009
レオンハルトは去りゆく二人の背中を見送りながら、溢れ出る不快感を隠そうともせず、深く苦々しい溜息を吐いた。
「……あのような男が、君の婚約者か」
レオンハルトはクラリスに向き直ると、その瞳に静かな怒りと、痛ましそうな気遣いを宿して言葉を続けた。
「言わせてもらおう、クラリス嬢。いくら重要な賓客とはいえ、公の場で婚約者を置き去りにし、あのような距離感で接するなど不誠実極まりない。あのような男のために、君が自らを押し殺す必要など微塵もない」
その言葉は、レオンハルトのどこまでも真っ直ぐで真摯な優しさだった。
しかし——今のクラリスにとっては、その正論こそが一番鋭く胸を刺す刃だった。
(……やめて……お願いだから、これ以上言わないで……)
「出来損ないのクラリス」にとって、ジュリアンとの婚約だけが「自分はここに居ていいのだ」と思える唯一の足場だったのだ。
たとえ今のジュリアンがヴェロニカに夢中で自分を見ていなくても、その事実を言葉にして突きつけられてしまえば、クラリスの居場所は完全に失われてしまう。
レオンハルトが自分を心配してくれているのは痛いほど分かる。
けれど、今のクラリスにはその真摯な眼差しを受け止める余裕すらなかった。
「……レオンハルト様」
クラリスはぎゅっと握りしめた白手袋の拳を震わせながら、俯いたまま静かに、しかし拒絶を込めて囁いた。
「お気遣いは……感謝いたします。ですが、あの方と私は家同士の契約で結ばれた大切な婚約者同士……それ以上のお言葉は、どうかお控えくださいませ」
「クラリス嬢、私はただ——」
「……失礼いたします」
レオンハルトの言葉を遮るように綺麗なカーテシーを捧げると、クラリスは振り向くことなくバルコニーを後にした。
「クラリス嬢——」
追いかけようと手を伸ばしたレオンハルトだったが、すぐに足を止めざるを得なかった。
クラリスが迷いなく足早に向かったのは、大広間の隅にある重厚な装飾の扉——淑女専用サロンの入口だったからだ。
残されたレオンハルトは、誰もいなくなったバルコニーで、ただじっとその扉を見つめることしかできなかった。
◇
公爵家迎賓館からの帰り道、馬車の中の記憶は殆どなかった。
自室へと戻ったクラリスは、気遣う侍女を「疲れたから」と早々に下がらせ、一人静かにドレスを脱ぎ捨てて薄絹の夜着へと着替えた。
装飾品をすべて外し、ベッドの上で膝を抱え込む。
豪奢な夜会で突きつけられたジュリアンの冷淡な視線と、彼を変えたヴェロニカの妖艶な笑みが、暗闇の中で何度もフラッシュバックして胸を刺した。
その時、閉ざされているはずの部屋の空気が、ふっと歪んだ。
月光の届かない部屋の隅から、前触れもなくアスタの姿がぬっと現れる。
本来なら「淑女の寝室に勝手に入らないで」と怒声を上げたいところだが、どうせ何を言おうと煙に巻かれる未来が見えていたクラリスは、もはや怒る気力すら湧かなかった。
(……もう、夜着を見られるくらいどうでもいいわ……)
深いため息をつき、再び膝に顔をうずめるクラリス。
アスタはそんな彼女の前に空中で腰掛け、どこかおちょくるような、底意地の悪い笑みを浮かべた。
「ククッ……随分とみじめな顔だな、クラリス。まるで世界に捨てられた羽虫のようだ。あの無能な番犬に慰めてもらえばよかったものを」
「……ほっといてくださいませ。私がいま、どれだけ傷ついているか……貴方にはわからないでしょうから」
「ふん。わからんな。人間が己で作り出した妄執に勝手に溺れて苦しむ様など、愚か以外の何物でもない。……だが、そうやって引き篭もられては退屈だ。吐き出してみろ、クラリス。貴様のその小さな胸孔に溜まった泥をな」
思いがけず、どこか促すような声音。
普段から本当の弱音を吐き出せる環境にないクラリスは、この得体の知れない存在に対し、不思議とすうっと心の破片を零してしまう。
「……ジュリアン様の御心を取り戻したいの」
ぽつりと、膝の間から呟く。
「あの人は今、少し迷っていらっしゃるだけ……。私は、ジュリアン様との関係を取り戻したい……っ」
だが、その言葉を聞いたアスタは、冷ややかに、しかし興味深そうに首をかしげた。
「理解できんな、クラリス。あの『ジュリアン』という個体を取り戻したいと? あれほど雑に扱われておきながらか?」
「……貴方にはわからないわ。ジュリアン様は昔、とても優しかったの」
クラリスは顔を上げ、どこかすがるような目でアスタを見つめた。
「顔を上げて、不安なことがあったら何でも話して、と……私にいつも寄り添ってくださったのよ。
両親の愛を知らずに育った私が『自らも子どもを愛せないのではないか』と未来への不安を吐露した時も……『恐れがあるなら、無理に子どもを作る必要はない、二人で穏やかに暮らそう』と……私そのものを慈しんでくださったの」
クラリスは必死に、胸の奥の宝石箱に閉じ込めていた温かな思い出の光を抱きしめた。
「……私という存在そのものを愛してくださったのよ。
……あと、ジュリアン様のことを『個体』って言うのはやめて」
必死に思い出の温もりにすがりつくクラリスを、アスタはただ無感情に見つめていた。
やがて、呆れたような、どこか嘲笑うような溜息が漏れる。
「……ふん。人間の生態など知ったことではないが、つじつまが合わんな」
「……え?」
「我が観察しているかぎり、人間どもは、好ましいと定めた異性に対しては、何よりも優先して己の遺伝子を残そうと躍起になっていたぞ?生殖活動を行い、子孫を残す。それが番を成す生物の根幹の欲求だろう。特に、我の前の観測対象はそのケが強かったぞ」
アスタは小さく肩をすくめ、容赦のない事実を突きつける。
「にもかかわらず、早々に『お前との子は要らない』と宣言した。それは真の慈しみなどではなく、単にお前の血を残す価値がないと判断し、それを『愛』に見せかけた言葉で綺麗に包装して押し付けただけではないのか?」
「――っ……!」
心臓を、冷たい氷の槍で貫かれたような衝撃。
思考が真っ白に染まり、クラリスの息が止まる。
「血の価値を至高とする公国貴族が、お前の子を望むはずがなかろう。
愛されていたのではない。『波風を立てずに処理された』のだよ、愚かなクラリス」




