008
大広間の喧騒を離れ、淡い光を放つ魔導ランプが優しく照らすバルコニーへ出ると、夜風がクラリスの火照った頬を心地よく撫でた。
そこへ、ふたつのグラスを手にしたレオンハルトが現れ、そのひとつをそっと差し出してくる。
「喉が渇いただろう」
「……ありがとうございます」
クラリスは礼を言い、緊張で乾ききっていた喉を潤すべくグラスに口をつけた。
アルテンブルク公国の名産でもあるハーブコーディアルの炭酸水割りだ。
爽やかな香りと繊細な泡が鼻腔を通り抜け、すうっと心が落ち着いていく。
ふと見ると、レオンハルトがグラスを持ったまま、真剣な面持ちで居住まいを正していた。
「クラリス嬢。先日は緊急事態であったとはいえ、君に対してあまりに無礼で非道な真似をした。
聖庁の特務審理官として、そして一人の騎士として、深くお詫び申し上げる」
そう言って、レオンハルトはクラリスの前で深々と頭を下げた。
社交場の軽やかな挨拶とは打って変わった、重々しい真摯な謝罪。
その言葉を聞いた瞬間、クラリスの脳裏に電撃が走った。
(……夢では、なかった……!)
少なくとも、目の前にいるレオンハルトはあの夜の出来事を鮮明に記憶している。
すなわち——絹の夜着の姿を、眼前の男に見られたという事実も。
(……私、あの格好で……!)
昨夜までの「夢だった」という安堵が一気に吹き飛び、激しい羞恥心が怒涛のように押し寄せてくる。
みるみるうちに耳の先端まで真っ赤に染まっていくクラリス。
だが、その赤面と沈黙を「あまりの無礼に対する激怒」だと受け取ったレオンハルトは、さらに表情を硬くし、固い決意を込めた瞳でクラリスを見つめた。
「君の怒りは当然だ。淑女の居室を侵し、…あのような姿を目撃するなど、騎士としての名誉を破棄するに等しい暴挙。
不快であれば、私を叩いていただいても構わない。……どうか、私にできる限りの謝罪の機会を与えてはくれまいか。
聖庁を通じた公式な賠償はもちろん、私個人の財産による補償、さらには……君が望むのであれば、今の職を辞して、この命を賭して君の名誉を守る誓約を立てても良い」
(辞職!?命の誓約!? いえ、そういうことではありませんの!!)
これ以上その話を掘り返されたら、恥ずかしさのあまり本当に倒れてしまいそうだ。
クラリスは必死にポーカーフェイスを取り戻そうと、赤くなった顔のまま手のひらを軽くかざした。
「そ、そのお話はまた後日にいたしましょう!……それよりもレオンハルト様、私にしたいお話しとはその事だけでしょうか?」
これ以上「夜着」の件に触れさせまいと、必死に心を落ち着かせながら問い詰めるクラリス。
レオンハルトは少し拍子抜けしたように瞬きをしたが、すぐに切り替えて真面目な顔つきに戻った。
「……そうだな。まずは私が今、どのような状況にあるのか……今回の職務について話させていただこう」
レオンハルトはグラスに軽く口を付けると、低く落ちついた声で語り始めた。
「事の始まりは、とある地方都市の教会から届いた、異変の報告だった。
大陸中の修道会から毎日のように膨大な報告が集まるが、そのほとんどは単なる誤認や過剰反応だ。……だが、今回はアタリだった」
レオンハルトの金色の瞳が、すっと鋭さを増す。
「新たなウォーロックが誕生したと見て間違いない。ウォーロックは異界の上位者の力を呼び出す都合上、世界の境界を歪め、強力な魔力磁場の痕跡を残す。その足跡を追って、私はここアルテンブルク公国にたどり着いた」
「足跡を追って、公都へ……?」
「ああ。公都に入って調査をしていたら、極めて強力な魔力反応を感じ取った。
……それを追って飛び込んだのが、君の部屋だったというわけだ」
クラリスは息を呑んだ。
どうやら、あの夜、正十二面体の箱を開けた瞬間の魔力が、レオンハルトを呼び寄せてしまったようだ。
「だが、その後三日ほど調査を重ねたものの、ウォーロックの足取りを掴むには至っていない。
そこで公都内でより自由に動くため、アルテンブルクの枢機卿経由で公爵閣下に極秘で事情を明かし、協力を仰いだのだ。その縁で今夜の夜会に招かれ……今に至る」
レオンハルトは語り終えると、クラリスをまっすぐに見つめた。
『——ククッ、大層な儀礼服を纏った聖庁の番犬は、随分と目と耳が不自由なようだな』
暗闇のバルコニーに、低い嘲笑が滑り込んできた。
声のした方角——手すりの上に、アスタがいつの間にか月光を背にして腰掛けていた。
「っ……!? クラリス嬢、お下がりを!」
瞬時にクラリスを背中に庇い、鋭い気配を放つレオンハルト。
金色の瞳が、夜の闇に浮かぶ異質な存在を完璧に捕捉している。
(……あ……っ!)
レオンハルト様だけでなく、アスタ様まで——。
姿を現した白銀の男を見上げた瞬間、クラリスの胸の奥で最後の希望だった「あれは全部夢だった」という言い訳が、脆くも完全に崩れ去った。
あの怒濤の夜の出来事も、そして……自分が薄絹の夜着姿でこの二人と対峙していたという恐ろしい事実も、すべて紛れもない現実だったのだ。
「アスタ様……、本当にいらっしゃったのですね……。しかし、今までどこに……」
羞恥と動揺で声を震わせるクラリス。
アスタは牙を剥く審理官など一瞥もせず、退屈そうに己の爪先を眺めるだけだった。
「我がどこに居ようと、我が勝手。貴様らのような羽虫のあずかり知る領域ではないわ。
……ただ、この退屈な箱庭の澱みを少しばかり眺めていただけのこと」
「澱み……?」
「左様。そこの番犬は『足取りが掴めぬ』などと戯言を抜かしておるようだが、目隠しをして道を歩けば転ぶのは道理。……真実など、己の足元でとっくに腐臭を放っておるというのにの」
レオンハルトは剣柄に手をかけたまま、険しい表情でその抽象的なヒントを反芻する。
「……足元、だと?」
「教えてやる義理などない。問いの答えなど、見る者の器によって変わるもの……貴様ら人間が、己の愚かさゆえにのたうち回る様を鑑賞するのも一興だからな」
クク、と喉を鳴らして嗤うアスタ。
その瞬間、アスタの瞳がふっと細まり、視線が大広間へと通じるガラス扉の方角へ向けられた。
『さて、余興を続けるがよい』
言い終わるや否や、アスタの姿はまるで夜風に溶ける霧のように、一瞬で姿を消した。
レオンハルトが驚愕に目を見開いていると、
「————クラリス。こんなところにいたのかい?」
バルコニーのカーテンを押しのけて、婚約者のジュリアンが姿を現したのだった。
その傍らには、ヴェロニカがしっかりと寄り添っている。
「ジュリアン様……」
ジュリアンはクラリスを一瞥すると、どこか誇らしげで、しかしどこか地に足のついていないような浮ついた微笑みを浮かべた。
「探したよ。ヴェロニカ嬢を各家の当主方にご紹介していてね。……同伴を断った手紙は届いていたろう?婚約者としての君には悪いことをしたが、公爵家の人間としての義務なのだから理解してくれたよね?」
その言葉には、クラリスに対する申し訳なさなど微塵も感じられなかった。
あるのは、ヴェロニカを連れ歩いている優越感と、「理解して当然」という無関心な傲慢さだけだ。
(……以前のジュリアン様なら、こんな風に私を置き去りにするような真似は決してなさらなかったのに……)
ヴェロニカを見るジュリアンの熱を帯びた、どこか酔いしれたような瞳。
クラリスは、彼がヴェロニカの才能と魅力に心酔し、周囲や自分が見えなくなっているのだと悟り、胸の奥が冷たく凍りつくような恐怖を覚えた。
そこへ、冷ややかな、しかし極めて流麗な声が割り込む。
「――ほう。公爵家の義務、ですか」
レオンハルトが、一歩前に踏み出した。
深い紺の式典服に身を包んだ圧倒的な体躯の騎士が放つ威圧感に、ジュリアンが一瞬だけ息を呑む。
「お初にお目にかかる。公爵令息、ですね。私は、第五座枢機卿特命、特務審理官のレオンハルトと申します。……お言葉ですが、公爵家の義務を果たすことが、婚約者であるクラリス嬢のエスコートをしない理由になるとはお聞き及びでないが」
その語調には、一人の淑女を蔑ろにしたジュリアンに対する、騎士としての明確な不快感と侮蔑が滲んでいた。
ジュリアンは一瞬不機嫌そうに眉をひそめたものの、すぐに取り繕うような笑みを浮かべた。
「これは……聖庁の審理官様でしたか。言葉が足りなかったようで申し訳ない。
ですが、クラリスはヴィンセント家の令嬢です。それくらいの分別は持ち合わせていると信じておりますよ。……さあヴェロニカ、次の閣下のもとへ向かおう」
ジュリアンが傍らの美女に視線を送った、その時だった。
レオンハルトの金色の瞳が自分に向けられたことを察知した瞬間、ヴェロニカの雰囲気が一変した。
先ほどまでの艶やかな笑みをすうっと消し込み、気配そのものを削ぎ落とすように、不自然なまでの静寂を纏って身を縮めたのだ。
まるで、優秀な捕食者の視線から隠れようとする蛇のように。
ヴェロニカは一切レオンハルトと目を合わせぬまま、ジュリアンの陰に隠れるようにして、静かにバルコニーを去っていった。




