36.陣営対立
ホテルの大広間は、もう仮の仕事場ではなくなっていた。
壁際には、どこから運んできたのか分からない資料棚が並び、長机の上には申請書、収支報告、領民クエストの達成記録、物資の搬入予定表が積み上がっている。
マキトはソファに深く腰を沈め、片膝の上に書類を置いたまま、領民から上がってきた報告に目を通している。少し離れた長机では、ポコミが領民の申請内容を整理していた。別の机には、ミケコが持ち込んだ領内の聞き取り報告が山になっている。
完全に職場になっていた。
本来なら、領主の仕事は行政施設で行うべきなのだろう。
マキト自身、それくらいは分かっている。
しかし、あの場所にいると息が詰まる。
領主がいると分かれば、相談も苦情も陳情も責任追及も、真っ先に自分のところへ飛んでくる。用がある奴だけでなく、用がある気になった奴まで来る。あんな場所に一日中座っていたら、仕事をする前に人間の形を保てなくなる。
だから、マキトはホテルの大広間を仕事場にした。
領民から見れば、領主の居場所はよく分からない。
だが、マキトは気にしていなかった。
仕事はしている。
場所なんてどこでもいい。
今の時代はリモートワークだろ。
その理屈で、自分を納得させている。
そして今日の大広間は、いつにも増して空気が重かった。
ミケコが、ポコミの机の前に立っている。
いつものような得意げな顔ではない。耳は少し伏せられ、尻尾も元気なく揺れている。
「……ごめんにゃ」
ポコミは顔を上げなかった。
ペンを走らせる音だけが、机の上で小さく響く。
「この前のことは悪かったにゃ。もう馬鹿にしたりしないにゃ」
返事はない。
ミケコの耳が、さらに下がった。
「聞こえてるはずにゃ」
ポコミは書類を一枚めくり、別の束へ移した。
そして、淡々と言った。
「報告書は、そちらへ置いてください」
「それだけかにゃ?」
「業務に必要なものは、確認します」
「謝罪も必要なものに含めるべきにゃ」
ポコミは答えない。
ミケコはしばらくその場で固まってから、助けを求めるようにマキトを見た。
マキトは書類から目を離さない。
「俺を見るな。馬鹿ネコ」
「領主様まで冷たいにゃ」
「もっと反省しろ」
ミケコはぐっと言葉に詰まった。
ポコミは、そのやり取りにも反応しない。必要な連絡だけを受け取り、それ以外は空気として扱っている。
以前は違った。
ポコミはミケコの言葉に怯えながらも、どうにか笑って受け流そうとしていた。嫌味を言われても、同じ職場だからと我慢していた。
だが今は、謝罪も言い訳も、業務に関係のない言葉はすべて無視する。
その代わり、必要な報告は受け取る。質問があれば答える。仕事だけは止めない。
マキトはその様子を横目で見ながら、心の中で思った。
ポコミの方が、ミケコの扱いを理解しているな。
ことの始まりは、一週間前にさかのぼる。
その日、シエルとメルシーは街の様子を見るために外へ出していた。大広間にいたのは、マキトとポコミとミケコだけだった。
マキトは領内の居住地域を確認していた。ポコミは横で書類をまとめ、ミケコは領内から集めた噂や報告を持ち込んでいる。
そこまでは、いつもの仕事だった。
問題は、ミケコが余計なものまで持ち込んできたことだった。
「そういえばポコミ」
ミケコが、いかにも何かを知っている顔で笑った。
その時点でマキトは嫌な予感がした。
ポコミも、同じものを感じ取ったらしい。書類に向けていた視線がわずかに泳ぐ。
「な、なんでしょうか」
「ポコミって、旦那と一緒にいる時はずいぶん明るいらしいにゃ」
ポコミの手が止まった。
ミケコはそれを見て、ますます機嫌よく尻尾を揺らす。
「普段はおとなしい顔して、職場ではびくびくしてるのに、旦那の前では楽しそうにしてるにゃ。つまり、仕事中は本気を出してないってことじゃないかにゃ?」
「……何の話ですか」
「とぼけても無駄にゃ。ニャーの情報網を甘く見ない方がいいにゃ」
マキトは顔を上げた。
「おい。今の、誰に命じられて調べた」
ミケコは悪びれる様子もなく胸を張る。
「同じ職場で働く邪神陣営の身辺調査は、最低限必要な仕事にゃ」
「俺が命じた仕事じゃない。完全にお前の趣味だ。ゲス忍者め」
「酷いにゃ。諜報にゃ」
「命令なしで同僚の私生活を漁るのは諜報じゃなくて覗きだ」
ミケコは聞いていなかった。
彼女はもともと、ポコミのことが気に入らなかった。
女神陣営である自分が、邪神陣営のポコミと同じ職場にいる。それだけで面白くない。メルシーに一度本気で怒られてから、邪神陣営そのものへの態度は多少控えめになっていたが、自分より弱そうな相手に強気になる性格までは変わっていない。
そしてポコミは、ミケコにとって格好の相手だった。
言い返してこない。
怯える。
我慢する。
ミケコはその我慢を、許可だと勘違いしていた。
「それにしても、ポコミの旦那も大変にゃ。まだEランクなんだってにゃ?」
ポコミの顔から、少しずつ血の気が引いていく。
マキトはさらに眉をひそめた。
「ミケコ」
「ミナトはもうDランクにゃ。最近は少し難しい仕事も任され始めてるにゃ」
ミケコの伴侶であるミナトの話になると、彼女の声は分かりやすく弾んだ。
ミケコはミナトが好きだった。
だから、自慢するだけならまだいい。
ポコミも、その程度なら我慢していただろう。
だが、ミケコは止まらなかった。
「それに比べて、ポコミの旦那はまだEランクらしいにゃ」
ポコミの口元に浮かんでいた、ぎこちない笑みが固まる。
「ポコミが高い給料をもらってなかったら、生活できないんじゃないかにゃ」
マキトが低く言う。
「おい、馬鹿、やめろ」
しかし、ミケコは調子に乗っていた。
相手が何も言い返してこないことを、勝ったと勘違いしていた。
「嫁に食わせてもらってる暗い男より、ミナトの方がずっと立派にゃ」
その瞬間、ポコミの表情が消えた。
笑みも、怯えも、困惑もなくなった。
ただ、何も映さない目だけがミケコを向く。
「……今、なんと言いましたか」
低い声だった。
ミケコは、まだ危険に気づいていない。
「だから、事実を言っただけにゃ。ポコミの旦那はごくつぶ――」
机が鳴った。
ポコミが両手で机を叩き、勢いよく立ち上がっていた。
積まれていた書類が揺れ、ペンが一本、床へ転がる。
普段のポコミからは想像できないほど激しい怒りだった。
「私のことを言うなら、いくらでも言えばいいです」
その声は震えていた。
怖いからではない。
怒りを抑えきれないからだ。
「邪神陣営だから気に入らないと言われるのも、低レアだから見下されるのも、今さらです。慣れています。悔しくないとは言いません。でも、我慢できます」
ミケコが、ようやく一歩下がった。
ポコミは逃がさない。
「でも、あの人を馬鹿にするのは違います」
言葉の端が、鋭くなっていく。
「あの人は、できることを探しています。何度失敗しても、次はどうすればいいか考えています。成果が出ない日も、投げ出さずに働いています。ランクが低いからといって、あなたに笑われる筋合いはありません」
「いや、でも、事実として――」
「事実なら、何を言ってもいいんですか」
ポコミの声が、大広間に響いた。
「あなたは、私が黙っているから何を言ってもいいと思ったんですか。私が怒らないから、あの人まで侮辱していいと思ったんですか」
ミケコは完全に固まっていた。
マキトが間に入る。
「ミケコ。謝れ」
「事実を言っただけにゃ」
「謝れ」
「調べた情報にも間違いはなかったにゃ」
「謝れ」
「誇り高いネコ忍者は、不当な圧力に屈した謝罪なんてしないにゃ」
その時、大広間の扉が開いた。
街の見回りから戻ったメルシーが、退屈そうな顔で入ってくる。
「戻ったわよ。外はまあ、思ったよりつまらなかったわね」
事情を知らないメルシーは、部屋の空気を見て首を傾げた。
マキトはミケコを指さす。
「メルシー。こいつが謝るまで、好きに遊んでいい」
メルシーの目が、ぱっと輝いた。
「本当に?」
ミケコの顔から血の気が引いた。
「ま、待つにゃ。今のは職場内の話し合いであって、暴力で解決していい問題では――」
「つーかーまーえーた」
メルシーはミケコの襟首をつかんだ。
「にゃっ!?」
そのまま、ずるずると大広間の外へ引きずっていく。
「領主様、助けるにゃ! これは横暴にゃ! 忍者としての尊厳が、誇りが、主に尻尾の安全が――!」
マキトは書類へ視線を戻した。
「尊厳がある奴は、他人の旦那を馬鹿にしない」
扉の向こうで、ミケコの抗議の声が遠ざかっていった。
しばらくして、メルシーがすっきりした顔で戻ってきた。
その後ろから、ぼろぼろになったミケコがよろよろと帰ってくる。髪は乱れ、耳はぺたりと伏せられ、尻尾には妙な癖がついていた。
メルシーは満足そうに肩を回す。
「いい暇つぶしになったわ」
ミケコは小刻みに震えながら、ポコミの前に立った。
「……ごめんなさいにゃ」
声は小さかった。
ポコミはすぐには答えなかった。
ただ、ミケコの顔を見たあと、静かに書類へ視線を戻した。
その時、ポコミの中では答えが出ていた。
ミケコは、我慢して相手をするほど価値がない。
無視するくらいがちょうどいい。
そして現在。
ミケコは、あの時の結果を一週間かけて味わっていた。
「ポコミ、さすがにそろそろ普通に会話してほしいにゃ」
「この支出項目について確認があります」
「業務に逃げたにゃ」
「領民用の物資購入費が、予定より一割増えています。理由は分かりますか」
「分かるにゃ。昨日の追加搬入分にゃ」
「では、それを追記してください」
「……仕事の話なら普通に会話できるの、逆に怖いにゃ」
ポコミは返事をしない。
マキトはそのやり取りにため息をつきながら、別の報告書を手に取った。
しかし、そこに書かれていた内容は、二人の喧嘩を笑って済ませられるものではなかった。
ポコミが整理した領内報告。
そこには、陣営間の小さな対立がまとめられていた。
女神陣営と邪神陣営。
ゲーム時代に敵同士だったキャラクターたちの間で、細かな嫌がらせが起きている。
ただし、問題の中心は戦闘職ではなかった。
領域外へ出ている戦闘職のキャラクターたちは、すでに互いに背中を預けて戦っている。モンスターに囲まれれば、女神陣営も邪神陣営もない。回復役の陣営を選り好みしていれば死ぬ。盾役の過去を気にしていれば、その間に爪で腹を裂かれる。
共闘を経験した者たちは、敵意を残していても、それを前面に出せなくなっていた。
命がかかれば、嫌いな相手の手でも掴む。
逆に、陣営への敵意が強く残っているのは、外へ出ず、共闘を経験していない者たちが中心だった。
全員ではない。
だが、問題報告の多くはそこに偏っている。
非戦闘職。支援職。内勤担当。店や施設で働く者たち。
安全な場所にいる者ほど、ゲーム時代の価値観をそのまま引きずっている。
マキトの視線が、自然とミケコへ向いた。
ミケコは耳をぴくりと動かす。
「なんでこっちを見るにゃ」
「心当たりがありすぎるからだ」
「失礼にゃ。ミケコは誇り高いネコ忍者にゃ」
「誇り高いネコ忍者は、この世界に来て最初の七日間、何をしていた」
ミケコの尻尾が止まった。
マキトは端末を操作し、過去の記録を確認する。
「伴侶のマンションで体験版の領域を使って、室内に引きこもり。初期配布ポイントで食料と生活用品を購入。モンスター討伐履歴なし。外出記録なし。戦闘記録なし」
「ミナトを守るため、拠点から離れなかっただけにゃ」
「敵は来たのか」
「来なかったにゃ」
「じゃあ、何を守った」
「護衛は敵が来ない時間も護衛にゃ」
マキトは無言で記録を見る。
購入履歴には、食料、寝具、風呂用品、嗜好品が並んでいた。
「食って、寝て、風呂に入っていただけに見えるが」
「休息も任務の一部にゃ」
「七日間全部休息なのか」
「長期任務だったにゃ」
「便利な任務だな」
ミケコは視線をそらした。
この世界へ来てから、ミケコは避難所にも戦場にも出ていない。敵陣営のキャラクターと手を取り合う必要もなかった。モンスターに襲われる恐怖も、誰かと背中を預ける経験もない。
だから、ゲーム時代の価値観だけが、そのまま残っている。
マキトは報告書とミケコを見比べた。
領内で起きている問題を、ミケコがそのまま体現していた。
「なんでそんな目で見るにゃ」
ポコミは答えない。
業務に関係ないからだ。
報告されている嫌がらせは、どれも露骨な違反ではなかった。
相手陣営が働く店へ、必要以上にクレームを入れる。
共同食堂で相手陣営の隣には座らない。空いている席があっても譲らない。
同じ職場の場合、自分がペナルティを受けないギリギリの線で引き継ぎを最低限にする。
相手陣営が作った料理や商品を、理由もなく避ける。
休憩場所や更衣室で同じ陣営だけで固まり、入ってきた者に聞こえるよう悪口を言う。
暴力ではない。
窃盗でもない。
規則違反として処罰するには弱い。
だが、放置すれば確実に職場の連携は壊れる。
ポコミが静かに言った。
「規則は守っています。ただ、一緒に働こうとはしていません」
その言葉に、ミケコが少しだけ気まずそうな顔をした。
ポコミ自身、ミケコを嫌っている。
もう普通に接する気もない。
けれど、業務連絡は受け取る。報告書は確認する。必要な質問には答える。仕事は壊さない。
仲良くする必要はない。
だが、仕事を壊してはいけない。
その線引きが、領内では崩れ始めていた。
マキトは頭を抱えた。
嫌いな相手を好きになれと命令するつもりはない。
仲良くしろと命じて、本当に仲良くなるなら苦労しない。
感情まで領主権限で縛るのか。嫌いな奴に冷たくすることまで禁止するのか。そんなことを始めれば、どこまで介入すればいいのか分からなくなる。
だが、感情を仕事に持ち込むことまで認めれば、いずれ実害が出る。
今は引き継ぎを最低限にする程度で済んでいる。
だが、それが薬の調合で起きたらどうなる。
防衛設備の整備で起きたらどうなる。
食料管理で起きたらどうなる。
誰かが死ぬ。
マキトは報告書を机に置いた。
「面倒くさいな」
本音だった。
ミケコが小さく頷く。
「人間関係は面倒にゃ」
「お前は面倒の発生源側だ」
「反省してるにゃ」
ポコミは顔を上げない。
ミケコの耳がまた下がった。
大広間に、しばらく書類をめくる音だけが続く。
その沈黙を破ったのは、シエルだった。
彼女はマキトの隣に立ち、別の書類を手にしていた。表情は穏やかだが、目には仕事の緊張が残っている。
「旦那さま。外部避難所について、報告があります」
「詳しく頼む」
シエルは頷き、書類へ視線を落とした。
「周辺に点在していた避難所の生存者は、領域近くのスポーツセンターへ集約されました。物資の移送も一通り終わっています。プレイヤーと伴侶が交代で周辺を掃討したことで、防衛線も安定し始めています」
それは、明るい報告だった。
少なくとも、マキトが以前に選んだ方針は形になっている。
外に残された人間を見捨てない。
そのために、点在していた避難所を一か所へ集め、防衛しやすい拠点を作る。
無茶な案だった。
だが、現実になりつつあった。
シエルは続ける。
「避難所の中にも、戦えるキャラクターが何名か残っていました。そのため、領域内から派遣する人数は、当初の想定より減らしても維持できる見込みです」
「プレイヤー側は」
「最初は外へ出ることを嫌がる方もいました。ですが、モンスター討伐は領域内の仕事よりポイント効率が高く、集団行動を徹底すれば単独行動よりはるかに安全です。今では、交代制にもかなり慣れてきています」
「中には避難所で寝泊まりする方も出始めています」
「そこまで順調なのか」
マキトは少しだけ目を細めた。
最初は外へ出ることすら嫌がっていた連中が、今では自分から外部拠点に残っている。
危険はある。
だが、役割もある。稼ぎもある。必要とされる場所がある。
それが、彼らを動かしていた。
シエルの声は、少し柔らかくなる。
「外部避難所では、陣営の違いもほとんど問題になっていません。昨日まで敵だったキャラクター同士が、同じ門を守り、同じ食事を分け合っています。怪我人が出れば、陣営に関係なく治療しています」
ホテル内で陣営問題の報告を聞いた直後だった。
だからこそ、マキトは皮肉に感じた。
外にいる奴らの方が、よほどまともにやっている。
安全な場所では過去の陣営にこだわり、危険な場所では手を取り合う。
笑えない話だった。
シエルは数枚の紙を机に置いた。
「救助された方々から、手紙も届いています。旦那さまや、領域の皆さんへの感謝の言葉です」
手紙には、丁寧な字で礼が書かれていた。
命を救ってくれてありがとう。
家族を守れた。
もう終わりだと思っていた。
外部拠点ができたおかげで、夜に眠れるようになった。
名前も知らない誰かからの感謝が、何枚も並んでいる。
シエルは、その手紙を見て少しだけ微笑んだ。
「ここまでは、順調です」
だが、次の瞬間、その表情が曇った。
「ただ……守れることと、生き続けられることは、別の問題でした」
大広間の空気が変わった。
マキトは、手紙からシエルへ視線を移す。
「食料か」
シエルは静かに頷いた。
「はい」
スポーツセンターの屋外運動場は、すでに畑へ変えられていた。
魔法使い系、司祭系のキャラクターたちが土壌を改善し、雨を降らせ、作物の成長速度まで上げている。普通の農地より、はるかに生産性は高い。
それでも、生存者全員を養うには届かない。
シエルは慎重に言葉を選んでいた。
「避難所に残っていた食料と、周辺から回収した物資を合わせれば、まだ数か月はもちます」
「数か月もつなら、悪くないように聞こえるな」
「ですが、それは備蓄が豊富だったからではありません」
シエルの声が、わずかに沈む。
「食べるはずだった人たちの多くが、すでにいないからです」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
ポコミの手も止まっている。
ミケコも、耳を伏せたまま黙っていた。
大広間に置かれた手紙の白さだけが、妙に目立つ。
シエルは続けた。
「外の街は、旦那さまの予想どおり迷宮化が進んでいます。コンビニや倉庫へ物資を拾いに行くことも、以前より難しくなっています」
建物へ入っても、そこが以前と同じ場所へ繋がっている保証はない。
昨日まで店だった場所が、今日は石造りの回廊になっている。
倉庫へ入ったつもりが、まったく別の空間へ迷い込むこともある。
棚に並んでいたはずの商品は消え、代わりに見知らぬ扉が並んでいる。
安全に回収できる物資は、日に日に減っていた。
「現在の農業では、必要量の一部しか生産できません。生存者の方々も努力しています。防衛も、農地の整備も、できる限り進めています」
シエルは、一通の手紙をマキトの前に置いた。
「その上で、生存者代表から支援の相談が届いています」
マキトは手紙を手に取る。
内容は、要求ではなかった。
今すぐ食料を寄越せというものではない。
備蓄が尽きるまでに、こちらでも可能な限り生産体制を整える。
それでも足りなかった場合に限り、食料の支援を検討してほしい。
救助への感謝と、迷惑をかけることへの謝罪が何度も書かれている。
だからこそ、断りにくかった。
相手は依存するつもりではない。
自分たちでも立とうとしている。
それでも届かないから、頭を下げている。
シエルはマキトを見ていた。
彼女は知っている。
マキトが以前、外の人間も見捨てないと言ったことを。
期待を込めた目だった。
しかし、マキトは答えられなかった。
一度救うだけなら、戦えばよかった。
避難所を集約し、防衛線を作り、モンスターを倒せばよかった。
だが、何百人、何千人という人間を継続的に養うとなれば話が違う。
領域内にも問題を抱えた領民がいる。
陣営対立もある。
今後、何が必要になるか分からない。
ポイントを外へ回せば、内側に不満が出るかもしれない。
回さなければ、外で救った人間が飢えるかもしれない。
前回は、覚悟を決めれば選択できた。
今回は違う。
覚悟だけでは、食料は増えない。
マキトは手紙を置いた。
大広間は静まり返っていた。
ポコミも、ミケコも、シエルも、何も言わない。
机の上には、領内の陣営対立を示す報告書がある。
その隣には、救助された人々からの感謝の手紙がある。
さらにその隣には、数か月後の支援を求める手紙がある。
一つの問題でさえ、簡単には解けない。
その時だった。
マキトのスマートフォンが震えた。
短い振動音が、大広間に妙にはっきり響いた。
マキトは嫌な予感を覚えながら、画面を開く。
そこには、見慣れない文言が表示されていた。
《領主専用通知を受信しました》
《本通知は、領主権限保有者にのみ表示されます》
シエルが息を呑む。
ポコミが顔を上げる。
ミケコも、さすがに黙った。
マキトは通知を開いた。
表示されていたのは、食料支援に関する機能ではなかった。
農地拡張でもない。
外部避難所を救済するための追加項目でもない。
画面に浮かんでいたのは、まったく別の言葉だった。
《重要通知》
《領域戦争について》
マキトは、机の上に置かれた支援要請の手紙と、スマートフォンに表示された通知を見比べた。
一つの問題にさえ、まだ答えを出せていない。
それでも運営は、待ってくれなかった。
次の選択だけが、すでに目の前へ突きつけられていた。




