31.罪悪感はなかった。
貸し切りにし続けているホテルの大広間は、すでにマキトの仕事部屋として定着していた。
目の前にはスマートフォン。
画面には、領主クエストの一覧が並んでいる。
税収の安定化。
施設の改善。
領民の生活状況の確認。
そして、領主としての就任挨拶。
マキトは、その文字列をしばらく眺めていた。
どれも領域を維持するためには必要なのだろう。
必要なのは分かる。
分かるが、やる気が出ない。
「……これなら、会社で働いてた時と変わらないな」
思わず、本音が漏れた。
会社員だった頃も、楽ではなかった。
パワハラ。
残業。
終わらない仕事。
上から投げられる責任。
嫌なことはいくらでもあった。
だから、あの生活に戻りたいとは思わない。
絶対に思わない。
けれど、これはこれで別の地獄だった。
会社では責任を上から押しつけられた。
今は、領民の生活も、税収も、治安も、全部自分のところへ集まってくる。
誰かに命令されているわけではない。
けれど、放っておけば勝手に悪化する。
そして何か起きれば、責任を問われるのは自分だ。
「……正直、嫌だ」
マキトは椅子にもたれた。
命の危機がある戦いなら、まだいい。
油断すれば死ぬ緊張感。
手持ちの札で窮地を切り抜ける瞬間。
そういうものには、躊躇なく心血を注げる。
だが、領地経営は違う。
数字と不満と責任が、画面の中に並んで待っているだけだ。
マキトはスマホを指で弾いた。
その中でも、とりわけ嫌な項目がある。
《領主として領民へ就任挨拶を行う》
「これが一番嫌なんだよな……」
領民全体へ顔を出し、領主として言葉を伝える。
やれば多少は信頼も上がるらしい。
簡単そうに書かれているが、マキトには最悪だった。
プレイヤーたちには、すでに顔を見られている。
今後何かあれば協力を求めることもある以上、そこは仕方がない。
だが、一般人は別だ。
突然こんな世界に放り込まれ、ポイントで生活しろと言われた人間たち。
その前に領主として顔を出せば、どうなるか。
家が高い。
仕事がない。
ポイントが足りない。
前の生活に戻せ。
あらゆる不満の行き先になる。
マキトは命懸けのスリルを楽しみたいのであって、領民の苦情窓口になりたいわけではない。
「絶対、面倒だろ」
顔なんて出さない。
少なくとも、今は。
項目を閉じようとしたところで、別の通知が目に入った。
《領民順応率:八十二パーセント》
《一部領民に生活基盤の未確立が確認されています》
隣ではシエルが、スマホに表示された情報を紙へ書き出していた。
相変わらず文字は綺麗で、重要そうなところには印までついている。
真面目すぎる。
「八割は順応してるのか」
「はい。仕事を見つけた方や、住む場所を決めた方は増えているようです」
「残りは?」
シエルは少し言いにくそうに視線を落とした。
「すでにポイントをほとんど使ってしまった方や、宿を借りず、公園で寝泊まりしている方もいます」
「……いるのか」
マキトは顔をしかめた。
現代日本の警察組織は、ここでは機能していない。
罰則を作らなければ、公園で寝ようが広場で寝ようが止める者はいない。
節約なのか。
単に何もする気がないのか。
理由は分からない。
だが、領主からすれば面倒だった。
スマホには、領民一人一人の状態を示すランクまで存在している。
よく働き、生活を安定させている者ほど領域への貢献が大きい。
逆に、低い者が増えれば税収や治安にも影響が出る。
つまり領主の画面では、人間まで数字になる。
働ける人間。
稼げる人間。
そして――そうではない人間。
お荷物。
その言葉が頭に浮かび、マキトは少し嫌な気分になった。
だが、完全には否定できない。
領域を維持するにも、非常時に備えるにもポイントは必要だ。
感情だけで回せるものでもない。
「旦那さま?」
シエルが心配そうに見てくる。
「いや」
マキトはスマホを伏せようとして、少し前のことを思い出した。
公園で寝泊まりする領民の報告を受けた時、一度だけ罰則を作ろうとしたことがある。
治安が悪くなる。
放置すれば真似する者も出てくるかもしれない。
そう考えた瞬間、スマホは待っていましたとばかりに罰則設定画面を出した。
「こいつ、絶対待ってただろ」
その時もそう思った。
だが、設定はしなかった。
シエルが止めたからだ。
「少しだけ、時間をあげてください」
皆まだ、この暮らしに慣れていない。
いきなり罰を作れば、本当に困っている者まで追い詰めてしまうかもしれない。
甘い。
そう思った。
だが、間違っているとも言い切れなかった。
だから保留した。
結果として、問題は今も残っている。
「優しくするのも面倒だな」
マキトがぼそりと言うと、シエルが眉を下げた。
「申し訳ありません」
「責めてない」
「ですが、私が止めましたね」
「責めてないって」
シエルは真面目だ。
そして、甘い。
困っている人間を、そう簡単には切り捨てられない。
だからこそ、自分の横にいる意味があるのかもしれない。
自分一人なら、もっと早く雑な判断をしていただろう。
大広間の窓から、外の街が見えた。
整備された道を領民たちが行き交っている。
少しずつ、この場所にも生活が生まれ始めていた。
そのどこかを、今頃メルシーが歩いているはずだ。
距離制限がなくなってから、ホテルでじっとしていることに飽きたらしい。
「視察よ、視察。領主の嫁として当然でしょ」
そう言って出ていった。
実際には、ただ街をぶらついているだけだろう。
マキトは窓の外を眺め、小さく息を吐いた。
「いいな」
「メルシーさんですか?」
「ああ。俺の代わりに誰かこれ全部やってくれないかな」
シエルが困った顔をする。
「旦那さま」
「分かってる。言っただけだ」
言っただけ。
だが、本音でもあった。
クエスト一覧を見るより、外でモンスターを相手にしている方がよほど楽しい。
一瞬だけ思う。
いっそのことランキング外だった方が気楽だったのかもしれない。
領域を持たなければ、こんな管理もない。
税もない。
就任挨拶もない。
シエルとメルシーがいれば、領域外でも案外生きていけるかもしれない。
危険はある。
だが、危険だけなら大歓迎だ。
少なくとも、こうして画面の前で責任を眺めているよりは、自分に向いている。
その考えを口にはしなかった。
シエルが心配する。
それに、まだ本気で捨てたいと思っているわけでもない。
少しだけ、そう思ってしまっただけだ。
「旦那さま」
シエルが紙を一枚差し出した。
「ミケコさんからの報告です」
「ミケコ?」
「街で領民の様子を探っているそうです」
「不真面目だと思ってたが、意外と仕事してんだな」
「報告書の末尾に、余計なことも書かれていますが」
受け取ってみれば、公園で寝ている領民や宿への不満など、街で拾った話が簡単にまとめられていた。
その最後に、妙な一文がある。
《あののっぺらぼうさん、領民の間で“モーブ”って呼ばれてるにゃ》
《モブキャラみたいだからモーブらしいにゃ》
マキトはしばらくその文字を見た。
「モブキャラみたいだからモーブか」
確かに、あののっぺらぼうには名前がない。
必要な時だけ現れ、領域の機能の一部のように働いている。
「……納得した。俺もそう呼ぶか」
「よろしいのですか?」
「本人も気にしないだろ」
たぶん、気にする顔もない。
マキトは報告書をテーブルに置いた。
ミケコは口が軽く、空気も読まない。
だが、街の空気を拾わせる役としては意外と使えるらしい。
問題は、こちらだった。
「申し訳ありません、旦那さま」
不意にシエルが頭を下げた。
「何が?」
「私は、こうした細かな管理や計算は得意ではありません」
机には、彼女がまとめた大量の資料がある。
戦場ならシエルは強い。
前に立ち、守り、斬る。
だが、紙の上の数字は完全に畑違いだった。
「ですが、領域のために必要なことなら、できる限りお手伝いいたします」
本当に真面目だった。
マキトは少しだけ目を細める。
「無理すんな」
「無理ではありません」
「いや、してる顔だろ、それ」
シエルは返事に詰まった。
その沈黙が答えだった。
やがて彼女がおずおずと口を開く。
「旦那さま。政務に向いた方を雇う、というのはいかがでしょうか」
「政務?」
「はい。領主のお仕事を補助できる方です」
マキトはスマホを見た。
確かに、キャラクターを雇用する機能はある。
ミケコもそれで雇った。
「俺の仕事をやらせても、領主クエストは進むのか?」
その瞬間、スマホが震えた。
《可能です》
マキトは黙った。
「こいつ、絶対意思あるよな」
「スマートフォンですか?」
「便利すぎて気持ち悪い」
シエルは否定しなかった。
さっそく政務向きの人材を探してみる。
だが、優秀そうな者は軒並み高い。
「高いな」
「そうですね……」
「政務できる奴って高いんだな」
考えてみれば当然かもしれない。
領域そのものを任せるのだから、安さだけで選ぶのも怖い。
とはいえ、今の手持ちでは選択肢が少なかった。
条件を絞っていくと、一人だけ手の届くキャラクターが残った。
《ポコミ》
《レアリティ:低》
《適性:政務補助》
黒髪の犬耳を持つ、小柄なキャラクターだった。
能力自体は悪くない。
問題は、その下にある性格欄だった。
《マイナス思考》
《不安症》
《自己評価:極低》
《依存傾向》
マキトは画面を見ながら呟いた。
「悪口だろ、これ」
シエルも少し困った顔をした。
「かなり直接的ですね……」
「メンヘラって書かれてないだけマシか?」
「旦那さま!」
「悪い」
それでも安い。
今のポイントで、一ヶ月なら雇える。
政務を放置し続けるわけにもいかない。
そして何より――。
マキト自身にやる気がない。
まったくない。
「一ヶ月だけ雇う」
マキトは決めた。
「無理そうなら、その時また考える」
「よろしいのですか?」
「今の俺がやるよりはマシだろ」
最低限、適性はある。
最初から完璧な人材を雇えるほど、懐事情も豊かではない。
マキトは雇用ボタンを押した。
翌日。
ポコミはホテルの大広間へやってきた。
黒い髪。
長い前髪。
垂れた犬耳。
小柄な体。
彼女はマキトたちの前に立つと、肩をびくりと震わせた。
「あ、あの……ポコミ、です……」
声が小さい。
今にも消えそうだった。
邪神陣営らしいが、邪悪さはまるでない。
むしろ、怯えた犬に近い。
メルシーとは別方向の邪神だった。
シエルが、あらかじめ用意していた紙を渡す。
領主業の中でも、特に確認してほしい内容だけをまとめたものだ。
ポコミはそれを両手で受け取った。
「こ、これ……全部、ですか……?」
「全部やれとは言ってない」
マキトが答えると、ポコミの肩がまた跳ねた。
「できる程度でいい。無理そうなら無理でいいから、自分のペースでやってくれ」
「じ、自分のペース……」
ポコミは紙を見下ろした。
「それ、一番難しいやつでは……」
マキトは少しだけ眉を上げた。
シエルが優しく声をかける。
「急がなくて大丈夫です。まずは確認できる範囲からお願いします」
「は、はい……すみません……確認できる範囲が狭かったら、すみません……」
「まだやってないのに謝るの早すぎない?」
「すみません……」
「だから早いって」
本当に大丈夫か。
さすがにマキトも不安になった。
だが、ポコミは紙をしばらく見たあと、小さな声で言った。
「あの……優先順位が高そうなものと、苦情が集中しているものからまとめます……」
マキトは目を細めた。
「できるのか?」
「た、たぶん……」
「自分で判断してくれるなら助かる」
その言葉に、ポコミが青ざめた。
「す、すみません……勝手に考えてしまいました……」
「いや」
マキトは、彼女が持つ紙を見る。
むしろ今欲しかったのは、そこまで自分で考えてくれる人材だった。
「何かあったら責任とるから、頼むわ」
「えっ」
ポコミが顔を上げかけた。
前髪の奥で、目が揺れた気がした。
「せ、責任……とって、くれるんですか……?」
「元々は俺の仕事だからな」
「……はい」
ポコミは紙を胸元に抱え直した。
「じゃあ任せる。できる程度でいい。よろしく頼む」
「は、はい……」
深く頭を下げる。
その背中は頼りない。
けれど、紙を持つ手だけは妙にしっかりしていた。
シエルはまだ心配そうだった。
「旦那さま。本当に、よろしいのですか?」
「俺がやるよりいいだろ」
「ですが……」
「できる程度でいいって言った。倒れるまでやれとは言ってない」
マキトはポコミの背中を見る。
「それに、自分で優先順位を考えられるなら十分だ。今欲しいのは、そういう奴だからな」
そう言って、スマホをしまった。
領主の仕事がなくなったわけではない。
就任挨拶もしていない。
領民の問題も残っている。
それでも、とりあえず目の前の面倒な仕事を、人に渡すことには成功した。
罪悪感はなかった。
たぶん、少しは持った方がいい。
そう思うくらいには、なかった。




