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13.他人の領域で生きる気はない

マキトが明るい部屋で眠りについたころ。

別の場所では、一人の男が暗闇の中に取り残されていた。



電気が消えたのは、昨日の夕方だった。


最初は、ただの停電だと思っていた。


これだけの騒ぎが起きているのだから、一時的に電力が不安定になることくらいはある。


そう考えて、サダオはしばらく待った。


一時間。


二時間。


夜になっても、部屋の灯りは戻らなかった。


冷蔵庫は沈黙し、エアコンも止まり、テレビも映らない。


スマートフォンの画面だけが、暗い部屋の中で頼りなく光っていた。


朝になれば直る。


そう思って眠ろうとしたが、眠れなかった。


外から、時折、何かが吠える声が聞こえた。


犬ではない。


人間でもない。


どこかで金属が歪む音がして、しばらくしてから、誰かの悲鳴が聞こえた気がした。


サダオは布団をかぶり、息を殺した。


助けになど行かなかった。


自分が見つかるかもしれない。


自分の部屋に、あの声の主が来るかもしれない。


そう思うだけで、身体が動かなかった。


結局、朝になっても電気は戻らなかった。


スマートフォンの充電は、もう半分も残っていない。


冷蔵庫の中のものは、少しずつ嫌な匂いを出し始めている。


この一帯へ電気を送っていた送電線か、変電設備か。


何か重要なものが、モンスターに壊されたのだろう。


復旧の気配はない。


誰かが直しに来る気配もない。


窓の外を覗く勇気すらなかった。


サダオは、カーテンの隙間を指で少しだけ開けようとして、すぐにやめた。


もし、目が合ったら。


そう考えると、何も見ない方がよかった。


食料は尽きかけていた。


買い置きは少ない。


冷凍食品は、もう駄目だろう。


菓子の袋の底に残った欠片と、常温になった飲み物が少し。


水道はまだ出る。


けれど、水だけで生きられるわけではない。


サダオはラグオダのプレイヤーだった。


ラグナロク・オーダー。


サービス終了したはずのゲーム。


そのキャラクターたちが現実に現れたと、ネットでは大騒ぎになっていた。


サダオにも、好きだったキャラはいた。


いや、好きだったと思っていた。


人気があったから。


容姿が良かったから。


性能も高かったから。


SNSで絵も多く流れていたし、持っているだけで分かっている側の人間になれた気がした。


だから、好きだった。


そのキャラの物語を何度も読み返したわけではない。


台詞の一つ一つを覚えていたわけでもない。


そのキャラに救われたことがあるわけでもない。


人気で、強くて、見た目がよかった。


それだけだった。


だが、そのキャラは来なかった。


他のプレイヤーの元には来ているらしい。


スマートフォンの残り少ない電池を使って、サダオはSNSを見た。


画面には、そんな投稿ばかりが流れてくる。


『うちの嫁がモンスター倒してくれた』


『一緒にコンビニまで行けた。食料確保』


『避難所まで連れて行ってもらった』


『この子が来てくれなかったら死んでた』


『泣いた。ずっと好きでいてよかった』


サダオは、画面を睨んだ。


指先に力が入る。


自分もプレイヤーだった。


自分にも好きなキャラはいた。


なのに、来なかった。


なぜ自分だけ。


サダオは、自分の愛が浅かったのではないかとは考えなかった。


人気だから選んだだけだったのではないかとも思わなかった。


キャラを一人の存在ではなく、便利な女キャラとして見ていたから選ばれなかったのではないか、などとは一度も考えなかった。


ただ、自分だけ与えられなかったことに腹を立てていた。


嫁キャラ持ちはいい。


外へ出ても守ってもらえる。


食料を探しに行ける。


夜になれば傍にいてくれる。


怖くなれば慰めてもらえる。


好きな言葉を言わせたり、好きなことをさせたりもできるのだろう。


サダオの頭の中に、下品な想像が広がっていく。


それを恥じる気持ちはなかった。


むしろ、そういうものを手に入れた連中が妬ましかった。


選ばれた奴らはいい。


強い女キャラに守られて、飯も手に入って、好きなだけ甘やかされている。


でも自分は違う。


暗い部屋で、電池の減るスマートフォンを握っているだけ。


サダオは、画面の中で楽しそうに報告しているプレイヤーたちを恨んだ。


やがて、その恨みは別の方向へ向かう。


力があるなら、この辺一帯のモンスターくらい倒してくれてもいいはずだ。


自分たちだけ食料を確保して、自分たちだけ守られているのはおかしい。


周りに困っている人間がいるのだから、助けるべきだ。


そう思いながらも、サダオは誰かに連絡して頭を下げようとはしなかった。


避難所へ向かおうともしなかった。


対価を払う気もなかった。


ただ、誰かが勝手に来て、自分の周囲の危険を取り除かないことに苛立っていた。


「力があるなら、自慢ばっかしてないでモンスターくらい排除しろよ……」


乾いた声が、暗い部屋に落ちる。


「何で自分たちだけ安全に過ごしているんだよ」


返事はない。


腹が鳴った。


サダオは、しばらく動かなかった。


しかし、何も食べずにいれば、空腹は消えない。


充電も減っていく。


部屋の中にいても、状況は悪くなるだけだった。


サダオは、台所から包丁を持ってきた。


本気で戦えると思っていたわけではない。


ただ、何も持たないよりはいい。


近くのコンビニまで行けば、何か残っているかもしれない。


小さいモンスターなら、包丁を見せれば逃げるかもしれない。


大きいものがいたら、走ればいい。


そんな考えだった。


玄関まで行く。


ドアスコープを覗く。


外は暗い。


廊下には何も見えない。


サダオは息を止めた。


チェーンを外す。


鍵を回す。


ドアを、ほんの少しだけ開ける。


目の前に、何かがいた。


濡れたような音がした。


サダオが叫ぶより早く、扉の隙間から太い腕が入ってきた。


包丁が床へ落ちる。


身体を掴まれる。


引きずり出される。


最後にサダオの頭に浮かんだのは、反省ではなかった。


何で俺だけ。


その言葉だけを残して、扉は外側から大きく開いた。




翌朝。


マキトは、ホテルのスイートルームでテレビを見ていた。


部屋は明るい。


電気は使える。


水も出る。


少し待てば食事も運ばれてくる。


外の状況を考えれば、信じられないほど恵まれた環境だった。


だからこそ、テレビ画面の向こうで流れる情報との落差が大きい。


アナウンサーは、疲れた顔を隠しきれていなかった。


声だけは、どうにか落ち着かせようとしている。


『不要不急の外出は控えてください』


『屋内で安全を確保してください』


『パニックにならず、行政からの案内をお待ちください』


その下では、別の現実がテロップとして流れ続けていた。


物流網に深刻な混乱。


配送停止地域の拡大。


各地で停電。


避難所の場所の解説。


一部地域でモンスター被害。


マキトは、ソファに沈んだまま鼻で笑った。


「いや、物流なんかモンスターが出始めた頃から止まってるだろ。待機してればどうにかなる段階じゃねえよ」


シエルは、テレビを見つめたまま表情を曇らせた。


「食料を備えていない方々は、外へ出ざるを得なくなるのではありませんか」


「出たら死ぬ。出なくても飢える。最悪ね」


メルシーは、窓際に立ったまま淡々と言った。


マキトは否定しなかった。


その通りだったからだ。


ニュースは続く。


営業を停止しているスーパーやコンビニ、ドラッグストアで、商品が強奪される事件が相次いでいるらしい。


被害の多くはモンスターではない。


人間によるものだという。


アナウンサーは、強奪行為は犯罪であり、冷静な行動を取るよう呼びかけていた。


必要物資は行政の指示に従って受け取ってほしい。


買い占めや略奪は控えてほしい。


パニックにならないでほしい。


画面の向こうでは、まだ過去の社会の言葉が使われている。


だが、現場ではもう別のものが始まっていた。


「モンスターが無限湧きしてる時点で、過去の社会をそのまま形作るのは無理だろ」


マキトは、呆れたように呟いた。


たった三日。


それだけで、当たり前だったものは過去になった。


まだ国はある。


ニュースも流れている。


行政の言葉も残っている。


それでも、生活の足元はもう崩れていた。


次のニュースでは、各地の避難所の映像が流れた。


市営体育館。


学校の校舎。


公民館。


そこに集まった人々の前で、鎧姿の女や、獣耳の少女、翼を持つ異形のキャラクターたちが周囲を警戒している。


《ラグナロク・オーダー》のキャラクターを伴ったプレイヤーが、避難所の防衛や避難誘導に協力しているという。


昨日、政府はキャラクターが傍にいる者へ、無理のない範囲で避難誘導やモンスター排除への協力を求めていた。


その結果が、画面に映っている。


自主的協力の呼びかけは、すでに形になり始めていた。


ただし、良い話だけではない。


別のテロップが流れる。


キャラクターの力を悪用し、営業停止中の店舗や倉庫から物資を独占する者が出ている。


避難所周辺で威圧行為を行うプレイヤーも確認されている。


周囲への脅迫、物資の私的な囲い込み、キャラクターを用いた強奪行為を行わないよう、注意が呼びかけられていた。


マキトは、画面を見ながら短く笑った。


「そりゃ出るだろうな」


シエルが眉を寄せる。


「人々を守るために力を使っている方々も、確かにいらっしゃるはずです」


「ああ。いるだろうな」


マキトは否定しなかった。


画面の中には、実際に避難者を守っているプレイヤーもいる。


怪我人を背負うキャラクター。


門の前に立ち、モンスターを近づけないようにしている少女。


子供を避難所へ誘導する鎧姿の女。


善意で動いている者はいる。


間違いなくいる。


だが、同じ力を持った者が、全員まともに使うとは限らない。


メルシーが退屈そうに言った。


「力を持った奴が全員いい子になるなら、苦労しないでしょ」


「守る奴もいる。奪う奴もいる。キャラ持ちってだけで、英雄にも山賊にもなれるってことだ」


マキトはテレビから視線を外した。


社会はもう、プレイヤーたちをただの異常者として扱っている余裕を失っていた。


管理する側が、力を持つ側に頼り始めている。


なら、この先、その力をどう使うかで立場は大きく変わる。


守る側にもなれる。


奪う側にもなれる。


支配する側にも、支配される側にも。


マキトはスマートフォンを手に取った。


ラグオダ2のアプリを開く。


画面に表示されたランキングを確認する。


《ランキング終了まで:残り四日と十七時間》


《現在順位:30位》


マキトの目が、そこで止まった。


昨日の夜までは21位だった。


それが、一晩で30位まで落ちている。


九つ。


数字だけを見れば、致命的な転落ではない。


だが、昨日までほとんど動いていなかったランキングが、夜のうちに確かに動いていた。


「……何があった?」


シエルが隣から画面を覗き込む。


「順位が、下がっているのですね」


「ああ。九つ落ちた」


メルシーが眉を寄せた。


「寝てる間に抜かされたってこと?」


「そういうことだな」


マキトは画面を睨んだ。


初日の夜以外、運営から大きなイベントは起きていなかった。


他のプレイヤーも、積極的には動いていない。


少なくとも、そう見えていた。


嫁が傷つくのを嫌がっているのか。


ランキング報酬に魅力を感じていないのか。


あるいは、その両方か。


そう考えていたはずだった。


だが、違った。


何かが、昨日の夜に変わっている。


マキトはスマートフォンの通知欄を開いた。


そこで、未読の運営通知に気づいた。


時刻は、昨日の深夜零時。


マキトが眠っていた時間だった。


「昨日の夜中に来てたのかよ」


メルシーが呆れた顔をする。


「あんた、運営からの連絡を寝過ごしたわけ?」


「寝てる時に送ってくる運営が悪い」


「開き直るんじゃないわよ」


通知は二つあった。


一つ目。


《新機能:ショップ機能の実装について》


二つ目。


《ランキング終了後機能の一部先行開放について》


マキトは、まずショップ機能の告知を開いた。


内容は単純だった。


全プレイヤーへ、新機能としてショップを実装。


ポイントを消費することで、食料、飲料、医薬品、衣類、生活必需品などを購入可能。


購入した商品は、使用者の現在地付近に出現する。


ショップ機能はランキング終了後も継続利用可能。


「ショップは全員に開放か」


マキトは画面を操作し、一覧を開いた。


そこには商品が並んでいた。


カップ麺。


飲料水。


缶詰。


栄養補助食品。


包帯。


市販薬。


電池。


トイレットペーパー。


下着。


洗剤。


ラグオダの世界観とは、何の関係もないものばかりだった。


現代日本で普通に売られていた商品。


見覚えのあるラベル。


どこかで見たメーカー名。


ソシャゲ運営が扱うには、あまりにも現実寄りの物資。


マキトは眉を寄せた。


「これ、ラグオダ関係ねえだろ」


シエルも画面を覗き込む。


「私にも、見覚えのない品ばかりです」


メルシーは不快そうに唇を歪めた。


「何でこんなものまで扱ってるのよ」


答えはない。


だが、気持ち悪さは残る。


この商品はどこから来るのか。


複製なのか。


どこかにある在庫を転送しているのか。


あるいは、現実の物資そのものがゲームの仕組みに取り込まれ始めているのか。


マキトは深く考えるのをやめた。


今必要なのは、仕組みの正体ではない。


使えるかどうかだ。


一覧の中から、安い飲料を一つ選ぶ。


必要ポイントは少ない。


街にいる雑魚モンスターを一体倒せば手に入る程度だった。


「試すか」


シエルが問いかける。


「購入されるのですか?」


「ジュース一本なら、失敗しても痛くねえだろ」


マキトは購入ボタンへ指を伸ばした。


その時、ふと画面の端に表示された別の商品名が目に入る。


《バッテリー充電》


マキトの指が止まった。


「……は?」


メルシーが横から覗き込む。


「何よ。変なものでもあった?」


「いや、これ」


マキトは画面を指で軽く叩いた。


《バッテリー充電》

《対象端末のバッテリーを回復します》


必要ポイントは、ジュースと同じだった。


数秒、誰も喋らなかった。


マキトは、自分のスマートフォンの右上に表示されたバッテリー残量を見る。


昨夜、ほとんど倒れ込むように眠ったせいで、充電ケーブルに挿すのを忘れていた。


ニュースを見て、通知を開いて、ショップを確認して。


画面右上の残量は、一日過ごすには心許ない数字になっている。


ジュースを買って試すつもりだった。


喉も渇いている。


だが、今の状況で本当に切らしてはいけないのは、飲み物よりもこの端末だった。


ランキングも、ショップも、領域も、戦闘申請も、全部これを通して行われる。


ただのスマートフォンではない。


この崩れかけた世界で、自分がプレイヤーであることを証明する命綱だった。


マキトは少しだけ迷い、それから小さく笑った。


「どっちかで迷うほどのポイントでもねえか」


メルシーが呆れたように眉を上げる。


「結局、両方買うの?」


「試すなら、物がどんな形で出てくるのかと、意味の分からない方をまとめて試した方が早いだろ」


マキトは飲料と《バッテリー充電》を選択し、まとめて購入を押した。


次の瞬間、スマートフォンの画面から淡い光が漏れた。


まず、ソファ前のテーブルの上に、冷えたペットボトル飲料が一本現れる。


中の液体が揺れている。


キャップには水滴がつき、冷気がうっすらと白く漂っていた。


三人の視線が、自然とそこへ集まる。


「……出たな」


メルシーが顔をしかめた。


「本当に出るのね」


シエルは驚いた様子で呟いた。


「物資を、直接こちらへ送っているのでしょうか」


マキトはペットボトルを手に取った。


重い。


冷えている。


ラベルも、キャップも、手触りも、どこにでもある普通の商品そのものだった。


だが、異常はそれだけで終わらなかった。


手の中のスマートフォンが、続けて淡く光る。


ケーブルを挿したわけではない。


充電器に置いたわけでもない。


それなのに、画面右上のバッテリー残量が、じわじわと増えていく。


41パーセント。


42パーセント。


43パーセント。


数字が現実離れした速度で回復していくのを、マキトは黙って見つめた。


シエルも、メルシーも、言葉を失っていた。


ペットボトルは現れた。


バッテリーは回復している。


どこかから配送されたわけではない。


端末にケーブルが差し込まれ、電気が流れ込んだわけでもない。


ただ、ポイントを払った結果として、現実の状態が変わっている。


やがて、マキトは短く息を吐いた。


「……なんでもありだな、これ」


昨日、ただ挿し忘れただけのスマートフォンが、ポイントを消費しただけで息を吹き返していく。


食料も買える。


飲み物も買える。


医薬品も買える。


そして、電気すらこうして補える。


便利だ。


あまりにも便利すぎる。


だからこそ、気味が悪かった。


このショップは、物を売っているだけではない。


現実の不便そのものを、ポイントで書き換えている。


「これは便利だな。しかも、どこでもできる」


マキトはペットボトルをテーブルに置いた。


電気が止まっても、食料がなくても、ポイントがあれば買える。


店が閉まっていても、商品は出る。


物流が止まっていても、関係ない。


ただし、ポイントは必要になる。


つまり、生きるためには戦わなければならない。


キャラ持ちのプレイヤーは、さらに外へ出る理由を得た。


キャラを持たない者との差は、開く一方だ。


マキトはペットボトルをテーブルに置き、次の告知を開いた。


《ランキング終了後機能の一部先行開放について》


そこには、ランキング上位百名に正式付与予定の機能として、《領域》の説明が記されていた。


ランキング終了まで、全プレイヤーに体験版として開放。


体験版はランキング終了と同時に停止。


ランキング終了後、正式版を利用できるのは上位百名のみ。


領域内にはモンスターが侵入できない。


領域内では、所有者が生存している限り、電気、水道、ガスが維持される。


体験版の領域範囲は限定的。


正式版では、指定したエリア一帯を広範囲に領域化できる。


マキトは、その説明をしばらく見つめた。


「そういうことか」


シエルが問いかける。


「旦那さま?」


「ただの土地じゃねえ。モンスターを拒む生活圏そのものってことだ」


ランキング報酬の意味が、そこで初めてはっきりした。


モンスターが湧く土地を渡されるのではない。


モンスターが入れない場所を作る権利を渡される。


しかも、電気も水道もガスも維持されるらしい。


日常が崩壊した世界では、それだけでいくら富をかけても築き上げなられない特権に近い。


メルシーが画面を覗き込む。


「試さないの?」


マキトは少し考えてから首を横に振った。


「領域は今は使わねえ」


シエルが驚く。


「よろしいのですか? 安全を確保できるのではありませんか」


「体験版は範囲が狭い。今日も外に出る以上、ここに張って戻って来られなかったら意味がねえ」


「では、温存されるのですね」


「ああ」


マキトはスマートフォンを置いた。


「外で詰んだ時か、ホテルに襲撃が来てどうしようもなくなった時まで取っておく」


メルシーは、にやりと笑う。


「便利なものにすぐ飛びつく間抜けなわけじゃないのね」


「使い時を間違えたら便利もクソもねえだろ」


ショップは試す。


領域は温存する。


マキトの中で、その二つはまったく違う扱いだった。


ショップは、どこでも使える。


消費するのは少量のポイントだけ。


だが、領域は場所を選ぶ。


一時的な安全圏を作れるなら、切る場面を間違えられない。


マキトは、改めて領域の説明を見た。


ランキング終了後、正式版を利用できるのは上位百名のみ。


ショップは全員が使える。


だから、ランキング外でも完全に詰むわけではない。


ポイントを稼げば、食料や水は買える。


だが、それだけだ。


寝ている最中にモンスターが入ってこない保証はない。


電気も、水道も、ガスも、維持されるとは限らない。


本当の生活圏を持てるのは、上位百名だけ。


それ以外のプレイヤーは、自分で危険な場所を生き延びるか、誰かの領域に入れてもらうしかない。


他人の領域で暮らす。


それは、相手の機嫌次第で無理難題を押し付けられたり、気に入らなければ追い出されたりする可能性があるということだ。


水や食料は、ポイントさえあれば買える。


だが、夜眠る場所と、モンスターに襲われない空間は別だった。


その一番大事な部分を他人に握られる。


マキトにとって、それは会社にいた頃と何も変わらない。


上の立場の人間に頭を下げる。


理不尽な命令でも飲む。


評価や空気や機嫌に逆らえない。


自分の生活を、他人の判断に握られる。


世界が壊れたあとまで、そんなものに戻る気はなかった。


「他人の領域で飼われる側になるのは、冗談じゃねえな」


その声は、低かった。


シエルは何も言わなかった。


メルシーも、すぐには茶化さなかった。


マキトは考える。


この告知は、全プレイヤーが見ている。


昨日まで、ランキングに興味がなかった者もいただろう。


キャラと静かに暮らしたかった者。


戦闘を避けていた者。


避難所を守るだけで満足していた者。


今の順位なら放置でもいいと思っていた者。


領地の意味が分からず、危険を冒す理由がなかった者。


だが、領域の価値がはっきりした。


上位百名に入れば、安全な生活圏が手に入る。


入れなければ、他人の領域に頼る側へ回るか、危険な場所で自力で生きるしかない。


それを知ったプレイヤーたちは、もうじっとしていない。


ショップで物資は買える。


だが、ポイントがいる。


領域が欲しいなら、順位もいる。


なら、動く。


モンスターを狩る。


迷宮へ潜る。


クエストを行う。


あるいは、他のプレイヤーから奪う。


「今日から、街に出るプレイヤーが増えるだろうな」


シエルが表情を曇らせた。


「戦いを避けていた方々も、でしょうか」


「避けてたら領域を取れない。そう分かったら、嫌でも動くだろう」


メルシーが楽しそうに笑う。


「分かりやすくなってきたじゃない。狩るか、狩られるかってことでしょ」


「そういうことだ」


昨日の夜、ランキングは動き始めていた。


九つ落ちただけなら、まだ大きな崩れではない。


だが、それは逆に言えば、領域の告知を見たプレイヤーたちが、深夜のうちに動き出したということだ。


そして、今日からはもっと加速する。


マキトはスマートフォンを閉じた。


今すぐ対人戦に本格的に出るのは危険だ。


シエルとメルシーは強くなってきている。


それでも、育成済みの上位キャラと正面からぶつかって確実に勝てるとは限らない。


なら、やることは変わらない。


未踏破迷宮を探す。


踏破する。


二人を育てる。


素材を集める。


戦力を整える。


ただし、意味は変わった。


昨日までは、迷宮が怖いとか、気持ち悪いとか言っていられた。


今日は違う。


「迷宮が嫌とか言ってる場合じゃねえな」


シエルが、わずかに固まった。


「……本日も、向かわれるのですね」


「ああ。対人戦を仕掛けられる前に、少しでもお前らを仕上げる」


メルシーはハルバートを担ぎ、口元を吊り上げた。


「やっと本気になったのね、屑亭主」


「本気にならなきゃ、他人の顔色を窺い続ける人生になりそうだからな」


シエルは静かに息を吸った。


怖さはある。


迷宮がどういう場所か、昨日一日で嫌というほど知っている。


それでも、彼女は引かなかった。


「旦那さまがそうお決めになるなら、私は参ります」


「いいわ。次は私がもっと暴れてあげる」


メルシーも続く。


マキトは立ち上がった。


テレビでは、まだ外出を控えるように呼びかけている。


だが、もうそんな言葉だけで生きられる段階ではない。


食料はポイントで買える。


安全は順位で奪う。


領域は上位百名だけが持てる。


なら、止まっている理由はない。


「今日は昨日より急ぐぞ」


その言葉を合図に、三人は部屋を出る準備を始めた。


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