18.治療してただけ
歓楽街を抜けると、街の空気が変わった。
派手な看板も、割れたネオンも、店先に散らばった酒瓶も、血と硝煙の匂いも、少しずつ背後へ遠ざかっていく。
代わりに見えてきたのは、何の変哲もない駅前だった。
ロータリーには、乗り捨てられたタクシーが斜めに止まっている。バス停には時刻表だけが残り、電光掲示板は消えていた。コンビニのガラス扉には内側から棚が押しつけられている。ファストフード店の看板は半分だけ明かりを失い、もう営業していないのに、どこか今までの街の形だけを残していた。
人はいない。
少し前までなら、帰宅途中の会社員や学生、酔った客、スマートフォンを見ながら歩く若者で埋まっていたはずの場所だった。
それが今は、風の音だけが広がっている。
遠くで何かが軋む音がした。魔物のものか、壊れた建物が崩れただけか、判別はつかない。
その駅前を、マキトたちは歩いていた。
三人の並びは、普段とは違っていた。
シエルはいつものようにマキトの近くを歩いている。護衛としては正しい位置だ。けれど、その横顔には微妙な苦味がある。口には出さない。出さないが、隠しきれてもいない。
メルシーは、もっと露骨だった。
いつもなら、必要に応じてマキトの影へ潜む。あるいは、気まぐれに横へ並び、文句を言いながらも距離は詰めてくる。
だが今は違う。
彼女はマキトから数歩離れた後ろを歩いていた。
それも、はっきりと距離を取っている。
マキトは振り返った。
「おい、メルシー。影に入れ。目立つだろ」
メルシーは即座に顔を歪めた。
「嫌よ」
迷いがなかった。
マキトは眉を寄せる。
「即答かよ」
「当たり前でしょ。今のあんた、近くにいるだけで鼻がおかしくなるのよ? 影の中なんて入ったら、私までこの匂いに染まりそうじゃない」
彼女は片手で鼻先を押さえた。
「絶対に嫌。何があっても嫌。今の影、絶対に入りたくない場所ランキング一位よ」
「勝手にランキング作るな」
「作らせるだけの匂いをさせてるのは誰よ」
マキトはシエルを見る。
「お前も同意見か?」
シエルは一瞬、視線を泳がせた。
「旦那さま。その……」
「その?」
「メルシーの言い方は、非常に失礼だと思います」
「だろ?」
「ですが、現在の旦那さまの状態については……否定する材料がありません」
「お前まで裏切るのかよ」
シエルは申し訳なさそうに頭を下げる。
「裏切りではありません。事実確認です」
「より悪いわ」
メルシーが後ろで鼻を鳴らした。
「ほら。ペ天使ですら庇いきれないんだから、相当よ」
「命懸けでゴミまみれになってやった男に向かって、その態度か? 少しは感謝しろ。あそこで俺が汚れ役をやらなきゃ、今ごろお前らもまとめて詰んでたぞ」
マキトが言うと、メルシーは一瞬だけ言葉を詰まらせた。
それが事実だということは分かっている。
あの状況で、マキトがゴミ捨て場に潜んでいなければ、相手の意識を外から崩すことはできなかった。
ミオミオの力は想像以上だった。
二人掛かりなら勝てる。多少押されても、最後には押し切れる。
そう甘く見ていた。
だが、結果的には違った。
武器は限界に近づき、二人の攻撃はミオミオを崩しきれなかった。
結果だけ見れば、マキトが彼女たちを救ったのと同じだった。
メルシーはそれを理解している。
理解しているからこそ、不満げに唇を尖らせた。
「それは分かってるわよ」
「じゃあ感謝しろ」
「それとこれは別問題なのよ!」
シエルが小さく頷きかけ、慌てて止まった。
マキトは見逃さない。
「今、頷きかけたな」
「……気のせいです」
「お前、結構顔に出るよな」
「申し訳ありません」
「謝るくらいなら否定しろ」
シエルは黙った。
メルシーが勝ち誇ったように笑う。
「ほら。ペ天使も限界なのよ」
「お前ら、帰ったら覚えてろよ」
「その前に風呂入りなさいよ。文句より匂いを落とす方が先よ」
マキトは舌打ちした。
だが、本気で怒っているわけではなかった。
むしろ、戦闘の熱が少しずつ体から抜けていくのを感じていた。
さっきまで、命を狙われ、銃を向けられ、ゴミ山から飛び出し、相手の武器も倉庫も奪った。
最後まで、殺すつもりでやった。
タクヤの顔。
ミオミオの顔。
怯え、怒り、屈辱、絶望。
全部見た。
そのうえで生かした。
また来るかもしれないから。
また遊べるかもしれないから。
マキトは、そのことを思い出して口元を緩めた。
シエルは、その表情に気づいた。
「旦那さま」
「何だよ」
「楽しそうですね」
「楽しかったからな」
即答だった。
シエルは何も言えなくなる。
メルシーも、軽口を挟まなかった。
駅前の広い空間に、三人の足音だけが響く。
しばらく歩いたところで、シエルが口を開いた。
「旦那さま。今夜はどちらでお休みになりますか?」
マキトは足を止めなかった。
だが、返事もすぐには出なかった。
数秒後、彼は言った。
「……考えてなかったわ」
シエルが目を瞬かせる。
「考えていなかったのですか?」
「迷宮潜って、戦って、いろいろあっただろ。こればっかりは仕方ない」
シエルは少しだけ考え、納得したように息を吐いた。
「……確かに、今日は立て続けでしたね。では、これからどうなさいますか?」
「今決めるから待ってろ」
メルシーが呆れたように肩をすくめる。
「本当にその場その場で生きてるわね、クズ亭主」
「先のことばっか考えてたら、人生つまんねえだろ?」
「それを本気で言うから怖いのよ」
マキトは駅前のビル群を見上げた。
ホテルの方向は分かっている。
以前泊まっていた高級ホテル。今朝、支配人から休業を告げられた場所だ。従業員も宿泊客も、避難所へ向かったはずだった。
避難所へ行くという選択肢も、一瞬だけ頭をよぎった。
だが、シエルとメルシーの姿を考えた時点で却下した。
こんな分かりやすい戦力を二人も連れていけば、絶対に面倒なことになる。防衛に回れだの、弱い連中を助けろだの、ポイントを出せだの、言い出す奴はいくらでもいる。
善意の顔をした要求ほど、断るのが面倒くさい。
今のマキトに必要なのは、避難所での人間関係ではない。
風呂と寝床だった。
「もう面倒くさいし、いつものホテルでいいだろ」
シエルが小さく息を吐いた。
「……やっぱり、そうなりますよね」
「何がだよ」
「あのホテルへ戻ることです。旦那さまなら、そう言うと思っていました」
「なら話が早いな」
「納得したわけではありません。ただ、今から別の安全な場所を探すよりは現実的です」
メルシーが笑った。
「誰も戻らない場所に、いちいち気を遣う必要なんてないでしょ。いっそ私たちの家にしちゃえば?」
「簡単に言うな」
マキトは軽く返す。
「まあ、何か問題が起きたら俺が責任とって払うから大丈夫だろ」
シエルはまだ納得しきれない様子だった。
「ですが――」
「そこ気にするくらいなら、俺の家ぶっ壊した弁償方法でも考えとけよ」
シエルが言葉を失う。
「あ……」
「いや、そこで本気で落ち込むな。軽く言っただけだ」
「申し訳ありません」
「だから、真面目に謝られると俺が悪いみたいになるだろ」
メルシーが横から口を挟む。
「実際、今のはちょっと意地悪だったわよ」
「お前にだけは言われたくねえな」
シエルはまだ気まずそうにしていたが、マキトはそれ以上続けなかった。
家のことを引きずりたいわけではない。
今欲しいのは、風呂と寝床だ。
特に風呂。
マキト自身も、自分の匂いが洒落になっていないことは理解していた。
「とにかくホテルに戻るぞ。そして、まず風呂。そのあと寝る」
「賛成」
メルシーが即答した。
「今日一番まともな判断ね」
「今日一番って何だよ」
「他がひどすぎたのよ」
シエルは小さく息を吐き、二人の後に続いた。
三人は駅前を抜け、ホテルへ向かった。
夜の街は静かだった。
道中、いくつかの魔物の気配はあった。だが、シエルが前に立ち、メルシーが気配を探れば、避けられるものは避けられた。わざわざ戦う必要はない。
マキトも、今は余計な戦闘を求めなかった。
体は疲れている。
服は汚れている。
頬には銃弾がかすった傷もある。
さすがに休むべきだった。
ホテルに着く頃には、周囲は暗くなっていた。
かつては明るく人を迎えていた入口には、シャッターが下りている。ガラスの向こうに見えていたロビーも、今は薄暗い。看板の一部だけが弱々しく光り、建物の巨大さだけが夜の中に残っていた。
マキトはシャッターの前に立つ。
「閉まってるな」
「でしょうね」
メルシーが前へ出た。
「鍵のところだけ壊せばいいでしょ」
シエルが少し顔をしかめる。
「できるだけ破損は少なくしてください」
「はいはい。あんたは細かいわね」
メルシーはハルバートを軽く持ち直した。
巨大な刃でシャッターごと叩き壊すのではなく、石突きに近い部分を鍵穴へ差し込み、器用に捻る。
金属が嫌な音を立てて歪んだ。
派手な破壊音はしない。
鍵の部分だけが壊れた。
マキトは少し意外そうに言う。
「雑にぶっ壊すと思った」
「そんなことしたら風が入るでしょ。せっかく寝る場所にするのに、入口を全開にしてどうするのよ」
「お前、変なところで生活感あるな」
「失礼ね」
シャッターを持ち上げ、三人は中へ入った。
ロビーは無人だった。
広い床。受付カウンター。ソファ。観葉植物。そこに人がいないだけで、空間全体が抜け殻のように見える。
非常灯はついていた。
天井の照明も一部だけ生きている。
シエルが周囲を見回す。
「電気は、まだついていますね」
「なら、鍵も探せるな」
マキトは管理人室へ向かった。
鍵がかかっていたが、今さらそこで止まる三人ではない。メルシーがまた鍵を壊し、マキトが中へ入る。
壁には部屋番号ごとの鍵が並んでいた。
マキトは以前使っていた最上階のスイートルームの番号を探す。
「これか」
鍵を手に取る。
シエルはロビー側を警戒しながらも、わずかに視線を伏せていた。
「旦那さま」
「今度は何だ」
「本当に、あとで支払うつもりはあるのですね?」
「もちろん。ポイントで払えるならな」
「現金ではないのですか?」
「この世界で現金がまだ強いと思うか?」
シエルは返答に困った。
メルシーが笑う。
「今の世界なら、水一本買えるポイントの方が価値あるんじゃない?」
シエルは納得していいのか分からない顔をした。
だが、今はこれ以上言っても仕方がない。
三人はエレベーターへ向かった。
ボタンを押すと、扉が開いた。
まだ動く。
マキトは少しだけ安心した。
「よし」
「途中で止まらないでしょうね?」
メルシーが疑わしげに言う。
マキトは半眼で振り返った。
「なら、お前だけ階段な?」
「は?」
「この世界でエレベーターが信用できねえなら、階段の方が安心だろ。行ってこいよ」
「嫌よ。何で私だけ暗い階段を上らなきゃいけないのよ」
「言い出したのお前だろ」
「疑っただけでしょ!」
「じゃあ黙って乗れ」
メルシーは不満そうに睨んだが、結局エレベーターへ乗り込んだ。
「……止まったら恨むからね」
三人が乗り込む。
エレベーターは静かに上昇した。
表示階数がひとつずつ変わる。
箱の中は妙に狭く感じた。
誰も喋らない。
普段ならメルシーが何かしら文句を言うところだが、今はそれもない。金属の箱が上へ進む音だけが、やけに大きく聞こえた。
エレベーターが最上階へ到着した。
扉が開く。
マキトが先に降りる。続いてシエル、メルシー。
三人が廊下へ出た直後だった。
音が消えた。
照明が一斉に落ちる。
エレベーターの表示も、操作盤の明かりも消えた。空調の低い音が途切れ、ホテル全体が急に息を止めたようになる。
廊下が闇に沈んだ。
シエルは即座に剣へ手を伸ばした。
メルシーも表情を変える。
マキトは天井を見上げた。
「……停電か」
シエルが低く尋ねる。
「復旧は見込めますか?」
「この世界で誰が直しに来るんだよ」
その言葉に、誰も反論できなかった。
メルシーが、閉じたエレベーターの扉を見た。
「……途中で止まらなくてよかったわね」
ぼそりと呟いた声は、いつもより少しだけ低かった。
マキトは小さく息を吐く。
「ほんとにな」
エレベーターは止まった。
最上階にいる。
階段で降りられなくはないが、暗いホテルの中をわざわざ移動するのは面倒だ。何より、風呂が使えなければここまで来た意味がない。
メルシーが数秒黙った。
そして、マキトを見る。
「ちょっと待ちなさいよ、クズ亭主。まさかその酷い匂いのまま、同じ部屋で夜を越すつもりじゃないでしょうね? 無理。ほんと無理。私の尊厳が死ぬわ」
マキトは否定しなかった。
「落ち着け。俺だってこのまま寝る気はねえよ」
「ならどうするのよ」
「こういう時のために、まだ使ってない機能があるだろ」
シエルが気づく。
「領域ですか」
「ああ」
マキトはスマートフォンを取り出した。
ラグオダ2のアプリを開く。
画面の中には、まだ使っていない項目がある。
《領域・体験版》
いつか試すつもりだった。
だが、使いどころを見極めていた。体験版という以上、範囲も機能も制限がある可能性が高い。軽率に使って無駄にするのは避けたかった。
けれど、今は状況が違う。
最上階。
停電。
風呂なし。
そしてマキト自身が、ゴミ捨て場の匂いをまとっている。
背に腹は代えられない。
シエルが言う。
「旦那さま。ここで使用した場合、エレベーターは領域の外になるのではありませんか?」
「だろうな」
「それでは、いざというときに不便です」
「じゃあ下で使うか?」
メルシーが即座に拒否した。
「嫌よ。狭い部屋でペ天使と一緒なんて冗談じゃないわ。どうせ使うなら一番広い場所にしなさいよ」
シエルが眉を寄せる。
「メルシー。優先すべきは安全性です」
「安全ならここも同じでしょ。むしろ最上階なら誰も来ないわよ」
「ですが……」
「領域が使えるなら部屋の中は快適になるんでしょ? だったら問題ないじゃない」
シエルは反論しかけたが、マキトが先に言った。
「決まりだな。ここで使う」
「旦那さま」
「俺も広い部屋がいい」
シエルは小さく息を吐いた。
「……分かりました」
スイートルームの鍵を開ける。
部屋の中は暗い。
窓の外も暗い。
街全体が、黒い海のように沈んでいた。
マキトはアプリの画面を操作する。部屋の間取りをなぞるような表示が浮かび、薄い光が画面上で広がった。
《領域を設定しますか?》
マキトは迷わず押した。
一瞬、空気が変わった。
音ではない。
光でもない。
ただ、見えない線が部屋の外周を走ったような感覚があった。
次の瞬間、照明が戻る。
天井のライトが点き、空調が動き出した。冷蔵庫が小さな駆動音を鳴らす。洗面所の方から、水道管に水が流れる気配がした。
停電したホテルの最上階で、その部屋だけが息を吹き返した。
シエルが安堵する。
「これで、今夜は安全に休めますね」
メルシーも部屋の中を見回した。
「へえ。思ったよりまともじゃない」
マキトはすぐに風呂場の方を見た。
「水も出るよな」
シエルが、少し困ったように瞬きをした。
「まず確認されるのは、そこなのですか?」
「まずそこだろ」
メルシーが冷たい目を向ける。
「ええ。まずそこよ。今のあんたに必要なのは反省でも謝罪でもなく風呂だから」
「酷すぎだろ」
「今日に限っては否定できないでしょ」
マキトは言い返さず、窓の方へ歩いた。
最初は、ホテルだけの停電だと思っていた。
古い設備が落ちたのかもしれない。
誰も管理していない建物なら、電気が止まっても不思議ではない。
だが、窓の外を見た瞬間、その考えは消えた。
街が暗かった。
ホテルの周辺だけではない。
駅前も、ビル群も、道路沿いの店舗も、遠くに見えるマンションの窓も、ほとんど光を失っている。
昨日までなら、夜になっても街は眠らなかった。
看板。
信号。
店の照明。
オフィスの明かり。
マンションの窓。
そういうものが、街の形を夜の中に浮かび上がらせていた。
けれど今は違う。
黒い。
街そのものが、巨大な影に沈んだようだった。
「……ホテルだけじゃねえのか」
マキトが呟いた。
シエルも窓辺へ近づき、息を呑む。
「街全体が……停電しているのですね」
メルシーも赤い瞳を細める。
「そりゃ、そうよね。こんな世界になって、電気だけ今まで通り使えると思ってる方がおかしいわ」
軽く言っているが、その声にもわずかな硬さがあった。
領域の内側だけは明るい。
空調も動いている。
水も出る。
部屋は暖かく、静かで、安全に見える。
だが、窓一枚隔てた外側では、街が死んだように暗く沈んでいた。
その落差が、かえって気味悪かった。
マキトは窓の外を眺めたまま、小さく笑う。
「本格的に終わってきたな」
シエルはその言い方に顔を曇らせる。
「旦那さま」
「分かってる。笑い事じゃないんだろ」
「はい」
「でも、今さらだ」
マキトは暗い街の向こうへ視線を向ける。
街の光が消えたせいで、空だけが妙にはっきり見えた。
星が出ていた。
普段なら、街明かりに埋もれて見えなかったはずの光が、黒い空に散っている。
メルシーが窓辺に立ち、ぽつりと呟いた。
「……星、綺麗ね」
シエルも静かに空を見る。
「本当ですね」
壊れた世界の上に、やけに澄んだ星空だけが広がっていた。
マキトは二人を見る。
「お前でも星を見て綺麗とか言うんだな」
メルシーは即座に振り返る。
「いいから風呂入りなさいよ、臭いのよ」
マキトは肩をすくめた。
「はいはい」
彼は風呂場へ向かった。
扉が閉まる。
水音がしばらくして聞こえ始めた。
広いスイートルームに、シエルとメルシーだけが残された。
二人は同じ窓辺には立たなかった。
シエルは壁の近くに立ち、メルシーは窓側のソファに腰を下ろした。距離がある。いつものことだ。近づけば言い合いになる。
それでも、今夜の沈黙はいつもと少し違っていた。
メルシーが先に口を開いた。
「シエル」
シエルが驚いて顔を上げる。
「……今、私の名前を呼びましたか?」
「いちいち驚かないでよ」
「普段はそのように呼ばれませんので」
「真面目な話をしたいだけよ」
シエルは姿勢を正した。
「分かりました」
メルシーは窓の外を見る。
「今日のクズ亭主、どう思った?」
シエルはすぐには答えなかった。
風呂場から水音が聞こえる。
その音が、かえって沈黙を際立たせた。
やがてシエルは言った。
「怖い方だと思いました」
メルシーは茶化さない。
「どこが?」
「旦那さまは、常に異常な判断をする方ではありません。必要な相手とは普通に話します。支配人の方にも、その他の方にも、無意味に攻撃的ではありませんでした。私たちに対しても、気を使ってくれています」
シエルは自分の手を見る。
「社会の決まりも、善悪も、ある程度は理解していらっしゃいます」
「そうね。分かってない馬鹿じゃないわ」
メルシーが呟く。
シエルは頷いた。
「だからこそ怖いのです。理解しているのに、面白いと感じた瞬間だけ、ためらわずに踏み越える。必要なら泥を被る。必要なら脅す。必要なら相手の心を折る」
あの銃口。
タクヤへ向けた冷たい声。
死ね、と言った時の空気。
そして、なーんてな、と笑った顔。
シエルの胸の奥に、まだその光景が残っていた。
「タクヤ様を生かした理由も、慈悲ではありませんでした。約束を守ったからでもありません。危険がなくなったからでもありません。また来るかもしれないから。もう一度遊べるかもしれないから。旦那さまの“アレ”は、本心からのものだったと思います」
メルシーは否定しなかった。
「……あれは、さすがに私もちょっと引いたわ」
「はい」
「でも」
メルシーは膝の上で指を組んだ。
「銃弾から守った時、少し遅れてたら死んでたのよ」
シエルは黙って聞いている。
「なのにあいつ、私が間に合うことを前提にしてた。私がいるから踏み込める。私が守るから無茶できる。そんな感じで笑ってた」
メルシーの声が少しだけ小さくなる。
「腹立つでしょ。普通に考えたら」
「はい」
「こっちの気も知らないで、勝手に命を賭けるのよ。守る側のことなんて、分かってるようで分かってない」
「はい」
「なのに……」
そこでメルシーは言葉を止めた。
シエルは急かさなかった。
メルシーは顔をそらしたまま、ぼそりと言う。
「悔しいけど、ちょっとだけ、胸が変になった」
シエルがメルシーを見た。
メルシーはすぐに顔を赤くした。
「違うからね!? そういう意味じゃないから! あいつが頭おかしいって話よ! 守る側の気持ちを考えないクズ亭主って話!」
シエルは危険な発言を聞き流すように静かに微笑んだ。
「否定が早すぎます」
「うるさいわね」
「ですが、少し分かります」
メルシーの動きが止まる。
シエルは視線を伏せた。
「旦那さまに必要とされることは、嬉しいのだと思います。たとえ、それが危険な状況であっても」
「……ペ天使も大概ね」
「今はシエルと呼んでいたのでは?」
「うるさい」
少しだけ空気が緩む。
だが、すぐにメルシーは真顔に戻った。
「それで? 怖いなら嫌いになった?」
シエルは答えられなかった。
嫌い。
その言葉を、自分の中で確かめる。
マキトは正しくない。
少なくとも、シエルが信じてきた正しさとは違う。
人を脅す。
奪う。
危険を楽しむ。
相手を生かす理由すら、安全や慈悲ではない。
それなのに、彼の姿をみた瞬間、シエルは安堵した。
撃たれたかもしれない。
死んだかもしれない。
そう思った後に、彼が笑って立っていた。
その姿を見て、心から安心してしまった。
「……なれません」
シエルは静かに答えた。
メルシーは何も言わない。
「怖いです。理解できない部分もあります。正しいとも思えません」
シエルは胸元に手を当てた。
「ですが、旦那さまが戻ってきた時、私は安心しました。あの方が私たちを見て、必要としてくださることを……嬉しいと思ってしまいました」
メルシーは深くため息をついた。
「本当に、趣味悪いわね。私たち」
「はい」
「そこは否定しなさいよ」
「できません」
メルシーは顔をそらす。
シエルもそれ以上は言わなかった。
どちらも、同じ男のことを考えている。
危うい。
怖い。
理解できない。
それでも、目を離せない。
風呂場の扉が開いたのは、その少し後だった。
マキトが出てくる。
ゴミ捨て場の匂いは消えていた。濡れた髪をタオルで乱暴に拭き、軽い部屋着のような格好をしている。普段よりずっと無防備だった。
頬には、銃弾がかすった傷が残っている。
浅い。
だが、確かにそこにある。
シエルとメルシーは、反射的に視線を向け、すぐに目を逸らした。
マキトはその反応を見て、すぐに口元を歪める。
「さては俺の話してたな?」
メルシーが噛みつく。
「してないわよ!」
「その反応はしてただろ」
「してない!」
「じゃあ何で顔赤いんだよ」
「風呂の熱気がここまで来たのよ!」
マキトは風呂場の方を見た。
「扉閉まってたけど」
「細かいこと気にする男は嫌われるわよ」
「お前、誤魔化し方が適当になってるぞ」
メルシーは立ち上がった。
「うるさい! 次、私が入るから! 覗いたら殺すわよ!」
「毎回言ってるな、それ」
「毎回言う必要がある相手だからよ!クズ亭主!」
メルシーは逃げるように風呂場へ向かった。
扉が閉まる。
マキトはその背中を見送った。
「逃げたな」
シエルは何も言わなかった。
ただ、マキトの頬を見ている。
マキトは気づいた。
「何だよ」
「旦那さま。その傷を消毒します。医療用品を購入してください」
「気にすんな。かすり傷だ」
「ダメです」
即答だった。
マキトは少し目を細める。
「そんな強く言うことか?」
「言うことです」
シエルの表情は真剣だった。
いつものように丁寧で、穏やかで、けれど譲らない顔。
マキトはしばらく見返したあと、スマートフォンを取り出した。
「分かったよ」
ショップを開き、医療用品を購入する。
消毒液、ガーゼ、絆創膏。
ポイントは大した額ではない。雑魚を一体倒せば戻る程度だ。
マキトは軽く言う。
「まあ、俺の顔に傷が残ったら、お前らに見捨てられるかもしれねえしな」
シエルは少しも笑わなかった。
「冗談を言っている場合ではありません」
「真面目すぎない?」
「真面目に話してます」
マキトはソファに腰を下ろした。
シエルが近づく。
近い。
消毒液の蓋を開け、ガーゼに染み込ませる。シエルの指がマキトの頬へ触れた。
冷たさと、少しの痛み。
マキトは顔をしかめる。
「染みるな」
「我慢してください」
「容赦ないな」
「必要な処置です」
シエルの青い瞳が近くにある。
傷を確認するために顔を寄せている。それは分かる。分かるのだが、距離が近い。
白い髪が揺れる。
風呂上がりのマキトも軽装だが、シエルもまた、戦闘中とは違っていた。
鎧ではなく、ホテルに備え付けられていた浴衣を身につけている。普段の硬質な印象は薄れ、白い髪と浴衣の襟元のせいで、妙に柔らかく見えた。
マキトは軽口を言おうとした。
惚れ直したか。
顔がいいから見惚れるのも無理はない。
いつもなら、それくらい言えた。
だが、言葉が出なかった。
シエルの目が、あまりにも真剣だったからだ。
心配している。
傷の深さだけではない。
マキト自身が無茶をしたことを、まだ許せていない目だった。
マキトは視線を逸らした。
「……近くね?」
「傷を見るためです」
「いや、それは分かるけどよ」
シエルは処置を続ける。
けれど途中で、ほんの少し手が止まった。
マキトはそれに気づく。
「傷、そんなにひどいか?」
シエルは少し遅れて答えた。
「いえ……傷は浅いです」
「じゃあ何見てんだよ」
「……旦那さまのお顔を」
言ってから、シエルが固まった。
マキトも一瞬、反応が遅れる。
「今、顔って言ったよな?」
「言っておりません」
「言っただろ」
「傷の位置を確認していました」
「今のは無理あるぞ」
シエルの頬が赤くなる。
マキトはそこでさらに茶化そうとした。
だが、なぜか言葉が続かなかった。
シエルの動揺が、いつもの真面目な反応とは違って見えた。
距離が近すぎる。
沈黙が妙に長い。
治療が終わり、シエルが絆創膏を貼る。
「終わりました」
「……おう」
マキトは立ち上がろうとした。
その瞬間、シエルが抱きしめた。
マキトの顔が、柔らかいものに包まれる。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
次に理解する。
シエルの胸だった。
マキトは固まった。
「おい、シエル」
シエルは離れなかった。
腕に力がこもっている。
「怖かったです」
声が震えていた。
マキトは何も言えなくなる。
「旦那さまが撃たれた時、本当に怖かったです」
シエルの言葉は、責めるものではなかった。
怒りでもない。
ただ、恐怖だった。
マキトが死ぬかもしれなかった。
その事実が、今になって彼女の中で形になっている。
「もう、あんな無茶はしないでください」
マキトは答えない。
シエルの腕が少しだけ強くなる。
「お願いします」
マキトは、シエルを突き放せなかった。
ふざけて剥がすこともできた。
いつも通り軽口で流すこともできた。
だが、今のシエルにそれをする気にはなれなかった。
だから、正直に言った。
「それはできねえな」
シエルの体がわずかに強張る。
「できない約束はしない」
冷たい言葉だった。
少なくとも、優しい返事ではない。
マキトは、自分がまた無茶をすると分かっている。
面白いものを見つければ近づく。
勝てると思えば踏み込む。
相手が危険であればあるほど、退屈しない。
その自分を、なかったことにはできない。
シエルは何も言わなかった。
離れもしなかった。
マキトは少しだけ息を吐く。
「でも、まあ……死ぬ気はねえよ」
シエルが顔を上げる。
「本当ですか?」
マキトは視線を逸らした。
「死んだら遊べないだろ」
シエルは呆れたように、けれど少しだけ安心したように目を伏せた。
「……旦那さまらしいです」
「褒めてるか?」
「分かりません」
「分かんねえのかよ」
「ですが、少しだけ安心しました」
その言葉に、マキトは何も返せなかった。
部屋の中は明るい。
外の街は暗い。
領域の内側だけが、切り取られたように安全だった。
その安全な場所で、二人はしばらく動けずにいた。
正確には、シエルがマキトを離さなかった。
胸に顔を押しつけられたまま、マキトは中途半端な姿勢で固まっている。
力ずくで抜け出せないわけではない。
少し身をよじれば、たぶん抜けられる。
だが、耳元で震えているシエルの呼吸を聞いてしまうと、それを雑に振り払う気にはなれなかった。
結果として、マキトは何とも言えない顔のまま、ただ抱きしめられていた。
「……お前、そろそろ離れないと俺が色々まずいんだが」
「もう少しだけです」
即答だった。
普段なら文句の一つも返すところだが、その声がまだ少し震えていたせいで、マキトは口を閉じるしかなかった。
互いの距離。
触れている体温。
言えない言葉。
そして、胸に封じられたまま動けなくなっているマキト。
それだけで、時間の感覚が曖昧になっていた。
メルシーが風呂に入ってから、かなり時間が経っている。
だが、マキトもシエルもそれに気づかなかった。
やがて、風呂場の扉が開く。
湯上がりのメルシーが戻ってきた。
黒い髪は少し湿っている。普段よりも無防備な姿で、頬には湯気の名残がある。
しかし、その赤い瞳はすぐに細くなった。
マキトとシエルの距離が近い。
近すぎる。
シエルは弾かれたように離れた。
顔が赤い。
明らかに動揺している。
「わ、私も入浴してまいります」
そう言うなり、シエルは逃げるように風呂場へ向かった。
扉が閉まる。
メルシーはその扉を見た。
それから、ゆっくりとマキトへ視線を戻す。
「……へえ?」
マキトは嫌な予感を覚えた。
「何だよ」
メルシーの声が少し低くなる。
「浮気?」
マキトは本気で意味が分からない顔をした。
「は?」
メルシーはシエルが逃げ込んだ風呂場の方を見る。
「私が風呂に入ってる間に、ずいぶん仲良くしてたみたいじゃない」
「治療してただけだろ」
メルシーは目を細めた。
「胸で?」
マキトは、言葉に詰まった。




