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18/46

18.治療してただけ

歓楽街を抜けると、街の空気が変わった。


派手な看板も、割れたネオンも、店先に散らばった酒瓶も、血と硝煙の匂いも、少しずつ背後へ遠ざかっていく。


代わりに見えてきたのは、何の変哲もない駅前だった。


ロータリーには、乗り捨てられたタクシーが斜めに止まっている。バス停には時刻表だけが残り、電光掲示板は消えていた。コンビニのガラス扉には内側から棚が押しつけられている。ファストフード店の看板は半分だけ明かりを失い、もう営業していないのに、どこか今までの街の形だけを残していた。


人はいない。


少し前までなら、帰宅途中の会社員や学生、酔った客、スマートフォンを見ながら歩く若者で埋まっていたはずの場所だった。


それが今は、風の音だけが広がっている。


遠くで何かが軋む音がした。魔物のものか、壊れた建物が崩れただけか、判別はつかない。


その駅前を、マキトたちは歩いていた。


三人の並びは、普段とは違っていた。


シエルはいつものようにマキトの近くを歩いている。護衛としては正しい位置だ。けれど、その横顔には微妙な苦味がある。口には出さない。出さないが、隠しきれてもいない。


メルシーは、もっと露骨だった。


いつもなら、必要に応じてマキトの影へ潜む。あるいは、気まぐれに横へ並び、文句を言いながらも距離は詰めてくる。


だが今は違う。


彼女はマキトから数歩離れた後ろを歩いていた。


それも、はっきりと距離を取っている。


マキトは振り返った。


「おい、メルシー。影に入れ。目立つだろ」


メルシーは即座に顔を歪めた。


「嫌よ」


迷いがなかった。


マキトは眉を寄せる。


「即答かよ」


「当たり前でしょ。今のあんた、近くにいるだけで鼻がおかしくなるのよ? 影の中なんて入ったら、私までこの匂いに染まりそうじゃない」


彼女は片手で鼻先を押さえた。


「絶対に嫌。何があっても嫌。今の影、絶対に入りたくない場所ランキング一位よ」


「勝手にランキング作るな」


「作らせるだけの匂いをさせてるのは誰よ」


マキトはシエルを見る。


「お前も同意見か?」


シエルは一瞬、視線を泳がせた。


「旦那さま。その……」


「その?」


「メルシーの言い方は、非常に失礼だと思います」


「だろ?」


「ですが、現在の旦那さまの状態については……否定する材料がありません」


「お前まで裏切るのかよ」


シエルは申し訳なさそうに頭を下げる。


「裏切りではありません。事実確認です」


「より悪いわ」


メルシーが後ろで鼻を鳴らした。


「ほら。ペ天使ですら庇いきれないんだから、相当よ」


「命懸けでゴミまみれになってやった男に向かって、その態度か? 少しは感謝しろ。あそこで俺が汚れ役をやらなきゃ、今ごろお前らもまとめて詰んでたぞ」


マキトが言うと、メルシーは一瞬だけ言葉を詰まらせた。


それが事実だということは分かっている。


あの状況で、マキトがゴミ捨て場に潜んでいなければ、相手の意識を外から崩すことはできなかった。


ミオミオの力は想像以上だった。

二人掛かりなら勝てる。多少押されても、最後には押し切れる。


そう甘く見ていた。


だが、結果的には違った。

武器は限界に近づき、二人の攻撃はミオミオを崩しきれなかった。


結果だけ見れば、マキトが彼女たちを救ったのと同じだった。


メルシーはそれを理解している。


理解しているからこそ、不満げに唇を尖らせた。


「それは分かってるわよ」


「じゃあ感謝しろ」


「それとこれは別問題なのよ!」


シエルが小さく頷きかけ、慌てて止まった。


マキトは見逃さない。


「今、頷きかけたな」


「……気のせいです」


「お前、結構顔に出るよな」


「申し訳ありません」


「謝るくらいなら否定しろ」


シエルは黙った。


メルシーが勝ち誇ったように笑う。


「ほら。ペ天使も限界なのよ」


「お前ら、帰ったら覚えてろよ」


「その前に風呂入りなさいよ。文句より匂いを落とす方が先よ」


マキトは舌打ちした。


だが、本気で怒っているわけではなかった。


むしろ、戦闘の熱が少しずつ体から抜けていくのを感じていた。


さっきまで、命を狙われ、銃を向けられ、ゴミ山から飛び出し、相手の武器も倉庫も奪った。


最後まで、殺すつもりでやった。


タクヤの顔。


ミオミオの顔。


怯え、怒り、屈辱、絶望。


全部見た。


そのうえで生かした。


また来るかもしれないから。


また遊べるかもしれないから。


マキトは、そのことを思い出して口元を緩めた。


シエルは、その表情に気づいた。


「旦那さま」


「何だよ」


「楽しそうですね」


「楽しかったからな」


即答だった。


シエルは何も言えなくなる。


メルシーも、軽口を挟まなかった。


駅前の広い空間に、三人の足音だけが響く。


しばらく歩いたところで、シエルが口を開いた。


「旦那さま。今夜はどちらでお休みになりますか?」


マキトは足を止めなかった。


だが、返事もすぐには出なかった。


数秒後、彼は言った。


「……考えてなかったわ」


シエルが目を瞬かせる。


「考えていなかったのですか?」


「迷宮潜って、戦って、いろいろあっただろ。こればっかりは仕方ない」


シエルは少しだけ考え、納得したように息を吐いた。


「……確かに、今日は立て続けでしたね。では、これからどうなさいますか?」


「今決めるから待ってろ」


メルシーが呆れたように肩をすくめる。


「本当にその場その場で生きてるわね、クズ亭主」


「先のことばっか考えてたら、人生つまんねえだろ?」


「それを本気で言うから怖いのよ」


マキトは駅前のビル群を見上げた。


ホテルの方向は分かっている。


以前泊まっていた高級ホテル。今朝、支配人から休業を告げられた場所だ。従業員も宿泊客も、避難所へ向かったはずだった。


避難所へ行くという選択肢も、一瞬だけ頭をよぎった。


だが、シエルとメルシーの姿を考えた時点で却下した。


こんな分かりやすい戦力を二人も連れていけば、絶対に面倒なことになる。防衛に回れだの、弱い連中を助けろだの、ポイントを出せだの、言い出す奴はいくらでもいる。


善意の顔をした要求ほど、断るのが面倒くさい。


今のマキトに必要なのは、避難所での人間関係ではない。


風呂と寝床だった。


「もう面倒くさいし、いつものホテルでいいだろ」


シエルが小さく息を吐いた。


「……やっぱり、そうなりますよね」


「何がだよ」


「あのホテルへ戻ることです。旦那さまなら、そう言うと思っていました」


「なら話が早いな」


「納得したわけではありません。ただ、今から別の安全な場所を探すよりは現実的です」


メルシーが笑った。


「誰も戻らない場所に、いちいち気を遣う必要なんてないでしょ。いっそ私たちの家にしちゃえば?」


「簡単に言うな」


マキトは軽く返す。


「まあ、何か問題が起きたら俺が責任とって払うから大丈夫だろ」


シエルはまだ納得しきれない様子だった。


「ですが――」


「そこ気にするくらいなら、俺の家ぶっ壊した弁償方法でも考えとけよ」


シエルが言葉を失う。


「あ……」


「いや、そこで本気で落ち込むな。軽く言っただけだ」


「申し訳ありません」


「だから、真面目に謝られると俺が悪いみたいになるだろ」


メルシーが横から口を挟む。


「実際、今のはちょっと意地悪だったわよ」


「お前にだけは言われたくねえな」


シエルはまだ気まずそうにしていたが、マキトはそれ以上続けなかった。


家のことを引きずりたいわけではない。


今欲しいのは、風呂と寝床だ。


特に風呂。


マキト自身も、自分の匂いが洒落になっていないことは理解していた。


「とにかくホテルに戻るぞ。そして、まず風呂。そのあと寝る」


「賛成」


メルシーが即答した。


「今日一番まともな判断ね」


「今日一番って何だよ」


「他がひどすぎたのよ」


シエルは小さく息を吐き、二人の後に続いた。


三人は駅前を抜け、ホテルへ向かった。


夜の街は静かだった。


道中、いくつかの魔物の気配はあった。だが、シエルが前に立ち、メルシーが気配を探れば、避けられるものは避けられた。わざわざ戦う必要はない。


マキトも、今は余計な戦闘を求めなかった。


体は疲れている。


服は汚れている。


頬には銃弾がかすった傷もある。


さすがに休むべきだった。


ホテルに着く頃には、周囲は暗くなっていた。


かつては明るく人を迎えていた入口には、シャッターが下りている。ガラスの向こうに見えていたロビーも、今は薄暗い。看板の一部だけが弱々しく光り、建物の巨大さだけが夜の中に残っていた。


マキトはシャッターの前に立つ。


「閉まってるな」


「でしょうね」


メルシーが前へ出た。


「鍵のところだけ壊せばいいでしょ」


シエルが少し顔をしかめる。


「できるだけ破損は少なくしてください」


「はいはい。あんたは細かいわね」


メルシーはハルバートを軽く持ち直した。


巨大な刃でシャッターごと叩き壊すのではなく、石突きに近い部分を鍵穴へ差し込み、器用に捻る。


金属が嫌な音を立てて歪んだ。


派手な破壊音はしない。


鍵の部分だけが壊れた。


マキトは少し意外そうに言う。


「雑にぶっ壊すと思った」


「そんなことしたら風が入るでしょ。せっかく寝る場所にするのに、入口を全開にしてどうするのよ」


「お前、変なところで生活感あるな」


「失礼ね」


シャッターを持ち上げ、三人は中へ入った。


ロビーは無人だった。


広い床。受付カウンター。ソファ。観葉植物。そこに人がいないだけで、空間全体が抜け殻のように見える。


非常灯はついていた。


天井の照明も一部だけ生きている。


シエルが周囲を見回す。


「電気は、まだついていますね」


「なら、鍵も探せるな」


マキトは管理人室へ向かった。


鍵がかかっていたが、今さらそこで止まる三人ではない。メルシーがまた鍵を壊し、マキトが中へ入る。


壁には部屋番号ごとの鍵が並んでいた。


マキトは以前使っていた最上階のスイートルームの番号を探す。


「これか」


鍵を手に取る。


シエルはロビー側を警戒しながらも、わずかに視線を伏せていた。


「旦那さま」


「今度は何だ」


「本当に、あとで支払うつもりはあるのですね?」


「もちろん。ポイントで払えるならな」


「現金ではないのですか?」


「この世界で現金がまだ強いと思うか?」


シエルは返答に困った。


メルシーが笑う。


「今の世界なら、水一本買えるポイントの方が価値あるんじゃない?」


シエルは納得していいのか分からない顔をした。


だが、今はこれ以上言っても仕方がない。


三人はエレベーターへ向かった。


ボタンを押すと、扉が開いた。


まだ動く。


マキトは少しだけ安心した。


「よし」


「途中で止まらないでしょうね?」


メルシーが疑わしげに言う。


マキトは半眼で振り返った。


「なら、お前だけ階段な?」


「は?」


「この世界でエレベーターが信用できねえなら、階段の方が安心だろ。行ってこいよ」


「嫌よ。何で私だけ暗い階段を上らなきゃいけないのよ」


「言い出したのお前だろ」


「疑っただけでしょ!」


「じゃあ黙って乗れ」


メルシーは不満そうに睨んだが、結局エレベーターへ乗り込んだ。


「……止まったら恨むからね」


三人が乗り込む。


エレベーターは静かに上昇した。


表示階数がひとつずつ変わる。


箱の中は妙に狭く感じた。


誰も喋らない。


普段ならメルシーが何かしら文句を言うところだが、今はそれもない。金属の箱が上へ進む音だけが、やけに大きく聞こえた。


エレベーターが最上階へ到着した。


扉が開く。


マキトが先に降りる。続いてシエル、メルシー。


三人が廊下へ出た直後だった。


音が消えた。


照明が一斉に落ちる。


エレベーターの表示も、操作盤の明かりも消えた。空調の低い音が途切れ、ホテル全体が急に息を止めたようになる。


廊下が闇に沈んだ。


シエルは即座に剣へ手を伸ばした。


メルシーも表情を変える。


マキトは天井を見上げた。


「……停電か」


シエルが低く尋ねる。


「復旧は見込めますか?」


「この世界で誰が直しに来るんだよ」


その言葉に、誰も反論できなかった。


メルシーが、閉じたエレベーターの扉を見た。


「……途中で止まらなくてよかったわね」


ぼそりと呟いた声は、いつもより少しだけ低かった。


マキトは小さく息を吐く。


「ほんとにな」


エレベーターは止まった。


最上階にいる。


階段で降りられなくはないが、暗いホテルの中をわざわざ移動するのは面倒だ。何より、風呂が使えなければここまで来た意味がない。


メルシーが数秒黙った。


そして、マキトを見る。


「ちょっと待ちなさいよ、クズ亭主。まさかその酷い匂いのまま、同じ部屋で夜を越すつもりじゃないでしょうね? 無理。ほんと無理。私の尊厳が死ぬわ」


マキトは否定しなかった。


「落ち着け。俺だってこのまま寝る気はねえよ」


「ならどうするのよ」


「こういう時のために、まだ使ってない機能があるだろ」


シエルが気づく。


「領域ですか」


「ああ」


マキトはスマートフォンを取り出した。


ラグオダ2のアプリを開く。


画面の中には、まだ使っていない項目がある。


《領域・体験版》


いつか試すつもりだった。


だが、使いどころを見極めていた。体験版という以上、範囲も機能も制限がある可能性が高い。軽率に使って無駄にするのは避けたかった。


けれど、今は状況が違う。


最上階。


停電。


風呂なし。


そしてマキト自身が、ゴミ捨て場の匂いをまとっている。


背に腹は代えられない。


シエルが言う。


「旦那さま。ここで使用した場合、エレベーターは領域の外になるのではありませんか?」


「だろうな」


「それでは、いざというときに不便です」


「じゃあ下で使うか?」


メルシーが即座に拒否した。


「嫌よ。狭い部屋でペ天使と一緒なんて冗談じゃないわ。どうせ使うなら一番広い場所にしなさいよ」


シエルが眉を寄せる。


「メルシー。優先すべきは安全性です」


「安全ならここも同じでしょ。むしろ最上階なら誰も来ないわよ」


「ですが……」


「領域が使えるなら部屋の中は快適になるんでしょ? だったら問題ないじゃない」


シエルは反論しかけたが、マキトが先に言った。


「決まりだな。ここで使う」


「旦那さま」


「俺も広い部屋がいい」


シエルは小さく息を吐いた。


「……分かりました」


スイートルームの鍵を開ける。


部屋の中は暗い。


窓の外も暗い。


街全体が、黒い海のように沈んでいた。


マキトはアプリの画面を操作する。部屋の間取りをなぞるような表示が浮かび、薄い光が画面上で広がった。


《領域を設定しますか?》


マキトは迷わず押した。


一瞬、空気が変わった。


音ではない。


光でもない。


ただ、見えない線が部屋の外周を走ったような感覚があった。


次の瞬間、照明が戻る。


天井のライトが点き、空調が動き出した。冷蔵庫が小さな駆動音を鳴らす。洗面所の方から、水道管に水が流れる気配がした。


停電したホテルの最上階で、その部屋だけが息を吹き返した。


シエルが安堵する。


「これで、今夜は安全に休めますね」


メルシーも部屋の中を見回した。


「へえ。思ったよりまともじゃない」


マキトはすぐに風呂場の方を見た。


「水も出るよな」


シエルが、少し困ったように瞬きをした。


「まず確認されるのは、そこなのですか?」


「まずそこだろ」


メルシーが冷たい目を向ける。


「ええ。まずそこよ。今のあんたに必要なのは反省でも謝罪でもなく風呂だから」


「酷すぎだろ」


「今日に限っては否定できないでしょ」


マキトは言い返さず、窓の方へ歩いた。


最初は、ホテルだけの停電だと思っていた。


古い設備が落ちたのかもしれない。

誰も管理していない建物なら、電気が止まっても不思議ではない。


だが、窓の外を見た瞬間、その考えは消えた。


街が暗かった。


ホテルの周辺だけではない。

駅前も、ビル群も、道路沿いの店舗も、遠くに見えるマンションの窓も、ほとんど光を失っている。


昨日までなら、夜になっても街は眠らなかった。


看板。

信号。

店の照明。

オフィスの明かり。

マンションの窓。


そういうものが、街の形を夜の中に浮かび上がらせていた。


けれど今は違う。


黒い。


街そのものが、巨大な影に沈んだようだった。


「……ホテルだけじゃねえのか」


マキトが呟いた。


シエルも窓辺へ近づき、息を呑む。


「街全体が……停電しているのですね」


メルシーも赤い瞳を細める。


「そりゃ、そうよね。こんな世界になって、電気だけ今まで通り使えると思ってる方がおかしいわ」


軽く言っているが、その声にもわずかな硬さがあった。


領域の内側だけは明るい。


空調も動いている。

水も出る。

部屋は暖かく、静かで、安全に見える。


だが、窓一枚隔てた外側では、街が死んだように暗く沈んでいた。


その落差が、かえって気味悪かった。


マキトは窓の外を眺めたまま、小さく笑う。


「本格的に終わってきたな」


シエルはその言い方に顔を曇らせる。


「旦那さま」


「分かってる。笑い事じゃないんだろ」


「はい」


「でも、今さらだ」


マキトは暗い街の向こうへ視線を向ける。


街の光が消えたせいで、空だけが妙にはっきり見えた。


星が出ていた。


普段なら、街明かりに埋もれて見えなかったはずの光が、黒い空に散っている。


メルシーが窓辺に立ち、ぽつりと呟いた。


「……星、綺麗ね」


シエルも静かに空を見る。


「本当ですね」


壊れた世界の上に、やけに澄んだ星空だけが広がっていた。


マキトは二人を見る。


「お前でも星を見て綺麗とか言うんだな」


メルシーは即座に振り返る。


「いいから風呂入りなさいよ、臭いのよ」


マキトは肩をすくめた。


「はいはい」


彼は風呂場へ向かった。


扉が閉まる。


水音がしばらくして聞こえ始めた。


広いスイートルームに、シエルとメルシーだけが残された。


二人は同じ窓辺には立たなかった。


シエルは壁の近くに立ち、メルシーは窓側のソファに腰を下ろした。距離がある。いつものことだ。近づけば言い合いになる。


それでも、今夜の沈黙はいつもと少し違っていた。


メルシーが先に口を開いた。


「シエル」


シエルが驚いて顔を上げる。


「……今、私の名前を呼びましたか?」


「いちいち驚かないでよ」


「普段はそのように呼ばれませんので」


「真面目な話をしたいだけよ」


シエルは姿勢を正した。


「分かりました」


メルシーは窓の外を見る。


「今日のクズ亭主、どう思った?」


シエルはすぐには答えなかった。


風呂場から水音が聞こえる。


その音が、かえって沈黙を際立たせた。


やがてシエルは言った。


「怖い方だと思いました」


メルシーは茶化さない。


「どこが?」


「旦那さまは、常に異常な判断をする方ではありません。必要な相手とは普通に話します。支配人の方にも、その他の方にも、無意味に攻撃的ではありませんでした。私たちに対しても、気を使ってくれています」


シエルは自分の手を見る。


「社会の決まりも、善悪も、ある程度は理解していらっしゃいます」


「そうね。分かってない馬鹿じゃないわ」


メルシーが呟く。


シエルは頷いた。


「だからこそ怖いのです。理解しているのに、面白いと感じた瞬間だけ、ためらわずに踏み越える。必要なら泥を被る。必要なら脅す。必要なら相手の心を折る」


あの銃口。


タクヤへ向けた冷たい声。


死ね、と言った時の空気。


そして、なーんてな、と笑った顔。


シエルの胸の奥に、まだその光景が残っていた。


「タクヤ様を生かした理由も、慈悲ではありませんでした。約束を守ったからでもありません。危険がなくなったからでもありません。また来るかもしれないから。もう一度遊べるかもしれないから。旦那さまの“アレ”は、本心からのものだったと思います」


メルシーは否定しなかった。


「……あれは、さすがに私もちょっと引いたわ」


「はい」


「でも」


メルシーは膝の上で指を組んだ。


「銃弾から守った時、少し遅れてたら死んでたのよ」


シエルは黙って聞いている。


「なのにあいつ、私が間に合うことを前提にしてた。私がいるから踏み込める。私が守るから無茶できる。そんな感じで笑ってた」


メルシーの声が少しだけ小さくなる。


「腹立つでしょ。普通に考えたら」


「はい」


「こっちの気も知らないで、勝手に命を賭けるのよ。守る側のことなんて、分かってるようで分かってない」


「はい」


「なのに……」


そこでメルシーは言葉を止めた。


シエルは急かさなかった。


メルシーは顔をそらしたまま、ぼそりと言う。


「悔しいけど、ちょっとだけ、胸が変になった」


シエルがメルシーを見た。


メルシーはすぐに顔を赤くした。


「違うからね!? そういう意味じゃないから! あいつが頭おかしいって話よ! 守る側の気持ちを考えないクズ亭主って話!」


シエルは危険な発言を聞き流すように静かに微笑んだ。


「否定が早すぎます」


「うるさいわね」


「ですが、少し分かります」


メルシーの動きが止まる。


シエルは視線を伏せた。


「旦那さまに必要とされることは、嬉しいのだと思います。たとえ、それが危険な状況であっても」


「……ペ天使も大概ね」


「今はシエルと呼んでいたのでは?」


「うるさい」


少しだけ空気が緩む。


だが、すぐにメルシーは真顔に戻った。


「それで? 怖いなら嫌いになった?」


シエルは答えられなかった。


嫌い。


その言葉を、自分の中で確かめる。


マキトは正しくない。


少なくとも、シエルが信じてきた正しさとは違う。


人を脅す。


奪う。


危険を楽しむ。


相手を生かす理由すら、安全や慈悲ではない。


それなのに、彼の姿をみた瞬間、シエルは安堵した。


撃たれたかもしれない。


死んだかもしれない。


そう思った後に、彼が笑って立っていた。


その姿を見て、心から安心してしまった。


「……なれません」


シエルは静かに答えた。


メルシーは何も言わない。


「怖いです。理解できない部分もあります。正しいとも思えません」


シエルは胸元に手を当てた。


「ですが、旦那さまが戻ってきた時、私は安心しました。あの方が私たちを見て、必要としてくださることを……嬉しいと思ってしまいました」


メルシーは深くため息をついた。


「本当に、趣味悪いわね。私たち」


「はい」


「そこは否定しなさいよ」


「できません」


メルシーは顔をそらす。


シエルもそれ以上は言わなかった。


どちらも、同じ男のことを考えている。


危うい。


怖い。


理解できない。


それでも、目を離せない。


風呂場の扉が開いたのは、その少し後だった。


マキトが出てくる。


ゴミ捨て場の匂いは消えていた。濡れた髪をタオルで乱暴に拭き、軽い部屋着のような格好をしている。普段よりずっと無防備だった。


頬には、銃弾がかすった傷が残っている。


浅い。


だが、確かにそこにある。


シエルとメルシーは、反射的に視線を向け、すぐに目を逸らした。


マキトはその反応を見て、すぐに口元を歪める。


「さては俺の話してたな?」


メルシーが噛みつく。


「してないわよ!」


「その反応はしてただろ」


「してない!」


「じゃあ何で顔赤いんだよ」


「風呂の熱気がここまで来たのよ!」


マキトは風呂場の方を見た。


「扉閉まってたけど」


「細かいこと気にする男は嫌われるわよ」


「お前、誤魔化し方が適当になってるぞ」


メルシーは立ち上がった。


「うるさい! 次、私が入るから! 覗いたら殺すわよ!」


「毎回言ってるな、それ」


「毎回言う必要がある相手だからよ!クズ亭主!」


メルシーは逃げるように風呂場へ向かった。


扉が閉まる。


マキトはその背中を見送った。


「逃げたな」


シエルは何も言わなかった。


ただ、マキトの頬を見ている。


マキトは気づいた。


「何だよ」


「旦那さま。その傷を消毒します。医療用品を購入してください」


「気にすんな。かすり傷だ」


「ダメです」


即答だった。


マキトは少し目を細める。


「そんな強く言うことか?」


「言うことです」


シエルの表情は真剣だった。


いつものように丁寧で、穏やかで、けれど譲らない顔。


マキトはしばらく見返したあと、スマートフォンを取り出した。


「分かったよ」


ショップを開き、医療用品を購入する。


消毒液、ガーゼ、絆創膏。


ポイントは大した額ではない。雑魚を一体倒せば戻る程度だ。


マキトは軽く言う。


「まあ、俺の顔に傷が残ったら、お前らに見捨てられるかもしれねえしな」


シエルは少しも笑わなかった。


「冗談を言っている場合ではありません」


「真面目すぎない?」


「真面目に話してます」


マキトはソファに腰を下ろした。


シエルが近づく。


近い。


消毒液の蓋を開け、ガーゼに染み込ませる。シエルの指がマキトの頬へ触れた。


冷たさと、少しの痛み。


マキトは顔をしかめる。


「染みるな」


「我慢してください」


「容赦ないな」


「必要な処置です」


シエルの青い瞳が近くにある。


傷を確認するために顔を寄せている。それは分かる。分かるのだが、距離が近い。


白い髪が揺れる。


風呂上がりのマキトも軽装だが、シエルもまた、戦闘中とは違っていた。


鎧ではなく、ホテルに備え付けられていた浴衣を身につけている。普段の硬質な印象は薄れ、白い髪と浴衣の襟元のせいで、妙に柔らかく見えた。


マキトは軽口を言おうとした。


惚れ直したか。


顔がいいから見惚れるのも無理はない。


いつもなら、それくらい言えた。


だが、言葉が出なかった。


シエルの目が、あまりにも真剣だったからだ。


心配している。


傷の深さだけではない。


マキト自身が無茶をしたことを、まだ許せていない目だった。


マキトは視線を逸らした。


「……近くね?」


「傷を見るためです」


「いや、それは分かるけどよ」


シエルは処置を続ける。


けれど途中で、ほんの少し手が止まった。


マキトはそれに気づく。


「傷、そんなにひどいか?」


シエルは少し遅れて答えた。


「いえ……傷は浅いです」


「じゃあ何見てんだよ」


「……旦那さまのお顔を」


言ってから、シエルが固まった。


マキトも一瞬、反応が遅れる。


「今、顔って言ったよな?」


「言っておりません」


「言っただろ」


「傷の位置を確認していました」


「今のは無理あるぞ」


シエルの頬が赤くなる。


マキトはそこでさらに茶化そうとした。


だが、なぜか言葉が続かなかった。


シエルの動揺が、いつもの真面目な反応とは違って見えた。


距離が近すぎる。


沈黙が妙に長い。


治療が終わり、シエルが絆創膏を貼る。


「終わりました」


「……おう」


マキトは立ち上がろうとした。


その瞬間、シエルが抱きしめた。


マキトの顔が、柔らかいものに包まれる。


一瞬、何が起きたのか分からなかった。


次に理解する。


シエルの胸だった。


マキトは固まった。


「おい、シエル」


シエルは離れなかった。


腕に力がこもっている。


「怖かったです」


声が震えていた。


マキトは何も言えなくなる。


「旦那さまが撃たれた時、本当に怖かったです」


シエルの言葉は、責めるものではなかった。


怒りでもない。


ただ、恐怖だった。


マキトが死ぬかもしれなかった。


その事実が、今になって彼女の中で形になっている。


「もう、あんな無茶はしないでください」


マキトは答えない。


シエルの腕が少しだけ強くなる。


「お願いします」


マキトは、シエルを突き放せなかった。


ふざけて剥がすこともできた。


いつも通り軽口で流すこともできた。


だが、今のシエルにそれをする気にはなれなかった。


だから、正直に言った。


「それはできねえな」


シエルの体がわずかに強張る。


「できない約束はしない」


冷たい言葉だった。


少なくとも、優しい返事ではない。


マキトは、自分がまた無茶をすると分かっている。


面白いものを見つければ近づく。


勝てると思えば踏み込む。


相手が危険であればあるほど、退屈しない。


その自分を、なかったことにはできない。


シエルは何も言わなかった。


離れもしなかった。


マキトは少しだけ息を吐く。


「でも、まあ……死ぬ気はねえよ」


シエルが顔を上げる。


「本当ですか?」


マキトは視線を逸らした。


「死んだら遊べないだろ」


シエルは呆れたように、けれど少しだけ安心したように目を伏せた。


「……旦那さまらしいです」


「褒めてるか?」


「分かりません」


「分かんねえのかよ」


「ですが、少しだけ安心しました」


その言葉に、マキトは何も返せなかった。


部屋の中は明るい。


外の街は暗い。


領域の内側だけが、切り取られたように安全だった。


その安全な場所で、二人はしばらく動けずにいた。


正確には、シエルがマキトを離さなかった。


胸に顔を押しつけられたまま、マキトは中途半端な姿勢で固まっている。


力ずくで抜け出せないわけではない。


少し身をよじれば、たぶん抜けられる。


だが、耳元で震えているシエルの呼吸を聞いてしまうと、それを雑に振り払う気にはなれなかった。


結果として、マキトは何とも言えない顔のまま、ただ抱きしめられていた。


「……お前、そろそろ離れないと俺が色々まずいんだが」


「もう少しだけです」


即答だった。


普段なら文句の一つも返すところだが、その声がまだ少し震えていたせいで、マキトは口を閉じるしかなかった。


互いの距離。


触れている体温。


言えない言葉。


そして、胸に封じられたまま動けなくなっているマキト。


それだけで、時間の感覚が曖昧になっていた。


メルシーが風呂に入ってから、かなり時間が経っている。


だが、マキトもシエルもそれに気づかなかった。


やがて、風呂場の扉が開く。


湯上がりのメルシーが戻ってきた。


黒い髪は少し湿っている。普段よりも無防備な姿で、頬には湯気の名残がある。


しかし、その赤い瞳はすぐに細くなった。


マキトとシエルの距離が近い。


近すぎる。


シエルは弾かれたように離れた。


顔が赤い。


明らかに動揺している。


「わ、私も入浴してまいります」


そう言うなり、シエルは逃げるように風呂場へ向かった。


扉が閉まる。


メルシーはその扉を見た。


それから、ゆっくりとマキトへ視線を戻す。


「……へえ?」


マキトは嫌な予感を覚えた。


「何だよ」


メルシーの声が少し低くなる。


「浮気?」


マキトは本気で意味が分からない顔をした。


「は?」


メルシーはシエルが逃げ込んだ風呂場の方を見る。


「私が風呂に入ってる間に、ずいぶん仲良くしてたみたいじゃない」


「治療してただけだろ」


メルシーは目を細めた。


「胸で?」


マキトは、言葉に詰まった。


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