20.妙に心地よかった
四日目の朝。
マキトは、重たいまぶたを開けた。
眠った、という感覚はほとんどない。意識が途切れた時間はあったはずなのに、体の奥には疲労が沈んだままだった。頭の芯もぼんやりしている。昨日の戦闘で張り詰めていた神経が、今になって反動を起こしているようだった。
それでも、起きた理由ははっきりしている。
動けなかったからだ。
右腕にはシエルが絡みついていた。白い髪が頬の近くにかかり、寝息が静かに肌を撫でている。昨夜の名残なのか、彼女はマキトの腕を抱えるようにして眠っていた。
左腕にはメルシーがいた。こちらも眠っている。普段の勝ち気な表情は薄れ、無防備な顔をしているくせに、腕だけは逃がさないと言わんばかりにしっかり絡めていた。
両側から体温が伝わる。
柔らかい重みが、逃げ場を塞いでいる。
マキトは天井を見上げた。
「……何やってんだ、俺は」
そう呟いた瞬間、昨夜の光景が頭の中に戻ってきた。
シエルが顔を真っ赤にして、逃げるように風呂場へ向かった後のことだ。
部屋には、マキトとメルシーだけが残っていた。
最初、メルシーは何も言わなかった。
ただ黙って、じっとマキトを見ていた。
その視線が妙に低く、鋭い。いつものように悪態をつくでもなく、すぐにからかってくるでもない。静かな分だけ、かえって怖かった。
マキトはソファに腰を下ろしたまま、少しだけ身構える。
ビンタか。
それとも蹴りか。
どちらにしても、今のメルシーならやりかねない。
「怖えな。何だよ」
メルシーは答えず、一歩近づいてきた。
黒い髪が揺れる。赤い瞳が、じっとマキトを射抜いている。
やがて、低い声が落ちた。
「私が風呂に入ってる間に、ずいぶん仲良くしてたみたいじゃない」
「あれは治療だろ」
「治療ね」
メルシーは鼻で笑った。
「ずいぶん密着する治療だったのね」
「怪我してたんだから仕方ねえだろ」
「ふうん」
納得した声ではなかった。
むしろ、余計に機嫌が悪くなったように見えた。
マキトが次の言葉を探すより早く、メルシーがさらに近づいた。膝が触れる距離まで来て、彼女は一瞬だけ迷うように目を揺らす。
その迷いが何なのか、マキトには分からなかった。
だが、次の瞬間には分かった。
メルシーは、両腕でマキトの頭を胸に抱き寄せた。
視界が黒と赤に染まる。
柔らかい感触に顔が埋まり、マキトは一拍遅れて理解した。
シエルがしたことを、メルシーもしている。
嫉妬だ。
明らかに嫉妬だった。
けれど、それを仕掛けた本人の方が先に壊れた。
メルシーの体が強張る。耳まで赤くなり、抱きしめる腕の力が中途半端に震えた。勢いだけで動いたものの、いざ密着すると自分の方が耐えられなくなったのだろう。
マキトは顔を埋められたまま、くぐもった声で言った。
「お前、自分でやって照れてんのか」
「うるさい」
「完全に自爆してるだろ」
「うるさいって言ってるでしょ」
メルシーは離れない。
離れないくせに、恥ずかしさを隠しきれていない。
普段は口が悪く、態度も強い。何かとマキトをクズ亭主呼ばわりし、シエルには噛みつき、少しでも隙を見せれば勝ち誇るように笑う。
そのメルシーが、今は嫉妬に動かされて、勝手に距離を詰めて、勝手に照れている。
マキトは調子を狂わされた。
顔も、体も、声も、近すぎる。
そして近すぎるからこそ、余計なことを考えた。
シエルもメルシーも、容姿だけで言えば文句のつけようがない。
現実の女とは、どこか違っていた。
顔立ちも、肌も、髪も、瞳も、声も、仕草も、過剰なほど整っている。ゲームの中で作られた造形だからなのか、目の前にいるだけで妙な現実感のなさがあった。
だが、人形ではない。
怒る。
照れる。
嫉妬する。
怖がる。
笑う。
それぞれの感情が、こちらに向いている。
シエルの好意は隠せていない。本人は慎ましく振る舞っているつもりなのだろうが、目線も声も行動も、マキトを特別扱いしている。
メルシーは隠しているつもりだ。からかい、文句を言い、悪態をつく。だが、端々で本音が漏れている。今みたいに、勢い余って行動に出る時など特に分かりやすい。
抱こうと思えば、抱ける。
夫婦だから。
契約した相手だから。
今さら遠慮する関係ではないなど、
そんな適当な理由を並べて、少しだけムードを作ればいい。二人とも男を知らない。初心で、危うくて、意のままにできるだろう。そしてマキトが本気でその気になれば、拒まれない可能性の方が高い。
屑な考えだと、自分でも思う。
けれど、考えないのはもっと無理だった。
今まで付き合った女なら、もっと雑に扱ってきた。流れに任せて関係を持ち、面倒なことは後で考えた。好きだの責任だの、そういうものを都合よく曖昧にしてきたこともある。
だが、シエルとメルシーには手を出していない。
誠実だからではない。
出せば、情が湧くからだ。
深い関係になれば、危険な場所へ今まで通り立たせられなくなる。必要なら前へ出す。傷つく可能性があっても使う。勝つために役割を振る。そういう判断が鈍る。
この変化した世界では、判断が鈍った人間から死ぬ。
自分が死ぬだけならまだいい。
二人まで巻き込む。
だから手を出さない。
今も、理性を削られているのに。
マキトは小さく息を吐いた。
「……拷問かよ」
「何か言った?」
「何でもねえよ」
メルシーが睨む。
その顔も赤い。
本当に面倒だった。
そこへ、風呂場の扉が開いた。
シエルが戻ってきた。
湯上がりの白い髪がわずかに湿り、頬にはまだ赤みが残っていた。だが、その目がメルシーに抱きしめられているマキトを見た瞬間、空気が止まる。
シエルは無言だった。
メルシーも一瞬だけ固まった。
だが、恥ずかしさを見られた反動なのか、メルシーはすぐに勝ち誇るような顔を作る。
「遅かったわね、シエル。クズ亭主は私のことも拒まなかったわよ」
「誤解を生む言い方をするな」
マキトは即座に言った。
しかし、シエルは何も言わない。
静かに近づいてくる。
怒っているわけではない。悲しんでいるわけでもない。だが、その沈黙が妙に圧を持っていた。
そして、シエルは反対側からマキトに抱きついた。
「旦那さま。失礼いたします」
「だから何がだよ」
答えはなかった。
ただ、シエルの腕がマキトの体に回る。
結果として、マキトは両側から挟まれた。
メルシーは離れない。シエルも譲らない。二人とも言葉にすれば何かしら理由をつけるのだろうが、結局のところ張り合っているだけだった。
マキトは逃げようとした。
だが、戦闘の疲労が残っている。怪我の痛みも鈍くある。抵抗する気力が、思ったより湧かなかった。
「お前ら、俺が男だってこと忘れてるだろ」
「忘れておりません」
「忘れてないわよ」
「じゃあ離れろ」
二人とも離れなかった。
ベッドまで行けば、さすがに解放されると思った。
だが、甘かった。
横になっても、シエルは右側にいた。メルシーは左側にいた。どちらも少しでも距離を空ければ負けだとでも言うように、マキトの両脇を固めている。
二人の体温。
呼吸。
髪の匂い。
柔らかな感触。
全部が近い。
マキトは何も考えないように目を閉じた。
眠れるはずがなかった。
そうして夜が過ぎた。
朝に戻る。
マキトは、両側で眠る二人を見下ろして、もう一度ため息を吐いた。
起き上がるのも面倒だったが、どうにか片手を抜き、スマホを確認した。
画面にはランキングが表示されていた。
《現在順位:9位》
マキトは目を細める。
昨日は三十八位まで落ちていた。そこから一気に九位。タクヤとの戦闘で奪ったポイントが、それだけ大きかったということだ。
シエルが目を覚まし、画面を見た。
「九位……」
その声には喜びよりも、痛ましさが混じっていた。
タクヤがどれだけ多くの人間から奪っていたのか。順位の上昇は、それを示している。
メルシーも起きた。寝起きの目で画面を見て、あっさり言う。
「奪った奴から奪ったんでしょ。だったら問題ないわ」
マキトも背負う気はなかった。
「タクヤが何人殺してようが、今さら俺が背負っても意味ねえよ。使えるもんは使う」
シエルは少しだけ目を伏せたが、反論はしなかった。
マキトはスマホを置き、体を起こす。
「今日は外に出ない」
シエルとメルシーがこちらを見る。
「九位まで上がった。昨日はさすがに疲れた。ついでに、お前らのせいでほとんど眠れてねえ」
二人が、そろって気まずそうに視線を逸らした。
マキトは短く告げる。
「なので今日は休む」
休む。
そう決めたからといって、何もしないわけではなかった。
朝食を軽く済ませた後、マキトはアプリを開き、タクヤから奪った倉庫の中身を確認した。
画面には大量のアイテムが並んでいる。武器、防具、アクセサリー、回復アイテム、強化素材。どれもイラスト付きで表示されているが、説明文を読んでも細かな価値までは分からない。
マキトはとりあえず、レアリティの高そうなものからスイートルームの床やテーブルへ並べていった。
剣。
槍。
斧。
杖。
鎧。
指輪。
よく分からない石。
瓶詰めの液体。
他にも素材らしい骨や牙。
部屋の雰囲気が一気にゲームの武器屋のように変わっていく。
その途中で、マキトはふと気づいた。
「そういや、お前らの今の装備ってレアリティどうなってんだ?」
シエルが首を傾げる。
「私たちのように、武器にもレア度があるのですか?」
メルシーは床に置かれた武器を眺めながら、興味なさそうに言う。
「殺せればいいのよ。それ以上でもそれ以下でもないわ」
マキトの中に、嫌な予感が走った。
試しに、シエルとメルシーが最初から持っていた装備を一度倉庫にしまう。すると、アプリ上に詳細が表示された。
レアリティ。
最低ランク。
マキトは固まった。
「俺、初期装備の概念を知らないまま強化してたってことか?」
メルシーは平然としている。
「でも殺せるわよ」
「そういう問題じゃねえ」
未踏破迷宮で手に入れた素材を、何となく二人の装備に突っ込んでいた。だが元が最低ランクなら、効率が悪かった可能性がある。今まで勝てていたのは、二人の性能と勢いで誤魔化していただけかもしれない。
マキトは頭を押さえた。
「……俺、今まで木の棒に素材ぶち込んでたみたいなことしてたのか?」
「木の棒でも殺せるならいいじゃない」
「よくねえよ。今の一言で余計に怖くなったわ」
シエルは申し訳なさそうに手元の大剣を見る。
「申し訳ありません。私も、武器にそのような違いがあるとは知りませんでした」
「いや、お前らが悪いわけじゃねえ。ゲームやってない俺の弊害だ」
マキトは深く息を吐く。
「危ねえ……ここで気づけただけマシか」
方針を変えることにした。
奪った武器の中から、二人に合う高レア装備を選ばせる。
「細かい性能は知らん。手に馴染むやつを選べ」
最初に選んだのはシエルだった。
白と金の装飾が入った大剣。刃は澄んだ光を帯び、柄には波紋を思わせる意匠が施されている。派手すぎず、けれど存在感がある。シエルの雰囲気によく合っていた。
マキトは説明文を読もうとしたが、聞き慣れない効果名が並んでいて途中で諦めた。
結局、見た目で判断する。
「似合ってるんじゃねえの」
シエルの頬が赤くなった。
「ありがとうございます、旦那さま」
その反応が素直すぎて、マキトの方が少しだけ目を逸らす。
次にメルシーが選んだ。
黒と赤の禍々しいハルバートだった。刃は大きく、装飾は攻撃的で、持っているだけで周囲の空気が悪くなるような武器だ。
メルシーはそれを軽々と持ち上げ、満足そうに振る。
マキトは言った。
「前より凶悪そうだな」
メルシーが目を細める。
「褒めてるのよね?」
「お前に凶悪そうは褒め言葉だろ」
「分かってるじゃない」
口では得意げに言う。
だが、尻尾が小さく揺れていた。
シエルもメルシーも、異性に褒められ慣れていない。褒めれば素直に照れるか、強がりながら反応が漏れる。
マキトは、そういうところが反応に困った。
装備の確認が一段落した頃、マキトは最後に拳銃を手に取った。
タクヤから奪ったものだ。
手の中に収まる重みは、剣や槍とは違っていた。使い慣れていない。だが、それが何をする道具なのかは分かる。
シエルの表情が曇った。
「旦那さま。それもお持ちになるのですか」
「使えるかもしれねえからな」
「……人を撃つ道具です」
「撃たれるよりはマシだろ」
シエルは言葉を失った。
マキトは少しだけ声を落とす。
「俺が死ぬよりはいい」
その一言で、シエルは何も言えなくなった。
メルシーも今回は茶化さない。
「ああいう道具は、見せるだけで相手の動きが変わるわ。持っておきなさいよ」
マキトはポイントで買った大きめのリュックに、拳銃とホルスターを入れた。
今日は休む日だ。
それでも、世界が安全になったわけではない。
昼になると、マキトはショップを開いた。
まともな食べ物を探すためだったが、シエルとメルシーは当然のように高ポイントの豪華な食事を見つけていた。
肉。
スープ。
焼きたてのパン。
果物。
甘い菓子。
見ただけで高そうな料理が、いくつも表示されている。
メルシーは遠慮なく選ぼうとした。
マキトは呆れる。
「遠慮って言葉知らねえのか」
「私たちが稼いだポイントよ? 何よ、文句ある?」
「あるに決まってんだろ」
シエルはマキトの皿を整えながら、真面目に言った。
「旦那さまはお怪我をされていますし、昨夜もお休みになれていません。栄養を取るべきです」
「眠れなかった原因の一人が言うな」
シエルは赤くなる。
メルシーも目を逸らした。
豪華な食事を終えた後、順位を確認する。
《現在順位:9位》
かなり使ったつもりだったが、順位は落ちていない。
メルシーはそれを見て、さらに何か頼もうとした。シエルが止める。マキトはもう文句を言う気力を半分失っていた。
食事を選んでいるうちに、マキトの目は自然と食べ物以外の商品にも向いた。
菓子。
コーヒー。
カードゲーム。
入浴剤。
部屋着。
クッション。
生活用品や娯楽品まで揃っている。
メルシーは黒い部屋着と菓子をさっさと選んだ。
「これと、これ。あとこの甘いやつも」
「遠慮がねえな」
「遠慮して強くなるの?」
「ならねえけど、菓子で強くもならねえだろ」
「気分はよくなるわ」
メルシーは当然のように言い切る。
マキトは呆れたように息を吐いた。
「まあ、今日だけだぞ、好きにしろ」
その言葉に、メルシーの尻尾がわずかに揺れた。
「……最初からそう言えばいいのよ、クズ亭主」
「言ったら言ったで調子に乗るだろ、お前」
「乗るわよ。休みなんだから」
悪びれないメルシーを見て、マキトは小さく肩をすくめた。
シエルは白い部屋着を見ていた。清楚で柔らかそうな生地のものだったが、自分から欲しいとは言わない。
マキトはそれに気づく。
「欲しいなら買っていいぞ」
シエルが驚いたように振り返る。
「よろしいのですか?」
「今日は特別だ。好きなの買え。その代わり、明日からきっちり働いてもらうけどな」
シエルは少しだけ目を輝かせた。
「ありがとうございます、旦那さま」
戦うための武器ではない。
生き残るための回復薬でもない。
ただ休むための服。
それを嬉しそうに選ぶシエルを見て、マキトは妙な気分になった。
メルシーも菓子を抱えながら、どこか楽しそうだった。
「何よ」
「いや。お前ら、そういう顔もするんだなと思ってな」
「悪い?」
「悪くねえよ」
マキトは視線を逸らす。
「戦ってる時より、よっぽど女の子っぽい」
シエルが固まり、メルシーも一瞬だけ言葉を失った。
次の瞬間、メルシーが顔を赤くして噛みつく。
「なっ……変なこと言うんじゃないわよ!」
「変なことじゃねえだろ」
「言い方が変なのよ、クズ亭主!」
二人は戦闘キャラだ。強力な力を持ち、敵を倒し、マキトのために前へ出る。
けれど今は、普通に買い物を楽しむ女の子に見えた。
風呂と着替えの後、シエルは白い部屋着で戻ってきた。
普段の鎧姿とは違い、全体の印象が柔らかい。白い髪と青い瞳にもよく合っていて、戦場の前衛というより、静かな部屋で過ごす少女のように見えた。
続いて、メルシーが黒い部屋着で出てくる。
こちらは普段より無防備だった。けれど、黒い生地のせいか、彼女らしい小悪魔じみた雰囲気は残っている。
マキトは何気なく言った。
「似合ってる」
シエルは素直に赤くなる。
「ありがとうございます」
メルシーは腕を組んで顔を逸らす。
「当然でしょ」
ただし、尻尾が揺れていた。
マキトは内心で舌打ちする。
こういうところが厄介なのだ。
手を出さない理由を作っているのに、二人の方からその理由を少しずつ崩してくる。
午後は、思ったより静かに過ぎた。
マキトは休むと決めたはずなのに、落ち着かなかった。何もしていない時間が、逆に体をむずつかせる。シエルは何度も見張りに立とうとし、メルシーは影に入ったり出たりを繰り返していた。
領域を使っている以上、ここはひとまず安全地帯のはずだった。
それでも、三人とも休み方が下手だった。
マキトはソファに座ったまま言う。
「今日は休むって言っただろ。お前らも休め」
シエルは真面目に答える。
「ですが、旦那さまをお守りするのが私の役目です」
「じゃあ、俺が休む邪魔をするな」
その一言で、シエルは口を閉じた。
メルシーも鼻を鳴らしながら、菓子の袋を開ける。
「本当に面倒くさいわね、クズ亭主は」
「お前に言われたくねえ」
その後、マキトはショップでカードゲームやコーヒー、菓子類も追加購入した。休むと決めた以上、形だけでもそれらしい時間を作るつもりだった。
カードゲームを広げても、ルールを把握するだけで面倒になった。コーヒーを飲んでも、シエルは苦さに少しだけ眉を寄せ、メルシーは菓子と一緒なら悪くないと言った。
何でもない時間だった。
だが、そういう時間が、今の世界ではひどく貴重だった。
ふと思い立って、マキトはテレビのリモコンを手に取った。
電源を入れる。
画面に映ったのは、砂嵐だった。
「……テレビも死んだか?」
マキトは適当にチャンネルを変えていく。
どこも映らない。
ニュースも、バラエティも、通販番組も、災害情報もない。ただ灰色のノイズだけが画面を埋め、耳障りな音を鳴らしている。
いくつか回したところで、ようやく一つだけ映った。
画面の中にいたのは、アナウンサーではなかった。
スーツは着ているが、襟元は乱れ、顔色も悪い。おそらくテレビ局の関係者なのだろう。男はカメラの前に立ち、何度も手元の紙を見ながら、たどたどしい声で話していた。
『現在、各地で停電が深刻化しています。通信障害も広がっており、複数の放送局で通常放送の継続が困難になっています』
音声にはノイズが混じっていた。
映像も時折乱れる。
『この放送も、いつまで続けられるか分かりません。ですが、視聴できている方にお願いです。どうか、落ち着いて行動してください』
男は一度、言葉に詰まった。
それでも、すぐに顔を上げる。
『食料も、水も、安全な場所も、これからさらに足りなくなるかもしれません。それでも、どうかモラルを失わないでください。近くに困っている人がいれば、できる範囲で助け合ってください』
シエルは画面をじっと見ていた。
メルシーは菓子を食べる手を止め、つまらなそうにしながらも、耳だけは向けている。
『我々は人間です。獣ではありません。モンスターでもありません。どうか、人として生き延びてください』
感動的な演説だった。
少なくとも、言っている本人は本気なのだろう。
だが、マキトはほとんど右から左へ聞き流していた。
「大変そうだな」
それだけ言って、スマホを確認する。
通信はまだ繋がっていた。
だが、開けないサイトが増えていた。ニュースサイトの一部は更新が止まり、動画サイトは読み込みに時間がかかる。SNSも、表示される投稿の数が明らかに減っていた。
誰かが助けを求めている。
誰かが怒っている。
誰かがデマを流している。
誰かが、もう駄目だと書いている。
その全部が、少しずつ途切れ始めていた。
マキトは画面を閉じる。
「人の世が終わったかもしれねえな」
口にした感想は、ひどく軽かった。
シエルがこちらを見る。
「旦那さま……」
「いや、別に詩的なこと言ったつもりじゃねえよ。ただ、そう見えるってだけだ」
テレビの中では、男がまだ何かを訴えていた。
助け合いましょう。
秩序を守りましょう。
人間であり続けましょう。
その声は、何度か乱れた後、砂嵐に呑まれた。
マキトはリモコンで音を消す。
部屋が静かになった。
夕方になると、窓の外が暗くなり始めた。
遠くに煙が上がっている。街の明かりはまばらで、ところどころが黒く沈んでいる。ホテルの部屋だけが、外から切り離されたように静かだった。
シエルは窓辺に立ち、外を見つめていた。
やがて、小さく言う。
「旦那さま。外では、今も困っている方がいるのではないでしょうか」
マキトはすぐには答えなかった。
同じように外を見る。
いるだろう。
助けを求めている人間は、きっといる。水がない者。食べ物がない者。怪我をしている者。逃げ場を失った者。明日をどう生きるかも分からない者。
だが、マキトの答えは変わらなかった。
「いるだろうな」
シエルが振り返る。
マキトは淡々と言った。
「でも、全員助けられるわけないだろ。助けたところで、その後どうする。水も飯も寝床も安全も、俺たちが全部用意するのか?」
シエルは何も言えなかった。
マキトは続ける。
「そいつらにポイントを使う義理もない。助けた人間が次の日に死ぬかもしれない。助けた相手に裏切られるかもしれない。だったら、まず守るべきなのは俺とお前らだ」
メルシーは黙って聞いていた。
マキトは綺麗事を言わない。
「俺は全員を助ける気はねえよ。そこを間違えたら全部終わる」
シエルは視線を落とした。
それは正しい。
少なくとも、この世界で生き残るためには。
けれど、納得しきれる言葉ではないのだろう。
シエルは胸元に手を当て、静かに言った。
「……それでも、私は助けたいと思ってしまいます」
マキトは少しだけ息を吐いた。
冷たく切り捨てたままでもよかった。
その方が楽だった。
だが、シエルのその顔を見ていると、言葉が一つ余計に出た。
「それは悪いことじゃねえよ」
シエルが顔を上げる。
マキトは視線を逸らし気味に続けた。
「お前のそういう優しいところは、見ていて綺麗だと思う」
シエルが固まった。
メルシーも目を丸くする。
マキトはすぐに言葉を足した。
「ただ、順番を間違えるな。お前が倒れたら、助けられる奴も助けられなくなる」
シエルはしばらく黙っていた。
それから、ゆっくり頷く。
「……はい」
「無理しそうになったら止める。死なれたら困るからな」
シエルは小さく笑った。
「旦那さまが止めてくださるのですね」
「面倒を増やされたくないだけだ」
メルシーが横から茶化す。
「何よそれ。結局、シエルの面倒を見るって言ってるだけじゃない」
マキトはメルシーを見る。
「お前もだぞ」
メルシーが止まった。
「……は?」
「勝手に突っ込んで死なれても困る。だからお前も止める」
メルシーは目を逸らす。
「命令されなくても死なないわよ」
「ならいい」
「ほんと腹立つ言い方するわね」
そう言いながら、メルシーの尻尾は小さく揺れていた。
シエルは優しさを否定されなかった。
メルシーは、自分も同じように気にかけられていることを知った。
マキトはそれ以上、何も言わなかった。
だが、部屋の空気は少しだけ変わっていた。
夜。
夕食は昼より落ち着いた雰囲気で始まった。
メルシーは相変わらず遠慮なく追加を頼み、シエルはマキトの体調を気にして皿や飲み物を整える。
マキトは文句を言いかけたが、途中でやめた。
もう何を注文されても、今さらだ。
明日からまた動けばいい。
そう思うことにした。
食後、外は完全に暗くなっていた。
街は壊れ続けている。遠くでは何かが燃えているのか、夜空に鈍い赤が滲んでいた。
それでも、ホテルの部屋だけは明るい。
テーブルの上には食後の皿があり、ソファにはクッションがあり、袋を開けた菓子が置かれている。武器も、リュックも、拳銃も同じ部屋にあるのに、その時間だけは不思議と穏やかだった。
シエルがぽつりと言う。
「外はあれほど変わってしまったのに、ここには旦那さまがいて、メルシーがいて、私もいます。それだけで、落ち着いてしまいます」
メルシーは照れ隠しのように鼻を鳴らす。
「シエルにしては、まともなこと言うじゃない」
「褒めてくださっているのですか?」
「違うわよ」
「ですが、少し嬉しそうです」
「嬉しくないわよ」
言い合いは軽い。
昨日までの張り詰めた空気とは違う。
マキトは二人を見て、短く言った。
「なら、今日はそれでいいだろ」
シエルは微笑む。
メルシーは顔を逸らす。
けれど、誰もその言葉を否定しなかった。
寝る時間になった。
マキトは念のため、先に釘を刺す。
「今日は普通に寝ろよ」
シエルとメルシーは頷いた。
「はい」
「分かってるわよ」
本当に分かっているのかは怪しい。
灯りを消す。
部屋が暗くなる。
しばらくは静かだった。
だが、やはり距離は近づいた。
シエルが自然にマキトの側へ寄る。昨日のような張り合いではなく、ただ安心する場所を探すような動きだった。
メルシーはそれを見て、少しだけ不満そうに息を吐く。だが争うことはせず、反対側から同じように距離を詰めてきた。
昨夜とは違う。
押し合いでも、勝ち負けでもない。
少し自然な距離だった。
マキトは何か言おうとして、やめた。
スマホの画面が淡く光る。
《現在順位:9位》
マキトはそれを見て、目を閉じる。
「……明日は動くぞ」
シエルが静かに答える。
「はい。ですが、今夜はお休みください」
メルシーも言った。
「明日暴れるなら、今日は寝なさいよ、クズ亭主」
マキトは小さく笑う。
「俺が寝られなかったのはお前らのせいだからな」
二人とも離れない。
文句を言うべきだった。
距離を取れと言うべきだった。
今後のためにも、その方がいいはずだった。
それなのに、言葉は出なかった。
両側から伝わる体温が、昨日よりもずっと静かに馴染んでいる。
マキトは目を閉じたまま思う。
本当にまずい。
これは、たぶん、好きになりかけている。
女相手にここまで面倒な気分になったのは、いつ以来だろう。
もっと拒むべきだった。
そのはずなのに、両側から伝わる温度が、妙に心地よかった。
四日目の夜は、静かに終わった。




