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24.最悪のタイミング

7日目、最終日。


マキトは、まだ薄暗いうちに目を覚ました。


体は重い。


だが、眠れなかったわけではない。


昨日の疲労は残っている。戦闘の疲れも、精神的な重さも全部ある。


それでも、今日は動かなければならない。


レイドの日。


ランキング終了前、最後の大きな機会。


マキトはベッドから起き上がる。


シエルもすぐに気づいて身を起こした。


「旦那さま」


「起こしたか」


「いえ」


メルシーも影の中から気配を出す。


『もう行くの?』


「ああ。時間が惜しい」


身支度を整え、マキトは部屋の扉へ向かった。


そして、扉を開けた瞬間、足を止めた。


廊下が、変わっていた。


昨日までのホテルの廊下ではない。


赤い絨毯は湿ったように黒ずみ、非常灯のような赤い光だけが壁を照らしている。


左右に並ぶ扉には、どれも同じ部屋番号がかかっていた。


奥から、ベルの音がする。


ちりん。


ちりん。


誰もいないはずなのに、どこかから声が聞こえた。


――お客様。


マキトのスマートフォンが震える。


画面を見る。


《異常領域を確認しました》


《領域名:終泊のホテル》


「……ふざけんな」


マキトの声が低くなる。


シエルは大剣を抜いた。


メルシーも影から浮かび上がり、ハルバートを構える。


廊下の奥から、何かが現れた。


ホテルの制服を着た男のようなもの。


白手袋。


きちんと整えられた服。


荷物台車を押す、細長い身体。


だが、顔がない。


顔があるべき場所には、何もなかった。


滑らかな肌のようなものだけが張りつき、目も口も鼻もない。


《顔のないベルボーイ》


ベルボーイは、顔のない頭をこちらへ向けた。


そして、礼をするように上体を折る。


次の瞬間、台車が跳ね上がるように加速した。


「邪魔よ」


メルシーが前へ出た。


赤黒いハルバートが横薙ぎに振るわれる。


顔のないベルボーイの身体は、台車ごと壁に叩きつけられた。


骨が折れる音ではなかった。


代わりに、無数の鍵束が床に落ちるような音がした。


ちりん。


ちりん。


異形の身体は崩れて消えた。


マキトは舌打ちする。


「よりによって今日かよ」


今日は、迷宮を攻略している時間などない。


マキトが廊下の奥を睨んでいると、メルシーが言った。


「急ぐなら、《撤退》すればいいんじゃない?」


マキトは一瞬、反応が遅れた。


「撤退?」


「迷宮ならできるでしょ。前に出てたじゃない。使ったことないけど」


シエルも頷く。


「撤退時には、ポイントを失うはずです」


圏外。


さらにポイントを失う。


それは、普通なら避けたい。


だが、今は違った。


世界災害レイドが始まる日。


ホテルの中で時間を浪費している余裕はない。


マキトはスマートフォンを操作する。


撤退の項目を探し、指を止める。


ほんの少しだけ迷った。


だが、すぐに押す。


「今日だけは時間の方が高い」


画面が光った。


次の瞬間、視界が切り替わる。


マキトたちはホテルの外に立っていた。


入口の前。


昨日入ったシャッターのすぐ前だった。


マキトは息を吐く。


「……初めて使ったけど、使いようによっては悪くないな」


逃げ道としてだけではない。


移動手段としても使える。


迷宮化した場所から、入口へ戻る。


状況によっては、それだけで価値がある。


シエルはホテルを見上げる。


メルシーも同じ方向を見た。


マキトも、昨日まで泊まっていた最上階のあたりを見上げる。


あの部屋は、まだ使える。


少なくとも、今夜までは。


だが、それだけだ。


シエルが静かに言った。


「体験版だと、今夜までしか維持できませんもんね」


「ああ」


マキトは目を細める。


「今日百位に戻れなきゃ、あの部屋も終わりだ」


明日からは、照明も水も空調もない。


風呂もない。


寝床もない。


安全もない。


「明日からは寝る場所を探すところからやり直しになる」


その現実は、思っていたより重かった。


マキトは最上階の窓があるあたりを見上げた。


一週間にも満たない。


それでも、あの部屋は拠点だった。


風呂があり、ベッドがあり、シエルとメルシーがいて、食事を取る場所があった。


壊れた世界の中で、かろうじて生活と呼べるものが残っていた場所。


「……世話になったな」


メルシーが横目で見る。


「ホテルに?」


「風呂とベッドは偉大だった」


「そこなのね」


「そこだろ」


メルシーは呆れたように息を吐いた。


だが、否定はしなかった。



マキトはホテルの入口から少し離れたところで足を止め、スマートフォンを取り出した。


画面には、上位百名の位置が表示されている。


昨日までのマキトは、表示される側だった。だが今は違う。圏外に落ちたことで、表示を見る側に回っていた。


失ったポイントを取り戻す。


今考えるべきことは、それだけでいい。


メルシーが横から画面を覗き込み、楽しそうに笑った。


「昨日まであんたが獲物だったのにね。今日はこっちが狩る番よ」


マキトは焦れたような息を吐き、楽しげに笑った。


「そうだな。貸していたのを返してもらう」


「それだけだ」


ただし、昨日マキトたちに勝った相手が、まだポイントを持っているとは思っていない。


あの状況で、勝者が無事に逃げ切れるとは考えにくかった。


マキトは指先でマップを拡大する。


近くにある表示は、公園付近に集まっていた。


「勝った奴が、そのまま次の獲物になる。今持っている奴はどんな奴か気になるな」


「嫌な言い方ね」


メルシーはそう言いながらも、口元を歪めている。


「嫌なルールだからな」


マキトはスマートフォンをしまい、歩き出した。


目指す場所は昨日敗北した場所に近い公園だった。


だが、そこへ向かう途中で、マキトは何度か足を止めた。


マップ上の点が安定しない。


大きく移動しているわけではない。公園から離れているわけでもない。それでも、同じ場所に留まり続けてはいなかった。


細かく揺れる。


少しずれる。


止まったかと思えば、また動く。


逃げているのか。追われているのか。それとも、ポイントを持っている相手そのものが入れ替わっているのか。


画面だけでは分からない。


ただ、公園の中で何かが起きている。


それだけは分かった。


マキトはスマートフォンを見下ろしたまま、低く言う。


「……嫌な動きしてるな」


メルシーが肩をすくめた。


「アタシは何が起きてるか予想できたわ」


マキトも短く返す。


「俺も」


シエルが一歩前へ出る。


「旦那さま。警戒を」


「分かってる」


マキトたちは大通りを避け、公園の外周へ回り込むように進んだ。


周囲の建物は壊れかけていた。割れた窓ガラスが歩道に散らばり、停まったままの車には、何か巨大なものが乗り越えたような凹みがある。遠くからは、まだモンスターの唸り声らしきものも聞こえていた。


けれど、今のマキトにとって一番不気味なのは、モンスターではない。


同じようにスマートフォンを握り、同じマップを見て、同じ獲物を追っているプレイヤーたちだった。


公園の入口が見えた。


鉄製の門は片側が折れ曲がり、もう片方は地面に倒れている。看板は半分焦げ、文字が読めなくなっていた。


その向こうに広がる景色を見て、マキトは足を止めた。


公園は広い。


だが、もう普通の公園ではなかった。


芝生は裂け、土が剥き出しになっている。ベンチは砕け、遊具は半分溶けていた。噴水は割れ、池は泥と黒い水で濁っている。


地面には、魔法を使用したのか焦げ跡がいくつも残っていた。


刃物で刻まれたような長い傷もある。


巨体が叩きつけられたような陥没もあった。


焼けた草の隣に、溶け残った氷が白くこびりついている。


ここで何度も戦いがあったのだと、見れば分かった。


どの傷が誰のものかは分からない。


ただ、勝者が生まれ、その勝者がまた狙われた。


その流れだけは、嫌でも想像できた。


マキトは公園を見渡し、ぼそっと言う。


「公園って、こういう場所だったか」


メルシーが笑った。


「今は処刑場って感じね」


シエルは否定しなかった。


公園の中央に、少女キャラが立っていた。


低レアだとすぐに分かる見た目だった。


派手な鎧ではない。布と革を合わせただけの軽装。手にしているのは、短槍と小さな盾。髪は土埃で汚れ、頬には血が滲んでいる。


膝は震えていた。


肩も上下している。


立っているだけで限界に見えた。


本来なら、上位戦線に立つような姿ではない。


その近くに、最上位レアと思しき女キャラが倒れていた。


銀の鎧。


美しい武器。


泥の中に倒れていてなお、格上だと分かる存在感がある。


だが、傷の数が違った。


低レア少女に負けたというより、長く守り続けた末に限界が来た。


そう見えた。


銀鎧の女は膝を泥に沈め、肩で息をしている。倒れてなお美しい。けれど、その姿は勝者に討たれた者というより、何度も戦わされ、何度も逃げ損ねた者の末路だった。


低レア少女のプレイヤーは、勝利を喜んでいなかった。


顔は真っ青だった。


口元が震え、目は公園のあちこちへ忙しなく動いている。


「行くぞ! すぐ逃げるぞ!」


その声は裏返っていた。


勝った者の声ではない。


勝ってしまった者の声だった。


少女キャラも頷く。


だが、足が動かない。


槍を握る指が震えている。小さな盾は半ば下がり、呼吸は浅い。逃げたいことは分かる。分かっているのに、身体が追いついていない。


その一瞬が、致命的だった。


少し離れた場所で、別のプレイヤーがスマートフォンを構えた。


次のバトル申請が飛ぶ。


低レア少女のプレイヤーが顔を歪める。


逃げるより早く、戦いは始まった。


マキトはそれを見て、低く言った。


「……降りて正解だったな」


続けて、短く吐く。


「これは無理だ」


シエルもメルシーも黙っていた。


メルシーだけが、しばらくしてから低く言う。


「勝った瞬間に、次の餌になるのね」


公園には、他にも人影があった。


木陰。


売店の裏。


壊れたトイレの影。


倒れた時計塔の下。


ひび割れた噴水の向こう側。


プレイヤーたちがいる。


その数だけ、伴侶たちもいた。


誰も完全には隠れられていない。互いに見えている。けれど、動かない。


無駄に消耗したくない。


勝ったばかりの上位百名を狙いたい。


相手が一番弱った瞬間に申請したい。


考えていることは同じだった。


誰も応援していない。


誰も勝敗を楽しんでいない。


見ているのは、どちらが勝つかではない。


勝った方が、どれだけ削られているかだった。


マキトが言う。


「みんな考えることは同じかよ」


続けて、吐き捨てる。


「最悪だな」


メルシーが横目で見る。


「あんたもその最悪の一人でしょ」


マキトは否定しない。


「知ってる」


時間が進むにつれ、公園の中では勝者が何度も入れ替わった。


勝つ。


狙われる。


また戦う。


逃げようとして捕まる。


降参する。


そして、次にポイントを持った者が囲まれる。


その繰り返しだった。


中には、判断が遅れた者もいた。


プレイヤーも、伴侶も、まだいけると思ってしまったのだろう。熱くなりすぎて、降参を押すタイミングを逃した。


急所を貫かれたキャラが、黒い光になって消える。


叫び声は上がった。


だが、公園は止まらない。


誰かが泣き崩れても、別の場所では次の戦いが始まっている。誰かの敗北に長く視線を向ける余裕など、ここにはなかった。


マキトはその光景を黙って見ていた。


シエルは険しい顔をしている。


メルシーは笑っていたが、その笑みはいつものように軽いだけではなかった。


バトルの中には、相手キャラを無視してプレイヤーへ突っ込む者もいた。


護衛を突破すれば、勝負は一気に終わる。


マキトはそれを見て言う。


「まあ、それが一番正しい戦い方だよな」


少しだけ肩をすくめる。


「俺も何度かやられたし」


シエルは静かに言った。


「私はできればしたくはありません」


否定ではなかった。


戦術として間違っていると言ったわけではない。ただ、自分の感情として、そうしたくないと言っただけだった。


マキトも、それを否定しない。


「俺も、そういう指示を出さないで済むことを祈ってるよ」


シエルはそれ以上、何も言わなかった。


必要ならやる。


マキトも、その選択肢を捨ててはいない。


けれど、できればそこまで行きたくはなかった。


この世界は壊れている。


全員が追い詰められている。


勝つために、弱った相手を狙う。ポイントを奪う。逃げようとする相手を逃がさない。


それでも、多くの者はまだ一線を越えていなかった。


倒れたキャラに追撃しない。


降参を押す時間だけは与える。


プレイヤー本人を直接狙う者もいたが、だが多数派ではない。


勝ちたい。


ポイントは欲しい。


相手から奪うこともためらわない。


だが、殺したいわけではない。


だからこそ、一線を越える者が目立つ。


マキトはそんな戦いを見ながら言った。


「俺も、相手が俺の命を狙わない限りは殺す気はない」


少し間を置く。


「ポイントは奪うけどな」


メルシーが笑う。


「へえ。クズ亭主にも良心があったのね」


マキトは即座に返す。


「良心じゃない。後味が悪いだけだ」


シエルが静かに言う。


「それでも、十分です」


マキトは嫌そうに顔を背けた。


「褒めるな。やりづらい」


それからも、マキトはすぐには動かなかった。


狙える相手はいる。


消耗している勝者もいる。


今申請すれば、ポイントを奪える可能性はあった。


だが、早く奪えば、次は自分たちが中心になる。シエルとメルシーには、まだ疲労が残っている。さらに、レイド開始時間が分からない。


始まれば、強制転送だろう。


直前に消耗した状態で飛ばされれば、それだけで終わる可能性がある。


今奪えば狙われる。


待てば時間がなくなる。


どちらを選んでも、正解には見えなかった。


マキトは時計を見る。


次にマップを見る。


それから、公園の中央へ視線を戻す。


シエルとメルシーは戦場を見ていた。


マキトだけは、時計とマップを何度も確認していた。


目の前で、新しい戦いが始まった。


片方は魔法職だった。


青白い肌。黒紫の長髪。額には水晶のような小さな角。周囲には、魔導書が浮いている。


氷の槍が空中に生まれ、黒い雷が地面を走る。足元には魔法陣が広がり、見た目だけならかなり格上に見えた。


だが、消耗している。


詠唱が遅い。


浮いている魔導書の一冊は、半分破れかけていた。


どうやら限界が近いようだ。


もう片方は接近武器。


鹿のような角を持つ、長身の獣人女だった。裂けた緑の外套を羽織り、手には大鎌にも曲刀にも見える大きな刃を持っている。


亜人女は無理に突っ込まない。


壊れた遊具。


倒れた木。


割れた噴水の縁。


そうした遮蔽物を使いながら、少しずつ距離を詰めていた。


シエルが言う。


「魔法職の方が有利に見えますが、付近への警戒が甘いですね」


目を細める。


「次に距離を詰められたら、詠唱を維持できません」


メルシーも同じ戦いを見て、軽く笑った。


「あー、負けるわね。怖がってるくせに欲張ってる。ああいう時が一番危ないのよ」


マキトは二人を見る。


「楽しそうで何よりだな」


そして、時計に目を落とす。


「俺は全然楽しくないけどな」


時間だけが進んでいく。


昼を過ぎても、レイドは始まらない。


通知は来ない。


転送もない。


空は不気味なまま沈黙している。


マキトの焦りは増していた。


レイドがいつ始まるのか分からない。始まる前に、百位以内のポイントを奪いたい。


だが、早く動けば自分が狙われる。


遅く動けば、間に合わないかもしれない。


待てば待つほど、時間が削られる。


動けば、その瞬間に狩られる側へ戻る。


マキトは小さく舌打ちした。


「……嫌な待ち時間だな」


メルシーが言う。


「待つの苦手そうだもんね、あんた」


「好きな奴いるのかよ、こんなの」


目の前のバトルが、終わりに近づいていた。


接近武器の亜人女が、ついに魔法職の懐へ入る。


大きな刃が結界を叩き割った。


浮いていた魔導書が一冊、地面に落ちる。


魔法職のプレイヤーが、慌てて降参ボタンに指を伸ばす。


戦闘終了。


勝者が決まる。


その瞬間、公園の空気が変わった。


誰かが動いた。


それを合図にしたように、別の影も動く。


木陰。


売店の裏。


壊れたトイレの横。


倒れた時計塔の下。


隠れていた連中が、一斉にスマートフォンを構える。


考えていることは皆同じだった。


マキトも決断する。


「もう待てない」


レイドの時間を考えれば、ここから先は待ち続ける方が危ない。


奪える時に奪う。


あとは、始まるまで粘る。


それしかない。


シエルが大剣を握った。


メルシーが影に沈む。


マキトはスマートフォンを構える。


「こっちから仕掛けるぞ」


勝者はまだ息を整えきれていない。


周囲のプレイヤーたちも、ほぼ同時に動いている。


早い者勝ち。


今、申請が通れば、相手は逃げられない。


マキトの指が送信に触れる。


その瞬間、画面が切り替わった。


申請完了の表示ではない。


通知だった。


《世界災害レイドを開始します》


《対象:全プレイヤー》


《転送を開始します》


マキトは一瞬だけ固まった。


申請は通っていない。


送信よりも先に、レイド通知が割り込んだ。


公園の景色が白く滲む。


スマートフォンの画面も、周囲のプレイヤーたちも、シエルとメルシーの姿も、光に飲み込まれていく。


マキトは低く吐き捨てた。


「……最悪のタイミングだな」


視界が白く潰れた。


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