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23.やったら逃げろ

六日目の朝。


マキトは、いつもより少し遅く目を覚ました。


夢を見ていた気がする。


悪い夢ではなかった。むしろ、目を開けた直後に少しだけ惜しいと思ったくらいだから、たぶんいい夢だったのだろう。けれど、内容はもう思い出せない。指の隙間から水が抜け落ちるみたいに、目覚めた瞬間から輪郭が崩れていった。


天井を見上げる。


ホテルのスイートルームは、昨日と同じように広い。静かで、壊れかけた街の中にあるとは思えないほど整っている。


それでも、空気だけは違っていた。


マキトは目をこすりながら体を起こし、枕元に置いていた携帯を手に取った。


通知が二件入っている。


寝ぼけた頭で画面を開き、最初の通知を見る。


七日目、つまり明日。大規模レイドイベントが開催されるらしい。


対象は全プレイヤー。ランキング終了前の最後の大規模ポイント獲得機会。貢献度の順位によって、大量のポイントが付与される。


そこまで読んで、マキトは眉を寄せた。


大きなイベントだ。普通なら、真っ先に考えるべき内容だった。明日でランキングが終わるなら、ここで一気に順位がひっくり返る可能性がある。ポイントを失っている者にとっては最後の救済であり、上位にいる者にとっては順位を固める最後の戦場でもある。


けれど、マキトの視線はすぐに二つ目の通知へ移った。


ランキング最終局面の追加ルール。


上位百名は、バトル申請を拒否できない。


拒否したい場合は、申請を受けたうえで降参を選択するよう表示されている。


マキトは、その次の文面を見たとき、動きを止めた。


上位百名のプレイヤーは、全プレイヤーのマップ上におおよその位置が表示される。


正確な座標ではない。

だが、現在地を絞り込める程度の範囲は示される。


マキトは画面を見たまま、しばらく動けなかった。


拒否できない。

位置も隠せない。


つまり、上位百名は探される。

見つかれば、申請される。

申請されれば、戦うか、降参するしかない。


明日のレイドの話が、完全に頭から消えた。


シエルもメルシーも強い。


それは分かっている。


けれど、立て続けにバトル申請をされれば乗り切れる保証はない。


今日一日、狙われ続ける。逃げて、見つかって、戦って、また逃げる。その先に明日の大規模レイドが待っている。


最悪二日間ぶっ通しで、戦い続けることになるかもしれない。


マキトは小さく呟いた。


「……まずいな」


部屋の端に立っていたシエルが、すぐに反応する。


「旦那さま?」


マキトは携帯の画面を見たまま、低く言った。


「百位以内にいるってだけで、今日から獲物扱いだ」


影の中から、メルシーが笑う声がした。


『人気者になっちゃったわね、クズ亭主』


「笑えねえよ」


軽口に返しながらも、マキトの視線は画面から離れなかった。


嫌な汗が、背中に滲む。


「通知に気づくのが遅れた。もう下に来てるかもしれない」


その言葉で、部屋の空気が変わった。


シエルの表情が引き締まる。穏やかだった目が、戦闘前のそれになる。


「確認いたします」


「頼む。俺も見る」


マキトはベッドから降り、窓へ向かった。シエルも別の窓へ移動する。


『朝から物騒ねえ。寝起きドッキリにしては趣味悪すぎない?』


「この世界に趣味のいいイベントなんかあったか?」


『ないわね』


「だろ」


マキトはカーテンの端を指でつまみ、わずかに隙間を作った。


外を見る。


ホテルの周囲に、プレイヤーらしき人影がちらほら見えた。


昨日は探しても見当たらなかった。あれだけ姿を消していた連中が、今に限って何人もいる。その事実だけで、偶然とは思えなかった。


最初は、ただ通りかかっただけかもしれないと考えた。


だが、違う。


何人かがホテルを見上げている。別方向から来た者同士が、互いに距離を取りながら同じ建物を意識している。仲間というより、同じ場所に集められた競争相手に見えた。


マキトはそこで、通知に書かれていた位置表示が、すでに機能しているのだと理解した。


上位百名のおおよその位置が、全プレイヤーのマップに表示される。


なら、連中がここに集まってくるのは当然だった。


ただし、表示されるのはあくまでおおよその位置だ。


正確な部屋番号までは分からない。


名前や順位が出ているのかも分からない。


建物単位なのか、周辺一帯なのか。


リアルタイムなのか、それとも時間差があるのかも分からない。


分かっているのは、マキトたちがこのホテル周辺にいると知られていることだけだった。


その曖昧さが、かえってまずい。


もし正確な部屋まで分かっているなら、連中はまっすぐここへ来る。

そうしていないということは、まだ探している。


見つからなければ、申請はできない。


だが逆に言えば、見つかった瞬間に終わる。


そう思った直後、遠くにいたプレイヤーの一人が顔を上げた。


その視線が、ホテルの上層階をなぞる。


窓際に立っていたシエルを見つけたのだ。


男が指をさす。


マキトは即座にカーテンを閉めた。


「出るぞ」


シエルが驚いたように振り向く。


「今からですか?」


「本当なら通知に気が付いた時点で逃げ始めなきゃダメだった」


影の中からメルシーが笑う。


『あれだけ退屈そうにしてたくせに、いざとなったら逃げるの?』


「勝ち目がない戦いを受ける趣味はない。逃げるぞ」


マキトは荷物を掴んだ。


必要なものだけを乱暴にまとめる。準備に時間をかける余裕はない。数分後には、下から誰かが上がってくるかもしれない。


「動くぞ。階段を塞がれたら終わる」


シエルはすぐに頷いた。


「承知しました。旦那さま」


メルシーは影の中で、楽しそうに笑う。


『はいはい。逃げる時に転ばないでよ。笑いながら死にたくないから』


「その時は地獄まで一緒だな」


『こんなのが亭主なんて最低』


部屋を出た瞬間、ホテルの廊下は妙に広く感じられた。


静かすぎる。


下の階から、かすかな声が聞こえる。複数人の足音も混じっていた。まだ遠い。だが、確実に近づいてきている。


ホテルの構造上、下へ降りる手段は限られている。


普通の階段。


非常階段。


どちらも使えるようで、どれも危険だった。階段は、下を押さえられたら終わりだ。上に逃げても追い詰められるだけ。エレベーターは動かない。非常階段もすでに張られている可能性がある。


マキトは一気に下りるのを諦めた。


まずは、見つからないこと。


見つかったら終わりではない。だが、見つかるたびに戦闘を強いられる。それだけで、今日一日が終わる。


マキトたちは足音を殺し、近くの階へ移動した。少し進んだところで、適当な客室の前に止まる。


「シエル。悪い、鍵を壊してくれ」


シエルは一瞬ためらった。


「よろしいのですか?」


「よくはない。でも、見つかって殴り飛ばすはマシだろ」


シエルは少しだけ考え、それから頷いた。


「……承知しました」


大剣が振るわれた。


金属が嫌な音を立て、ドアの鍵が壊れる。マキトはすぐに扉を押し開け、中へ入った。


室内は真っ暗だった。


ライフラインは止まっている。冷えた空気。閉じたカーテン。使われなくなったベッド。床に落ちたホテル案内の紙。誰もいない部屋。


三人はそこに身を隠した。


マキトは振り返り、メルシーに向かって言う。


「メルシーは隠れてろ」


『普段通り、危なくなったら助ければいいのね?』


「そうだ。頼んだ」


メルシーは一瞬、返事をしなかった。


いつものように茶化してくると思っていた。だが、影の中の声は少しだけ低かった。


『……珍しく素直ね』


「今は選んでられる状況じゃない」


『ふうん。じゃあ、ちゃんと見ててあげる』


「頼む」


『二回も言わなくていいわよ。分かってる』


シエルが静かに言った。


「メルシー。万が一の時は、旦那さまをお願いします」


『はいはい。あんたが倒れたら、アタシがこのクズ亭主を引きずって逃げればいいんでしょ』


「……よろしくお願いします」


『そこで真面目に返されると困るんだけど』


マキトは二人を見た。


軽口の形をしている。


けれど、誰も本気で冗談だとは思っていなかった。


この一週間で、連携は取れるようになっていた。最初から信頼していたわけではない。気が合うと言い切れるほど穏やかな関係でもない。けれど、戦場で何度も判断を重ねるうちに、誰が何を考えているのか、言葉にしなくてもある程度は分かるようになっていた。


シエルが前に出る時、メルシーはどこを埋めるか。


マキトが黙った時、それが迷いなのか決断なのか。


メルシーが煽った時、それが本気の余裕なのか、焦りを隠すための軽口なのか。


完全ではない。


それでも、今はそれに賭けるしかない。


メルシーは影の中へ沈んだ。


外の廊下から、足音が聞こえ始める。


プレイヤーたちは仲間ではない。


だが、同じ獲物を探している。


廊下の向こうで、誰かが声を潜めて話していた。


「上の階を見ろ」


「この階は俺が見る」


「なんでお前が決めてんだよ」


「揉めてる時間が惜しいだろ」


「……分かったよ。ただし、見つけたらポイントは譲らねえからな」


「勝てたらな」


さらに別の声が続く。


「非常階段は?」


「別のペアが行った」


断片的な会話だけが聞こえてくる。


マキトはその声を聞きながら、状況を読む。


正確な部屋までは分かっていない。


探す必要がある。


なら、まだ隠れられる。


マキトは声を潜めた。


「見つからなきゃ申請はできない。まずは黙ってやり過ごす」


シエルは静かに頷く。


「はい」


『息まで止める?』


「止めたら死ぬだろ」


『冗談よ。余裕ないわねえ』


「ない」


しばらく時間が流れた。


廊下の足音が近づいてくる。


一歩。


また一歩。


靴底が床を擦る音。小さな話し声。壁越しに伝わる気配。


シエルは大剣の柄に手を添えたまま、息を殺している。マキトは携帯を握ったまま、ドアを見ていた。


ドアノブが動く。


壊したドアの違和感に、外の誰かが気づいたのだろう。


数秒の沈黙。


次の瞬間、ドアが開いた。


目が合う。


スマートフォンが震える。


バトル申請。


拒否はできない。


マキトは短く息を吐いた。


「まあ、こうなるよな」


シエルが前へ出る。


「旦那さまは下がってください」


「頼んだ」


メルシーは黙っていた。


すでに集中している。


ホテルの廊下へ出るまで、律儀に相手は待ってくれた。


狭い部屋で戦う気にはならなかったらしい。室内で暴れれば、互いに逃げ場がない。廊下ならまだ距離を取れるし、仲間ではないにせよ、周囲にいる他のプレイヤーにも戦果を見せられる。


相手は、マキトたちを見つけたことで勝ちを確信しているようだった。


上位百名の一人を捕まえた。


しかも、逃げ場の少ない屋内。


相手キャラは胸元から推測するに中間レアだ。装備も悪くないように見える。


焦げ茶色の髪を後ろで短く結んだ、軽鎧姿の女戦士だった。

肩や胸元には金属板が重ねられ、動きやすさを残しながら急所だけを守っている。左腕には小盾。右手には、刃の厚い片手斧を握っていた。


派手さはない。

だが、明らかに戦闘向きの構成だ。


もちろん、マキトはそのキャラの情報を知らないため、正確な強さは分からない。過去に装備面を侮って不利に陥ったこともある。


だからこそ、油断はしない。


こちらも装備を新調した。レベルも、上がらなくなるほどには上げた。やれることはやったはずだ。


シエルは一歩前に出る。


「お相手いたします」


その声は丁寧だった。


けれど、冷たい。


マキトは壁際まで下がる。


「……最短で叩き潰せ」


他の連中に気づかれる前に終わらせる。その焦りが、声に混じっていた。


「もちろんです」


シエルは大剣を構える。


「ですが、通していただきます」


相手キャラが突っ込んでくる。


小盾を前に出し、片手斧を低く構えた突進だった。

狭い廊下では、横へ逃げにくい。押し込まれれば、そのまま壁際に潰される。


シエルは真正面から受けた。


金属音が廊下に響く。


相手は盾で大剣を受け止め、そのまま力任せに押し込もうとする。だが、シエルは動かなかった。踏ん張るというより、最初からそこに根を張っていたみたいに揺るがない。


次の瞬間、シエルが押し返す。


相手キャラの小盾が跳ね上がった。

体勢が崩れる。


踏み込み。


大剣の腹。


鈍い音。


相手キャラが廊下の床に叩き伏せられる。


片手斧が手から離れ、床を滑った。


殺さない。


キャラも消さない。


ただ、戦闘不能にする。


技量で圧倒する。


バトルは短時間で終了した。


相手の夫はすぐに降参を押した。そして、倒れた嫁を抱きかかえる。顔には悔しさと恐怖が混じっていた。勝てると思っていた相手に、何もできず叩き伏せられた顔だった。


マキトはそれを横目に、階段へ直行しようとした。


だが、足が止まる。


敗北したプレイヤーの後ろ。


廊下の向こうには、次を待っていたプレイヤーたちがいた。


マキトは奥歯を噛む。


逃げ遅れた。


いや、違う。


最初から待たれていた。


彼らは笑っていた。


一番乗りで手柄を立てようとした男を馬鹿だとあざける者。仮の味方が勝とうが、マキトが勝とうが、戦いで弱った相手を襲えばいいと考えている者。誰も正面から助け合うつもりなどない。ただ、獲物が疲れる順番を待っている。


だが、その笑顔は長く続かなかった。


シエルに、傷や疲労が一切見えなかったからだ。


さらに、先に戦った男の意気消沈した顔。その腕の中でぐったりしている嫁の姿。


目の前の結果を見て、笑みが消える。


シエルは大剣を構え直した。


「さて、次はどなたですか?」


待っていた者たちの顔が青ざめる。


マキトはその背中を見ながら、小さく息を吐いた。


「……怖いな、うちの嫁」


影の中からメルシーが小さく返す。


『今さら?』


「今さら」


シエルは振り返らずに言った。


「旦那さま。聞こえております」


「悪い。褒めた」


「褒め言葉には聞こえませんでした」


「俺の中では褒めてる」


『最低の弁解ね』


そこからの五戦は、長くは続かなかった。


申請。


受諾。


シエルがなぎ倒す。


勝利。


また申請。


また勝利。


廊下に響く足音と金属音。床に倒れるキャラ。焦ったプレイヤーの降参操作。悔しげな顔。怯えた視線。


相手は殺さない。


キャラも消さない。


今回の敵は、直接マキト本人を攻撃するそぶりを見せなかった。もし見せていたら、マキトは命まで取りに行くつもりだった。だが、今のところ狙いはポイントだろうと読む。


だからマキトも、命までは取りに行かない。


ただし、連戦の消耗だけは確実に積み上がっていく。


シエルの呼吸がわずかに乱れる。大剣を握る指に、力が入りすぎている。それでもシエルは平然とした顔を作った。


「問題ありません、旦那さま」


マキトはそれを見て、短く言う。


「いくぞ。今は心配している時間もない」


「はい」


歩き出しながら、マキトはぼそりと呟いた。


「嘘が下手だな」


心配されたのが嬉しかったのか、シエルはわずかに微笑む。


「……まだ大丈夫です」


影の中からメルシーが笑った。


『何もしてないくせに偉そうね、クズ亭主。素直に心配してるって言った方が可愛いわよ? それともアタシが出て一掃しようか?』


その声は、周囲には聞こえない。


「うるさい。まだシエル一人でいける」


マキトの返答にも、余裕はなかった。


六戦目が終わった直後、廊下にいた者たちの足が止まる。


シエルを削るつもりだった者たちが、逆に削られていく光景を見て、次に出る勇気を失っていた。


マキトは、その迷いを見逃さない。


「今だ。走るぞ」


シエルはすぐに応じる。


「はい、旦那さま」


『逃げ足だけは一流ね』


「やったら逃げろ、先祖のありがたい言葉らしい」


『酷い言葉ね。アタシは逃がさないけど』


メルシーは楽しそうに笑った。


マキトたちは廊下を全力で走る。


階段へは向かわない。


非常階段も避ける。


そこは張られている可能性が高い。


マキトはホテル内の別フロアへ移り、共用スペースに飛び込んだ。人気のないラウンジのような場所だった。窓際には倒れた観葉植物が転がり、割れたグラスが床に散っている。


マキトは窓に近づき、外を確認した。


隣の建物との距離を見る。


幸い、マキトでも移れる距離だった。


「窓を壊す」


「はい」


シエルが大剣を振るう。


ガラスが砕け、冷たい外気が流れ込んだ。


シエルが先に渡る。細い足場をものともせず、隣の建物へ移り、振り返ってマキトへ手を伸ばした。


「旦那さま、こちらへ」


「悪いな」


「謝らないでください。私が支えます」


マキトは一瞬だけ黙った。


「……頼む」


シエルがマキトを引き上げる。


足場が軋む。下を見れば、壊れた道路が遠くに見える。マキトは息を詰め、シエルの手を掴んだ。引き寄せられ、隣の建物へ転がり込むように移る。


メルシーは建物の影を伝い、姿を現さずに移動することに成功した。


後ろから声が上がる。


追手が気づいた。


だが、その時にはもう三人はホテルの外へ抜けていた。


そこからは、街中を逃げ続けた。


大通りを避け、壊れたビルを抜ける。迷宮化しかけた商業施設へ逃げ込む。崩れた売り場の棚を越え、割れた自動ドアの隙間を通り、暗い通路を抜ける。


モンスターを避ける。


時には倒す。


しかし、外へ出るとまた人影がある。


誰かが待っている。


またバトル申請。


また戦闘。


勝つ。


逃げる。


また追われる。


マップに表示されているのは、おおよその位置のはずだった。


それなのに、逃げた先には必ず誰かがいる。

振り切ったと思っても、気づけば別の方向から回り込まれている。


確かなのは、マキトたちが完全には逃げ切れていないということだけだった。


その事実だけが、少しずつ重く積み上がっていく。


シエルは息を整えながら言った。


「旦那さま。このままでは、いずれ囲まれます」


「だろうな」


『澄ました顔してるけど大丈夫なの?』


「大丈夫じゃない」


マキトは周囲を見る。


大通りには出られない。けれど、裏道ばかり選べば袋小路に入り込む危険もある。上を使うか。地下へ潜るか。建物の中を抜けるか。どれを選んでも、正解とは限らない。


「でも、焦ったらもっとまずい」


メルシーが舌打ちするように笑った。


それでも、否定はしない。


『ほんと、嫌な日ね』


「今日だけで終わらないのが一番嫌だ」


シエルはその言葉に反応した。


明日がある。


ランキング終了前の最後の大規模レイド。

そこまで考えなければ、生き残れない。


目の前の戦闘に勝つだけでは足りない。

明日、動ける状態で残らなければ意味がない。


それを思い出し、シエルの表情が引き締まる。




昼を過ぎた頃、シエルの動きが落ち始めた。


本人は認めない。


「まだ戦えます」


だが、マキトには分かる。


踏み込みが浅い。


反応が半拍遅れる。


大剣の戻りがわずかに鈍い。


平然とした顔を作っているが、隠しきれていない。積み重なった疲労は、呼吸よりも動きに出る。


その時、メルシーが影から、マキトたちにだけ聞こえるよう音を抑えながら言った。


『仕方ないわね。ちょっとだけ手伝ってあげる』


シエルは反射的に止めようとする。


「メルシー、私はまだいけます――」


『うるさいわね。倒れられる方が迷惑なのよ』


シエルは言葉を詰まらせる。


メルシーは肩をすくめるように笑った。


『つまらない意地を張ってるんじゃないわよ。アタシの出番よ。それに、誰も見てない今ならいけるわ』


マキトは短く言う。


「ならタイミングは任せる」


『はいはい、わかってるわー。シエルより使えるところ見せてあげる』


「心配だ」


『ほんと失礼ね、クズ亭主』


次の戦闘で、メルシーは動いた。


相手がシエルに迫った瞬間、影の中から飛び出す。ハルバートの刃が相手の胸元をかすめるように差し込まれた。


直撃ではない。


だが、それで十分だった。


デバフが入る。


相手の動きが鈍る。足がわずかに遅れる。武器を構える腕が、ほんの一瞬だけ下がる。


その隙を、シエルが逃すはずもない。


メルシーはすぐにシエルの死角を埋めた。真正面の圧力はシエルが受け持ち、横から隙をみてメルシーが刺す。相手は、突如現れた二体目に混乱した。


二対一。


さらにデバフ。


形勢が一気に傾く。


『ほらほら、どうしたの? さっきまで随分偉そうだったじゃない。疲れた相手なら勝てると思った? 残念、もう一人いましたー』


メルシーは調子に乗って煽り散らかした。


声にはいつもの軽さが戻っている。だが、刃の角度はまったく軽くない。シエルとは違い、殺す気があると分かる圧力だった。


相手は、殺される前に降参ボタンを押した。


戦闘が終わる。


勝利。


相手は嫁ともども悔しそうに歯を食いしばる。メルシーは影へ戻りながら、得意げに笑った。


けれど、マキトたちは気づいていなかった。


他プレイヤーが隠れて今の戦闘を見ていたことに。


一人ではない。


複数のプレイヤーが、別々の物陰から覗いていた。


もう一体いる。


その事実だけは伝わった。


それは威嚇になる。


同時に、別の意味も持つ。


シエルが限界に近いから、隠していた手を出したのだと読まれる。


マキトたちはそれに気がつかないまま、その場を後にした。


しばらく経った後、次の敵がマキトたちの行く手を塞ぐように現れた。


その男は、マキトたちを見て言った。


「二人持ちだろ。いいから出せよ。勝負してやる」


マキトは、その一言で悟る。


奇襲はもう通じない。


なら、初めから出すしかない。


メルシーは驚いたように声を漏らした。


『嘘。さっき、周囲に誰もいなかったわよ。どうして?』


「どこかで見られてたんだろ」


『……ごめん。甘かった』


マキトは一瞬だけ黙った。


メルシーが謝るのは珍しい。


それだけ、ショックがでかいのだろう。


「気にするな。どのみち、そろそろ限界だった」


『……』


「出し惜しみはなしだ。二人でやれ」


『オッケー。じゃあ、失敗分くらいは働いてあげる』


「期待してる」


『そこは愛してるとか、もっと熱い言葉で言いなさいよ』


そこまで言って、メルシーは自分の言葉に詰まった。


『……いや、違うわ。今のは違う』


「何が」


『例えよ、例え。あんたに言われたいとか、そういう意味じゃないから』


「まだ何も言ってない」


『言うな。言ったら刺す』



その後も、追撃は止まらなかった。


七戦目。


八戦目。


九戦目。


十戦目。


数えることに意味がなくなっていく。戦って、勝って、逃げる。勝っているのに追い詰められている。倒しているのに状況が悪くなっていく。


相手はどんどん慎重になっていった。


無理に突っ込んでこない。シエルの一撃を警戒し、メルシーの奇襲を疑い、マキト本人の位置にも目を向ける。最初のように、上位百名を捕まえたと浮かれて突進してくる者は減っていた。


情報が回っている。


マキトはそう感じた。


自分たちがどこまで知られているのか分からない。だが、戦うたびに何かが漏れていく。シエルの強さ。メルシーの手の内。疲労の具合。マキトが逃げを選ぶ判断の早さ。


勝てば勝つほど、攻略されていった。


夕方。


本日十六回目のバトルが始まった。


相手は、二十代後半の男だった。


派手な強者ではない。目立つ装備をしているわけでも、圧倒的な威圧感があるわけでもない。


だが、勝てる相手を見極める目がある。


慎重で、臆病ではない。


そして、命よりもポイントを優先し始めている。


ランキングが明日終了する。その焦りが、男の顔に浮かんでいた。


嫁キャラは黒豹系の獣人キャラだった。長槍を持っている。しなやかな体つきで、無駄な動きがない。素早さとリーチで相手を削るタイプだろう。性格は寡黙で、夫への忠誠心が強いように見えた。


男は、疲れきったシエルとメルシーを見て言った。


「悪いな。こっちも余裕がないんだ」


マキトは短く返す。


「みんなそうだろ」


男は苦く笑った。


「そうだな」


黒豹の獣人キャラが黙って槍を構える。


ここまでの相手より、少し強い。


だが、本来なら勝てない相手ではない。


問題は、シエルの疲労が隠せない段階まできていること。


メルシーも軽口の切れが落ち、バテてきていること。


獣人キャラは勝ち急がなかった。


槍の間合いだけを押しつけ、シエルの踏み込みを潰す。シエルが大剣を振るおうとすると、その一歩手前で引く。メルシーが横から奇襲を仕掛けようと準備すれば、深追いせずに距離を取る。


相手の男も不用意に前へ出ないよう指示していた。


持久戦に持ち込むつもりだ。


今日ここまで戦ってきた相手から情報をもらっているのだろう。マキトたちがもう長くは持たないと分かっている。


シエルが歯を食いしばる。


「この程度で……」


メルシーが横から影を伸ばした。


『無理してるの、丸見えよ』


「あなたに言われたくありません」


『アタシはまだ余裕だけど?』


「声が少し掠れています」


『気のせいよ』


「顔に出ています」


『あんたほどじゃないわ』


「では、競いますか」


『いいわよ。先に倒れた方が負けね』


「縁起でもないことを言わないでください」


『じゃあ倒れないことね』


マキトは二人を見た。


どちらも、まだ動ける。


だが、余裕はもうない。


シエルの足はわずかに重い。メルシーの俊敏さも、最初より鈍い。本人たちは軽口で隠しているが、限界が近いことは明らかだった。


そして、戦闘はマキト側が押している。


あと少しで倒せる。


シエルが最後の踏み込みに入ろうとする。メルシーも横からハルバートで切り込もうとする。


その瞬間、マキトはスマートフォンを見た。


降参のボタン。


押せば、今日まで積み上げたものはほぼ消える。ランキング圏外に落ちる。


マキトは悩んだ。


ここで勝てば、ポイントは守れる。


この相手を倒せば、まだ上位に残れる。


だが、この相手を倒したら終わりなのか。


違う。


また次が来る。


次を倒しても、その次が来る。


今日一日なら、勝てるかもしれない。根性で押し切れるかもしれない。シエルもメルシーも、それをやろうとしている。


だが、明日がある。


明日のレイドで動けなければ終わりだ。


それに気づいたシエルが叫んだ。


「旦那さま、まだいけます!」


マキトは答える。


「いけるだろうな」


シエルの目が揺れる。


「でしたら――」


「だから駄目だ」


マキトは戦場を見た。


目の前の相手。


疲れたシエル。


こちらも疲れたメルシー。


そして、明日のレイド通知。


「こいつを倒しても、また次が来る」


シエルは言葉を詰まらせる。


「次を倒しても、その次が来る」


マキトはシエルを見る。


それから、息を乱しているメルシーを見る。


「今日だけなら勝てるかもしれない。でも明日、お前らが動けなくなる」


メルシーが無理に笑った。


『……ずいぶん優しくなったわね? クズ亭主』


「倒れられたら困るだけだ」


『はいはい。そういうことにしてあげる』


シエルが首を振る。


「ですが、旦那さま。ここで降りれば、ポイントが」


「分かってる」


「ランキングも……」


「分かってる」


マキトは降参ボタンに指を置いた。


悔しくないはずがない。


ここまで逃げて、戦って、削られて、ようやく勝てるところまで追い詰めた。その勝ちを、自分から捨てる。


馬鹿みたいだと思う。


けれど、意地を張ればもっと馬鹿を見る。


マキトは小さく息を吐いた。


「悪いな。今日は負ける」


そして、押した。


戦闘が終わる。


勝った夫婦は、一瞬呆然とした。


何が起きたのか理解できないという顔をしている。あと少しで押し切られると思っていたのだろう。なのに、勝利表示が出た。


その後、男が歓声を上げた。


勝った。


上位百名の一人を倒した。


大量のポイントを得た。


これで自分たちも領域持ちだと、男は嫁キャラを抱き寄せる。


「やった……やったぞ、フェリカ!」


黒豹の獣人キャラは、無表情のまま頷いた。


「はい。あなた様の勝利です」


その声にも大きな感情はない。けれど、夫の勝利を疑っていない忠実さがあった。


シエルは悔しそうに拳を握る。


「……申し訳ありません」


マキトはすぐに言った。


「謝るな。俺が押した」


「ですが」


「俺が決めた。だからいい」


メルシーは影の中に半分沈みながら、無理に笑った。


『あーあ、負けちゃったわね、クズ亭主』


「だな」


『悔しくないの?』


「悔しいよ」


マキトはスマートフォンを見て、ランキング圏外になったことを確認する。


画面に表示された結果は、冷たい。


今日まで積み上げたものが、ほとんど消えている。


「でも、今ここで意地張るよりはマシだ」


シエルは唇を噛んだ。


「……はい」


「帰るぞ」


「よろしいのですか」


「いい」


マキトは、勝って喜ぶ夫婦を横目に歩き出す。


「今日は負けだ」


その声には、悔しさがあった。


だが、折れてはいない。


その場を離れる際、背後で騒ぎが起きた。


さっきマキトに勝って喜んでいた夫婦が、別のプレイヤーに捕まっている。


さらに、別方向からも人影が集まってくる。


マキトは立ち止まらない。


ただ、少しだけ振り返った。


男はまだ勝利の余韻から抜けきっていない。フェリカは槍を構えているが、先ほどの戦いでまったく消耗していないわけではない。そこへ、別のプレイヤーたちが距離を詰めていく。


シエルは複雑そうにその光景を見る。


「旦那さま……」


「見ろ」


マキトは低く言う。


「あいつが、俺の代わりになった」


シエルの表情が曇る。


「それは……」


「責めるなよ。俺がそうした」


メルシーが疲れた声で笑う。


『ひどい男ねえ』


「知ってる」


『開き直るところまで最悪ね』


「今さらだろ」


勝者は、勝った瞬間に次の獲物になる。


上位百名のポイントを奪った者は、そのまま他のプレイヤーに狙われる。順位を上げたことを喜ぶ時間さえ、この状況では長く続かない。


マキトは背を向けた。


「明日、取り返す」


シエルが顔を上げる。


「レイドで、ですか」


「レイドでもいい。百位以内の誰かでもいい」


少し間を置いて、マキトは続けた。


「勝ってる奴からもらえばいい」


メルシーが小さく笑う。


『ほんと、性格悪いわね』


「いつものことだろ?」


シエルは何も言えない。


けれど、マキトが折れていないことだけは分かった。


夜。


三人はホテルへ戻った。


朝とは違い、マキトたちは上位狩りの中心から外れている。


ただし、安全になったわけではない。


ポイントを失った。


ランキング圏外に落ちた。


明日のレイドで取り返せなければ終わり。


マキトは内心焦っていた。


だが、それを顔には出さない。


夕食は、昨日より明らかに質素だった。


ショップにはまだ豪華な食事が並んでいる。


肉料理も、スープも、菓子も、果物も、選ぼうと思えば選べた。


だが、今はポイントを無駄にできない。


圏外。


残りのポイントは限られている。


明日のレイドでどれだけ稼げるかも分からない。


だから、食事は簡素なものになった。


パン。


スープ。


保存食に近い肉料理。


飲み物。


それでも、今の世界では十分すぎる食事だった。


だが、メルシーは皿を見て不満そうに口を尖らせる。


「……昨日よりごはんの質、下がってるんだけど」


マキトはスープを口に運びながら答えた。


「負けてポイント失ったからしょうがないだろ。貧乏になったんだよ」


「嫌な現実を食卓に持ち込まないでよ」


「食卓に持ち込める飯があるだけありがたいと思え」


「正論で殴られると余計に腹立つわね」


「突っ込まれたくなければ文句を減らせ」


シエルは二人のやり取りを見て、少しだけ表情を緩めた。


「ですが、温かいだけありがたいかと」


マキトは小さく笑った。


少しだけ、空気が和らぐ。


けれど、明日のことは消えない。


七日目。


ランキング終了前、最後の大規模レイド。


今日、マキトは負けた。


けれど、まだ終わってはいない。


マキトは質素な食事を見下ろし、ぼそっと言う。


「明日だ」


シエルとメルシーが彼を見る。


「明日、必ず取り返す」


六日目が終わる。


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