35.簡単な仕事
壁の薄い部屋だった。
隣の住人が椅子を引く音も、廊下を歩く足音も、夜になれば妙にはっきり聞こえてくる。
領域内で借りられる住居の中では安い方で、領民のほとんどは最初はこの団地を住み家としていた。
最低限の家具と寝具だけが基本セットとして揃っている。
暮らすだけなら困らない。
けれど、余裕があるとはとても言えなかった。
“ツカサ”はスマートフォンの画面を見つめ、無言で残高を確認した。
また減っている。
今日も働いた。
領民クエストを受け、指定された倉庫で備品の仕分けをした。
内容自体は難しくない。
壊れた道具と使える道具を分け、数を確認し、棚へ戻す。
それだけだ。
だが、ツカサは要領が悪かった。
一つ一つ丁寧に確認する。
間違えないよう、何度も数える。
作業そのものに大きな失敗はないが、こなせる量が少ない。
評価は悪くない。
しかし、ランクを上げられるほど良くもない。
生活費、家賃、食事代。
細かな支出を差し引くと、その日の稼ぎはほとんど残らない。
いや、残らないだけならまだいい。
最近は、むしろ減っていた。
「……また、減りましたの?」
部屋の奥から声がした。
アイナはベッドの端に腰掛けていた。
黒を基調とした鎧は壁際に立てかけられている。
今は白い肌を隠すように薄いパジャマを羽織っていた。
黄金色の髪は左右で大きく巻かれた縦ロール。
ヴァンパイアでありながら、ソシャゲのキャラクターらしく日光を浴びても灰になることはない。
血の気の薄い肌と、黒鎧と、華やかな巻き髪、そして鎧越しにも分かる豊かな胸元が、彼女を人間離れした美しさに見せていた。
ただ、その顔は暗かった。
かつて戦場で胸を張っていた黒騎士は、今は狭い部屋の中で膝の上に手を置き、小さくなっている。
「少しだけだよ」
ツカサは短く答えた。
「少し、ですのね」
「ああ」
嘘ではない。
大きく減ったわけではない。
ただ、少しずつ削られている。
領域ができる前の七日間、外でモンスターを倒して貯めたポイントを、二人は今も切り崩して暮らしていた。
貧しいだけなら、まだ耐えられた。
ツカサはもともと贅沢を望む性格ではない。
アイナも見栄っ張りではあるが、必要な時には我慢できる。
問題は、ポイントそのものよりも、アイナが日に日に俯くようになっていることだった。
領域内の仕事は安全だった。
荷運び。
清掃。
受付補助。
備品整理。
食堂の手伝い。
どれも危険は少ない。
一般人でもできるように作られた、簡単な仕事ばかりだ。
けれど、アイナには向いていなかった。
黒騎士である彼女は、戦うために作られたキャラクターだった。
巨大な剣を振るい、敵の攻撃を受け止め、味方の前に立つ。
それがアイナの役割だった。
細かな作業は苦手だった。
荷物を運べば力加減を間違えて箱を潰す。
掃除をすればモップの柄を折る。
備品を棚へ並べようとして、棚板ごと壊す。
接客を任されれば、本人は丁寧に話しているつもりなのに、お嬢様口調のせいで相手を威圧してしまう。
そのたびに評価が下がり、時にはペナルティーを貰った。
最初の頃、アイナは胸を張っていた。
「この程度、わたくしにかかれば造作もありませんわ」
そう言っていた。
今は言わない。
今日も仕事先で、彼女は食堂の配膳台を壊した。
重い鍋を持ち上げた時、少し肘が当たっただけだった。
普通の人間なら揺らす程度で済んだはずの衝撃で、配膳台の脚が折れた。
すぐに修復された。
領域の施設は便利だった。
壊れれば自動で直る。
ただし、修繕費は発生する。
修繕費は、二人で共有しているポイントから容赦なく引かれた。
「……わたくし、今日はもう寝ますわ」
アイナはそう言って、ベッドへ横になった。
ツカサは何も言わなかった。
励ます言葉を探しても、うまく出てこない。
彼は寡黙で、真面目で、負けず嫌いだった。
だが、人を慰めるのはうまくない。
それでも、以前は逆だった。
外でモンスターに追われ、避難所で肩身の狭い生活をしていた頃、ツカサを支えていたのはアイナだった。
彼が挫けそうになるたび、アイナは胸を張って前に立った。
「ツカサ、顔を上げなさい。わたくしの契約者が、そのように情けない顔をするものではありませんわ」
言葉は下手だった。
偉そうで、遠回しで、時には余計に腹が立った。
それでも、彼女は守ってくれた。
敵の前に立ち、傷を受け、逃げ道を作り、ツカサを生かした。
だから今度は、自分が支えなければならないと思った。
そう思って、領域内の仕事を必死にこなした。
だが、結果は出なかった。
自分は彼女を守れない。
仕事で稼いで安心させることすらできない。
その事実が、ツカサの胸の奥に重く沈んでいた。
その時、廊下の向こうから賑やかな声が聞こえた。
何か大きな荷物を運ぶ音。
のっぺらぼうの作業員たちが、台車を押している音だった。
ツカサは顔を上げる。
嫌な予感がした。
「タクミ、そちらは新しい部屋へお願いします。高層階ですから、間違えないでくださいね」
聞き覚えのある声だった。
アイナも聞こえたのかベッドからゆっくり身を起こす。
扉の外にいたのは、タクミとネイアだった。
タクミはツカサと同じプレイヤーで、同じ避難所にいた頃から仲が悪かった男だ。
その隣にいるネイアは、フードを被った小柄な錬金術師。
女神陣営の非戦闘職で、体を張って戦うことをどこか小馬鹿にするような話し方をする女キャラだった。
アイナとネイアは最初から反りが合わなかった。
襲撃があれば、戦うのはアイナだった。
入口を塞ぎ、モンスターの爪を受け止め、避難民が逃げる時間を稼ぐ。
ツカサもできる限り動いたが、戦闘の中心に立つのはいつもアイナだった。
ネイアは戦えなかった。
錬金術師としての能力はあったのだろうが、素材も設備もない避難所では、本領を発揮できない。
作れるのは簡単な薬や補修剤程度で、戦闘中にはほとんど役に立たなかった。
それなのに、戦いが終わるとネイアは必ず文句を言った。
床に汚れを撒き散らさないでください。
壁を壊す必要がありましたか。
剣を振るうしか能がない方は、どうしてこうも大雑把なんですか。
ネイアにも言い分はあったのだろう。
避難所の資材も有限だった。
通路が塞がれば、怪我人を運ぶこともできなくなる。
戦いが終わった後の片付けも、次に生き残るためには必要だった。
けれど、命を懸けて守った直後にそれを言われれば、アイナが怒るのは当然だった。
「守られているだけの者ほど、よく口が回りますのね」
アイナがそう返すたび、ネイアは冷たく笑った。
「邪神陣営らしい野蛮さです」
システム上、陣営の区別はもう撤廃されていた。
だが、感情は消えない。
女神陣営から見れば、邪神陣営は乱暴で危険。
邪神陣営から見れば、女神陣営は綺麗事を言いながら他人に犠牲を押しつける。
プレイヤーも伴侶も、長い時間をかけて積み重ねた敵意を、簡単には捨てられなかった。
これだから女神陣営は。
これだから邪神陣営は。
その一言で、二人の関係は何度も壊れた。
ツカサがタクミを嫌った理由も似たようなものだった。
タクミは自分の伴侶であるネイアを絶対に危険な場所へ出さなかった。
それ自体は悪くない。
ツカサだって、できることならアイナを危険に晒したくはなかった。
だがタクミは、ツカサに平気で言った。
もっと前に出せ。
URの黒騎士なんだろ。
戦闘職が守るのは当然だ。
自分の伴侶は守る。
他人の伴侶は盾にする。
その上、戦い方にまで口を出してくる。
一度だけ、ツカサは言い返したことがある。
「なら、お前の伴侶も前に出せ」
タクミは悪びれずに答えた。
「ネイアは生産職だ。役割が違うだろ」
理屈としては間違っていない。
だからこそ、ツカサはタクミを嫌いになった。
そんな二人が、どういう因果か同じ領域に入った。
そして領域に入った途端、立場は逆転した。
避難所では無力に見えたネイアが、領域内では恐ろしいほど早く頭角を現した。
安全な作業場、素材、現代の商品。
それらが揃った瞬間、彼女の錬金術は本来の力を取り戻した。
領民クエストを次々にこなし、数日で領民ランクをCまで上げた。
それだけでは終わらなかった。
店を開く権利を購入し、魔道具店を始めたのだ。
ポイントで買った現代の商品に、錬金術を組み合わせる。
登山用のリュックには軽量化術式を組み込み、背負う者が感じる重さを大幅に減らした。
普通のランタンには、電池も魔石も必要とせず、永遠に淡い光を放ち続ける術式を定着させた。
湿布や絆創膏には簡易回復薬を染み込ませ、切り傷の出血を抑える応急治療パッチとして売り出した。
どれも派手な物品ではない。
けれど、今まで現代日本で暮らしていた者たちにとっては、物珍しさと実用性の両方から、喉から手が出るほど欲しい商品だった。
ツカサから見ても、それは魅力的だった。
自分たちが狭い部屋で残高を削っている間に、ネイアは店を持ち、客を集め、今では高級マンションへ移ろうとしている。
廊下で、タクミがわざとらしく笑った。
「いやあ、やっぱり店が当たると違うな。狭い部屋とはお別れだ」
ネイアはツカサたちの部屋の扉が開いていることに気づくと、わざと足を止めた。
「ああ、いたんだ。私たち、今日から高級マンションに移るの。ここよりは、ずっと静かそうだから」
アイナの指が震える。
ネイアは室内を一瞥し、勝ち誇ったように微笑んだ。
「ここなら、壊しても修繕費は安く済むでしょ。あなたたちには、その方が合ってると思うわ」
扉の前から、タクミとネイアが去っていく。
荷物を運ぶ音が遠ざかった。
ツカサはしばらく黙っていたが、小さく吐き捨てる。
「……ヒモ野郎」
タクミのことだった。
ネイアの店が成功したのは事実だ。
タクミも店番や客対応くらいはしているのかもしれない。
だが、ツカサの目には、ネイアの成功に乗って勝ち誇っているだけに見えた。
その程度の悪口で済ませたツカサと違い、アイナは限界だった。
彼女は立ち上がり、何も言わずに壁を殴った。
鈍い音がした。
拳が壁にめり込み、白い粉が落ちる。
二人は同時に固まった。
直後、スマートフォンが鳴る。
《建物設備の破損を確認しました》
《修繕費を所持ポイントから徴収します》
《修復を開始します》
壁の穴が、何事もなかったように塞がっていく。
同時に、残高が減った。
アイナは青ざめた顔で画面を見つめる。
「……また、やってしまいましたわ」
声が小さかった。
ツカサは責めなかった。
責められるはずがない。
アイナがどれだけ傷ついたかを知っていたし、自分も同じように腹が立っていた。
ただ、短く言った。
「次は壁じゃないものを殴ってくれ」
アイナはしばらく俯いていた。
「……努力しますわ」
その日の昼、領主から呼び出しが届いた。
行政施設の会議室に、プレイヤーと伴侶たちが集められた。
領主が、領域外の避難所について話をするという。
ツカサは最初から乗り気ではなかった。
外へ出たくなかった。
ランキングには入れなかった。
けれど、抽選で領域に入れた。
安全な場所に入れたのだ。
ようやくモンスターに怯えず眠れるようになった。
なのに、なぜ今さら外と関わらなければならないのか。
知らない人間を守る義務などない。
そう思った。
周囲にも同じ空気があった。
誰もが余裕を失っている。
領域の中で暮らすだけでも必死なのに、外の人間まで抱え込むなど、正気とは思えなかった。
だが、マキトの説明が進むにつれて、ツカサの考えは少しずつ変わった。
外の避難所を放置すれば、いずれ領域の周辺にも危険が溜まる。
ばらばらに人が残れば、防衛も救助も非効率になる。
複数の避難所を一箇所に集め、拠点化し、領域の外側に防衛線を作る。
個人で無理に戦うのではなく、組織的に動く。
そして、外でのモンスター討伐は、領域内の単純労働よりもポイント効率が高い。
戦闘職には、戦闘職に合った仕事を任せる。
その言葉を聞いた時、隣にいたアイナの目が変わった。
ずっと暗かった瞳に、久しぶりに光が戻る。
ツカサはそれを見た。
自分は外へ出たくない。
危険は嫌だ。
知らない人間を守るために命を懸ける気にも、すぐにはなれない。
だが、アイナがもう一度前を向けるなら。
ツカサは口を開いた。
「参加しよう」
アイナが驚いて振り向く。
「ツカサ。あなた、外へ出るのは嫌だと……」
「まあ、嫌だ」
「でしたら、なぜ」
「お前が行きたい顔をしてるから」
アイナは一瞬言葉を失った。
それから慌てて胸を張る。
「べ、別に? わたくしは黒騎士ですもの。求められれば戦うのは当然ですわ」
「そうだな」
「ええ、当然ですわ」
その言い方は、少しだけ昔のアイナに戻っていた。
数日後、領主の指示のもと、領域周辺の複数の避難所から避難民を一箇所に集める作戦が始まった。
出発前、参加者には支給品が配られた。
重量軽減リュック。
無限ランタン。
応急治療パッチ。
どれもネイアの魔道具店の商品だった。
アイナは露骨に顔をしかめた。
「……あの女の道具ですの?」
ツカサはリュックを背負いながら言った。
「使えるなら使う」
「正論ですけれど、今はその正論が腹立たしいですわ」
アイナはそう言いながらも、無限ランタンを手に取った。
作戦は単純ではなかった。
避難所に到着し、生存者を集め、移動の列を作る。
荷物を運び、怪我人を支え、子供がはぐれないよう確認する。
その上で、襲ってくるモンスターを退けなければならない。
ツカサは自身は戦えるわけではない。
だから真面目にできることをする。
名簿を確認する。
教室を一つずつ見る。
物置を開ける。
トイレの個室まで確認する。
階段裏、準備室、保健室のカーテンの奥。
誰かが隠れていないか、逃げ遅れていないか、黙々と見て回った。
他のプレイヤーが言う。
「もう全員いるだろ。早く出ようぜ」
ツカサは首を振る。
「まだ一室見てない」
「そんなところにいるか?」
「確認する」
その一言で押し切った。
そして最後の倉庫で、膝を抱えて泣いている子供を見つけた。
かくれんぼをして隠れているうちに、周囲の大人たちが移動を始めてしまい、気がついた時にはどうすればいいのかわからなくなっていたらしい。
ツカサが見落としていれば、その子は置き去りになっていた。
領域内では遅いだけだった確認が、ここでは命を拾った。
ツカサは子供を抱き上げ、列へ戻した。
その頃、アイナは避難所の入口で剣を握っていた。
最初の戦闘では、動きが硬かった。
力を振るうことを、彼女は少し恐れていた。
壊してはいけない。
失敗してはいけない。
領域内で何度もミスをした記憶が、戦場に立つ彼女の足まで鈍らせていた。
だが、モンスターが避難民へ向かって走った。
ツカサが短く叫ぶ。
「アイナ」
それだけで十分だった。
アイナは前へ出た。
黒い鎧が鳴る。
黄金の巻きロールが揺れる。
白い肌に無限ランタンの淡い光が反射する。
大剣が振るわれた。
一体目のモンスターが吹き飛ぶ。
周囲が息を呑む。
二体目が横から飛びかかった。
アイナは盾のように剣を立て、爪を受け止めた。
床石が砕けるほどの衝撃を、その場で止める。
誰かが叫んだ。
「黒騎士、右を頼む!」
アイナの瞳が揺れた。
壊すだけの女としてではない。
黒騎士として、必要とされた。
アイナの背筋が伸びる。
「任されましたわ!」
その声は、もう暗くなかった。
彼女は避難民の前に立ち、黒い剣を構えた。
「わたくしの後ろから離れないでくださいませ! この程度の魔物、わたくしの前では雑魚ですわ!」
見栄っ張りで、負けず嫌いで、お嬢様で、誇り高い。
ツカサの知っているアイナが、そこに戻ってきていた。
作戦中、ネイアの商品も役に立った。
重量軽減リュックのおかげで、避難民の荷物をまとめて運べた。
無限ランタンのおかげで、暗い校舎の奥や地下へ続く通路も照らせた。
応急治療パッチは、転んで膝を切った子供や、ガラスで手を裂いた老人の出血を抑えた。
アイナはそれを見て、ひどく不本意そうに呟いた。
「……性格は最低ですが、道具の出来は悪くありませんわね」
ツカサは少しだけ笑った。
和解ではない。
アイナとネイアが仲良くなることはないだろう。
陣営のわだかまりも、避難所で積み重なった恨みも、そう簡単に消えるものではない。
それでも、能力は認めた。
その一歩だけでも、以前とは違っていた。
夕方、作戦を終えた一行は領域へ戻った。
ツカサはスマートフォンを確認する。
その日は、戦ってばかりではなかった。
避難誘導をして、人数を確認し、荷物を運び、子供を探し、怪我人の手当ても手伝った。
それでも、獲得ポイントは領域内で働く数日分以上だった。
ツカサは画面を見つめた。
久しぶりに、残高が目に見えて増えていた。
隣からアイナが覗き込む。
彼女は一瞬だけ、子供のように嬉しそうな顔をした。
だが、すぐに咳払いをして、胸を張る。
「ま、まあ当然ですわね。わたくしは最上位の黒騎士ですもの。この程度で驚く方がおかしいのですわ」
ツカサはスマートフォンをしまった。
ポイントが増えたことは嬉しい。
これで少しは食事をまともにできる。
修繕費に怯える日も、少しだけ遠のく。
明日も外へ出れば、領域内で無理に向かない仕事を続けるより、ずっと稼げるかもしれない。
けれど、それ以上に嬉しかったのは、隣にいるアイナの声だった。
暗く俯いていた黒騎士が、また得意げに笑っている。
ツカサは短く言った。
「よかったな」
アイナは目を丸くした後、ふいと顔を逸らした。
「べ、別に。わたくしは元からこのくらい当然ですわ」
「そうだな」
「そうですわ」
ツカサはそれ以上言わなかった。
言わなくてもよかった。
その日、二人はようやく知った。
自分たちは、役に立たなかったわけではない。
ただ、役に立てる場所にいなかっただけなのだと。




