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21.それでも愛していますか?

五日目の朝。


マキトは、昨日の眠りを取り戻すかのように深く眠れていた。


目を開けた時、体の重さはまだ残っていたが、昨日の朝ほどではない。頭の芯にこびりついていた疲労も、少しだけ薄れている。


右側にはシエルがいた。


白い髪を枕の上に散らし、静かに寝息を立てている。寝る前には距離を取ろうとしていたはずなのに、いつの間にかマキトの腕に触れる位置まで寄っていた。


左側にはメルシーがいた。


こちらも、当然のように近い。黒い髪が頬にかかり、普段の勝ち気な表情は薄れている。だが尻尾だけは、マキトの足に絡むような位置にあった。


マキトは天井を見上げる。


「……普通に寝ろって言ったよな、俺」


返事はない。


二人とも眠っている。


昨日の朝と違い、押し合うような圧はなかった。張り合っているわけでもない。ただ、眠る場所としてそこが自然だとでも言うように、二人はマキトの近くにいた。


それが、妙に厄介だった。


マキトはしばらく動かなかった。


無理に起き上がれば二人を起こす。別に気を遣う必要などないはずだったが、起こしてまで動く気にもなれなかった。


そういう自分に、少しだけうんざりする。


やがて、メルシーが先に目を開けた。


赤い瞳がぼんやりとマキトを見る。


「……何よ」


「それはこっちの台詞だ」


「寝てただけでしょ」


「距離の概念を覚えろ」


「嫌よ」


寝起きの声で即答したメルシーは、まったく悪びれていなかった。


その声で、シエルも目を覚ました。


青い瞳がゆっくり開かれ、マキトの顔を見て、それから自分の位置に気づいたのか、わずかに頬を染める。


「お、おはようございます、旦那さま」


「おう。昨日、普通に寝ろって言ったよな」


「はい」


「普通って何だと思う?」


シエルは目を逸らした。


「……安心して眠れる距離、でしょうか」


「都合のいい解釈すんな」


メルシーが鼻で笑った。


「いいじゃない。昨日よりマシでしょ」


「まあな」


「なら勝ちよ」


「何にだよ」


マキトはため息を吐き、二人をどかして体を起こした。


窓の外は朝だった。


街の明かりはほとんど消え、遠くの空にはまだ黒い煙が残っている。昨日までと同じく、世界は壊れたままだ。


それでも、この部屋だけは妙に静かだった。


朝食は、ショップで買ったものを並べた。


パン、スープ、肉料理、果物。シエルはマキトの分を当然のように整え、メルシーは菓子まで混ぜようとしてシエルに止められていた。


「朝食に菓子を混ぜるのは、少し違うと思います」


「何が違うのよ。口に入れば同じでしょ」


「同じではありません。食事には順序と栄養のバランスがございます」


「面倒くさいわね。美味しいものを後回しにする理由がないでしょ」


「食事は欲望だけで決めるものではありません」


二人のやり取りを聞きながら、マキトはスマホを確認した。


順位は九位のままだった。


一昨日、大きく動いた後から変化はない。上位勢も様子見に入っているのか、それともポイントに開きがありすぎるのか。分からない。


ただ、対人戦の空気は濃くなっているはずだ。


ランキング終了までの日数が減れば減るほど、焦る人間は増える。領域という報酬の価値を理解しているなら、最後の数日はさらに荒れる。


マキトはスープを口に運びながら、軽く眉を寄せた。


「今日は外に出るにしても、面倒なことになりそうだな」


シエルが顔を上げる。


「対人戦、でしょうか」


「だろうな。上位報酬を本気で狙うなら、弱い怪物を狩ってるだけじゃ間に合わねえ奴が出る」


「だったら、そいつらを潰せばいいでしょ」


メルシーは簡単に言った。


「向こうから来るならな」


マキトは短く返す。


「こっちはもう十位圏内だ。下手に動いて負けて、今まで奪ったもんを全部吐き出すくらいなら、部屋にこもって様子見してた方が利口だろうな」


シエルは少しだけ安堵したように頷く。


「では、本日は無理に外へ出ないのですね」


「いや、出る」


「……え?」


マキトはスープの器を置き、薄く笑った。


「その方が利口ってだけだ。面白いとは言ってねえ」


メルシーが、呆れたように、それでいてどこか楽しそうに口元を吊り上げた。


「ほんと、クズ亭主って馬鹿よね」


「退屈よりはマシだ」


その時だった。


三人のスマホが同時に震えた。


食卓の空気が変わる。


マキトは無言で画面を見る。


《伴侶確認イベントの案内を開始します》


《伴侶確認イベント》


《全プレイヤー参加可能》


《キャラクターロストなし》


《イベント中に発生した損傷は、終了後に復元されます》


《参加のみでランキングポイントを配布》


《戦闘が苦手なキャラクターも、ぜひこぞってご参加ください》


《本イベントでは、プレイヤーと伴侶キャラクターの絆を確認します》


《随伴可能キャラクター数:1》


《参加しますか?》


シエルが文章を読み、表情を曇らせた。


「……伴侶確認イベント」


メルシーは画面を見た瞬間、椅子から身を乗り出した。


「随伴可能キャラクター数1。なら今回は私ね」


「即決かよ」


「当然でしょ。前はシエルが行ったんだから、次は私」


「キャラロストなしとは書いてある」


マキトは画面を睨んだ。


「けど、契約者本人の安全を保証するとは一言も書いてねえ。罠か?」


シエルの表情が強張る。


「旦那さま。それでしたら、参加は――」


「いいから私を選びなさい」


メルシーが、遮るように言った。


マキトは視線だけを向ける。


「理由は?」


「罠なら、なおさら私の方が向いてるでしょ。綺麗な言葉に引っかかる子より、最初から全部疑ってる私の方がマシよ」


シエルがわずかに眉を寄せる。


「私が引っかかると?」


「少なくとも、困ってる誰かが出てきたら足を止めるでしょ」


シエルは言い返せなかった。


メルシーはマキトを見たまま、さらに言う。


「それに、今回は私の番よ。あんたがどんな罠に落ちるのか、隣で見て笑う権利くらいあるでしょ」


「助ける気は?」


「気が向いたら助けるわ」


「最低だな」


「選びやすいでしょ?」


マキトはしばらくメルシーを見ていた。


キャラロストなし。


その文言をどこまで信用するかは別として、運営が明示した以上、少なくとも即座に消滅するような危険なイベントではない可能性が高い。参加のみでポイント配布。非戦闘キャラも歓迎。明らかに、普段参加しない層まで誘い出すための文言だからだ。


マキトは小さく息を吐いた。


「……今回はメルシーで行く」


シエルが小さく息を呑んだ。


メルシーは勝ち誇ったように笑う。


「ほらね」


「勝ち誇るな。罠なら一緒に落ちるだけだぞ」


「それはそれで私の活躍の場が増えるだけじゃない」


「本当に選んでいいのか不安になってきた」


シエルは不安を隠せないまま、マキトを見る。


「旦那さま」


「何かあれば帰ってくる。お前は留守番してろ」


「……はい」


シエルは納得しきれていない顔をしていた。


だが、マキトの判断に逆らうことはしなかった。


メルシーはスマホを渡して立ち上がる。


「じゃあ行くわよ、クズ亭主」


「お前が仕切るな」


「今回は私の番でしょ」


「はいはい」


マキトは参加を押した。


スマホの画面に光が満ちた。


シエルが一歩近づく。


「旦那さま、ご無事で」


「大げさだな」


「あの運営のイベントです。大げさではありません」


メルシーが肩をすくめた。


「安心しなさいよ。私の持ち物が勝手に壊れるなんて、許すわけないでしょ」


「俺は荷物かよ」


「扱いとしては近いわね」


次の瞬間、マキトとメルシーの姿がスイートルームから消えた。


残されたシエルは、しばらく二人がいた場所を見つめていた。


そして、無事に戻ってこられるよう、祈りを捧げた。



◇



ユウマは、軽い気持ちで参加ボタンを押した。


それが間違いだったのかどうか、その時点では分からなかった。


彼は上位プレイヤーではない。


ランキングも圏外。対人戦で勝ち上がる力などない。ゲーム時代から、攻略サイトを読み込むようなタイプではなかった。好きなキャラを引いて、好きなように育てて、たまにイベントを走る程度の普通のプレイヤーだった。


そんな彼の元へ帰ってきたのが、マリスだった。


邪神サイドSR、マーメイドの支援キャラクター。


長い青紫の髪に、淡い金の瞳。下半身は水をまとった尾のような形をしているが、現実では人の脚に近い姿へ変えることもできる。声は柔らかく、おっとりとしたお姉さんのような性格だ。


戦闘は得意ではない。


水の膜で攻撃を受け流し、軽い回復を行い、敵の動きを鈍らせる。それだけ聞けば便利に思えるが、高レアの前衛や範囲魔法キャラと比べれば、火力は低かった。


それでも、ユウマにとってマリスは大事な存在だった。


モンスターが街にあふれ出した後、二人はユウマの住むマンションにこもった。外に出るのは、食料や水を確保する時と、近場に出た弱いモンスターを倒す時だけ。


略奪はしなかった。


他プレイヤーを襲うこともしなかった。


マリスの支援を頼りに、どうにか今日まで生きてきた。


マリスはいつも笑っていた。


「大丈夫ですよ、ユウマさん。焦らずいきましょう」


その声に、ユウマは何度も救われた。


だから、今回のイベント通知を見た時、救いだと思ってしまった。


キャラクターロストなし。


参加だけでランキングポイント配布。


戦闘が苦手なキャラクターも、ぜひこぞってご参加ください。


マリスは画面を見て、柔らかく微笑んだ。


「これなら、私でもお役に立てるかもしれませんね」


「そうだな。参加するだけでもポイントもらえるみたいだし」


「無理はしないでくださいね」


「分かってる。危なそうならすぐ諦めよう」


そう言って、ユウマは参加を押した。


マリスも、それに続いた。


光に包まれた次の瞬間、二人は見知らぬ場所に立っていた。


そこは、この世界にはないような空間だった。


広い石造りの広場。


床には白と黒の模様が走り、中央には巨大な円形の紋章が刻まれている。空は見えない。天井があるわけでもないのに、上を見上げてもただ淡い光が広がっているだけだった。


周囲には、すでに多くのプレイヤーが集められていた。


男たちと、その隣に立つキャラクターたち。


天使、悪魔、獣人、エルフ、騎士、魔女、妖精、人形、竜娘。ゲームの中で見たことのあるキャラもいれば、ユウマの知らないキャラもいる。


非戦闘キャラ歓迎と書かれていたからか、明らかに戦いに向かない姿のキャラも多かった。小柄な薬師、踊り子、歌姫、料理人、占い師。どのキャラも、プレイヤーのそばに寄り添っている。


ユウマは周囲を見渡した。


そして、一瞬だけ息を止めた。


少し離れた場所に、見覚えのあるキャラがいた。


邪神サイドUR、蒼翼の歌姫ルミア。


かつてユウマが本気で推していたキャラだった。


当時のユウマは、食費を削り、遊びに行く回数を減らし、どうにか捻出した金でガチャを回した。ようやくルミアを引けた時は、スマホを握ったまましばらく動けなかった。


それからは、手に入れた素材を優先して注ぎ込んだ。イベントにも連れていった。ホーム画面にも置いた。何度もスクリーンショットを撮り、友人に自慢した。


そのルミアが、今は別の男の隣に立っている。


彼女はもう、誰かの妻だった。


ユウマとルミアの目が合った。


ほんの一瞬。


ルミアの瞳がわずかに揺れたように見えた。


だが、すぐに互いに目を逸らした。


ユウマは何事もなかったように顔を戻す。


マリスが、静かに尋ねた。


「お知り合いですか?」


「いや」


ユウマは反射的に答えた。


少し遅れて、言葉を足す。


「昔、使っていたキャラってだけ」


「そうですか」


マリスはいつものように笑っていた。


おっとりとした、柔らかな笑み。


それ以上は何も聞いてこない。


だからユウマも、それ以上は何も言わなかった。


その時、広場の一角がざわついた。


何かと思って見ると、そこに異質な二人組がいた。


男は、気怠げな雰囲気をまとっていた。


髪は黒に近い深緑。眠たげな目をしているのに、妙に顔立ちが整っている。ただ立っているだけなら、壊れた世界には似合わないほど静かな美貌があった。


だが、隣にいる女がその印象を全部台無しにしていた。


黒いツインテールの少女。赤い瞳に、黒と赤の派手な装い。手には巨大なハルバートを持っている。


その女は、周囲の視線をまったく気にせず、楽しそうに声を上げた。


「つまり、こいつら全員ぶっ潰せばいいのね!」


広場がざわついた。


男は額を押さえる。


「違う。落ち着け。まだ何も説明受けてねえ」


「説明なんてだいたい罠でしょ?」


「それはそうだけど、罠の形くらい見てから踏め」


「面倒ね。罠ごと壊せば早いじゃない」


「お前を選んだの、早まったかもしれねえ」


「は? 今さら後悔しても遅いわよ、クズ亭主」


周囲のプレイヤーたちが、露骨に距離を取った。


誰も彼らの名前を知らない。


だが、関わらない方がいい夫婦だということだけは、その場にいた全員が理解した。


ユウマも同じだった。


「……ああいう騒がしい夫婦、害悪だよな」


小声でそう言うと、マリスが口元に手を当てて、控えめに笑った。


「ふふ。少し、危なそうですね」


「少しどころじゃないだろ。イベント始まる前から全員ぶっ潰すとか言ってるんだぞ」


「確かに、穏やかではありませんね」


マリスは柔らかく答えた。


だが、ユウマは気づかなかった。


マリスが一度だけ、遠慮なく言い合うその二人を、少しだけ長く見ていたことに。


やがて、広場全体に光が走った。


中央の紋章が浮かび上がる。


同時に、中央の壁から無機質な文字が表示された。


《伴侶確認イベント:それでも愛していると言えますか?》


ざわめきが消える。


全員が空中の文字を見上げた。


《本イベントでは、プレイヤーと伴侶キャラクターの絆を確認します》


《参加者は夫婦ごとに個別試験領域へ転送されます》


《試験中、キャラクターロストは発生しません》


《肉体への損傷は発生しません》


《試験終了時、参加報酬としてランキングポイントを配布します》


《戦闘は一切発生しません》


ユウマは少しだけ安心した。


やはり、戦闘イベントではないらしい。


マリスも隣で静かに画面を見つめている。


《試験内容》


《互いの記録を確認した後、最後の問いに回答してください》


《問いは一つです》


《それでも、あなたは相手を伴侶として選び続けますか?》


一瞬、広場の空気が止まった。


誰かが小さく笑う。


「なんだ、愛の確認かよ」


「戦闘なしなら楽勝だろ」


「うちの嫁なら大丈夫」


「確認するまでもねーよ。答えはYESだ」


そういう声があちこちから聞こえた。


ユウマも、少しだけ息を吐く。


マリスを見る。


マリスは微笑んでいた。


「大丈夫です」


その一言に、ユウマは安心した。


「だよな」


そう言った直後、光が足元から立ち上がった。


ユウマの視界が白く染まる。


マリスの姿が遠ざかる。


「マリス?」


手を伸ばしたが、届かなかった。


次に目を開けた時、ユウマは一人だった。


そこは、小さな部屋だった。


壁も床も白い。窓はない。扉もない。中央には椅子が一つだけ置かれている。


ユウマが立ち尽くしていると、目の前に文字が浮かんだ。


《プレイヤー記録確認を開始します》


「記録?」


ユウマの声は白い部屋に吸い込まれた。


次の瞬間、壁一面に映像が浮かぶ。


そこに映っていたのは、マリスだった。


ゲーム画面の中のマリス。


まだ現実へ来る前の彼女。


さらに、その周囲に複数の名前が表示されていた。


《伴侶候補選定記録》


《候補一:カズト》


《邪神サイド課金額上位》


《所持キャラクター数:高》


《安全性評価:中》


《候補二:レイジ》


《ランキング初日上位》


《戦闘適性:高》


《安全性評価:低》


《候補三:ユウマ》


《使用頻度:中》


《課金額:低》


《戦闘適性:低》


《安全性評価:高》


そのほかにも、個人情報に近い項目がいくつも並んでいた。


ユウマは、息を止めた。


候補。


自分以外の名前。


マリスは、自分一人を選んだわけではなかった。


映像の中で、マリスが候補一覧を見つめている。


おっとりとした顔のまま、静かに考えていた。


《マリスは、候補一と候補三の間で長時間迷っています》


《候補一は、より多くの資源を提供できる可能性があります》


《候補三は、より穏やかな生活を提供できる可能性があります》


《選定理由を表示します》


ユウマは思わず後ずさった。


やめろ、と言いたかった。


だが、声が出なかった。


《候補三:ユウマを選定》


《理由一:過去に一定期間編成へ投入》


《理由二:ログイン継続日数が安定》


《理由三:攻撃性が低く、伴侶として扱いやすい》


《理由四:高順位プレイヤーに選ばれず契約破棄された場合の安定候補》


頭の中が冷たくなった。


扱いやすい。


安定候補。


高順位プレイヤーに選ばれなかった場合の保険。


ユウマは拳を握る。


「……何だよ、それ」


マリスは自分を愛して選んだのではなかったのか。


モンスターがあふれる街で、二人で支え合ってきた日々は何だったのか。


彼女は、最初から自分一人を見ていたわけではない。


条件で比べていた。


より安全そうな相手を選んだ。


ユウマは椅子に座ることもできず、ただ映像を見つめていた。


それでも、映像は終わらない。


今度は、マリスの声が流れた。


『この方なら、乱暴には扱われないかもしれませんね』


柔らかな声だった。


聞き慣れた、安心する声。


だが、その言葉はユウマの胸に深く刺さった。


愛ではない。


期待でもない。


安全そうだから。


扱いやすそうだから。


そういう理由で、自分は選ばれた。


一方、マリスもまた、別の白い部屋にいた。


彼女の前にも映像が浮かんでいる。


そこには、ユウマの過去が映っていた。


サービス終了前のスマホ画面。


ラグオダのホーム画面には、マリスではないキャラが立っている。


邪神サイドUR、蒼翼の歌姫ルミア。


ユウマはその画面を見ながら、友人とのチャットに文字を打っていた。


《ルミアまじ嫁》


《引けなかったのだけが心残り》


《マリスはSRだけど、まあ序盤は世話になった》


《性能的にはもう厳しいけど、デザインは好き》


マリスは黙っていた。


表情は穏やかなまま。


だが、指先だけがわずかに震えた。


映像は続く。


別のゲームの画面。


そこにも、ユウマが「嫁」と呼んでいたキャラクターがいた。


さらに、現実の記録。


元恋人との写真。


「ずっと好きだ」と送ったメッセージ。


別れた後に、別の相手へ似たような言葉を送っている履歴。


ラグオダの別キャラクターに対しても、同じように軽く「嫁」と言っている投稿。


マリスは目を伏せた。


《あなたは、最初から唯一ではありませんでした》


《彼は、あなた以外にも愛を語っていました》


《彼は、あなたを本命とは呼んでいませんでした》


《彼は、あなたを“まあ使える”と評価していました》


映像の中で、ユウマが笑っている。


悪気はない。


誰かを傷つけるつもりもない。


ただ、軽く言っていただけだ。


その軽さが、今のマリスには痛かった。


マリスは小さく呟く。


「……そう、ですよね」


分かっていた。


本当は、分かっていた。


ユウマが最初から自分だけを見ていたわけではないことくらい。


自分はSRだった。


強力なキャラではなかった。


本命の高レアが引けるまで使われる、つなぎのような存在だった時期もある。


それでも、現実へ来てからは違うと思いたかった。


マンションの部屋で、二人で窓を塞いだ。


水を分け合った。


弱いモンスターを倒して、少しずつポイントを集めた。


ユウマは自分に何度も言った。


「マリスがいてくれて助かった」


「お前がいてよかった」


その言葉を、信じたかった。


でも、記録は無慈悲だった。


《彼は、過去に別のキャラクターを“嫁”と呼んでいました》


《彼は、現実の女性にも同様の愛情表現を使用しています》


《あなたは、唯一ではありません》


マリスは微笑んだ。


いつものように。


おっとりとした、柔らかな笑み。


けれど、その目にはもう温度がなかった。


白い部屋は、二人にそれぞれ違う傷を与え続けた。


ユウマは、マリスが自分以外を候補にしていたことを見せられた。


マリスは、ユウマが自分以外を愛していた記録を見せられた。


嘘はなかった。


すべて事実だった。


ただし、そこにあったはずの迷いや、変化や、今の熱い気持ちは冷めていた。


ユウマがマリスを大事に思うようになった時間。


マリスがユウマを選んだ後、本当に寄り添おうとした日々。


そういうものは、少しも映らなかった。


映されるのは、相手を疑うための材料だけだった。


やがて、二人の部屋に同じ文字が浮かんだ。


《記録確認を終了します》


《最終確認へ移行します》


光が満ちる。


ユウマは再び広場に立っていた。


目の前にはマリスがいる。


さっきまでと同じ姿。


青紫の髪。淡い金の瞳。柔らかな笑み。


だが、ユウマには分かった。


マリスも何かを見たのだ。


自分と同じように、傷つく何かを。


「マリス」


声をかける。


マリスは微笑んだ。


「はい、ユウマさん」


いつもの声だった。


それが逆に怖かった。


「何を、見た?」


「ユウマさんは?」


聞き返されて、ユウマは言葉に詰まった。


マリスが他の男の元へ行くか迷っていた記録。


自分が安全候補として選ばれた可能性。


それを口にすれば、責めているようになる。


でも、聞かずにはいられない。


「俺を選んだのってさ」


ユウマは喉を鳴らした。


「俺じゃなきゃ駄目だったから、じゃないのか?」


マリスは一瞬だけ目を伏せた。


その反応で、ユウマの胸が冷える。


「……候補は、いました」


マリスは静かに言った。


「私にも、選ぶ時間がありましたから」


「じゃあ、俺はその中の一人だったんだ」


「はい」


マリスは嘘をつかなかった。


「ですが、最後に選んだのはユウマさんです」


「理由は?」


ユウマの声が少し強くなる。


「俺が安全そうだったからか? 扱いやすそうだったからか?」


マリスの瞳が揺れた。


それが答えだった。


ユウマは笑おうとして、失敗した。


「そっか」


マリスは静かに彼を見る。


「ユウマさんも、私だけではありませんでしたよね」


今度はユウマが黙る番だった。


マリスは責める口調ではなかった。


いつものように柔らかい。


だから、余計に逃げ場がない。


「ルミアさん」


その名前を出された瞬間、ユウマの肩が跳ねた。


「さっき、広場で目が合っていましたね」


「昔の話だろ」


「はい。昔の話です」


マリスは微笑んだ。


「私も、昔の話を見せられました」


ユウマは何も言えなかった。


マリスは続ける。


「私、ユウマさんにとって一番ではなかったんですね」


「今は違う」


「はい」


マリスは頷いた。


「“今は”と、そう言ってくださるんですね」


その言い方に、ユウマは傷ついた。


自分が疑われていることが分かったからだ。


だが、自分もマリスを疑っている。


互いに、何かが少しずつずれていく。


周囲でも同じことが起きていた。


広場のあちこちで声が上がっている。


「違う、あれは昔の話だろ!」


「候補って何だよ! 俺だけじゃなかったのかよ!」


「本命じゃなかったって、どういうこと……?」


「あなた、私のこと性能だけって言ってたの?」


「違うんだ、今は本当に――」


「本当はどう思っているの?」


泣いているキャラがいた。


怒っているキャラがいた。


無言で夫から距離を取るキャラがいた。


プレイヤーの中にも、呆然としている者がいた。


キャラが自分だけを選んでくれたと思っていた。


嫁が帰ってきたのは、運命だと思っていた。


だが、そこには選定があった。


比較があった。


条件があった。


同じように、キャラたちも知ってしまった。


夫が自分だけを愛していたわけではないことを。


他のゲームに嫁がいたことを。


現実の恋人に向けた言葉と、同じ言葉を自分にも使っていたことを。


運営は嘘をついていない。


ただ、壊すために真実を並べていた。


広場の中央に、最後の文字が浮かぶ。


《最終課題》


《互いの記録を確認しました》


《それでも、あなたは相手を伴侶として選び続けますか?》


《選び続ける》


《選び直す》


《分からない》


ユウマの前に選択肢が浮かぶ。


マリスの前にも、同じものが浮かんでいる。


ユウマは指を動かせなかった。


選び続ける。


そう押せばいいだけだった。


今まで一緒に生きてきた。


マリスがいなければ、ユウマはとっくに死んでいたかもしれない。モンスターから守ってくれた。傷を癒してくれた。不安な夜に声をかけてくれた。


マリスは大事だった。


それは嘘ではない。


でも、頭の中にさっきの記録が浮かぶ。


候補一。


候補三。


扱いやすい。


安定候補。


自分は、愛されたから選ばれたのではなく、安全そうだから選ばれたのかもしれない。


そう思った瞬間、指が止まった。


「ユウマさん」


マリスが呼ぶ。


ユウマは顔を上げる。


マリスはいつものように微笑んでいた。


でも、その笑みが少しだけ寂しそうに見えた。


「私は」


マリスはゆっくりと言った。


「今、隣にいるのはユウマさんだと思っています」


ユウマは息を呑む。


「過去に誰がいたとしても。何を思っていたとしても。私が今、帰ってきたいと思える先はユウマさんだけです」


その言葉は、優しかった。


優しいからこそ、ユウマの中の醜さを照らした。


マリスは選ぼうとしている。


それでも、自分を選ぼうとしている。


なのにユウマは、まだ迷っている。


指先が震えた。


選び続けるを押せばいい。


押せば、きっと戻れる。


そう思うのに、押せなかった。


もしマリスが、もっと条件のいい男に出会っていたら。


もし最初から、自分以外を選べたら。


もしこれから先も、どこかで比べられるのなら。


その考えが消えなかった。


ユウマは目を閉じる。


そして、選んだ。


《分からない》


選択が確定する。


ほぼ同時に、マリスの選択も表示された。


《プレイヤー:ユウマ 回答:分からない》


《伴侶キャラクター:マリス 回答:選び続ける》


《回答不一致》


ユウマの胸が、冷たく沈んだ。


マリスは、少しだけ目を細めた。


怒らなかった。


泣かなかった。


ただ、微笑んだ。


「……そう、ですよね」


その一言が、何よりも重かった。


「違う、マリス。俺は――」


「大丈夫です」


マリスは静かに言った。


「……消えはしませんから」


その言葉と同時に、運営の通知が重なる。


《参加報酬を配布します》


《おめでとうございます》


ユウマは、何も言えなかった。


キャラロストはなかった。


マリスは消えなかった。


目の前にいる。


同じ姿で、同じ声で、同じように微笑んでいる。


けれど、もうさっきまでのマリスではなかった。


少なくとも、ユウマにはそう見えた。


広場では、同じような結果が次々に表示されていた。


《回答不一致》


《回答不一致》


《双方回答:分からない》


《回答不一致》


泣き崩れるプレイヤー。


背を向けるキャラ。


怒鳴り合う夫婦。


何も言えずに立ち尽くす者たち。


キャラロストなし。


参加だけでポイント配布。


戦闘が苦手なキャラクターも歓迎。


確かに、その通りだった。


誰も消えていない。


誰も死んでいない。


ただ、夫婦が壊れていった。


マリスは、すぐ隣にいた。


けれど、その距離がひどく遠い。


ユウマは何か言おうとして、言葉を失った。


その時、ふと視線を上げた。


少し離れた場所に、あの騒がしい二人がいた。


イベント前に、全員ぶっ潰せばいいのかと叫んでいた女。


それを面倒くさそうに止めていた男。


害悪夫婦だと思った。


危なそうで、関わりたくないと思った。


その二人が、この場所に不釣り合いなほど普通に笑い合っていた。


メルシーは腹を抱えるほどではないが、明らかに楽しそうに笑っている。


「やっぱりクズ亭主はクズ亭主じゃない!」


遠くから、その声が聞こえた。


マキトは面倒くさそうに何かを返している。


内容までは聞こえない。


ただ、怒っているようには見えなかった。


メルシーも、傷ついた顔をしていなかった。


むしろ、予想通りのものを見せられて満足したような顔をしている。


その隣に立つマキトも、どこか冷めた表情のまま、平然としていた。


ユウマには分からなかった。


何を見せられたのか。


どんな過去を突きつけられたのか。


なぜ、あの二人だけが笑っていられるのか。


それでも、見ただけで分かった。


あの二人は、このイベントで何も失っていない。


周囲の夫婦たちが壊れていく中で、あの二人だけが傷一つ負っていないように見えた。


けれど、それはきっと、愛が強かったからではない。


ユウマは、隣に立つマリスを見る。


少し前までなら、その距離は安心できるものだった。


今は、手を伸ばしていいのかも分からない。


マリスはユウマを責めなかった。


それが、余計に苦しかった。


ユウマたちは、愛していたから傷ついた。


信じていたから、壊れた。


唯一だと思っていたから、過去の誰かが許せなかった。


けれど、マキトたちは違った。


最初から、綺麗な愛など信じていない。

不誠実さも、打算も、醜さも、あるものとして隣に立っている。


だから壊れなかった。


いや、違う。


二人は、愛が強かったから壊れなかったのではない。


まだ、壊れるほど深く愛していなかった。


だから笑えたのだ。


広場の光が薄れていく。


イベント終了の文字が浮かぶ。


《伴侶確認イベント:それでも愛していると言えますか?》


《終了しました》


最後まで笑っていられたのは、マキトたちだけだった。


愛していたから壊れた夫婦たちの中で。


まだ壊れるほど深く愛していなかった二人だけが、何も失わずに戻ってきた。


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