19.閉じ込める檻
四日目の朝、避難所の体育館には湯気の匂いが漂っていた。
給湯室で沸かされた湯が、紙コップへ注がれている。
水道は出る。ガスも使える。天井の照明も、ところどころ点滅しながらではあるが灯っている。
外の街が昨夜からほとんど死んだように暗くなっていることを考えれば、この避難所はまだ恵まれていた。
だが、恵まれていることと、安心できることは違う。
体育館の床には毛布が敷き詰められ、家族連れや老人たちが身を寄せ合っている。壁際には体調を崩した者が寝かされ、保健室に入りきらなかった怪我人が簡易ベッド代わりのマットの上で呻いていた。子供の泣き声は一晩中どこかで途切れず、誰かが怒鳴れば、別の誰かが「静かにしてください」と押し殺した声で返す。
避難所は生きている。
けれど、生きているだけだった。
ハルキは紙コップを二つ持ち、人の間を縫うように歩いた。
足元には荷物がある。横になっている人もいる。誰もが少しずつ疲れていて、誰もが少しずつ苛立っている。うっかり毛布の端を踏んだだけで、睨まれることもあった。
「すみません」
ハルキは小さく頭を下げる。
声を荒らげる気力もない男が、こちらを見てから顔を背けた。
ハルキはその横を抜け、体育館の隅へ向かった。
そこに、ツムギがいた。
茶色い髪を二本の三つ編みにした、小柄な女だった。頭の上には小さなリス耳があり、腰の後ろにはふさふさした尻尾が垂れている。疲れているせいか、耳は少し伏せ気味だった。
おっとりした顔立ち。柔らかい声。誰かに強く言い返すところなど想像できない、穏やかな雰囲気。
そして、胸元はかなり控えめだった。
ラグオダでは、胸の大きさがレアリティの目安になることが多い。
ツムギは、その基準で言えば明らかに低レアだった。
実際、彼女は最下位に近い低レアの支援キャラだ。攻撃は不得意で、防御も低い。モンスター相手に前へ出せば、あっという間に怪我をするだろう。戦闘職ではない。前線に立つためのキャラではない。
けれど、今の避難所では、彼女は朝からずっと働いていた。
「ツムギ、水持ってきた」
ハルキが声をかけると、ツムギは顔を上げた。
「ありがとうございます、ハルキさん」
彼女は受け取った紙コップを両手で包むように持った。湯気を見つめ、少しだけ安堵したように息を吐く。その尻尾が、小さく揺れた。
ツムギの前には、膝を擦りむいた子供が座っている。母親らしき女性が不安そうに見守る中、ツムギは消毒液を染み込ませたガーゼを手にしていた。
「少ししみますけど、すぐ終わりますからね」
「いたい?」
「ちょっとだけです。でも、ばい菌さんが入るともっと痛くなりますから」
ツムギは子供の目線に合わせて、ゆっくり話す。
ハルキは横から包帯を渡した。ツムギが手当てをしやすいように、必要なものを並べていく。消毒液、ガーゼ、包帯、使い終えた紙を捨てる袋。どれも避難所の備品と、ポイントで購入されたものが混ざっている。
ツムギのスマホが、小さく震えた。
《クエスト進行:避難者の軽傷処置》
ハルキはその文字をちらりと見る。
ラグオダ2から、クエストの形は変わった。
以前のゲームなら、討伐対象を倒せ、素材を集めろ、指定のステージを周回しろ、そんな内容ばかりだった。だが、現実がラグオダに侵食されてから、クエストはキャラごとに、その場に合わせたものが表示されるようになった。
ツムギに出るのは、避難所での支援ばかりだ。
怪我人の手当て。
体調不良者の発見。
子供の不安軽減。
配給補助。
衛生状態の改善。
戦えないツムギでも、ポイントを稼ぐ道はある。
ただし、得られるポイントは少ない。
外でモンスターを倒せる戦闘職プレイヤーとは比べものにならない。対人戦で勝つ者たちとは、なおさら違う。
それでも、ハルキとツムギにはそのわずかなポイントが必要だった。
ポイントは、ただのランキング用の数字ではなくなっている。
ショップでは水が買える。食料が買える。医療用品も買える。簡易ライト、毛布、充電用品、消毒液、包帯。今の世界で生きていくために必要なものが、ポイントで手に入る。
避難所にはまだ物資が潤沢にあり、その上配給もある。
だから、今すぐ飢えるわけではない。ツムギにも最低限の食事はもらっている。けれど、それは最低限でしかない。
何かが起きたら。
ツムギが怪我をしたら。薬が必要になったら。配給が止まったら。避難所が破られたら。逃げなければならなくなったら。
その時、ポイントがなければ対応できない。
ハルキの手持ちは少なかった。
理由は分かっている。
最初に、バトル申請を拒否し続けたからだ。
ツムギが現れた時、ハルキはランキングの意味も分かっていなかった。ポイントが水や薬に変わるとも知らなかった。上位報酬の領域にも興味はなかった。
ただ、ツムギを戦わせたくなかった。
怖がりで、それでも自分を選んでくれた嫁。
そんな彼女を、わけの分からないバトルに出したくなかった。
だから拒否した。
一度ではない。何度も。通知が来るたびに拒否した。
その結果、ポイントは削れていった。
あの時は正しいと思った。
今でも、ツムギを傷つけたくなかった気持ちは間違いではないと思う。
だが、間違いではない選択が、正しい結果を連れてくるとは限らない。
「できました」
ツムギが子供の膝に包帯を巻き終える。
子供は泣き止み、母親が何度も頭を下げた。
「ありがとうございます。本当に、助かりました」
「いえ。あの、しばらく走らないようにしてくださいね」
ツムギは柔らかく笑う。
子供と母親が離れていくと、ツムギのスマホに通知が出た。
《クエスト達成》
《ポイントを獲得しました》
ツムギの耳がぴくりと立つ。
「ハルキさん、少し増えました」
「よかったな」
ハルキは笑った。
笑ったつもりだった。
だが、胸の奥に重いものが残る。
少し増えた。
本当に、少しだけ。
その少しを積み重ねなければ、二人には何も残らない。
体育館の反対側で、誰かが大きな声を上げた。
「充電、まだかよ!」
見ると、コンセントの前に列ができていた。
領域内では電気が使える。だが、使える場所は限られている。コンセントの数も限られていた。プレイヤーのスマホ充電が優先され、一般避難民は後回しになる。
「こっちも家族に連絡したいんだけど」
「プレイヤーのスマホが落ちたら何かあったとき対応できないんです。少し待ってください」
職員が説明している。
だが、一般避難民の顔には納得がない。
彼らにはキャラがいない。
領域も張れない。ポイントもない。ショップも使えない。クエストも出ない。
守ってもらうしかない。
だからこそ、一番弱い。
だが、その弱さは時に、数の圧になる。
ハルキはそのことを、三日の零時に思い知った。
全プレイヤーのスマホに、突然通知が届いた。
《ランキング報酬:領域について》
《体験版領域を解放しました》
それまで、領域という言葉は、プレイヤーにとってもただのゲーム用語に近かった。ランキング上位に与えられる報酬。自分には関係ない機能。そんな認識だった。
一般避難民は、そもそも領域の存在すら知らなかった。
だが、通知にははっきり書かれていた。
体験版領域は、全プレイヤーが一度だけ使用可能。
範囲は狭い。
一度設定すると再設定はできない。
ランキング集計終了後、体験版領域は解除される。
ランキング終了まで、残り四日。
そして、効果。
領域内にはモンスターが侵入できない。
領域内では電気、ガス、水道が使用可能。
その情報が避難所内に広まった瞬間、空気が変わった。
最初に声を上げたのは、プレイヤーたちだった。
ここで使うべきだ。
いや、再設定できないなら温存すべきだ。
家族を探しに行く時に使う。
逃げた先で使えなければ意味がない。
でも、今ここにモンスターが来たらどうする。
言い争いはすぐに大きくなった。
そこへ、一般避難民の声が混ざった。
「使ってくれないんですか?」
誰かの母親が、子供を抱きしめながら言った。
「モンスターが入ってこなくなるんですよね。水も出るんですよね。お願いします。子供がいるんです」
その言葉をきっかけに、同じような声が増えていく。
「私たちにはキャラがいないんです」
「ポイントもありません」
「プレイヤーの人たちしか頼れないんです」
「ここで使わない理由があるんですか?」
頼まれている。
けれど、ハルキには責められているようにも聞こえた。
使わないプレイヤーは、自分だけ逃げ道を温存しているように見られる。
この避難所にいる人たちを見捨てるように見られる。
ハルキも迷った。
ツムギと二人で逃げることになった時、領域があれば助かるかもしれない。
外でモンスターに囲まれても、領域を張れれば生き残れるかもしれない。
だが、目の前には怪我人がいた。老人がいた。子供がいた。
ツムギは、ハルキの袖をそっと掴んで言った。
「ハルキさん。私たちの領域で、誰かが助かるなら……」
その時点で、ハルキの答えはほとんど決まっていた。
だが、全員が同じように納得したわけではなかった。
その後すぐ真夜中にもかかわらず、避難所にいるプレイヤーたち全員は、職員室前の廊下へ集められた。
一般避難民を全員入れると収拾がつかなくなる。そう判断した職員が、まずはプレイヤー同士で話し合ってほしいと言ったのだ。
集まったプレイヤーたちの表情は重かった。
戦闘向けの嫁を連れた者。
回復役を連れた者。
探索向きのキャラを連れた者。
ハルキのように、支援役の嫁を隣に立たせている者。
それぞれが不機嫌と不安が入り混じった表情を浮かべていた。
誰かが言った。
「避難所に張るしかないだろ。モンスターが入ってこないんだぞ」
別の誰かが反論する。
「簡単に言うなよ。一度使ったら終わりなんだぞ。ここが駄目になった時、逃げた先でどうするんだ」
「ここが駄目になったら、その時点で終わりだろ」
「俺はまだ家族を探せてない。外で使うかもしれないんだ」
「そんなの皆同じだろ!」
声が重なり、廊下の空気が荒れていく。
中には、はっきりと拒否するプレイヤーもいた。
「俺は使わない」
その言葉に、周囲の視線が集まる。
男はスマホを握りしめたまま、歯を食いしばっていた。
「これは俺の権利だろ。運営が俺に配った機能だ。避難所に使えなんて、誰にも言われる筋合いはない」
その主張は間違っていなかった。
領域は、そのプレイヤー本人に与えられたものだ。
温存したい理由も分かる。
外には家族がいるかもしれない。
別の避難所へ移る必要があるかもしれない。
逃げた先で使えなければ、本当に詰むかもしれない。
それでも、廊下の向こうには一般避難民たちがいた。
子供を抱えた母親。
杖をついた老人。
怪我をした男。
何かあったとき真っ先に死んでいく人たち。
彼らは、遠巻きにこちらを見ている。
何も言わない。
けれど、その視線が言葉よりも重かった。
使ってくれないのか。
自分たちだけ助かる手段を残すのか。
ハルキは、その視線から目を逸らした。
言いたいことは分かる。
だが、領域を使う側にも人生がある。嫁がいる。逃げ道が必要だった。
誰かが声を荒げた。
「善人ぶるなよ。お前らだって、逃げる時に使いたいだろ」
「当たり前だろ! 自分の嫁を守って何が悪い!」
「じゃあ避難所の連中はどうするんだよ!」
「俺たちに全部背負わせるな!」
話し合いは、もう話し合いではなくなっていた。
ハルキはツムギの手を握った。
ツムギのリス耳は伏せられ、尻尾も不安そうに縮こまっている。それでも彼女は、誰かを責めるような目はしていなかった。
ただ、困っていた。
誰かを助けたい気持ちと、ハルキを危険に晒したくない気持ち。
その両方の間で、揺れているように見えた。
そして最後に場を決めたのは、ダイゴだった。
ダイゴは筋肉質な大柄の男だ。肩幅が広く、腕も太い。日頃から力仕事をしてきたのだろうと分かる体つきをしている。声は低く、ただ立っているだけで人を威圧する。
その隣には、女神陣営の嫁がいた。
赤髪のアマゾネス風の巨体な女戦士。大きな斧を肩に担ぎ、鋭い目で周囲を見渡している。女神陣営と聞けば清らかな聖女を想像する者もいるかもしれない。だが、彼女は違った。救済よりも討伐。祈りよりも戦場。そういう言葉が似合う女だった。
ダイゴは避難所の中央に立ち、短く言った。
「使うぞ」
話し合いではなかった。
命令だった。
当然、反発はあった。
「勝手に決めるなよ」
「俺の領域だぞ」
「一度使ったら、変更はできないんだろ」
ダイゴはその男を見下ろした。
「じゃあ、ここにいる連中を見捨てるのか?」
男は黙った。
ダイゴは続ける。
「領域を温存するために、ここにいる子供たちが死んでもいいって言えるなら、好きにしろ」
正論の形をした脅しだった。
背後には戦闘職プレイヤーたちがいる。隣には大斧を担いだアマゾネスがいる。逆らえば、この避難所にいづらくなる。守ってもらえなくなる。そう思わせるだけの圧があった。
結局、プレイヤーたちは領域を使った。
ハルキも、使った。
画面を押した瞬間、空気が変わった。
避難所の一角に、見えない膜のようなものが広がる。止まっていた照明が戻り、水道から水が出て、給湯室のガスコンロに火がついた。コンセントにも電気が通る。
避難民から歓声が上がった。
「助かった」
「本当に水が出た」
「これで生活が楽になる」
ツムギは、少しだけ嬉しそうだった。リス耳が立ち、尻尾がふわりと動く。
ハルキも、嬉しくないわけではなかった。
誰かを助けられた。
自分の領域が、避難所を支えた。
それは事実だ。
だが、スマホには別の表示も出ていた。
《体験版領域を設定しました》
《再設定はできません》
《ランキング集計終了後、解除されます》
《残り四日》
逃げた先では、もう領域を張れない。
避難所を守るために、ハルキたちは自分たちの逃げ道を失った。
領域の強制使用で荒れた空気を収めるため、ダイゴは次にこう言った。
「領域は避難所全体のために使った。その代わり、ポイントまでは取らない。ポイントは個人管理でいい。自分のために使え」
その時は、ハルキも少し安心した。
領域は失った。
でもポイントは残る。
ポイントさえあれば、ツムギに何かあった時、少しは対応できるかもしれない。
だが、次の日の朝には、その約束も歪み始めていた。
避難所の力関係は、すでに変わっていた。
表向きの管理者は市職員だ。配給表を作り、名簿を確認し、場所を割り振っている。けれど実際に人々が顔色をうかがうのは、ダイゴたち戦闘職プレイヤーだった。
外へ出られるのは彼らだ。
モンスターと戦えるのも彼らだ。
領域を張らせたのも彼らだった。
充電の順番。配給の優先。寝る場所。見張りの配置。物資回収の人選。
そういったことに、ダイゴの意見が通る。
非戦闘向けキャラを連れたプレイヤーたちは、肩身が狭かった。
けれど、それ以上に肩身が狭いのは、キャラを持たない一般人だった。
彼らは守ってもらうだけで何もできない。
だからプレイヤーに頭を下げる。戦闘職プレイヤーに感謝する。プレイヤー達に「ここにいてください」と頼む。
その一方で、不満も溜まる。
「プレイヤーばかりが全てにおいて優先される、おかしいだろ、そんなの」
「配給も戦える人が先なんですか」
「でも、あの人たちがいないと守れないんでしょう」
感謝と不満が混ざり、避難所の空気は少しずつ濁っていった。
その濁りの中で、ダイゴがハルキの前に現れたのは、ツムギがクエストを終えた直後だった。
ツムギは、朝から夕方まで動き回っていた。
怪我人の手当てをし、子供をなだめ、配給を手伝い、保健室の片づけをして、ようやくいくつかのクエストを達成した。
ハルキも一緒に走った。水を汲み、包帯を運び、ツムギが疲れれば休ませた。自分にできることは少ない。それでも、ツムギだけを働かせたくはなかった。
スマホに表示されたポイントは、決して多くない。
それでも、二人にとっては大事な命綱だった。
「今日は、少し多めに増えましたね」
ツムギがほっとしたように笑った。
ハルキも頷こうとした。
その時、影が差した。
見上げると、ダイゴが立っていた。
隣には、大斧を担いだ赤髪のアマゾネスがいる。
ハルキは喉が詰まるのを感じた。
ダイゴは怖い。
まず、体格が違う。肩幅が広く、胸板は厚く、腕も太い。真正面に立たれるだけで、こちらの逃げ道が半分塞がれたような圧があった。
短く刈った髪に、鋭い目。口数は多くない。怒鳴るわけでもない。
それなのに、視線を向けられるだけで背筋が冷える。
暴力を振るう男ではなく、振るう必要があると判断した瞬間にためらわない男。
ダイゴは、そう見えた。
殴り合って勝てる相手ではない。そもそも喧嘩になった時点で終わりだ。横にいるアマゾネスが少し動くだけで、ツムギなど簡単に傷つけられる。
だから、ハルキは恐怖から敬語を選んだ。
「……何か、用ですか」
ダイゴは見下ろしたまま言った。
「防衛費だ」
ハルキは一瞬、意味が分からなかった。
「ポイントは個人管理でいいと、言っていましたよね」
「その通りだ」
ダイゴは表情を変えない。
「だから、お前のスマホで拒否を押せ」
ハルキのスマホが震えた。
《バトル申請》
それだけでハルキは理解した。
拒否すれば、ポイントが削れる。
逆に受ければ、ツムギが戦うことになる。
ツムギでは、絶対に勝てない。
怪我をするどころか殺されるかもしれない。
もし誤って受諾した後、降伏すれば、さらにポイントを失う。
拒否しても削られる。
受けても勝てない。
降伏しても失う。
ダイゴは、その仕組みを分かったうえで言っている。
「俺たちは外で戦ってる。武器の補修も、回復もいる。お前らが中で稼いだ分も、避難所を維持するために必要だ」
ハルキは拳を握った。
本当は言いたかった。
ふざけるな。
それはツムギが働いて稼いだものだ。
約束が違うだろ。
だが、言えない。
ダイゴが怖い。隣のアマゾネスが怖い。この避難所で完全に敵対することが怖い。何より、ツムギを巻き込むことが怖い。
だから、口調は崩れなかった。
「これは、何かあった時のために残しておきたいんです」
ダイゴは冷たく言った。
「何かあった時に前へ出るのは、俺たちだ お前には必要ないだろ」
ツムギのリス耳が伏せる。尻尾が怯えたように縮こまり、彼女はハルキの服の裾を握った。
「ハルキさん……」
ハルキは受けられなかった。
ツムギを前に出せるわけがなかった。
震える指で、拒否を押す。
ポイントが削れる。
ツムギが一日かけて稼いだ分が、目に見えて減った。
ダイゴはそれを確認した。
礼はなかった。
謝罪もなかった。
嫌味すらなかった。
当然のことが終わったとでも言うように、無言で背を向けた。
赤髪のアマゾネスも何も言わずについていく。
ハルキはスマホを握ったまま、しばらく動けなかった。
ツムギが小さく謝る。
「ごめんなさい、ハルキさん」
「ツムギが謝ることじゃない」
すぐにそう言った。
だが、自分の声に力がないことは、ハルキ自身が一番分かっていた。
夜になっても、その感覚は消えなかった。
体育館の隅で、ハルキとツムギは毛布の上に座っていた。周囲では避難民たちが横になり始めている。照明は落とされ、最低限の明かりだけが残っていた。
ツムギは尻尾を膝の上に乗せ、両手で包むように抱えている。
「私が、もっと強かったら……」
「違う」
ハルキは首を振る。
「ツムギは悪くない」
「でも、私が戦えるキャラだったら、ハルキさんはあんなふうに……」
「違うって」
強めに言ってから、ハルキは自分の声に驚いた。
ツムギが肩を震わせる。
「ごめん。怒ったんじゃない」
「はい……」
ハルキは息を吐いた。
何が悪かったのか、分からなくなる。
ツムギを守るためにバトルを拒否した。
避難所を守るために領域を使った。
ツムギと一緒にクエストを手伝った。
どれも間違ったことをしたつもりはない。
なのに、結果だけがハルキたちを追い詰めている。
「明日も、私、クエストを受けます」
ツムギが言った。
「ハルキさんも手伝ってくれるなら、もっと回れると思います。少しずつでも、またポイントを戻しましょう」
ハルキは何も言えなかった。
稼いでも、また削られるかもしれない。
けれど稼がなければ、本当に何も残らない。
ツムギの健気さが、痛かった。
その夜、避難所の外で叫び声が上がった。
最初は誰かの喧嘩かと思った。けれどすぐに違うと分かる。
金属を引っかくような音。
地面を擦る重い音。
獣とも人ともつかない唸り。
体育館がざわめいた。
「モンスターだ!」
職員の声が響く。
避難民たちが起き上がる。子供が泣き、誰かが荷物を抱え、誰かが「落ち着いて」と繰り返す。
領域内にはモンスターは侵入できない。
説明にはそう書かれていた。
実際、モンスターは境界の外で止まっているらしい。だが、領域は避難所全体を完全に覆っているわけではない。体験版の範囲は狭く、いくつもの領域を継ぎ接ぎにしているだけだ。
校庭の端。物資を置いていた倉庫。フェンスの外側。
守りきれていない場所はいくつもある。
さらに悪いことに、物資確認に出ていた職員が戻り遅れていた。
「門の外にいる!」
誰かが叫んだ。
その瞬間、ダイゴが動いた。
「戦える奴は来い!」
低い声が体育館を裂く。
赤髪のアマゾネスが、大きな斧を担いで前に出た。
「邪魔な奴は下がってな! 巻き込まれても知らないよ!」
口は悪い。態度も荒い。
だが、その背中は頼もしかった。
ダイゴたちは領域の外へ出る。
アマゾネスの斧が、暗がりの中で振り下ろされた。鈍い音が響き、モンスターの腕らしきものが地面に落ちる。別の戦闘職の嫁が炎を放ち、盾を持つキャラが職員を引き戻す。
ダイゴ自身も怒鳴りながら動いていた。
「走れ! 中へ入れ!」
「そっちの隙間を塞げ!」
「近づけるな!」
ハルキは、体育館の入口からそれを見ていた。
怖かった。
それと同時に、分かってしまった。
ダイゴたちがいなければ、この避難所は本当に危ない。
自分たちだけでは無理だ。
領域だけでは足りない。
外で戦う者がいなければ、守れないものがある。
やがて、モンスターは倒された。
避難所内に安堵が広がる。
泣いていた子供が母親に抱きつき、職員が何度も頭を下げる。一般避難民たちは、ダイゴたちへ感謝の言葉を投げた。
「ありがとうございます」
「助かりました」
「本当に、あなたたちがいてくれてよかった」
ダイゴの嫁は傷を負っていた。
赤髪は乱れ、大きな斧には黒い血がこびりついている。腕にも傷があった。それでも彼女は平然とした顔を作っている。
ダイゴも疲れていた。肩で息をし、服は汚れ、頬にはかすり傷がある。
その姿を見てしまうと、ハルキは昼間の怒りをどこへ置けばいいのか分からなくなった。
ダイゴたちが領域の内側へ戻ってくると、避難民たちが自然と道を空けた。
さっき助けられた職員が、まだ青い顔のまま頭を下げる。
「ありがとうございました。あのままだったら、私は戻れませんでした」
ダイゴは短く息を吐いた。
「礼はいい。怪我人の確認をしろ」
言い方は相変わらず乱暴だった。
それでも、職員は救われたようにもう一度頭を下げた。
子供を抱えた母親が、涙ぐみながら近づく。
「ダイゴさん、本当にありがとうございます。あなたたちがいてくれて……」
「奥へ行け。入口に人を集めるな」
「はい。ありがとうございます」
老人も、配給係の女性も、キャラを持たない一般人たちも、口々に礼を言った。
赤髪のアマゾネスの腕から血が流れているのを見て、誰かが慌てて包帯を持ってくる。別の誰かは水を差し出し、職員は消毒液を探しに走った。
ダイゴの周囲には、自然と人が集まっていた。
怖がられている。
逆らえないと思われている。
それは間違いない。
けれど、それだけではなかった。
頼られてもいる。
感謝もされている。
この避難所に必要な人間として扱われている。
ハルキは、その光景を黙って見ていた。
昼間、ツムギが稼いだポイントを削らせた男。
当然のように拒否ボタンを押させた男。
謝りもせずに去っていった男。
その同じ男が、今は多くの人間に頭を下げられている。
しかも、その感謝は嘘ではなかった。
だから余計に、ハルキは何も言えなかった。
しばらくして、人の輪が少し薄くなった頃、ダイゴがハルキのところへ来た。
ハルキは身構えた。
またポイントか。
そう思った。
だが、ダイゴはしばらく黙ったあと、低く言った。
「さっきは悪かった」
ハルキは返事ができなかった。
ダイゴは続ける。
「お前のポイントを奪った件だ。戦闘後で、こっちも気が立っていた。言い方も、やり方も、ひどかったと思ってる」
謝罪。
その言葉を聞いても、ハルキの胸は軽くならなかった。
本当なら、言い返したい。
ひどかったと思うなら最初からやるな、と。
だが他に逃げ場がないハルキの口から出たのは当たり障りのない返答だった。。
「……そう、ですか」
ダイゴはハルキを見る。
「でも、お前らの集めたポイントも必要なんだよ」
ハルキの体が強張る。
ダイゴは視線を逸らさなかった。
「俺は、お前らだけから集めてるわけじゃない。戦闘職の連中からも集めてる。俺の取り巻きに見えてる奴らからもだ」
赤髪のアマゾネスが、少し不機嫌そうに顔を背けた。
「こいつにも、やりすぎだって言われてる」
ダイゴは続ける。
「俺は対人戦をしたくない。嫁を人間相手に戦わせたくない。けど、このままじゃポイントが足りない」
ハルキは言葉を失う。
ダイゴは、そこで初めて自分の順位を口にした。
「俺の順位は九十七位だ」
ハルキは思わず顔を上げる。
「九十七……」
「ぎりぎりなんだよ。このまま百位以内に残れれば、ランキング終了後に正規版の領域が貰えるかもしれない。でも体験版は、ランキング終了で解除される。残り四日だ。四日後、ここの領域が消えたらどうなる?」
ダイゴの声は、昼間のようにただ威圧するものではなかった。
疲れがあった。焦りがあった。罪悪感も、たぶんあった。
「モンスターを倒して稼ぐ。仲間からも出させる。それでも足りない。だから、お前らの集めたポイントも必要なんだ」
ハルキは黙った。
ダイゴは悪い。
無理やり領域を使わせた。ツムギが稼いだポイントを削らせた。拒否ボタンを押させた。謝ったからといって、それが消えるわけではない。
だが、ただ楽をしているわけではなかった。
自分の嫁も傷つけながら戦っていた。取り巻きからもポイントを集めていた。対人戦を避け、正規版領域を取るために必死になっていた。
九十七位。
あと少し落ちれば、届かなくなるかもしれない順位。
ハルキはツムギを見た。
ツムギは怯えたまま、ハルキの袖を掴んでいる。小さな胸の前で手を握り、リス耳を伏せていた。それでも、逃げようとはしていない。
ハルキはゆっくり息を吐いた。
「……そういうことなら、手伝います」
ダイゴが黙って見た。
ハルキは続ける。
「でも、次からは先に言ってください」
本当は、もっと強く言いたかった。
脅すな。
ツムギを巻き込むな。
謝れば済むと思うな。
だが、声は震えた。敬語も崩れなかった。
ダイゴが怖い。
それは変わらない。
「ツムギが集めたポイントは、俺たちにとっても命綱なんです。黙って削られて、当然みたいな顔をされるのは……きついです」
ダイゴは何も言わない。
「必要なら、俺もツムギも、できることはします。でも、さっきみたいに説明もなく威圧的な態度をとるのはやめてください」
ツムギが息を呑む。
ダイゴはしばらく黙っていた。
やがて、短く頷く。
「分かった」
それだけだった。
和解ではない。
許したわけでもない。
ただ、この避難所で生きるための話し合いが、ようやく始まっただけだった。
ダイゴが去った後、ハルキはその場に座り込んだ。
力が抜けた。
怖くなかったわけではない。
言いたいことを全部言えたわけでもない。
それでも、さっきよりは少しだけ息がしやすかった。
ツムギが隣に膝をつく。
「ハルキさん……」
「ごめん。勝手に決めた」
「いえ」
ツムギは首を振った。
「私も、手伝います。戦うことはできませんけど、怪我をした方を見ることならできます。子供たちを落ち着かせることも、配給を手伝うこともできます」
その声は小さい。
けれど、逃げてはいなかった。
ハルキは、ツムギの伏せられた耳と、震える尻尾を見る。
弱い。
戦えない。
それでも、ツムギは自分にできることを探している。
なら、自分も挫けてばかりはいられない。
「ポイントは、必要ならダイゴさんに渡そう」
ハルキはスマートフォンを握りしめた。
「正規版の領域で本当に避難所を守れるなら、そのために使った方がいい。俺たちだけで抱え込んでいても、守れるものは少ないから」
ツムギは黙って聞いていた。
「でも、俺たちはポイントのためだけに動くんじゃない」
ハルキは続ける。
「怪我をした人がいたら、手当てする。子供が泣いていたら、そばにいる。配給が足りなければ手伝う。ツムギが動くなら、俺は水を運ぶし、荷物も持つ」
「はい」
ツムギの耳が、ほんの少しだけ立つ。
「私も、できることをします」
ポイントは必要だ。
水も、薬も、食料も、今はポイントで買える。
ランキングの順位が、これから先の生き残りに関わるかもしれない。
それでも、スマートフォンの数字だけを見ていたら、きっと何かを間違える。
ハルキたちは強くない。
モンスターを倒して大量のポイントを稼ぐこともできない。
誰かを威圧して従わせることもできない。
だからこそ、目の前にある小さなことを一つずつ積み重ねるしかない。
包帯を巻く。
水を運ぶ。
泣いている子供のそばにいる。
疲れた誰かに、少しだけ休む場所を作る。
それがポイントになる日もある。
ならない日もある。
けれど、それでもいい。
ツムギが誰かを助けようとするなら、ハルキはその隣にいる。
「明日も、一緒に回ろう」
ハルキが言うと、ツムギの尻尾が小さく揺れた。
「はい。ハルキさん」
領域は、避難所を守る壁になった。
ポイントは、誰かを生かすための力になった。
なら、自分たちは自分たちのやり方で生きる。
強くなくても。
戦えなくても。
目の前のできることを、一つずつ積み重ねていく。




