37.戦争準備
領域戦争について。
その通知が届いてから、三ヶ月が経っていた。
マキトは、ホテルの大広間に置かれた長机の前で、スマホの画面を見下ろしていた。
そこには、何度も読み返した文章が表示されている。
読み返したところで、内容が変わるわけではない。
それでも、マキトは何度も目を通してしまう。
降伏条件。
敗北条件。
勝利条件。
軍政ポイント。
領主ランキング。
一年後に与えられるという、選択権。
どれも、見れば見るほど気が滅入る内容だった。
大広間には、マキトの他にシエル、メルシー、ポコミ、ミケコがいた。さらに、信頼できる一部のプレイヤーたちも呼ばれている。
全領民に向けて発表する前の、最後の確認だった。
この三ヶ月間、マキトたちは領域戦争の詳細を内密に扱っていた。
領民に何も知らせていなかったわけではない。
領域戦争という制度が始まることは、すでに誰もが知っている。
領主として最低限の情報だけは事前に、領民全員のスマホに流した。
だが、その具体的な条件までは、危険すぎて公表していなかった。
中途半端に話せば、領域内が混乱する。
だからマキトたちは、先に自分たちだけで何度も話し合った。
そして、結論は変わらなかった。
戦うしかない。
その言葉が、ずっと喉の奥に引っかかっている。
「領主様」
ミケコが、机の端に積まれた資料をちらりと見ながら言った。
「本当に、今日発表するんだにゃ?」
「する」
マキトは短く答えた。
自分でも、声が重いと思った。
ミケコは耳を伏せる。いつものように軽口を叩きそうになって、結局やめた。
ポコミは資料を抱えたまま、落ち着きなく視線を動かしている。
彼女がまとめた資料には、この三ヶ月の領域の変化が細かく記録されていた。
領域外に作った拠点は、何とか維持されている。
領域外の拠点は、あと少しで食料が尽きるところまで追い込まれていた。
外に残された複数の避難所や放置された倉庫、商店から物資をかき集め、領域内のポイントには手をつけずにどうにか持ちこたえている状態だった。
だが、拾える物資には限りがある。
安全に回収できる場所も、日ごとに減っていた。
その拠点を守るため、領内外のプレイヤーたちが交代で防衛に入り、モンスターの襲撃を何度も退けてきた。
食料は残り少ない。
それでも、拠点はまだ落ちていない。
そして領域内も変わっている。
領民たちは日替わりの領民クエストをこなし、少しずつランクを上げていた。
最初は簡単な仕事しかできなかった者たちも、今ではより稼げる仕事へ移り始めている。
働けば稼げる。
ランクを上げれば選べる仕事が増える。
それが分かってきたことで、領域全体の空気も少し変わった。
もちろん、問題が消えたわけではない。
かつての女神陣営と邪神陣営という区分は、仕事場や共同生活の中で小さな差別として今も残り続けている。
それに、以前から問題を起こしていた二割の領民も、まだ完全に改善したわけではなかった。
配られたポイントを消費するだけで働こうとしなかった者。
注意されれば逆上する者。
他人の働きに便乗しようとする者。
領域の中にいながら、自分だけは例外だと思っていた者。
そういう人間は、今もいる。
ただ、その中にも少しずつ変化はあった。
半日だけでも仕事に出る者が増えた。
簡単な領民クエストだけは受ける者が出てきた。
文句を言いながらも、ポイントが減ることを恐れて動き始めた者もいる。
改善したとは言えない。
信用できるとはとても言えない。
けれど、前よりはましになっていた。
それもまた、この三ヶ月で積み重ねたものだった。
マキトは、できることをやってきた。
領域の中を整え、外の拠点を守った。
人を動かした。
ポイントを回した。
問題を起こす者を見張らせた。
差別が広がらないように、ポコミやミケコを使って何度も会議を重ねた。
自分にできることは、可能な限りやった。
それでも、結論は変わらない。
戦争は来る。
「降伏条件の確認をします」
ポコミが、小さな声で言った。
何度も確認した内容だ。
それでも、発表前の会議で省くわけにはいかなかった。
「領域戦争は四ヶ月ごとに行われます。対戦相手は運営が自動で決定。領主側から拒否することはできません。拒否したい場合は、降伏を選択する形になります」
ポコミの声が震える。
「降伏した場合、領域そのものは維持されます。ただし、領主、プレイヤー、領民の残ポイントはすべて接収されます。さらに、ポイントで購入した家具、家財道具、個人資産も接収対象になります」
誰も口を挟まなかった。
降伏。
言葉だけ聞けば、戦わずに済む選択肢に思える。
領域は維持される。
命までは取られない。
一見すれば、救済措置のようにも見える。
だが、実際には違う。
領民のポイントがゼロになる。
買った家具も、生活道具も、備蓄も奪われる。
ようやく仕事を覚え始めた者たちが、また何も持たない状態に戻される。
しかも、領域外の拠点を支援する余力も消える。
その場合外の避難所は、確実に滅ぶ。
「また、戦争を選んで負けた場合は、降伏時の条件に加えて、領域そのものが消滅します」
ポコミが続ける。
「領域の維持機能は失われ、居住地は迷宮化に呑まれると考えられます。領民は住む場所を失います」
メルシーが、つまらなそうに鼻を鳴らした。
「降伏しても半殺し。負けたら全殺し。運営らしいやり方ね」
シエルは何も言わなかった。
彼女は机の上に置かれた資料を見つめている。
その横顔は、ひどく硬かった。
「ただし、戦い、勝利した場合は、敗者側のポイントと資産を接収できます。また、勝者側の領域は拡張され、収容可能人数も増加します」
ポコミはそこまで読み上げて、言葉を止めた。
勝てば得る。
負ければ失う。
分かりやすい。
分かりやすすぎる。
その分かりやすさが、マキトには気持ち悪かった。
勝てば、外の拠点を救えるかもしれない。
領域を広げれば、もっと多くの人間を受け入れられる。
食料問題も、収容人数の問題も、今よりはましになる。
だが、それは敗者側から奪った結果だ。
相手の領域にも、人がいる。
自分たちと同じようにようやく生活に慣れだした人たちがいるかもしれない。
守ろうとしている誰かがいるかもしれない。
マキトは顔を知らない。
知らないから、切り捨てられる。
そう冷たく考えられる自分が嫌だった。
「勝てばいいだけの話よ」
メルシーが言った。
「それ以外、考えても仕方ないでしょ。戦う前から負けた後のことばっか考えて、何になるのよ」
乱暴な言葉だった。
だが、間違ってはいない。
それでも、マキトたちの気分は少しも軽くならなかった。
勝てばいい。
理屈ではそうだ。
だが、その言葉で済むなら、こんなに気は滅入っていない。
「シエル」
マキトが呼ぶと、シエルは静かに顔を上げた。
「どう思う」
シエルはすぐには答えなかった。
少しだけ唇を結び、それからゆっくりと言う。
「私は、戦争を望みません」
その声は、はっきりしていた。
「ですが、降伏も選べません。領民の生活が壊れます。外の拠点も見捨てることになります。……戦うしかないのだと、分かっています」
「相手の領域は」
「苦しいです」
シエルは目を伏せた。
「勝つということは、相手から奪うということです。そこに住む人たちの生活を壊すということです。それを正しいことのようには言えません」
「……だよな」
マキトは短く返した。
シエルは苦しんでいる。
それでいいと思った。
ここで迷わず戦えると言われた方が、たぶん怖い。
「でも、旦那さまが選ぶなら、私は戦います」
シエルはそう続けた。
「その選択が苦しいものでも、逃げないと決めたのなら……私も隣にいます」
マキトは、何も言えなかった。
慰められたわけではない。
許されたわけでもない。
ただ、逃げ道を塞がれたような気がした。
ポコミが次の資料をめくる。
「次に、軍政ポイントについてです」
その言葉に、プレイヤーたちが一斉に資料を見る。
軍政ポイント。
この三ヶ月で、何度も確認した新しい種類の数値だった。
「軍政ポイントは、領域が税として稼いだ成果を数値化したものです。通常のポイントとは別枠で、買い物、給与、施設更新などには使用できません。領主のみが確認可能で、領域戦争における編成上限として扱われます」
つまり、実際に財布の中から出ていくポイントではない。
領域がどれだけ稼いだか。
どれだけ税を生んだか。
その積み上げが、戦争用の数値として変換されている。
「領域戦争では、この軍政ポイントの範囲内で兵器、兵士、その他の戦争用資源を編成できるとされています。なお、軍政ポイントそのものは消費されません」
マキトは、その説明を以前読んだ時、しばらく意味が分からなかった。
だが、理解した瞬間、別の計算が頭の中で動いた。
今までマキトは、通常ポイントをある程度残していた。
何かが起きた時のためだ。
このような戦いがいつか起こるかもしれない。
戦闘用の物資を買う必要が出るかもしれない。
そう思って、使い切れなかった。
だが、戦争用の編成に軍政ポイントが使われるなら、通常ポイントをそこまで抱え込む必要はない。
戦争の財布は別に用意されている。
なら、今まで温存していた分を行政に回せる。
食料。
医療。
領民の仕事。
外の拠点への支援。
使うべき場所はいくらでもある。
それは助かる話だった。
本来なら喜ぶべきなのかもしれない。
だが、マキトは全く喜べなかった。
この三ヶ月、領民が働いて稼いだ成果は、領域を立て直すためのものだった。
少なくともマキトは、そのつもりで動いていた。
だが運営は違う。
領域が税として稼いだ分を、初めから戦争の評価値として数えていた。
復興の成果が、戦争用の数値に変わる。
その仕組みが、たまらなく気持ち悪かった。
「対戦相手の決定については、こちらです」
ポコミが画面を示す。
通知文の一部が、壁に投影されていた。
《領域戦争の対戦相手は、軍政ポイントが近い領主同士を優先して自動的に選出されます》
《これにより、極端な戦力差による一方的な戦闘は発生しにくくなります》
ミケコが、顔をしかめた。
「……発生しにくくなる、にゃ」
「発生しないとは書いてないわね」
メルシーが笑う。
「こういう言い方する奴って、大体やる気満々なのよ」
マキトも同じことを考えていた。
軍政ポイントが近い。
それだけなら、公平に見える。
だが、戦力はポイントだけで決まらない。
領域の地形。
プレイヤーの人数。
伴侶の性能、練度。
備蓄。
指揮能力。
戦う意思。
何より、運営が提示していない戦争形式。
それらが違えば、同じ軍政ポイントでも結果はまるで変わる。
運営は、一方的な戦いにならないと保証しているわけではない。
一方的な戦いになっても、言い逃れできる文章を置いているだけだ。
「信用する理由がないな」
マキトは呟いた。
誰も反論しなかった。
さらに、通知には新たなランキングについても記されていた。
領域戦争は四ヶ月ごとに行われる。
そして、一年後。
三回目の領域戦争が終了した時点で、軍政ポイントを最も多く稼いだ領主に、選択権が与えられる。
それが何なのかは書かれていない。
何を選ばされるのか。
どんな情報を与えられるのか。
誰の未来を左右するものなのか。
何も分からない。
だからこそ、無視できなかった。
知らない誰かに、重要なことを選ばせたくない。
それが重い責任だったとしても、自分で選びたい。
誰かの判断で、自分の領域の人間が見捨てられるかもしれない。
外で生きている人間が切り捨てられるかもしれない。
この世界の仕組みそのものに関わる何かを、他人が握るかもしれない。
マキトには、それが我慢できなかった。
自由でいたい。
誰かに握られたくない。
そういう気持ちは、たしかにある。
だが、今はそれだけではなかった。
見てしまった顔がある。
助けると決めた人間がいる。
その先を、知らない領主の選択に委ねたくなかった。
「結論を確認する」
マキトは言った。
大広間の空気が、さらに重くなる。
「降伏はしない。戦争を選ぶ。勝つための準備をする」
誰もすぐには答えなかった。
やがて、シエルが頷く。
メルシーは肩をすくめた。
ポコミは青ざめた顔で資料を抱きしめる。
ミケコは尻尾を落ち着きなく揺らした。
プレイヤーたちも、静かにそれぞれ表情を歪めながら頷いていく。
戦いたいからではない。
戦うしかないからだった。
マキトは、その反応を見て、また気が滅入った。
誰も喜んでいない。
それでも、全員が同じ方向を向き始めている。
それが一番嫌だった。
やがて、発表の時間になった。
マキトは以前と同じように全領民へ向けて中継をつないだ。
領域戦争について、詳細を三ヶ月間伏せていたこと。
降伏を選んでも、領域が残るだけで生活の基盤は奪われること。
負ければ、領域そのものが消えること。
勝てば、相手側の資産を得て領域を拡張できること。
マキトは必要なことだけを、順番に告げた。
当然、反発は出た。
戦争なんて遊びじゃない。
普通に暮らしたいだけだ。
プレイヤー同士で勝手にやってくれ。
そういう声は、会議室からも、中継を見ている領民たちからも上がった。
だが、降伏条件を聞いた者たちは黙った。
敗北条件を聞いて、さらに黙った。
勝利条件を聞いた時、誰もすぐには喜ばなかった。
ただ、理解してしまった。
降伏しても守れない。
負ければ終わる。
勝てば、まだ先がある。
マキトは、その空気が変わっていくのを壇上から見ていた。
領民たちは、戦争を望んだわけではない。
だが、戦争を拒めるほど安全な場所にも、もう立っていなかった。
「俺たちは、戦う」
最後に、マキトはそう告げた。
「降伏はしない。勝つために準備する」
そこで、一人の男が立ち上がった。
「相手の領域はどうなるんだ」
会議室がまた静かになる。
マキトは、その質問から逃げなかった。
「負ければ、相手側の生活は壊れる」
はっきりと言った。
「俺たちが勝てば、相手のポイントも資産も奪う。領域も広がる。つまり、向こうの人間を犠牲にする」
シエルが、壇上の横でわずかに目を伏せた。
「それでもやるのか」
「やる」
マキトははっきりと答えた。
「正しい選択だとは思っていない、だけど知らない相手より、見えている人間を優先する」
自分で言っていて、嫌な言葉だと思った。
だが、他の言い方はできなかった。
「それが俺の判断だ」
会議室から、怒号は飛ばなかった。
納得したわけではないだろう。
許したわけでもないだろう。
ただ、誰も簡単には否定できなかった。
同じ条件を突きつけられれば、多くの者は同じ選択をする。
その事実が、全員の口を重くしていた。
議論は続いた。
プレイヤーたちは、防衛の割り当て、訓練、物資の確保、外の拠点との連携について意見を出した。
領民側からは、不安の声も出た。
戦えない者はどうなるのか。
子供や老人は守られるのか。
仕事は続けられるのか。
ポイントはどうなるのか。
相手領域から奪うということに、耐えられないと言う者もいた。
反対意見は確かにあった。
だが、少数だった。
発表が終わった後、領域全体の空気は変わった。
戦争準備。
その言葉が、あちこちで囁かれるようになった。
プレイヤーたちは編成を考え始めた。
伴侶たちは戦闘訓練の確認に入った。
領民たちは不安を抱えながらも、今の仕事を手放さないように働き続けた。
今まで問題を起こしていた者たちの中にも、露骨に態度を変える者が出た。
降伏すればポイントを奪われる。
負ければ領域が消える。
そう聞かされて、ようやく自分の足元が崩れることを理解したのだろう。
遅すぎる変化だった。
それでも、変化ではあった。
開戦まで、残り一週間。
その日の夜、また運営から通知が届いた。
マキトはホテルの大広間で、疲れた体を椅子に預けていた。
シエルは隣に立ち、メルシーは近くで腕を組んでいる。
ポコミは書類整理の途中で固まり、ミケコは机の上に置かれたスマホを覗き込もうとしていた。
通知の件名は短かった。
《軍政ポイントの使用解禁について》
マキトは画面を開く。
そこには、領域戦争用の編成一覧が表示されていた。
マキトは一覧をスクロールする。
槍。
弓。
盾。
簡易甲冑。
防壁資材。
投石器。
見張り台。
罠。
補給用荷車。
さらに下へ進むと、兵士の項目が出てきた。
その全てがモーブだった。
貧相な武装の兵士。
革鎧の兵士。
中世風の甲冑を着た兵士。
訓練済み弓兵。
槍兵。
盾兵。
軍政ポイントの上限内で、自由に編成できるらしい。
「兵士まで売ってるわけ」
メルシーが呆れたように笑った。
「本当に何でもありね」
マキトは答えなかった。
画面を見ているうちに、指が止まった。
ある装備の説明欄に、小さく文字が添えられていた。
《一般領民も使用可能》
マキトは、その一文を見つめる。
槍も。
弓も。
盾も。
簡易甲冑も。
プレイヤー専用ではない。
伴侶専用でもない。
一般領民でも使える。
その意味を理解した瞬間、胸の奥が冷えた。
まだ、戦争の具体的な形は提示されていない。
防衛戦なのか。
侵攻戦なのか。
拠点を奪い合うのか。
領主を狙うのか。
領域同士が接続されるのか。
何も分からない。
だが、この一覧だけで一つだけ分かることがあった。
運営は最初から、プレイヤーだけで戦争をさせるつもりなどなかった。
マキトは画面を見下ろしたまま、しばらく動けなかった。




