい。あんたは下がってなさい』
「メルシー……!」
『別に馬鹿にしてるわけじゃないわよ。あんた、そういうの苦手でしょ』
メルシーが影から飛び出した。
黒いハルバートを肩に担ぎ、白いシーツの怪物を見下ろす。
『こういう気持ち悪いだけのやつは、私の方が向いてるのよ』
「頼む」
マキトが短く言う。
『言われなくても』
メルシーは笑った。
『それに、クズ亭主の正妻は私だしね。ペ天使が震えてる間くらい、私が見せ場をもらってあげるわ』
その直後、手術室の扉が内側から叩かれた。
何度も。
何度も。
やがて扉が開き、包帯で全身を縛られた大きな影が這い出してくる。
手には、錆びた手術器具が何本も握られていた。
そこから先は早かった。
メルシーが正面からハルバートを叩き込む。
領域の主が器具を振り上げるより先に、赤黒い一撃が重なった。
病院全体を満たしていた金属音が止む。
スマートフォンに表示が浮かんだ。
《廃病院迷宮:攻略完了》
《未踏破領域:初回踏破達成》
《踏破報酬を獲得しました》
《特殊素材:血塗られたメス》
「……素材名、全部その方向で行くのか?」
『何よ。分かりやすくていいじゃない』
「分かりやすいのと、欲しいかどうかは別だろ」
シエルは病院の出口を見つめていた。
「旦那さま。次へ向かう前に、一度外の空気を吸わせていただいてもよろしいでしょうか」
「俺もそうしたい」
『本当に仲良く怖がるわね、二人とも』
三つ目は、街の外れにある閉鎖工場だった。
高いフェンスに囲まれ、門には錆びた鎖が巻かれている。
敷地内の建物は暗く沈んでいたが、工場の奥だけが赤い光を漏らしていた。
内部では、止まっているはずの機械が動いていた。
ベルトコンベアがゆっくりと流れ、何も乗っていないのに重そうな音を立てている。
吊り下げられた作業服が、中身もないまま揺れていた。
プレス機が上下する。
金属を潰す音ではない。
何か柔らかいものを噛み潰すような音だった。
「……またこういう系かよ」
マキトは天井を見上げた。
配管の隙間から蒸気が漏れている。
その音が、かすれた息のように聞こえた。
シエルは大剣を握り直し、目を細める。
「旦那さま。次こそは、普通の魔物が出る場所を希望いたします」
『普通の魔物なら普通の魔物で、今度は退屈って言うんでしょ』
「言わねえよ。俺は分かりやすい暴力を歓迎する」
『最低な歓迎ね』
「化け物が棚から出たり、手術室から這ってくるよりマシだ」
工場の奥で、何かが動いた。
巨大な歯車を背負った影。
腕の代わりに金属のアームを何本も生やした怪物が、油を滴らせながら歩いてくる。
顔に当たる部分には、作業員用のヘルメットだけが埋まっていた。
メルシーがハルバートを肩に担ぐ。
『ああ、こいつはいいわ。気持ち悪いけど、殴れば壊れそう』
「その評価は助かる」
「旦那さま。今度こそ、私が動きを止めます」
「やれ」
シエルが真正面から踏み込み、巨大な大剣で機械腕を弾いた。
火花が散る。
メルシーの黒い影が床を走り、怪物の足元に絡みつく。
歯車の回転が鈍った瞬間、二人の攻撃が中心を貫いた。
機械の唸り声が止まる。
ベルトコンベアも、プレス機も、作業服の揺れも、まとめて静まり返った。
《閉鎖工場迷宮:攻略完了》
《未踏破領域:初回踏破達成》
《踏破報酬を獲得しました》
《特殊素材:血塗られた歯車》
外へ出ると、夕方の空が赤く染まり始めていた。
迷宮の中で見た赤とは違う。
普通の夕焼けだった。
それだけで、少し救われた気分になる。
マキトは道路脇に腰を下ろし、スマートフォンを片手に息を吐いた。
「なあ」
「はい」
『何よ』
「ラグオダって、こんなホラーゲームだったっけ?」
メルシーが即座に言った。
『それ、私たちに聞く? 一応あんた、プレイヤーでしょ』
「何度も言ってんだろ。まともに触ってねえんだよ。おかしい気はするけど、元がどうだったか分からねえから判断できねえ」
シエルは少し考えてから答えた。
「少なくとも、私たちが知る敵は、街に現れているような魔物の類が主でした。今日の迷宮にいたものは、性質が違います」
「場所ごと化け物になってる感じだよな」
「はい。魔物というより、領域そのものが歪んでいるように感じました」
『ゲームがこの世界に入り込む時に、余計なものでも混ざったんじゃないの?』
メルシーが何気なく言う。
シエルは否定しなかった。
「可能性はあります。ただ、断定はできません」
「じゃあ、分からんってことか」
「申し訳ありません」
「別に謝ることじゃねえよ」
マキトは立ち上がった。
「分からんもんは分からん。ただ、毎回迷宮が怖いってことだけは分かった」
シエルが静かに頷く。
「……はい」
メルシーは鼻で笑った。
『二人揃って情けないわね』
「お前は怖くないのか」
『気持ち悪いとは思うわよ。でも、怖がって何か変わる?』
「性格悪いな」
『あんたにだけは言われたくないわ、クズ亭主』
そんなやり取りをしながら、三人はホテルへ戻った。
道中にも魔物は出た。
大型犬に似たもの。
角の生えた小鬼。
羽虫を大きくしたような群れ。
だが、迷宮の怪物に比べれば、どれも正体が分かりやすかった。
シエルが前へ出れば、ほとんどの敵は一撃で終わる。
メルシーが時折影から出て横から獲物をかっさらっていく。
マキトはそれを見て、二人が確実に強くなっていることを理解した。
派手な変化はない。
だが、戦闘の安定感がまるで違う。
少なくとも、街を歩くだけなら昨日よりずっと楽になっていた。
日が沈む頃、ホテルが見えた。
高層の建物は、薄暗くなった街の中でまだ形を保っている。
マキトにとって、そこはもう単なる避難先ではなかった。
飯が出る。
寝る場所がある。
風呂も使える。
そして、今の世界でそれがどれほど貴重かは、外を一日歩けば嫌でも分かった。
だから、ホテルの入口が見えた瞬間、マキトは足を止めた。
「……閉まってるじゃん」
正面のシャッターが下りていた。
しかし、完全には閉まっていない。
床から少し浮いた位置で止まっている。
下の隙間から、何かがはみ出していた。
布か。
肉か。
暗くてよく分からない。
シエルの表情が変わった。
「旦那さま。お下がりください」
影の中から、メルシーの声も低くなる。
『クズ亭主、そこで止まりなさい。中に何かいるわ』
「またかよ」
シャッターの向こうから、荒い呼吸音がした。
獣臭い。
迷宮の湿った悪臭とは違う。
もっと分かりやすく、獣じみた臭いだった。
シエルは大剣を構え、マキトを振り返る。
「私が確認いたします。よろしいでしょうか」
「行け。中に人がいるなら、先に確保しろ」
「承知しました」
シエルは身を低くし、シャッターの隙間からロビーへ入った。
数秒後。
中で何かが吠えた。
重い足音が響く。
続いて、ロビーのガラスが割れる音。
マキトはシャッターの隙間から中を覗いた。
巨体が見えた。
緑がかった皮膚。
丸太のような腕。
手には、壊れた柱材を棍棒のように握っている。
ファンタジー作品でよく見る、いかにもなオークだった。
「普通のやつ来たな」
『普通って言い方もおかしいけど、まあ分かりやすいわね』
シエルは怯まなかった。
迷宮の怪物を相手にしていた時とは違う。
相手の形が分かる。
攻撃の意図が分かる。
なら、対応できる。
オークが棍棒を振り下ろす。
シエルは半歩ずれて避け、大剣を横へ払った。
白い軌跡がロビーを走る。
オークの巨体が、その場で崩れ落ちた。
一撃だった。
シエルはそのまま周囲へ目を走らせる。
「旦那さま。今のところ、一階に他の魔物の気配はありません」
「入るぞ」
マキトはシャッターの下をくぐった。
メルシーも影から出て、ハルバートを構えたままロビーを見渡す。
一階は荒れていた。
ソファはひっくり返り、観葉植物の鉢は割れている。
床にはオークが暴れた跡が残り、受付カウンターの一部は砕けていた。
だが、人の死体はない。
血の跡も少ない。
「逃げ遅れはいなさそうだな」
「はい。少なくとも、この階には」
しばらく確認していると、上階へ続く非常階段の扉が開いた。
支配人が姿を見せる。
顔色は悪いが、怪我はない。
背後には従業員らしき人影もあった。
支配人はロビーの惨状と倒れたオークを見てから、深く頭を下げた。
「戻ってくださったのですね」
「入口でこいつが暴れてたんで」
マキトは倒れたオークへ視線を向ける。
支配人は頷いた。
「少し前から、ホテル周辺で魔物の姿が確認され始めました。念のため、お客様と従業員を上階へ移していたのですが……正解だったようです」
「判断早いですね」
「この状況です。遅れれば取り返しがつきません」
支配人の声は震えていた。
それでも、言葉ははっきりしている。
マキトは少しだけ感心した。
この支配人は、ただ助けを待っていたわけではない。
自分でできる範囲のことはしていた。
だから被害が一階だけで済んだ。
「今朝のお願い事を聞いてくださりありがとうございます……本当に助かりました」
支配人は、改めてシエルへも頭を下げた。
「本当にありがとうございます。皆さまのおかげで、全員無事です」
シエルは静かに首を横へ振る。
「間に合ってよかったです」
メルシーが小さく鼻を鳴らす。
「一階は酷い状況だけどね」
支配人は苦笑した。
「片付けは我々で行います。お疲れでしょう。お部屋へお戻りください。食事も、準備でき次第お持ちいたします」
マキトは肩をすくめる。
「泊まる場所が荒らされたら、こっちも困るんで。約束の範囲ですよ」
「それでも、感謝しても足りないくらいです」
その言葉を背中に受けながら、三人はエレベーターへ向かった。
最上階のスイートルームに戻ると、マキトは上着を脱ぎ捨てるようにソファへ沈んだ。
「疲れた」
『ずっと後ろにいたくせに?』
「後ろにいても疲れるんだよ。精神が」
「本日は、何もかもが悪すぎました」
シエルは大剣を壁際へ立て掛け、丁寧に息を整えた。
メルシーもハルバートを床に立てる。
マキトはスマートフォンを取り出し、今日手に入れた素材を確認した。
《血塗られた切符》
《血塗られた値札》
《血塗られたメス》
《血塗られた歯車》
画面の中に並ぶ名前だけで、気分が少し回復してくる。
「で、これどうやって使うんだよ。素材って言われても、俺に何かできるわけじゃねえぞ」
シエルが画面を覗き込む。
「加工用の施設、あるいは専用のキャラが必要なのかもしれません」
「施設なんか知らねえしな」
『アプリの中に何かないの?』
メルシーに言われ、マキトはメニューを開いた。
昨日までは見落としていたのか、それとも条件を満たしたから表示されたのか。
深い階層に、新しい項目が二つあった。
《合成》
《強化》
「あるじゃねえか」
『ほら見なさい。私のおかげね』
「お前が作った機能じゃねえだろ」
『見つけるきっかけにはなったでしょ』
「はいはい」
マキトはまず《合成》を開いた。
素材を選択する欄が表示される。
説明は短い。
素材を組み合わせ、新たな装備またはアイテムを生成します。
「何が出るか書いてねえな」
「組み合わせによって変わるのでしょうか」
『適当にやってみれば?』
「失敗したらお前の武器にする」
『何でよ!』
マキトは少し考え、地下鉄で手に入れた切符と、デパートで手に入れた値札を選んだ。
画面が暗転する。
黒い背景に、赤い線が走る。
二つの素材が溶けるように重なり、やがて一本の細長い形になった。
光が収まる。
画面には、新しい装備名が表示されていた。
《血霧の杖》
次の瞬間、スマートフォンの画面から淡い光が浮かび上がり、マキトの手の中に一本の杖が現れた。
黒い柄に、赤い石が埋め込まれている。
見た目だけなら、いかにも魔法使いが使いそうな武器だった。
「……杖」
マキトはそれを持ち上げた。
想像より重い。
手の中にあるだけで、妙な安心感があった。
「杖ってことは、魔法を使えるようになるのか?」
シエルを見る。
「お前、使えるか?」
シエルは申し訳なさそうに首を横へ振った。
「私は剣と補助の力が主体です。杖を用いる術式は扱えません」
「じゃあ、お前は?」
メルシーは露骨に嫌そうな顔をした。
「無理。私はハルバートよ。そんな細い棒を渡されても困るわ」
「そうか」
マキトは杖を見た。
少し、残念だった。
だが、そこで諦めるのも惜しい。
「なら俺が使ってみるか」
シエルが目を瞬かせた。
「旦那さまが、ですか?」
「杖なんだから、持って叫べば何か出るかもしれねえだろ」
口ではそう言ったが、胸の奥では別の期待もあった。
父親が本当に異世界出身の竜なら。
その息子である自分にも、何か一つくらい不思議な力があってもいいのではないか。
もちろん、確証はない。
むしろ、そんな都合のいい話があるとは思っていない。
それでも、異世界の杖を手に持ってしまえば、一度くらい試したくなる。
マキトは立ち上がり、杖を前へ向けた。
顔だけはいい。
そのせいで、構えだけは妙に決まっていた。
シエルは真面目な顔で見守っている。
メルシーは最初から笑う準備をしている。
マキトは低く言った。
「……燃えろ」
何も起きなかった。
杖の先は光らない。
火も出ない。
部屋の空気すら揺れない。
数秒の沈黙。
マキトは、少しだけ杖の角度を変えた。
「……ファイア、とか?」
やはり何も起きなかった。
メルシーが吹き出した。
「っ、あははははははっ!」
「笑うな」
「無理! 何それ! 本気で出ると思ってたの!? その顔で杖構えて、何にも起きないの、だっさ!」
「……いや、ロマンあるからいいだろ」
「ロマンで魔法が出るなら苦労しないわよ!」
メルシーは腹を抱える勢いで笑っている。
マキトは杖を下ろし、気まずそうに目を逸らした。
シエルは笑っていない。
笑ってはいないが、口元が少しだけ緩んでいた。
「旦那さま。構えは、とてもお似合いでした」
「慰めが一番きついんだよ」
「いえ、本当に」
「やめろ。余計きつい」
メルシーはまだ笑っていた。
「駄目、思い出すだけで笑える。クズ亭主が魔法使い気取りで、燃えろって……!」
「忘れろ」
「忘れるわけないでしょ。今日一番面白かったもの」
「今日一番がそれでいいのかよ」
「いいわよ。迷宮なんかよりずっと面白かったわ」
マキトは舌打ちしながら、アプリ画面を操作した。
杖の詳細欄に、《倉庫へ戻す》という項目がある。
試しに押すと、手元の杖が光になって消えた。
画面の中には、《血霧の杖》の名前が残っている。
「消えたわけじゃねえな。アプリの倉庫に戻っただけか」
「必要な時に再度取り出せる、ということでしょうか」
「たぶんな」
メルシーがにやにやと笑う。
「それ、夜中にこっそり取り出して練習するんじゃないの?」
「しねえよ」
「絶対する顔してるわ」
「しねえって」
マキトは画面を戻し、今度は《強化》を開いた。
合成は何が出るか分からない。
なら、残りは直接二人の武器へ使った方がいい。
《血塗られたメス》をシエルの大剣へ。
《血塗られた歯車》をメルシーのハルバートへ。
素材を選択すると、画面に確認表示が出る。
マキトは迷わず決定を押した。
スマートフォンから光が広がる。
同時に、壁際の大剣と、メルシーのハルバートが淡く輝いた。
白と黒。
二つの光が部屋の中で交差し、すぐに収まる。
シエルは大剣を手に取り、感触を確かめた。
「……魔力の通りが、少し滑らかになっています」
メルシーもハルバートを軽く振る。
「悪くないわね。ほんの少しだけど、刃が軽く感じる」
「見た目は?」
マキトが期待して見る。
二人の武器は、特に変わっていなかった。
大剣は大剣のまま。
ハルバートはハルバートのまま。
色が変わったわけでも、模様が増えたわけでもない。
マキトは眉を寄せる。
「……色とか模様とか、変わらねえのか」
メルシーが呆れた。
「また見た目の話?」
「装備強化ってそういうもんだろ。強くなったら見た目でも分かるようにしろよ」
「子供みたいなこと言ってるわね」
「うるせえ、俺は元からこんなもんだ」
シエルは大剣を見つめながら言った。
「素材が一つだけでしたので、大きな変化には至らなかったのかもしれません」
「一定段階まで強化しないと見た目は変わらねえとか、そういう仕様かもな」
「本当に手探りね、あんた」
「知ってる奴がいねえんだから仕方ねえだろ」
マキトはスマートフォンをソファへ放った。
そのまま背もたれに身体を預ける。
一日で迷宮を三つ潰した。
ホテルに入った魔物も処理した。
素材の使い方も、少しだけ分かった。
得たものは多い。
だが、同じくらい疲れた。
メルシーはまだ時々、杖の件を思い出して笑っている。
「本当に、燃えろ、はないわ」
「しつこい」
「だって面白かったんだもの」
「お前、明日から杖担当な」
「嫌よ」
「似合うかもしれないだろ」
「似合うわけないでしょ」
シエルは二人のやり取りを、穏やかな顔で見ていた。
いつものような敵対の刺々しさは薄い。
迷宮の空気から解放されたせいか、部屋の明るさのせいか。
あるいは、マキトが格好悪いところを見せたからか。
空気が少しだけ柔らかかった。
マキトは、二人の武器へ視線を向けた。
「まあ、見た目は変わってねえけど、今日は十分だったな」
シエルがこちらを見る。
「本日の攻略が、でしょうか」
「それもある。迷宮を三つ潰して、ホテルまで守った。俺は怪我一つしてねえ」
マキトは淡々と言った。
「昨日より、かなり頼れるようになってる」
シエルは一瞬、言葉を失った。
誰かの役に立ったと、はっきり認められた経験がない。
だから、その言い方がどれほど雑でも、胸の奥に残る。
「……ありがとうございます、旦那さま」
「礼を言うほどのことじゃねえよ。事実だ」
メルシーは顔を背けた。
「何よ。明日も私たちを使い倒すために、機嫌取ってるだけでしょ」
「そうだな。明日も使うから、勝手に壊れるなよ」
「誰が壊れるか! あんたの方が放っておいたらすぐ死ぬでしょうが!」
「だから守れって言ってんだよ」
「言い方!」
「嫌か?」
メルシーはすぐに返さなかった。
少ししてから、目線を逸らし舌打ちする。
「……嫌とは言ってないでしょ」
シエルが、そっと目を細めた。
マキトは気づかないふりをした。
こういう空気を正面から扱うのは、面倒だった。
やがて食事が届き、三人は簡単に腹を満たした。
ホテルの人間も疲れているのか、料理は昨夜より少し簡素だった。
それでも、外の惨状を思えば十分すぎる。
温かい食事が出て、清潔な部屋で眠れる。
それだけで、この場所を守る理由にはなる。
夜が深くなった。
マキトはベッドへ向かい、上着を脱いで放り投げる。
今日はもう動く気にならない。
シエルは部屋の照明を見上げていた。
消灯するかどうかを、わずかに気にしている。
昼間の迷宮が、まだ頭に残っているのだろう。
マキトはそれに気づいた。
「今日は電気つけたままでいいか」
シエルが振り向く。
「よろしいのですか?」
「暗くして、お前が変な夢でも見て起こしてきたら面倒だろ」
「……ありがとうございます、旦那さま」
メルシーが即座に茶化す。
「あんたが怖いだけじゃないの? シエルにかこつけて、自分が怖がってるのを隠してるだけでしょ」
「嫌ならお前だけ暗い廊下で寝てろ」
「はぁ!? 何で私が追い出されるのよ!」
「怖くねえんだろ?」
「怖くないわよ! でも、それとこれは別でしょ!」
言い返してから、メルシーは悔しそうに唇を尖らせた。
マキトはそれ以上追及しなかった。
シエルも、少しだけ困ったように微笑んでいる。
結局、誰も部屋を出て行かなかった。
明るいままのスイートルームで、三人はそれぞれの場所へ落ち着く。
そしてマキトはベッドに倒れ込んだ。
柔らかい。
その感触だけで、意識が少し沈む。
「……明日も迷宮探すぞ」
シエルは少し間を置いてから答えた。
「……無理だと思いますが、次はもう少し分かりやすい敵であることを願います」
メルシーが笑う。
「また二人が怯えてたら、今度こそ一日中笑っててあげるわ」
マキトは目を閉じたまま言った。
「その時は、さっきの杖をお前に持たせて魔法のポーズ取らせる」
「絶対嫌よ!」
「魔法少女メルシー。響きだけならいいな。性格が魔女って感じだけど」
「誰が魔女よ! ぶっ飛ばすわよ、クズ亭主!」
シエルが小さく笑った。
メルシーはまだ何か文句を言っている。
マキトはそれを聞き流しながら、明るい天井を見上げた。
外では、世界が壊れ続けている。
街には魔物がいて、どこかには他のプレイヤーがいて、迷宮はまともな顔をしていない。
それでも、この部屋の中には食事の匂いが残り、騒がしい声があった。
安全とは言えない。
平穏とも言えない。
だが、退屈ではなかった。
マキトは、口元をわずかに緩め、目を閉じた。
照明は消えない。
その夜、スイートルームは朝まで明るいままだった。




