28.ふざけるな(2章開始)
この一週間で、世界は本当に変わってしまった。
セイジが最初にそのニュースを見た時、それはまだ、自分とは関係のない遠い世界の出来事だった。
ゲームのキャラクターが現れた。
そんな見出しが、テレビにもネットにも流れていた。
ラグオダという名前も、その時初めてまともに聞いた気がする。いや、もしかすると以前からどこかで耳にしていたのかもしれない。駅の広告か、動画サイトの宣伝か、会社の若い同僚の雑談か。
けれど、セイジはゲームに詳しくなかった。
スマートフォンの中で女の子や騎士や魔法使いが戦うゲームらしい。
それくらいの認識しかない。
だから、画面の向こうで誰かが興奮気味に語っていても、セイジには実感がなかった。
現実にゲームのキャラクターが現れた。
そんなことを言われても、すぐには信じられない。
世の中には、ときどき妙な騒ぎが起きる。
誰かが大げさに言い、誰かが面白がって広げ、気がつけばニュースになっている。
今回も、その類だと思っていた。
少なくとも、セイジの日常はその時点では何も変わっていなかった。
仕事はあった。
朝は来た。
息子のマモルは学校に行かなければならなかった。
妻のアツコはいつも通り台所に立ち、朝食を作っていた。
「マモル、早く食べなさい。遅れるよ」
「今日、算数あるんだよなあ」
小学生の息子は、眠そうな顔でパンをかじりながら文句を言っていた。
マモルはサッカー部に入っている。
よく走り、よく笑い、よく喋る子だった。
学校は面倒くさがるくせに、放課後のサッカーだけは楽しみにしている。
休日になると、狭い庭でボールを蹴って、何度もアツコに注意されていた。
セイジはそんな息子を見ながら、いつものようにコーヒーを飲んだ。
テレビの中では、まだラグオダの話をしていた。
ゲームのキャラクター。
現実化。
各地で目撃情報。
セイジはそれを聞き流した。
世界が変わるという言葉は、その時まだテレビの中にしかなかった。
セイジにとって現実だったのは、眠気と、仕事と、朝の渋滞だった。
翌朝も、セイジはいつも通り家を出た。
まだ少し暗さの残る時間だった。
車に乗り、エンジンをかけ、会社へ向かう。
道は普段より少し空いている気がした。
昨日のニュースのせいで、外出を控えている人間がいるのかもしれない。
そんなことをぼんやり考えながら、セイジはハンドルを握っていた。
赤信号で止まる。
その時、前方の歩道に妙なものが見えた。
最初は事故だと思った。
人が倒れている。
その近くに、誰かが立っている。
いや、誰かではなかった。
大きい。
人間よりもずっと大きな体。
分厚い肩。
獣のような頭。
手には、斧のようなものを持っている。
牛の頭をした、人間の形をした何か。
セイジは、その名前を知らなかった。
ゲームに詳しい人間なら、ミノタウロスだとか、そういう言葉が出てきたのかもしれない。
だが、セイジの頭に浮かんだのは、もっと曖昧なものだった。
映画か何かに出てくる化け物。
それだけだった。
最初、現実だとは思えなかった。
寝不足か。
仕事の疲れか。
昨日のニュースを見たせいで、変なものを見ているのか。
自分はおかしくなったのかもしれない。
病院に行った方がいいのか。
そんな考えが、ひどく場違いに頭の中を回った。
その間に、信号は青になっていた。
後ろの車がクラクションを鳴らす。
それでもセイジは動けなかった。
目が離せなかった。
歩道にいた女性が、化け物から逃げようとしていた。
足がもつれたのか、転んだ。
化け物が斧を振り上げた。
次の瞬間、女性の悲鳴が途切れた。
血が飛んだ。
セイジの頭の中で、何かが落ちた。
これは夢ではない。
妄想でもない。
疲れのせいでもない。
現実だ。
そう理解した瞬間、化け物がこちらを見た。
ただ見られただけだった。
それなのに、セイジの体は完全に固まった。
これまで生きてきて、誰かに本気で殺されそうになったことなど一度もなかった。
上司に怒鳴られたことはある。
理不尽なクレームを受けたこともある。
学生の頃に軽い喧嘩をしたことくらいなら、あったかもしれない。
だが、今向けられているものは、それらとはまったく違った。
あれは、自分を殺すものだ。
理由もなく。
会話もなく。
命乞いも意味がなく。
ただ、見つけたから殺す。
そういう目だった。
逃げなければならない。
分かっているのに、手が動かない。
声も出ない。
心臓だけがうるさいほど鳴っている。
だが、足だけが動いた。
アクセルを踏み込んでいた。
考えてやったことではない。
恐怖で体が勝手に動いただけだった。
車が急発進する。
タイヤが鳴り、体がシートに押しつけられる。
後ろから怒鳴り声のようなクラクションが響いたが、セイジにはもう何も聞こえていなかった。
横断歩道の手前を無理やり抜け、車を走らせる。
バックミラーの中で、化け物の姿が小さくなっていく。
それでもセイジはアクセルを緩められなかった。
歩いていたら死んでいた。
車に乗っていなければ殺されていた。
あの時、足がアクセルを踏んでいなければ、今頃自分もあの女性と同じように倒れていた。
その事実が、遅れて全身に染み込んでいった。
セイジは車を飛ばした。
最初は会社へ向かっているつもりだった。
しかし、すぐに仕事のことなど頭から消えた。
道路の向こうで人が逃げている。
遠くで煙が上がっている。
別の通りから悲鳴が聞こえる。
コンビニの前に、見たことのない獣がいた。
自動販売機が倒れている。
ガラスが割れている。
クラクションが鳴り続けている車がある。
そして街のあちこちに、化け物がいた。
警察に連絡するべきか。
救急車を呼ぶべきか。
会社に電話するべきか。
違う。
まず家族だ。
セイジは震える手でスマートフォンを操作した。
何度か画面を押し間違えた。
指が汗で滑った。
ようやくアツコに電話が繋がる。
『もしもし? どうしたの?』
その声を聞いた瞬間、セイジは叫んでいた。
「外に出るな!」
『え?』
「絶対に出るな! マモルを学校に行かせるな!」
『セイジ? 何が――』
「いいから鍵を閉めろ! カーテンも閉めろ! 誰が来ても開けるな!」
自分でも、何をどう説明すればいいのか分からなかった。
化け物がいる。
人が殺された。
街が壊れている。
そんな言葉を並べても、現実味がない。
けれど、セイジの声だけは本物だった。
普段、大声を出すことの少ない夫が、息を乱して叫んでいる。
それだけで、アツコもただごとではないと察したらしい。
『分かった。鍵、閉めるね。マモルも家にいさせる』
電話の向こうで、マモルの声が聞こえた。
『学校休み?』
その呑気な声が、セイジには余計に怖かった。
「アツコ、絶対に外へ出るな。俺も戻る」
『気をつけて』
その言葉を聞いて、セイジは返事をしようとした。
だが、声が出なかった。
気をつける。
そんな言葉でどうにかなる状況ではなかった。
セイジは家へ向かった。
途中で何度も、倒れている人を見た。
助けを求めるように手を伸ばしている人もいた。
道端で泣いている子供の姿も、視界の端に入った気がする。
だが、車を止められなかった。
止めれば自分も死ぬ。
自分が死ねば、アツコとマモルを守れない。
そう言い訳しながら、セイジはハンドルを握り続けた。
家に着くと、車庫へ車を突っ込むように停めた。
玄関まで走る。
中からアツコが鍵を開けた。
セイジは家に飛び込み、すぐに鍵を閉める。
チェーンもかける。
窓の鍵も確認する。
カーテンの隙間を閉じる。
息が切れていた。
アツコが青ざめた顔で立っている。
マモルはランドセルを背負ったまま、玄関の奥から父親を見ていた。
「お父さん?」
セイジは答えられなかった。
ただ、マモルを抱き寄せた。
その時、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
会社からだった。
セイジは画面を見たが出なかった。
その日から、セイジの世界は家の中だけになった。
テレビをつけると、街に化け物が出ていることが報道されていた。
全国各地で被害が出ている。
警察も対応している。
自衛隊の出動も始まっている。
そして、昨日までニュースの中にいたゲームのキャラクターらしき存在が、化け物と戦っている映像も流れていた。
剣を持った女。
魔法のような光を放つ少女。
巨大な獣と戦う騎士のような姿。
何が何だか分からなかった。
ゲームのキャラクター。
化け物。
現実の街。
死んだ人間。
全部が、セイジの理解の外にあった。
マモルは最初、学校に行かなくていいことを少し喜んでいた。
「今日、休みでいいの?」
そう聞いてきた。
セイジは頷けなかった。
アツコも答えられなかった。
テレビの中では、アナウンサーが避難を呼びかけている。
だが、その声も震えていた。
外から、ときどき悲鳴が聞こえた。
遠くで何かが壊れる音もした。
マモルは、ようやく状況がおかしいことに気づいたらしい。
笑わなくなった。
セイジは息子を抱きしめながら、ただ祈った。
ここには来るな。
この家だけは見つけるな。
頼むから、通り過ぎてくれ。
翌日、テレビでは避難所の情報が流れ始めた。
一部の避難所は、例のゲームのキャラクターたちが守っているらしい。
そこには水や食料もあるという。
アツコが小さく言った。
「避難所に行った方がいいんじゃないかな」
セイジは即座に首を振った。
「無理だ」
言い方が強くなった。
アツコが黙る。
セイジは続けた。
「外に出たら死ぬ。あんな化け物に見つかったら終わりだ。マモルを連れて走れるわけがない」
「でも、このまま家にいても……」
「軍か警察が来るまで待つ。その方が安全だ」
自分で言いながら、セイジはその言葉にしがみついていた。
軍。
警察。
救助。
それらは、昨日までの世界では頼れるものだった。
だから、まだ信じたかった。
だが、本当は分かっていた。
家族を守るためと言っている。
けれど、自分はもう一度あの化け物を見るのが怖いだけでもある。
あの殺気を、もう一度浴びたくない。
車の中ですら動けなくなった自分が、妻と息子を連れて外を歩けるとは思えない。
アツコは強く言い返さなかった。
穏やかな妻だった。
それに、セイジが本気で怯えていることも分かっていたのだと思う。
家族は、家に残ることになった。
幸い、食料は買ったばかりだった。
米がある。
冷蔵庫には肉や野菜もある。
インスタント食品も少しはあった。
災害時用の非常食も棚に置いてある。
一週間くらいなら何とかなる。
最初は、そう思っていた。
けれど、家の外では時々悲鳴が上がった。
何かが道路を歩く重い音が聞こえることもあった。
一度、玄関の前を大きな影が通り過ぎた。
三人は息を潜めた。
マモルは口元を手で押さえ、泣きそうな顔をしていた。
アツコはその肩を抱き寄せていた。
セイジは玄関の方を見つめたまま、ただ祈った。
通り過ぎろ。
こっちを見るな。
この家に気づくな。
やがて音は遠ざかっていった。
誰も声を出せなかった。
マモルは、初めのうちはまだ少しだけ子供らしさを残していた。
リビングでサッカーボールを触っていた。
不安をごまかすように、足元で小さく転がしていた。
「危ないからやめて」
アツコに注意されると、マモルは不満そうに唇を尖らせた。
だが、その日の夕方、外で悲鳴が聞こえた。
女の人の声だった。
助けて、という声がした。
その後、大きな音がして、声は途切れた。
それからマモルは、ボールに触らなくなった。
玄関の隅に置かれたサッカーボールだけが、世界が壊れる前のものみたいに残っていた。
マモルは明るい子だった。
よく走って、よく笑って、よく喋った。
夕飯の時には学校であったことを次々に話し、アツコに「食べながら喋らない」と注意されていた。
それが、少しずつ変わっていった。
声が小さくなる。
笑わなくなる。
テレビの音を怖がるようになる。
夜中に目を覚まして、アツコの布団に潜り込むようになる。
セイジはそれを見るたび、自分の判断が正しかったのか分からなくなった。
四日目の夜、電気が落ちた。
家の中が真っ暗になった。
冷蔵庫の音が止まる。
テレビの画面が消える。
照明も消える。
スマートフォンの充電も、もうできない。
それまでテレビだけが、外の世界との細い繋がりだった。
その画面が消えた瞬間、家は本当に孤立した。
冷蔵庫の中身は、腐る前に食べるしかなかった。
五日目の夜までに、肉や野菜を食べた。
食べ物があるのに、誰も嬉しそうではなかった。
これはごちそうではない。
終わりに近づいている合図だった。
六日目と七日目は、非常食を食べた。
水も節約する。
トイレにも気を遣う。
風呂など入れない。
何をするにも音を立てないようにした。
窓は開けられない。
外の様子も分からない。
最初、アツコは何度も言っていた。
「いつ救助が来るんだろう」
だが、日が経つにつれて、その言葉は変わっていった。
「あと、どれくらい食べ物があるかな」
救助を待つ恐怖は、食料が尽きる恐怖へ変わっていた。
セイジとアツコは、自然と自分たちの分を減らすようになった。
マモルに少しでも多く食べさせるためだった。
アツコは「私はあまりお腹が空いてないから」と言った。
セイジも「昼に食べたからいい」と嘘をついた。
マモルも、それに気づいていた。
「僕、お腹空いてない」
そう言った。
けれど、その直後に腹の音が鳴った。
マモルは恥ずかしそうに俯いた。
アツコは笑おうとして、うまく笑えなかった。
セイジは何も言えなかった。
家族は生きていた。
だが、生きているだけだった。
少しずつ削られている。
気力も、食料も、希望も。
八日目の朝。
セイジは玄関の前に立っていた。
もう待てない。
非常食はほとんど残っていない。
水も限界に近い。
このまま家にいても、数日後には動けなくなる。
なら、外に出るしかない。
せめて、アツコとマモルだけでも避難所に連れて行く。
そう決めた。
三人で助かりたい。
もちろん、そう思っている。
だが、全員が無事に辿り着けるとは思えなかった。
途中で化け物に見つかれば終わりだ。
走って逃げきれるとも思えない。
道が塞がっていれば、そこで詰む。
それでも、ここで飢えるよりはましかもしれない。
もしもの時は、自分が足止めする。
数秒でもいい。
アツコがマモルの手を引いて逃げられるだけの時間を作れれば、それでいい。
そんなことを考えている自分に気づいて、セイジは奥歯を噛んだ。
死ぬ覚悟など、できていない。
怖い。
本当は外になど出たくない。
あの化け物を、もう一度見るだけでも体が動かなくなる気がする。
それでも、アツコとマモルをこの家で飢えさせることだけはできなかった。
アツコはマモルの手を握っていた。
マモルは青ざめた顔で、父親を見ている。
ランドセルは背負っていない。
代わりに、小さなリュックを背負っていた。
中には少しの水と、残った非常食が入っている。
セイジはドアノブに手をかけた。
その時だった。
家の中で、小さく通知音が鳴った。
三人が固まった。
スマートフォンの充電は、とっくに切れていた。
停電してから充電などできていない。
画面もつかなくなっていたはずだった。
なのに、確かに鳴った。
セイジは玄関から戻った。
リビングのテーブルに置いていた自分のスマートフォンを見る。
画面がついていた。
充電など、できるはずがない。
それなのに、バッテリー残量は満タンになっていた。
そして、画面だけが白く光っている。
通知が来ていた。
差出人は、ラグオダ運営。
セイジは眉をひそめた。
「ラグオダって……あのゲームのキャラがどうとか言ってたやつか」
詳しくは知らない。
だが、テレビで名前を聞いた覚えはある。
アツコが自分のスマートフォンを手に取った。
「こっちにも来てる」
同じ通知だった。
一度は避難所へ向かうつもりだった三人は、玄関からリビングへ戻った。
逃げる前に、これを読むしかなかった。
通知の文章は、異様に整っていた。
まるで、普段のアプリ通知のようだった。
世界が壊れた後に読むには、あまりにも事務的で、あまりにも冷たかった。
そこには、領域で領民を募集すると書かれていた。
領域。
その言葉の意味は分からない。
そして、もう一つ。
領民。
セイジは、その言葉に妙な引っかかりを覚えた。
住民ではない。
避難者でもない。
利用者でもない。
領民。
まるで、最初から誰かの土地に属する人間として数えられているような言葉だった。
助けを求める人間ではなく、受け入れられる人間でもない。
領主という何者かの下に置かれる者。
まだその場所に行くと決めたわけでもないのに、もう自分たちはそう呼ばれている。
それが、妙に気持ち悪かった。
だが、読み進めるうちに、セイジは息を呑んだ。
領域内では、電気、ガス、水道が使用可能。
領域内では、モンスターの侵入は原則として発生しない。
領域内では、食料を購入できる。
その文字に、セイジの目は吸い寄せられた。
電気がある。
水道が使える。
化け物が入ってこない。
食料が買える。
それだけで、胸が苦しくなるほど魅力的だった。
金なら少しはある。
財布の中に現金もある。
銀行が使えるのかは分からないが、何もないよりはいい。
アツコも、画面を見つめたまま黙っていた。
マモルは二人の顔を交互に見ている。
だが、読み進めるうちに、セイジは別のところで引っかかった。
住む場所はどうなるのか。
電気も水道も使えるとある。
食料も買えると書いてある。
だが、そこでどこに住むのかは書かれていない。
避難所のように寝る場所があるのか。
家族三人でいられるのか。
それとも、どこかに集められるのか。
何も分からない。
そして、最後の項目で、セイジの手が止まった。
領民は領主の管理下に置かれる。
領主権限により、領民登録の解除が行われる場合がある。
セイジは、さっき感じた違和感の正体を理解した気がした。
領民。
その言葉は、やはりただの呼び名ではなかった。
この文章の中で、自分たちはもう、どこかの誰かに管理される存在として扱われている。
そして、領主。
やはり聞き慣れない言葉だった。
誰なのか。
何なのか。
まともな人間なのか。
そもそも人間なのか。
領民登録の解除とは何なのか。
追い出されるということなのか。
それとも、もっと別の意味なのか。
助かるかもしれない。
だが、知らない誰かに命を預けることになる。
セイジは怖くなった。
「……どうするの?」
アツコが聞いた。
セイジは答えられなかった。
本来なら、今すぐ避難所へ向かうつもりだった。
けれど、この通知を見たことで、迷いが生まれてしまった。
電気が使える。
水道が使える。
ガスもある。
モンスターが入ってこない。
食料も買える。
これから外に出ようとしていた人間にとって、その内容はあまりにも甘かった。
甘すぎる。
どこまで本当なのかも分からない。
領域という場所が何なのかも分からない。
領主が誰なのかも分からない。
それでも、希望に見えてしまった。
見えてしまうほど、セイジたちは追い詰められていた。
避難所まで行けるのか。
あの化け物がいる外を。
マモルの手を引いて。
アツコを連れて。
途中で見つかったら終わりだ。
それに、この通知はセイジだけに来たわけではない。
アツコのスマートフォンにも来ていた。
なら、他の人間にも来ているのかもしれない。
そこで、セイジはふと思った。
テレビで見た、避難所を守っているというキャラクターたち。
あのキャラクターたちにも、この通知は来ているのだろうか。
もし来ているなら。
もし、あのキャラクターたちが領域という場所へ向かったなら。
避難所は、まだ安全なのか。
そこまで考えて、セイジは息を呑んだ。
避難所に着いても、守ってくれる存在がいないかもしれない。
水や食料があるという情報も、停電前のものだ。
今も同じとは限らない。
アツコが、マモルの肩に手を置いた。
「ここにいても、もう守れないよ」
その声は震えていた。
だが、言葉ははっきりしていた。
セイジは何も言い返せなかった。
家にいれば飢える。
外に出れば殺されるかもしれない。
避難所に行っても、安全とは限らない。
なら、この通知に賭けるしかないのかもしれない。
画面の下に、選択肢が表示されていた。
個人単位で抽選に参加する。
家族単位で抽選に参加する。
その下に、小さく注意書きがある。
個人単位を選択した場合、抽選確率が上昇します。
セイジは一瞬、意味が分からなかった。
意味が分かった瞬間、腹の奥から怒りがこみ上げた。
「ふざけるなよ」
声が漏れた。
家族を分ければ助かりやすい。
一人で応募すれば当たりやすい。
こんな状況で、家族を捨てる選択肢を出してくる。
誰に向けた怒りなのか、自分でも分からなかった。
運営か。
この世界か。
それとも、ほんの一瞬でも「確率が上がる」という文字を理解してしまった自分自身か。
アツコは何も言わなかった。
ただ、セイジを見た。
セイジもアツコを見る。
言葉はいらなかった。
家族単位。
それ以外はなかった。
セイジは震える指で、家族単位を選んだ。
その瞬間、画面に名前が表示された。
セイジ。
アツコ。
マモル。
セイジは息を呑んだ。
入力していない。
家族構成を登録した覚えもない。
このスマートフォンに、そんな情報が入っているとも思えない。
なのに、名前が出ている。
気持ち悪かった。
だが、今さらでもあった。
充電が切れたスマートフォンを勝手に起動させる相手だ。
世界をこんなふうに変えたものと繋がっている相手だ。
住所や家族構成を把握していても、不思議ではないのかもしれない。
そう考えてしまうこと自体が、セイジには怖かった。
画面に確認ボタンが出る。
この家族単位で抽選に参加しますか?
セイジはアツコを見た。
アツコは頷いた。
マモルは不安そうに二人を見上げている。
「お父さん……どこか行くの?」
セイジは答えようとした。
安全な場所に行くんだ。
大丈夫だ。
もう怖くない。
そんな言葉を言ってやりたかった。
だが、どれも嘘になる気がした。
「一緒に行く」
だから、それだけ言った。
「三人で行く」
マモルは小さく頷いた。
セイジは確認ボタンを押した。
しばらく何も起きなかった。
外で、遠くの方から何かが吠える声が聞こえた。
セイジはスマートフォンの画面を見つめたまま、息を止めていた。
アツコも、マモルも、何も言わない。
やがて、画面に文字が表示された。
当選しました。
領域への転移を開始します。
本当に当たった。
本当に行くのか。
どこへ。
誰のところへ。
そこは本当に安全なのか。
白い光が、床から滲むように広がっていった。
マモルが泣きそうな顔でセイジを見る。
セイジは「大丈夫だ」と言おうとした。
でも、言えなかった。
大丈夫かどうかなんて、分からない。
だから、手を握った。
マモルの手を握る。
アツコが、その上から手を重ねる。
白い光が強くなっていく。
見慣れたリビングが白く染まる。
食べ終えた非常食の袋。
玄関の隅に置かれたサッカーボール。
消えたテレビ。
閉め切ったカーテン。
一週間、三人で息を潜めていた家。
それらが、光の中で遠ざかっていく。
セイジは最後に、マモルの手を強く握った。
次の瞬間、リビングが消えた。




