38.また始まった
マキトの目の前には、見慣れた街並みが広がっていた。
ホテル。
マンション。
コンビニ。
行政施設。
四ヶ月かけて、どうにか生活の形を整えてきた領域だった。
最初は、ただ高いだけの選択肢だった。
現代日本の都市。
電気も水道もあり、建物も道路も揃っている。
その代わり、必要ポイントは他の候補とは比べものにならないほど高かった。
それでも、マキトは選んだ。
あの時はまだ、領主としてどう振る舞えばいいのかも分かっていなかった。
人を抱えることの意味も、税収も、治安も、外部拠点も、何一つ実感できていなかった。
それでも今、目の前にある街は確かにマキトの領域だった。
だが、その先が違っている。
街の外に続いているはずの迷宮化した市街地が消えていた。
代わりに広がっているのは、乾いた大地だった。
白っぽくひび割れた土。
砂埃を含んだ風。
見慣れたアスファルトの終わりから、まるで世界が切り替わったように、荒れた大地が始まっている。
この世界のどこにもなかった場所。
そう思えるほど、目の前の景色は異質だった。
さらにその奥に、街があった。
霊工都市。
名前だけ聞けば、巨大な機械要塞のようなものを想像していた。
高い城壁に囲まれ、砲台が並び、霊的な炉や歯車が黒い煙を吐いているような都市を。
だが、実際に見えたのは違った。
白色の石造りの建物が並ぶ、開けた街だった。
通りは広く、建物の高さも極端ではない。
遠目に見える屋根や外縁部にある塔には中世の街らしい整った美しさがあり、少なくとも外側からは、防衛に特化しているようには見えなかった。
現代日本の街並みと同じだった。
生活するための街であって、戦争するための街ではない。
ただの中世の街。
そう見えるからこそ、余計に気味が悪かった。
マキトの領域と、相手の領域が自然につながったわけではない。
こちらの街も、向こうの街も、どこか別の場所へ飛ばされているのだろう。
運営が、無理やり戦場を作ったのだ。
「……本当に、街ごとか」
マキトは呟き、双眼鏡を握り直した。
その数時間前。
領域戦争当日、マキトの端末に対戦相手が表示された。
相手領主、アキラ。
領域特色、霊工都市。
その文字を見た瞬間、マキトは以前の通知を思い出していた。
《領域戦争の対戦相手は、軍政ポイントが近い領主同士を優先して自動的に選出されます》
《これにより、極端な戦力差による一方的な戦闘は発生しにくくなります》
最初に読んだ時から、信用していなかった。
あの運営が、わざわざ公平な戦争を用意するとは思えない。
そもそも「優先」という言葉の時点で逃げ道がある。
「発生しにくくなります」も同じだ。
発生しないとは言っていない。
それでも、限度はあると思っていた。
領主ランキングが発表される。
マキトは二位だった。
その数字を見た時、マキトは少しだけ納得した。
現代日本の都市という超高額な領域特色を選んだ。
慣れないながらにも、領主クエストには本気で取り組んできた。
逃げたいと思ったことは何度もある。
領主などやりたくないと、今でも思っている。
それでも、やるしかなかった。
領民を受け入れ、問題を処理し、外部拠点を守り、ポイントの使い道に頭を悩ませ続けた。
好きで始めたわけではない。
だが、手を抜いたつもりもなかった。
だから二位という順位そのものは、分からなくもなかった。
だが、その後に表示された軍政ポイントを見て、マキトは言葉を失った。
アキラ側の軍政ポイントは、マキト側のほぼ倍だった。
「……これのどこが近いんだよ」
声に出たのは、怒りより先に呆れだった。
信じてはいなかった。
あの通知を真に受けてはいなかった。
だが、これは一方的すぎる。
軍政ポイントは、今回の戦争で使える軍事リソースそのものだ。
兵を買う。
武装を揃える。
防衛設備を設置する。
それらを行うための数字で、倍の差がある。
つまり、戦争の準備段階ですでに負けている。
マキトは端末の画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
理由が分からない。
領主ランキングでは二位。
それでも軍政ポイントでは倍の差。
どこでそこまで差がついたのか、マキトには見当がつかなかった。
考えても答えは出ない。
時間は少し巻き戻る。
当日、マキトは行政施設に人を集めた。
今日だけ領主権限で臨時徴兵されたプレイヤーとキャラたち。
雇用ではない。
領域戦争の間だけ、領主の指揮下に入る一時的な編成だった。
外部拠点防衛のため、マキトはこれまで戦闘職の伴侶を持つプレイヤーたちに連携と訓練を促してきた。
実戦経験も積ませた。
避難所の防衛やモンスターの迎撃を通して、戦える者たちの練度は確かに上がっている。
領域戦争が始まる前にできることはやった。
しかし、軍政ポイントには手をつけられなかった。
何を買うべきか。
兵を増やすべきか。
防衛設備に回すべきか。
領民に武装を配るべきか。
それとも、もっと別の使い方があるのか。
何度も考えた。
だが、マキトは本物の戦争を知らない。
なら、戦争が分かるキャラに聞くしかない。
そう考えた時、臨時徴兵された者たちの中から一人の女が前に出た。
ミカエラ。
女神陣営の月兎系UR指揮官。
淡い月白の髪から、長い兎耳が静かに伸びていた。
柔らかい印象を与える種族特徴とは裏腹に、その立ち姿に愛嬌はない。
薄金の瞳の奥には冷えた理性があり、月明かりのように静かで、逃げ場のない圧があった。
知的な眼鏡をかけ、姿勢は崩れず、声にも無駄がない。
豊かな体つきとは裏腹に、雰囲気は刃物のように冷たかった。
シエルとは正反対だった。
同じ女神陣営に属していても、シエルが人を支える昼の光なら、ミカエラは戦場を照らす冷たい月光だった。
慰めるためではなく、どこを切れば勝てるのかを見逃さないために輝く光。
この場に指揮官キャラがいたこと自体、奇跡に近い。
ミカエラは端末に表示された数字を確認し、すぐに結論を出した。
「正面から軍備をぶつければ負けます」
会議室の空気が重くなる。
「軍政ポイントは相手が倍。質で追いつくのは不可能です。であれば、こちらは数で補うしかありません。安価な武装を大量に購入し、領民にも持たせるべきです」
マキトは顔を上げた。
「領民を戦わせる気か」
「戦闘職として期待する必要はありません。物資を運ぶ。負傷者を下げる。敵の足を止める。それだけでも防衛線は維持しやすくなります」
ミカエラは淡々と言った。
「最悪、壁にもなります」
その言葉に、会議室のあちこちから息を呑む音がした。
マキトはミカエラを睨む。
「却下だ」
「くだらない感情論ですか?」
「違う。戦後の話だ」
マキトは端末を置いた。
「領民を戦場に出せば、勝っても遺恨が残る。死者が出れば、信頼は崩れる。生き残った奴らも、領主に戦場へ駆り出されたことを忘れない」
「負ければ、その領域ごとなくなります」
「だから勝つための兵は買う。だが領民に武器は持たせない」
「ポイントの差を理解していますか」
「理解している。だから最初から戦闘用に用意されたモーブ兵を買うと言っている」
ミカエラの眉がわずかに動いた。
「領民を使えば、安く数を増やせます」
「戦場で動けるか分からない人間に武器を配るより、最初から命令を聞いて戦える兵にリソースを割る方が効率がいい」
「効率だけで言うなら、領民にも役割を与えるべきです」
「俺は領民を殺すために領主をやってるんじゃない」
そこで議論は止まった。
止まっただけで、終わってはいない。
ミカエラは譲らない。
マキトも譲らない。
どちらの言っていることも間違っていなかった。
間違っていないからこそ、折り合いがつかない。
マキトは端末の残り時間を確認する。
開戦まで、まだ時間はある。
だが、その時間は議論のためだけにあるわけではない。
この後、防衛設備を整えなければならない。
工事関係や整備関係の技能を持つ非戦闘職を呼び、防衛拠点を整える必要がある。
本拠点を選定し、購入した兵を配置し、導線を確認し、連絡役を決め、退避路を確保しなければならない。
ミカエラにも、実際の作戦を組ませなければならない。
ここで時間を使い続ければ、結論が出た頃には準備ができない。
マキトは端末を操作した。
「旦那様?」
シエルが不安そうに声をかける。
ミカエラも気づいた。
「何を――」
返事を待たず、マキトは購入を確定した。
最上位のモーブ兵。
鎧兵。
連弩兵。
槍兵。
剣兵。
購入できるだけ購入した。
端末上の軍政ポイントが、一気に減っていく。
会議室に沈黙が落ちた。
ミカエラが冷たい声で言う。
「私の案を潰しましたね」
マキトは端末から目を離さなかった。
「このまま話してたら、防衛設備を整える時間も、作戦を考える時間もなくなる」
「強引ですね」
「時間がある時に話し合うなら付き合う。今は無理だ」
ミカエラはしばらくマキトを見ていた。
やがて、静かに息を吐く。
「購入された以上、その戦力で組みます」
「頼む」
「頼む、ではありません。あなたが潰した選択肢の分まで、こちらで帳尻を合わせるんです」
その時、全プレイヤーの端末が同時に震えた。
新たな通知が表示される。
《領域戦争中、プレイヤーと伴侶間の距離制限を一時解除します》
《伴侶は契約者の領域外、および敵対領域内での単独行動が可能になります》
《契約者死亡時の伴侶消失条件は継続します》
シエルの顔が曇った。
「旦那さま……」
メルシーは面白そうに口元を歪める。
「いいじゃない。今までよりは自由に暴れられそう」
ミカエラの長い耳が、わずかに揺れた。
ミカエラは一瞬で作戦上の利点を計算しているようだった。
月兎という種族が持つ感覚なのか、それとも指揮官としての経験なのか。
その薄金の瞳は、もう通知ではなく戦場の形を見ている。
だが、マキトだけは嫌な顔をした。
こちらが自由になるということは、相手も自由になるということだ。
アキラ側の伴侶も、領域から離れて動ける。
こちらの領域内で単独行動もできる。
それが何を意味するのか、今はまだ分からない。
だが、運営がわざわざこの条件を追加した時点で、ろくなことにはならない気がした。
さらに、勝利条件が表示された。
マキトは最悪、領主を殺せば勝ちという斬首戦を覚悟していた。
軍政ポイントで倍の差がある相手に、領主を守りながら戦う。
それが一番厄介だと思っていた。
だが、通知された内容は違った。
《勝利条件》
《敵対領域の行政施設最奥、大会議室への侵入》
《侵入者の種別は問いません》
誰でもいい。
プレイヤーでも、伴侶でも、モーブ兵でも、領民でもいい。
敵の行政施設の最奥にある大会議室へ入れば勝利。
マキトは思わず息を吐いた。
周囲の視線が集まる。
「……なんで安心してるんだ?」
誰かが言った。
マキトは当たり前のように答える。
「領主が死んでも負けじゃないなら、俺も出る」
会議室が一気に騒がしくなった。
「馬鹿か!」
「やめろ!」
「領主が前に出るな!」
シエルが顔色を変えた。
「旦那さま、それは駄目です」
メルシーも呆れたように言う。
「ちょっと待って。さすがに酷すぎない?」
ミカエラは冷たい目でマキトを見た。
「あなたが死んだら、次の領主はどうするんです? 誰がこの領域を動かすんです?」
その口調には、わずかに挑発が混じっていた。
マキトは迷わなかった。
「それなら、お前がやればいい」
端末が反応した。
《領主死亡時の権限委譲先を設定しました》
《委譲先:ミカエラ》
今度こそ、会議室が凍りついた。
シエルが一歩前に出る。
「旦那さま。勝手に決めないでください」
メルシーも目を細める。
「それ、気分で決めたでしょ!ふざけんな」
ミカエラでさえ、呆れてすぐには言葉を返せなかった。
マキトは周囲を見回す。
「今まで我慢して内政をやってきた。慣れない領主クエストにも取り組んだ。人を受け入れて、仕事を作って、外の拠点も守った」
声は荒げていない。
だが、引く気配もなかった。
「でも、今回の戦争は俺が生きていても死んでいても勝利条件そのものには関係ない。なら好きにさせろ」
その場にいた者たちは、ようやく気づいた。
マキトは危険を嫌っていたわけではない。
むしろ、危険な状況へ自分から踏み込む人間だった。
だからランキング上位まで残った。
だから平時に外へも出られた。
だから、誰も行きたがらない場所へ平然と向かえた。
むしろ今まで、よく領主として常識的に振る舞っていたものだ。
そんな空気が会議室に広がる。
メルシーだけが、心底呆れたように肩をすくめた。
「あーあ、また始まった」
その一言で、周囲の視線がさらに変わった。
いつもなのか。
これが、いつもの領主なのか。
ミカエラは短く目を閉じた。
長い耳が、周囲のざわめきを拾うようにわずかに動く。
怒声。
困惑。
呆れ。
不安。
そのすべてを聞き取りながら、彼女は再び目を開いた。
その時にはもう、切り替えていた。
「分かりました。好きにしてください」
マキトを見る目は冷たいままだ。
「ただし、作戦指揮は私が握ります。モーブ兵も、あなたの勝手な行動には使わせません。あなた達は戦力計算から外します」
「好きにしろ」
「本隊の配置、防衛線、防衛設備、非戦闘職の動員。すべて私が仕切ります」
マキトは一つだけ条件を出した。
「領民をできるだけ殺すな」
ミカエラは即答する。
「分かっています。なら、行政施設を要塞にします」
霊工都市は、外から見れば白い石造りの開けた街。
現代日本の都市も、防衛に特化しているわけではない。
どちらも、本来は戦争用の土地ではなかった。
ならば、街中で受ける必要はない。
広い場所で数を相手にする必要もない。
守る場所を絞る。
行政施設。
その最奥にある大会議室。
敵の勝利条件がそこなら、そこへ向かう道すべてを防衛線に変えればいい。
ミカエラはすぐに指示を出した。
最終防衛地点として大会議室を設定、そこから順に防衛手順を整えていく。
広いフロアでは戦わない。
通路で削る。
階段で止める。
扉の前で分断する。
射線を作り、遮蔽物を置き、退避路を確保する。
大会議室までを人間の壁で埋めるのではない。
建物そのものを壁にする。
行政施設に来た避難民は戦闘区域から遠ざける。
その他の領民は各居住地で鍵を閉め外出しないよう指示を出す。
戦える者と、役割を持つ者だけを必要な場所に置く。
工事関係。
整備関係。
補強や罠、バリケード作りに向いた非戦闘職。
そうした者たちを呼び寄せ、軍政ポイントで購入した防衛設備を行政施設に組み込ませる。
無駄な作業はしない。
見栄えも捨てる。
今必要なのは、数時間で機能する防衛線だった。
それから同じよう行政施設から領域外までの計画を立てていく。
ミカエラはマキトの条件に不満を見せながらも、その条件下で彼女なりの最善を組んでいった。
ミカエラの指示で、人とキャラが次々に配置へ向かっていく。
行政施設の中は、もう会議室ではなく戦場の準備場所になっていた。
机は端に寄せられ、通路には資材が運び込まれ、床には配置図が広げられている。
非戦闘職たちは工具や資材を抱えて走り、戦闘職のプレイヤーたちは、自分たちの嫁の担当区域を確認していた。
その中で、何組ものプレイヤーと伴侶が足を止めていた。
これまで、プレイヤーと伴侶は離れすぎることができなかった。
それは不便な制約でもあった。
同時に救いでもあった。
危険な場所へ行く時も、相手はすぐ傍にいた。
傷つけば分かった。
倒れれば手を伸ばせた。
逃げる時も、守る時も、少なくとも同じ景色を見ていられた。
だが、今回は違う。
距離制限は解除された。
作戦上、プレイヤーと伴侶が別々の持ち場へ向かうこともある。
敵の攻撃を受ける場所も、退くタイミングも、死ぬ瞬間さえ共有できないかもしれない。
プレイヤーは、自分の目が届かない場所で伴侶が倒れることを恐れていた。
伴侶たちもまた、自分の手が届かない場所で契約者が死ぬことを恐れていた。
今まで傍にいられたから戦えた。
傍にいると思えたから、無茶もできた。
その当たり前が、初めて引き剥がされようとしていた。
距離制限は本当の意味で解除された。
それは自由に動けるという意味でもあり、別々の場所で死ぬかもしれないという意味でもあった。
通路の端で、若い男が自分の伴侶を抱きしめていた。
彼女は笑おうとしていたが、指先が震えている。
男の方も大丈夫だとは言わなかった。ただ、何度も背中を叩いていた。
別の場所では、戦闘職のキャラが契約者の頬を両手で挟み、強引に顔を上げさせていた。
そして何かを言う代わりに、短く口づけた。
周囲の者たちは見ないふりをした。
冷やかす者はいなかった。
泣いている女もいた。
泣かれている旦那の方が困ったように笑い、最後には自分も目元を拭っていた。
いつもなら軽口を叩いているプレイヤーが、今日は何も言えずに伴侶の手を握っている。
普段は強気なキャラが、契約者の服の裾を離せずにいる。
互いに無事を約束する者もいれば、約束などできないと分かっているからこそ黙って抱き合う者もいた。
これは作戦上、必要な分断だった。
防衛線を維持する者。
行政施設の奥を守る者。
外へ出て敵の動きを探る者。
別方向から回り込む者。
伴侶だけが行ける場所もあれば、プレイヤーだけが残らなければならない場所もある。
誰もが理解していた。
理解しているから、余計につらかった。
次に会える保証はない。
どちらかが倒れれば、それで終わるかもしれない。
勝ったとしても、同じ顔で戻ってこられるとは限らない。
マキトはその光景を少し離れた場所から見ていた。
領主権限で集められた戦力。
数字の上では、配置すべき駒。
だが、そこにいるのは駒ではなかった。
誰かにとっての伴侶であり、誰かにとっての帰る場所だった。
だからこそ、領民を戦場に出すわけにはいかなかった。
これだけ戦える者たちでさえ、離れるだけでこんな顔をする。
なら、戦う覚悟もない領民に武器を持たせればどうなるかなど、考えるまでもない。
ミカエラが隣に立つ。
「感傷に浸る時間はありません」
「分かってる」
「なら、見ない方がいいのでは?」
「見る必要がある」
マキトは、伴侶と抱き合うプレイヤーたちから目をそらさなかった。
「俺が切り捨てなかったものが何か、忘れないために」
ミカエラは何も言わなかった。
しばらくして、配置開始の合図が出る。
抱擁がほどける。
握られていた手が離れる。
涙を拭った者たちが、それぞれの持ち場へ向かって歩き出す。
誰も振り返らないわけではなかった。
何度も振り返る者がいた。
最後まで手を振る者もいた。
けれど、足は止めなかった。
領域戦争は、もう始まろうとしていた。
そして現在。
マキトは領域の外縁ぎりぎりまで出ていた。
街の中からでは、霊工都市の前にいる敵の様子が見えない。
だから自分の目で確かめに来た。
ポイントで購入した双眼鏡を覗く。
霊工都市は、やはり要塞には見えなかった。
白色の石造りの建物が並び、通りは広く開けている。
城壁らしい城壁も目立たず、巨大な兵器も見えない。
名前に反して、外からはただの中世の街にしか見えない。
だが、その前に兵列があった。
最低装備のモーブ兵。
粗末な鎧。
安い武器。
質は低い。
だが、数が多い。
それだけなら分かる。
アキラ側には倍の軍政ポイントがある。
質を捨て、数に振れば、あれだけの兵を揃えることはできるのだろう。
問題は、その後ろだった。
別の群れがいる。
歩き方がおかしい。
姿勢が崩れている。
隊列も整っていない。
武器も装備もばらばらで、兵士というより、ただ前に進まされている死体に見えた。
呼吸している気配がない。
「……死体兵か?」
マキトは思わず呟いた。
隣にいたミカエラが、双眼鏡を受け取るように手を伸ばす。
マキトが渡すと、彼女は霊工都市の前を覗き込み、わずかに表情を険しくした。
「あんなの、購入画面にあったか?」
マキトが聞く。
ミカエラは双眼鏡を下ろさずに答えた。
「ありません。少なくとも、こちらに開示された項目には存在しません」
その言葉で、空気が変わった。
軍政ポイントが倍ある理由。
防衛都市には見えない霊工都市。
購入項目に存在しないアンデッド。
どれも、まだ一つの答えには結びつかない。
だが、何かがおかしい。
霊工都市の中で、何かが起きている。
マキトは白い石造りの街を睨んだ。
遠すぎて、アキラの姿は見えない。
その伴侶の姿も見えない。
ただ、安い装備のモーブ兵と、死者のような群れだけが、こちらへ向けて動き始めている。
「領主様」
ミカエラが双眼鏡を下ろした。
「領域戦争は、まだ開始されていません。降伏を決めるのであれば、今なら間に合います」
軍政ポイントは倍。
さらに、購入項目に存在しない死体兵までいる。
その助言は、弱気ではなかった。
指揮官として、最後の選択肢を確認しているだけだった。
マキトは霊工都市の前に並ぶ敵軍から目を逸らさない。
「降伏はしない」
ミカエラは一度だけ目を細めた。
「承知しました」
ミカエラは双眼鏡をマキトに返した。
「第一防衛線へ通達」
通信役がすぐに動く。
ミカエラの声は、会議室にいた時と同じく冷静だった。
「敵戦力に未確認個体。アンデッド多数」
周囲の者たちが息を呑む。
「予定を一部変更します。撃つのはまだです」
乾いた風が吹いた。
見慣れた街の外で、存在しないはずの戦場が動き出していた。




