32.選べてしまう
ポコミに資料を預けたあと、マキトは大広間に残らなかった。
彼女が紙を抱え、不安そうに何度も確認している姿は見えた。
だが、そこで自分が横から口を出し続けても意味がない。
むしろ邪魔になる。
そう判断して、マキトはスマートフォンをポケットにしまった。
「出るぞ」
シエルが少し驚いたように顔を上げる。
「もうですか?」
「ああ。ここにいても、ポコミが怯えるだけだろ」
「ですが、ポコミさんは大丈夫でしょうか」
シエルは振り返る。
大広間の奥では、ポコミが資料を机に広げていた。
長い前髪の下で目を泳がせながらも、紙を一枚ずつ並べ替えている。
手つきは頼りない。
だが、押さえるべきところは押さえていた。
「大丈夫かどうかは、やらせてみないと分からない」
マキトは短く答えた。
「それに俺が横で見張ってたら、あいつ絶対に失敗するぞ」
「……それは、少し分かります」
「だろ」
シエルは苦笑した。
心配はしている。
けれど、止めようとはしなかった。
ポコミに任せた仕事が、マキトの手を離れたわけではない。
ただ、紙の山の一部を、別の誰かが見てくれるようになっただけだ。
それだけで、気持ちが軽くなった気がした。
もちろん、仕事が消えたわけではない。
領主クエストも、就任挨拶も、領民の問題も残っている。
残っているが、今はとにかく責任から離れたかった。
ロビーに出たところで、足が止まる。
広いロビーの中央。
来客用のソファーを、メルシーが我が物顔で占領していた。
背もたれにだらしなく体を預け、片脚を肘掛けに乗せ、もう片方の脚をぶらぶらと揺らしている。
外へ視察に出たはずなのに、いつの間に戻ってきたのか。
完全にくつろいでいた。
以前のように人間が運営しているホテルであれば、間違いなく注意を受けていただろう。
だが今、このホテルを動かしているのは顔のないモーブたちだ。
行儀が悪かろうが、態度が大きかろうが、誰も咎めない。
受付では、モーブが棒立ちしている。
メルシーの方を見もしない。
「……おい」
マキトは後ろから声をかけた。
メルシーは振り返らず、ひらひらと手だけを振る。
「遅かったじゃない」
「ここはお前の部屋じゃないぞ」
「知ってるわよ。誰もいないんだからいいじゃない」
「そういう問題じゃない」
マキトが近づくと、メルシーはようやく顔だけを向けた。
退屈そうな目。
けれど、その奥にはどこか期待が混じっている。
「それで? 政務ごっこは終わったの?」
「終わってない。逃げてきた」
「素直でよろしい」
メルシーは悪びれもせずに笑った。
シエルが少し困ったように眉を下げる。
「メルシーさん。せめて靴は下ろされた方が……」
「はいはい」
言葉だけは返したが、メルシーは脚を下ろさなかった。
マキトはため息をつく。
「外に行く。ついてこい」
その一言で、メルシーの表情が変わった。
退屈そうに細められていた目が、楽しげに輝く。
「外?」
「ああ。領域の外がどうなってるか見に行く」
メルシーはようやくソファーから身を起こした。
「いいわね」
口元が吊り上がる。
「ずっと綺麗なホテルと平和な街ばかりで退屈してたのよ。そろそろ運動したいと思ってたところ」
「遊びに行くんじゃないぞ」
「分かってるわよ」
メルシーは軽い足取りで立ち上がり、ハルバートを担ぐ。
「それで、全部迷宮になってるのかしら?」
絶対に分かっていない声だった。
マキトはため息をつき、シエルとメルシーを連れてロビーを出た。
ホテルの外へ出たところで、マキトは送迎サービスの存在に気づいた。
領主は無料利用できるらしい。
試しに呼び出してみると、ホテルの前に黒塗りの車が音もなく現れた。
運転席には、いつものモーブが座っている。
のっぺりとした顔。
感情の見えない動作。
この一週間と少しで、モーブたちに害意がないことは分かっていた。ホテルで働き、街を管理し、領域内の機能として淡々と動く。命じれば従うし、余計なことはしない。
だから安全ではある。
安全ではあるが、不気味なものは不気味だった。
「……急に出てくるな」
マキトが呟くと、モーブは何も答えず後部座席の扉を開けた。
車は高級車のように見えた。
ただし、マキトは車種を知らない。
黒くて、長い。
座席は柔らかく、走り出しても音がほとんどしない。
たぶん高いのだろう。
マキトに分かるのは、その程度だった。
シエルは少し緊張した様子で座り、メルシーは窓の外を眺めている。
車は領域の中心部から外周へ向かって進んだ。
走り始めてすぐ、歩道を行き交っていた領民たちが次々とこちらを振り返った。
立ち止まる者。
隣を歩く者の肩を叩き、黒塗りの車を指差す者。
通り過ぎるまで、窓の向こうをじっと覗き込んでくる者までいる。
無理もなかった。
道路も信号も駐車場も、元の日本とほとんど変わらない。
領域内にはバスやタクシーも走っているが、運転しているのはすべてモーブだった。決められた経路を巡回するか、利用者の呼び出しに応じて現れるだけで、領民が自分で所有し、運転している車は一台もない。
そのため、街で見かける車両といえば、見慣れたバスやタクシーばかりだった。
黒塗りの高級車が走っていれば、目立たないはずがない。
自分たちが普段利用する車両とは明らかに違う。誰が乗っているのか気になるのだろう。
マキトが窓の外へ目を向けると、こちらを覗いていた男と目が合った。
男は気まずそうに顔を逸らしたが、隣にいた女は構わず車内を見続けている。
「見世物ね」
メルシーが楽しそうに言った。
「誰が乗ってるのか、気になって仕方ないみたい」
「俺も、こんなのが走ってたら見る」
もっとも、普段はバスやタクシーの姿すらそれほど多くない。
車道に一台も車が見えない時間も珍しくなかったが、だからといって領民が道の中央で立ち話をしたり、座り込んだりすることはない。
車道を塞げば、領域システムから警告が届く。
それでも退かなければ、通行妨害としてポイントを引かれるからだ。
実際に罰を受けた者もいるらしく、今では車の姿がなくても、領民たちは律儀に歩道を使っていた。
整った道路。
掃除された歩道。
新しく建てられた施設。
車の外には、世界の異変など最初から存在しなかったかのような街並みが流れていた。
だが、進むにつれて、その先に別の景色が見え始める。
映画やアニメに出てくるような、透明な壁や光の膜はなかった。
境界線そのものは見えない。
それでも、景色は明らかに変わっていた。
領域の内側には、清潔な街並みがある。
その向こうには、変異した街が広がっていた。
歪んだビル。
黒ずんだ窓。
大きくひび割れた道路。
信号機は傾き、街路樹はねじれたように伸びている。
同じ街のはずなのに、境界を越えた先だけが別の生き物に侵食されたようだった。
車は、その手前で静かに止まった。
まだ道は続いている。
だが、モーブはそれ以上進まない。
マキトは運転席へ目を向けた。
「外に出ろ」
命令してみる。
モーブは動かなかった。
車も動かない。
拒否しているというより、最初からそれ以上進む機能が存在しないようだった。
「……なるほどな」
マキトは小さく息を吐く。
領域機能に属する存在や設備は、外へ出られない。
そう考えるのが自然だった。
三人は車を降りた。
マキトが領域の外へ一歩踏み出す。
シエルが続き、メルシーも軽い足取りで外へ出る。
その瞬間、背後で気配が消えた。
振り返ると、モーブも車もなくなっていた。
役目を終えたから消えたのだろう。
あまりにも自然に消えたせいで、逆に気味が悪かった。
目の前には、ひび割れた道路と歪んだビルが続いている。
気味が悪い。
それでもマキトは、不謹慎だと分かっていながら、少しだけ期待していた。
この先で、日常ではありえない何かが起きることを。
三人は変異した街の中を進んだ。
空気が違う。
領域内の澄んだ空気とは違い、外は湿った鉄のような匂いがした。遠くで何かが崩れる音がする。風が吹くたび、割れた窓ガラスがかすかに鳴った。
しばらく進むと、路地の奥からモンスターが現れた。
リザードマンに近いが、四肢は歪み、皮膚は黒く硬化している。喉の奥から濁った音を漏らしながら、こちらへ向かってくる。
それを見た瞬間、メルシーが笑った。
「来たわね」
次の瞬間、影が跳ねる。
メルシーはハルバートを振りかぶり、真正面からモンスターへ飛び込んだ。
刃が重く唸る。
一体目の胴体が叩き割られ、黒い粒子を散らして崩れた。
続いて現れた二体目の脚を払い、倒れたところへ石突きを叩き込む。
さらに三体目。
四体目。
メルシーは止まらなかった。
ホテルでの待機と、領域内の平和な生活で、相当鬱憤が溜まっていたらしい。
ハルバートを振り回し、目につくモンスターを次々と叩き潰していく。
シエルは少し離れた場所から、その様子を見ていた。
「メルシーさん……そんなに溜まっていたのですか?」
若干引いている声だった。
メルシーは黒い血のようなものを浴びながら、笑った。
「今日は何体でもいいわ、気分がいいから相手してあげる!」
その言葉に、シエルはますます複雑そうな顔をする。
メルシーにとっては、ホテルのソファで寝転がるより、危険な場所で刃を振るっている方が性に合うのだろう。
マキトも、その感覚は少し分かった。
久しぶりに油断できない環境だった。
何が出るか分からない道。
一歩間違えれば死ぬかもしれない緊張感。
書類の束を見て気が滅入るより、今こうして外を歩いている方がずっと楽しい。
やはり、ランキング外のままの方がよかったのかもしれない。
領主ではなく、一人のプレイヤーとして外で生きた方が自由だった。
今からでも遅くない。
そんな考えに、傾いていった。
しばらく進んだところで、小学校が見えてきた。
校門はバリケードで塞がれている。
机や椅子、フェンスの残骸、車止めのようなものが積み上げられ、簡単には中へ入れないようになっていた。
窓には板が打ちつけられ、校庭には粗末な罠が仕掛けられている。
屋上には見張りもいた。
誰かがいる。
それも、ただ隠れているのではない。
ここを避難所として使い、防衛している。
マキトは足を止めた。
最初に浮かんだのは、単純な興味だった。
自分たちが領域の中にいた、この一週間と少し。
外の世界が、どのように変わったのか知りたい。
領域内から眺めているだけでは分からない。
モンスターがどれほど増えたのか。
夜はどれほど危険なのか。
領域へ移れなかった人間が、どうやって食料を確保し、今日まで生き延びてきたのか。
実際に外で過ごしてきた人間に聞くのが、一番早い。
そこから、頭の中で計算を弾く。
避難所の人数。
防衛戦力。
食料事情。
周囲にいるモンスターの種類。
他の避難所や領域に関する情報を持っている可能性もある。
領主として考えても、外の状況を知っておいて損はない。
領域内が安全だからといって、外の異変が無関係になるわけではない。周囲の環境がさらに悪化すれば、いずれ領域へ影響が及ぶかもしれなかった。
接触する危険もある。
追い詰められた人間が、こちらの食料や装備を奪おうとする可能性。
こちらが領域から来たと知られれば、連れていけと迫られるかもしれない。
それでも、得られる情報の方が大きい。
いざとなれば、シエルがいる。
メルシーも隠しておけば、相手が何かを企んでいたとしても対応できる。
話を聞くだけなら、それほど時間もかからない。
マキトは接触することに決めた。
「隠れてろ」
マキトはメルシーへ言った。
メルシーは少し不満そうに眉を寄せた。
だが、すでに外で暴れて満足したのか、すぐに肩をすくめる。
「ま、ストレス発散はできたし、今日はこのくらいで我慢してあげるわ。つまんないけど」
そう言って、マキトの影へ沈んだ。
表に出るのは、マキトとシエルだけ。
メルシーはいつも通り、隠したままにしておく。
手ぶらで近づけば警戒される。
逆に、食料を持っていけば、少なくとも話を聞いてもらえる可能性は上がる。
マキトはスマートフォンを操作し、ショップから食料を購入した。
水。
パン。
缶詰。
栄養補助食品。
避難所の人数は分からない。
全員へ行き渡らせるには足りないかもしれないが、話を聞くための手土産としては十分だろう。
量はかなり多めにした。
それを見えるように持ち、シエルと一緒に正面から小学校へ向かった。
校門の上から、見張りがこちらに武器を向ける。
「止まれ!」
声は震えていた。
けれど、必死さは伝わってきた。
マキトは両手を少し上げ、食料を見せる。
「少し話をしたい」
相手が警戒を解かないのを見て、続ける。
「食料もある」
見張りたちは顔を見合わせた。
当然、すぐには信用されない。
門の向こうでは、大人たちが慌ただしく相談している。中には武器を構えた者もいた。
それでも、食料の存在は大きかったらしい。
しばらくして、バリケードの一部が動かされる。
マキトとシエルは、校内へ入ることを許された。
中は、想像よりもずっと人が多かった。
体育館へ続く通路には毛布が敷かれ、教室のいくつかは負傷者用に使われているようだった。壁際には水の入った容器や、わずかな食料が積まれている。だが、どれも十分な量には見えない。
人々の顔には疲労が濃く浮かんでいた。
マキトを見る目には警戒がある。
だが、シエルを見た瞬間、その中にわずかな期待が混じった。
戦力が増えた。
そう考えたのだろう。
シエルはその視線に気づき、少しだけ表情を硬くした。
明らかに勘違いされている。
だが、マキトが訂正しないため、シエルも黙って合わせるしかなかった。
マキトは、自分が領主だとは明かさなかった。
領主だと知られれば、期待される。
何ができるか分からない状態で、無駄に希望を与えたくなかった。
それに、その希望が失望に変わる顔を見たくなかった。
避難所の責任者らしい男が、マキトたちを職員室へ通した。
そこで、マキトは避難所の事情を聞くことになる。
ここにいる者たちは、携帯を失くし領域への招待を受けられなかった者たちだった。
あるいは、抽選に落ちた者たち。
領域を持つ者たちが安全な場所へ移ったあとも、ここに残された。
キャラクターを持つプレイヤーは、二人しかいない。
連れているキャラも、SR未満。
戦力として紹介されたのは、寡黙な女弓兵と、明るく振る舞っている騎士の少女だった。
女弓兵はほとんど喋らない。
騎士の少女は笑顔を作っていたが、その目元には濃い疲労があった。
彼女たちは弱くはない。
だが、シエルやメルシーとは明確に違う。
避難所のプレイヤーたちは、周囲のモンスターを倒し、得たポイントでショップから食料や医薬品を買っている。
それを避難所全体で分ける。
それが、ここでの生活だった。
だが、防衛戦力は少ない。
戦える者たちは疲弊している。
怪我人は増えている。
全員を養うにはポイントも全く足りていない。
昼も夜も警戒を続けなければならない。
休めば襲われる。
戦い続ければ、疲労が溜まる。
数日なら耐えられるかもしれない。
だが、いつか必ず限界が来る。
マキトは話を聞きながら、自分の考えの甘さに気づいていた。
外で生きることは自由だ。
だが、食料も、安全も、眠る時間さえ保証されない。
シエルとメルシーがいても、永遠に戦い続けられるわけではない。
一度、嫌な形で味わったはずだった。
連戦。
消耗。
逃走。
休む場所のない不安。
それなのに、領域の中で数日過ごしただけで、その感覚が抜け落ちていた。
外は自由ではある。
だが、その自由は想像していたよりもずっと過酷だった。
話が一段落したあと、シエルがマキトの近くへ寄った。
周囲には聞こえないよう、声を落とす。
「旦那さま」
マキトは視線だけを向ける。
「この方々を、領域までお連れすることはできませんか」
マキトはすぐには答えなかった。
人数が多い。
老人もいる。
怪我人もいる。
子供も多い。
移動速度はかなり遅くなる。
途中で襲われれば、全員を守り切れる保証はない。
「全員を安全に連れていくのは、無理かもしれない」
マキトは低い声で言った。
「人数が多すぎる。途中で守り切れなかったら、今より悪くなる」
シエルは言い返さなかった。
ただ、避難所の人々を見る。
疲れ切った防衛役。
包帯を巻かれた怪我人。
わずかな食料を分け合う大人たち。
教室の隅で膝を抱える子供たち。
マキトも同じものを見た。
ここに残しても、状況が良くなる見込みはない。
ただ、少しずつ追い詰められていくだけだ。
しばらく考えた末、マキトは避難所をまとめている大人たちへ向き直った。
「俺は領域の中に住んでいる」
その場の空気が変わった。
疲れ切っていた者たちが顔を上げる。
「入れるかどうかは、行ってみないと分からない」
マキトは続けた。
「連れていくことはできる。だが、途中で襲われる危険はある。着いたとしても、中に入れる保証はない」
確約はしない。
助けるとも言わない。
ただ、可能性だけを提示した。
避難所の大人たちは話し合った。
この場所に残る危険。
領域へ向かう途中の危険。
領域へ着いても受け入れられない可能性。
どれも軽くはない。
それでも、ここで消耗し続けるよりは、まだ可能性がある。
疲れ切ったプレイヤーが、避難所を代表して頭を下げた。
「お願いします」
その言葉をきっかけに、避難民たちの間へ静かな希望が広がっていく。
大人たちとの話がまとまったあと、シエルが視線を下げた。
少し離れた場所に、一人の少女が立っていた。
小学生くらいの女の子だった。
汚れた服を着て、髪も乱れている。
物陰に隠れていたつもりらしいが、身体の半分ほどが見えていた。
どうやら、大人たちの会話を盗み聞きしていたらしい。
シエルと目が合うと、少女は気まずそうに物陰から出てきた。
最初はシエルの大剣を見つめている。
やがて、小さな声で尋ねた。
「お姉ちゃん、強いの?」
シエルは少し困ったように微笑む。
「はい、強いです。皆さまを守れるよう、努力いたします」
少女はその言葉に、少しだけ安心した顔をした。
それから、マキトを見る。
「領域って、ここより安全なの?」
マキトはすぐには答えなかった。
安全だと言い切れば、入れなかった時に嘘になる。
「ここよりはな」
少女は小さく頷いた。
少し迷ったあと、さらに尋ねる。
「そこ、お風呂ある?」
その問いに、シエルの表情がわずかに曇る。
マキトは短く答えた。
「ある」
少女の顔が明るくなる。
「じゃあ、お母さんも入れる?」
マキトは答えられなかった。
領域へ着けるかではない。
領域の中へ入れるかどうかは、まだ分からない。
少女も返事がないことに気づいたのか、それ以上は聞かなかった。
親らしい女性のもとへ戻り、その服を掴む。
それでも、避難民たちの顔には、先ほどまでなかった希望が浮かんでいた。
それから、準備は慌ただしく進んだ。
持っていける荷物は限られている。
食料。
水。
薬。
毛布。
負傷者を運ぶための簡単な担架。
すべてを持っていくことはできない。
置いていくものを選ぶ大人たちの顔は暗かった。
それでも、誰もやめようとは言わなかった。
避難民たちは列を作り、小学校を出る。
マキトとシエルが前に立つ。
避難所側のキャラクターたちも、それぞれの位置についた。
メルシーは影の中にいる。
外に出ると、空気はさらに重く感じられた。
人数が多いため、移動は遅い。
怪我人がいる。
老人がいる。
子供がいる。
荷物を抱えた者もいる。
当然、モンスターは襲ってきた。
最初の群れが路地から飛び出した瞬間、シエルが前へ出る。
大剣が一閃する。
先頭のモンスターがまとめて吹き飛び、黒い粒子になって消えた。
寡黙な女弓兵が援護しようと弓を構えたが、矢を放つ前に次の敵も倒れていた。
騎士の少女が盾を構え、避難民の前に立つ。
だが、その横をシエルが一気に駆け抜ける。
白い軌跡が走り、敵の群れがまとめて薙ぎ払われた。
避難所側のキャラクターたちは、その実力差に言葉を失っていた。
明るい騎士の少女が、疲れた笑顔で呟く。
「すごいですね……」
そして、自分の剣を見下ろす。
「私たち、あんなふうには戦えません」
その声に、女弓兵は何も答えなかった。
ただ、矢を番えたまま、シエルの背中を見つめている。
シエルは強い。
それは分かっていた。
だが、その強さが見えれば見えるほど、避難所側がどれほどギリギリの戦力で耐えてきたのかも分かった。
彼女たちは弱くない。
それでも足りなかった。
足りないまま、今日まで戦ってきた。
避難民たちは少しずつ、領域へ着けば助かるのだと信じ始めていた。
先ほどの少女も、母親と手を繋いで歩きながら、時折マキトへ尋ねる。
「もうすぐ?」
マキトは前を見たまま答えた。
「もう少しだ」
それが嘘にならないことを、少しだけ願った。
やがて、領域が見えてきた。
変異した街の向こうに、綺麗に整えられた街並みが広がっている。
道路は割れていない。
建物は歪んでいない。
窓は黒ずんでいない。
そこだけが、別の世界のようだった。
避難民たちの顔に安堵が広がる。
子供たちが小さく声を上げる。
大人たちも、緊張が切れたように息を吐いた。
少女は母親の手を強く握りながら、領域の街を見つめていた。
だが、境界へ足を踏み入れようとしたところで、避難民たちは止まった。
見えない壁に阻まれたように、それ以上進めない。
マキトは入れる。
シエルも入れる。
影の中にいるメルシーも問題ない。
しかし、避難民たちと、そのプレイヤーやキャラクターは進めなかった。
マキトのスマートフォンが震える。
画面に通知が表示されていた。
《領域内人口が上限に達しています》
《新規領民の受け入れはできません》
《受け入れ枠を確保してください》
マキトは通知を見て、思った。
やっぱりか。
自分が「可能な限り受け入れる」を選択した結果、領域内の人口はすでに上限まで達している。
だが、そのことは口にしなかった。
言えば、シエルが苦しむ。
そして、次の問いが出る。
では、誰かを外へ出せばいいのか。
その瞬間、マキトの頭に、領域内で働かず問題を起こしている者たちの存在がよぎった。
だが、まだ具体的には考えない。
考えないようにした。
シエルは領域の外へ一歩戻った。
そして、避難民たちへ深く頭を下げる。
「申し訳ありません」
声が震えていた。
「私が、軽々しく期待を持たせてしまいました」
疲れ切ったプレイヤーが、首を横に振った。
「あなたのせいじゃない」
シエルは顔を上げられなかった。
別の男もがっかりしていたが取り繕って言う。
「ここまで連れてきてもらえただけで、ありがたいです」
その声に、怒りはなかった。
「この人数で、ここまでは来られませんでした」
騎士の少女も無理に笑う。
「帰りも、お願いしていいですか」
少しだけ自嘲するように、続ける。
「すみません。情けないですけど、もう私たちだけだと危なくて」
理不尽に怒鳴られた方が、マキトにはまだ楽だった。
恨まれれば、相手のせいにできる。
勝手に期待したのはそっちだと、切り捨てることもできる。
だが、誰もマキトを責めなかった。
礼を言われる方が、ずっと重かった。
少女は泣かなかった。
綺麗な街をしばらく見つめたあと、母親の服を掴む。
「お風呂、入れないの?」
母親は答えなかった。
少女も、それ以上聞かなかった。
マキトは胸に痛みを覚えた。
それでも何も言わない。
助けるとも言えない。
必ず何とかするとも言えない。
結局、マキトたちは避難民を小学校まで送り返すことになった。
帰り道、何度かモンスターに襲われた。
シエルがすべて退けた。
行きと違い、避難民たちはほとんど喋らなかった。
領域のことを尋ねていた子供たちも黙って歩いている。
騎士の少女だけが、時折無理に明るい声を出した。
「もう少しです」
「学校まで戻れば、休めますから」
だが、その声に応える者は少なかった。
シエルは何度も後ろを振り返る。
遠ざかっていく綺麗な街を見つめる者がいないか、確かめるように。
小学校へ戻った時、避難所の空気は重かった。
一度、助かるかもしれないという希望を見た。
そのうえで、同じ場所へ戻ってきた。
それでも、避難民たちは礼を言った。
「ありがとうございました」
「本当に、助かりました」
「食料も、ありがとうございます」
マキトは最後まで領主だとは明かさなかった。
慰めの言葉も口にしなかった。
助けるという約束もしなかった。
避難民たちと別れ、三人は再び領域へ戻った。
境界を越えた瞬間、黒塗りの車が現れる。
何事もなかったように。
当たり前のようにモーブが、後部座席の扉を開けて待っていた。
外では、食料も安全も足りない。
昼も夜も警戒し続けなければならない。
子供が風呂に入れるかどうかさえ、希望になる。
だが領域へ戻れば、無料の送迎車が迎えに来る。
マキトは開かれた車の扉を見つめた。
すぐには乗り込めなかった。
シエルも黙っている。
やがて、マキトは何も言わず車へ乗った。
シエルも続く。
車は静かに走り出す。
窓の外には、綺麗な街並みが流れていった。
しばらくして、マキトの影が揺れメルシーが、車内に姿を現した。
そして、小学校のあった方角を見ながら呟く。
「あそこの避難所、長くはもたないわね」
シエルは悲しそうに目を伏せる。
メルシーは少し黙ったあと、珍しく続けた。
「嫌ね」
腕を組み、顔をしかめる。
「ああいうのを見ると、あたしでも助けたくなっちゃう」
マキトは少し驚いた。
普段のメルシーなら、もっと軽く流す。
悪役のふりをして遊ぶ。
助けたいなどと、わざわざ口にしない。
だからこそ、その言葉は重かった。
マキトは何も言えなかった。
気が付くと、頭の中はある発想だけで埋まっていた。
考えないようにしても、消えない。
ホテルへ戻ると、ポコミが待っていた
不安そうな顔で、資料を抱えている。
「あ、あの……」
マキトの前へ、おずおずと資料を差し出す。
「領民ランク低下者の一覧を作りました……」
声が小さい。
「すみません、勝手に……必要かと思って……」
マキトは資料を受け取った。
表題は、
《領民ランク低下者一覧》
事務的で、感情のない名前だった。
そこには、領民ランクがEからFへ落ちた者たちが並んでいる。
軽犯罪。
素行不良。
公園での無許可宿泊。
税収見込み最低。
施設利用トラブルあり。
就労可能職の制限。
治安や領域効率への悪影響。
淡々と項目が整理されていた。
ポコミは悪意を持って作ったわけではない。
ただ、必要だと思ってまとめただけだ。
むしろ、仕事としては有能だった。
領主クエストを進めるなら、こういう資料は必要になる。
領域を管理するなら、問題のある領民を把握しなければならない。
ポコミは、任された仕事をしただけだった。
だが、その資料はマキトにとって、別の意味を持っていた。
避難所の人間を受け入れる枠はない。
しかし、枠を空ける方法はある。
問題を起こしている領民を追放すれば、その人数分だけ受け入れられるかもしれない。
境界で頭をよぎった考えが、資料によって具体的な形を持ってしまった。
マキトは資料に並んだ名前を見る。
以前、自分はポコミについて言った。
無理なら、一か月後に雇わなければいい。
その時は、一人を雇わないだけの話だと思っていた。
合わなければ切る。
役に立たなければ残さない。
それだけの軽い判断だった。
だが今、資料に並んでいるのは数字ではない。
領域から追い出せば、さっきの小学校と同じ場所へ落ちる人間たちだった。
一か月後に雇わなければいい。
領域から出せばいい。
言葉だけなら、よく似ている。
だが、意味はまるで違っていた。
会社員だった頃、マキトが嫌っていたのは、責任を押しつけられることだった。
上司から押しつけられる仕事。
終わらない残業。
理不尽な叱責。
自分では選べない責任。
そのどれもが嫌だった。
だから、あの頃の自分はいつも思っていた。
自分の人生くらい、自分で決めたい。
誰かに勝手に背負わされたものではなく、自分で選んだものだけを背負いたい。
今は違う。
誰かに押しつけられたわけではない。
マキトには選べてしまう。
誰を領域に残すのか。
誰を外へ出すのか。
誰を助け、誰を切るのか。
自由になったはずだった。
誰にも生き方を決められず、自分で選べるようになったはずだった。
だが、その自由の方がずっと重かった。
追放すれば、避難所の人間を助けられるかもしれない。
追放しなければ、領域にいる問題のある者たちは守られる。
どちらを選んでも、誰かが外に残る。
マキトは資料を見ながら思う。
人として終わっている。
そう思った。
それでも、追放という考えを完全には否定できなかった。
誰にも、この考えは言わない。
領域の中で黙って働いているだけなら、外へ出すという言葉の重さを知らずに済んだ。




