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007

熱気と豪奢な装飾に満ちた大広間。

貴族たちが溢れるエントランスを抜け、ヴィンセント伯爵一家は主催者のもとへ向かう。


壇上で優雅に微笑んでいたのは、公爵夫人と、その隣に佇む公爵令息(嫡男)であった。

約三〇〇年前の悲劇——帝国が崩壊し、五つの公爵家によって神胤(しんいん)諸公国連合として再編されるきっかけとなった、『大破滅(グランド・ブライト)』。

その時の教訓から、諸公国連合では「濃い血脈を保つ為、当主と嫡男が同一の公の場に同席しない」ことが暗黙の了解として守られている。

今宵、当主である公爵本人が不在なのはその慣例ゆえだ。ヴィンセント伯爵家嫡男たる兄も、今頃は領地で采配を奮っているだろう。


父を先頭に、母、そしてクラリスの順で深々と頭を下げ、挨拶を捧げる。

形式的な祝辞が交わされた後、父は他家の男性貴族たちとの政治談議へ、母は婦人たちのサロンへと姿を消した。


しばらくし、広間の端に取り残されていたクラリスへ公爵夫人が近づき、ふっと周囲に聞こえないほどの密やかな声で語りかけてきた。


「……クラリスさん。ジュリアンの無礼をお詫びするわ。あの子ったら、まさか『重要な賓客のおもてなし』を優先するなんて……」


「滅相もございません、公爵夫人閣下。ジュリアン様のお立場と公爵家のご都合を第一にお考えいただくのが当然でございます」


胸の痛みを押し殺し、完璧な微笑みで応えるクラリス。

ふと視線を会場の壁際へと巡らせると、そこに目指す男、ジュリアンの姿があった。


そしてその傍らには、妖艶な美女——ヴェロニカが寄り添っていた。

周囲の令嬢たちが肘上までの淑女用ロンググローブを着用している中で、ヴェロニカだけは素手のまま、白い指先でジュリアンの腕に優雅に絡みついている。

その指先から官能に揺らがされているかのように、ジュリアンの瞳はどこか焦点が定まらず、恍惚とした光を宿していた。


「……まあ、ご覧になりまして? あの客分の女性……」

「この格式ある大夜会で手袋すら召されぬとは……」

「お優美な仕立てのドレスですけれど、まるで南方の舞姫のようですわ。品位というものをどこへ置き忘れていらしたのかしら」


壁際から聞こえてくる貴婦人たちの潜められた嘲笑とひそひそ話。

本来ならば公爵家の面目に関わるほどのプロトコル違反であるはずなのに、ジュリアンはその異様さに一切気づいていないかのように、誇らしげに彼女を連れ歩いている。


(ジュリアン、様……? どうして……)


クラリスは指先が冷たくなっていくのを感じながら、立ち尽くした。

この五年間、自分に対してはいつだって完璧な距離感と、隙のない礼節を守り続けてくれた人だった。

社交界のマナーや家の面目を誰よりも重んじるはずのジュリアンが、周囲の蔑むような視線すら目に入らないほど、あの女性に心を奪われている。


彼女の素手に添えられたジュリアンの手に、胸がくっと痛む。

正しい礼義と義務の裏に隠されていた、一度も自分に向けられたことのない熱量。

驚きと困惑の隙間から、ドロリとした冷たい嫉妬が胸の奥で渦を巻き、クラリスの呼吸を苦しく乱させた。


その時だった。


「——失礼。ご挨拶をさせていただいてもよろしいでしょうか」


低く、心地よく響く男の声が頭上から降ってきた。

公爵夫人がパッと表情を明るくする。


「まあ! クラリスさん、こちら、今公都にお見えになっている聖庁の重鎮の方で、是非にと今宵お招きしておりましたの。

特務審理官のレオンハルト様ですわ」


声の主へと視線を向けた瞬間、クラリスの思考は完全にフリーズした。


そこに立っていたのは、あまりにも洗練された男だった。

聖庁の最上位聖騎士のみに着用が許される、深い紺地に眩い銀糸の刺繍が施された式典用儀礼服。

隙のない体躯を包むその優美で厳格な出で立ちは、大広間のどの貴族よりも圧倒的な迫力と気品を放っている。

ただ一つ、左の頬から首元へと伸びる一筋の小さな傷痕だけが、彼がただの飾られた貴族ではなく、修羅場をくぐり抜けてきた本物の武官であることを雄弁に物語っていた。


(……あ、あの夜の……審理官様……!?)


目の前で流麗な貴礼を執ってみせる男。

先週の夜中に自室に現れた、無骨な黒衣と大剣を纏った闖入者(ちんにゅうしゃ)と同一人物だとは、到底信じられない。


「初めまして、ご令嬢。聖庁より派遣されました、レオンハルト・ヴァイスと申します」


レオンハルトの金色の瞳が、まっすぐにクラリスを射抜く。

その瞳の奥にわずかな笑みが揺れたのを、クラリスは見逃さなかった。

激しい動揺が胸を襲う。しかし、長年叩き込まれた身体の記憶が、彼女のポーカーフェイスを奇跡的に維持させた。


「……お初にお目にかかります、レオンハルト様。ヴィンセント伯爵家が娘、クラリスと申します。

聖庁の尊き騎士様とお目にかかれ、光栄に存じます」


カーテシーを返すクラリスに、公爵夫人が言葉を添えた。

「レオンハルト様、クラリスさんは我が家の次男・ジュリアンの婚約者なのですのよ」


「ほう……して、その次男殿は?」


申し訳なさを滲ませながら、公爵夫人が続ける。

「あいにく今宵のジュリアンは賓客のお相手で手が離せませんの。

……クラリスさんには、可哀想なことをしてしまいましたわ」


「ふむ……」

レオンハルトすこしの間を置いたあと、クラリスに向き直り、静かにその右手を差し出した。


「——ではクラリス嬢。身の程知らずは承知の上だが、婚約者殿の代わりとして、私に今宵最初のダンスを賜る栄誉をいただけないだろうか?」


大広間の空気が、一瞬で変わった。

聖庁の最高峰とも言える騎士が、血統魔術もまともに使えず、婚約者に取り残されていた伯爵令嬢の手を取ろうとしている。

周囲の貴族たちから、どよめきと羨望の視線が一斉に集まる。


公爵夫人が満足そうに目を細め、クラリスの背中を優しく押した。


「まあ、なんて素敵な申し出でしょう! クラリスさん、今宵はどうぞ楽しんできてくださいね」


「あ……」


拒否する術など、どこにもなかった。

クラリスは微かに息を呑みながら、そっと白手袋に包まれた自身の指先を、レオンハルトの大きな手のひらへと重ねたのだった。


オーケストラが奏でるワルツの旋律が響き渡り、二人は大広間の中央へと滑り出した。


周囲からの羨望と好奇の視線が一斉に注がれる中、クラリスの全身は緊張で固くなっていた。

だが、その身体をリードするレオンハルトの手つきは、驚くほど確かで洗練されていた。


(……なんて、大きい手……)


白手袋越しに伝わってくる熱と、強い力。

背中に回された彼の大きな掌から、引き締まった体躯と武官ならではの逞しさが容赦なく伝わってくる。


(レオンハルト様のせいで注目されているからかしら……。とても、ドキドキするわ……)


クラリスは、息が詰まるような圧迫感と胸の動悸に戸惑いながらステップを踏む。

それが何であるのか——これほど圧倒的な異性の存在感を突きつけられた経験のないクラリスには、知る由もなかった。


「クラリス嬢」


頭上から低く降ってきた声に、はっとして顔を上げた。

目が合った瞬間、クラリスの息が止まる。

レオンハルトの金色の瞳は、彼女を「血統魔術の使えない落ちこぼれ」としても、「婚約者に残された哀れな令嬢」としても見ていない。

ただまっすぐに、一人の人間としてのクラリス・ヴィンセントを捉えている。


「見事な足取りだ。だが……少し肩の力を抜いたらどうだ。

そんなに強張っていては、せっかくのドレスが台無しになる」


「あ……申し訳、ございません。社交の場は、少々……慣れておりませんで」


「詫びる必要はない。ただ、先ほどから君の顔色が優れないように見えたのでな」


優しくも厳格な声音。

ヴィンセント家の令嬢としてふさわしい振る舞いしか求められてこなかったクラリスにとって、己の体調や感情をまっすぐに見つめられるような感覚は、経験したことがなかった。

見下されることもなく、哀れまれることもなく、ただ一人の人間として自分に向かい合ってくれる真摯な瞳。その光の眩しさに、クラリスは胸の奥が切なく疼き、戸惑いを覚える。


ステップが一度切り替わり、二人の距離が再び僅かに近づいた。

レオンハルトは周囲の視線を掠めるように鋭く見回すと、クラリスの耳元へ顔を寄せ、密やかに囁いた。


「周囲の目が鬱陶しいな。……ダンスが終わったら、少しバルコニーで風に当たらないか? 君と静かに話したいことがある」


耳の奥に響くような低い声に、一層跳ね上がる心臓を抑えながらクラリスは答えた。

「……ええ。レオンハルト様がお望みでしたら」


クラリスのささやかな頷きを確認すると、レオンハルトは満足そうに口元を僅かに緩め、最後の優雅な旋律とともに、美しくダンスを締めくくったのだった。


ふん、『大破滅』か。あの喜劇を語れと?


教団は誇らしげに『奢り高ぶった旧帝国に下された神罰』と謳うが……笑わせるな。

真相は、魔力を持たぬ愚かな偽帝が権力欲しさに禁忌の儀式を狂わせ、一夜で帝都ごと悪魔の領域へ沈んだだけの事故だ。


聖庁は自らの無能を覆い隠すため「神の審判」と物語を捏造し、新暦まで作って民を支配した。笑うべきは貴族どもだ。社交シーズンの舞踏会に集っていた当主や跡取りが丸ごと全滅。一夜にして無数の名門が断絶し、何も知らぬ遠縁の子供や庶子が死の混乱を引き継ぐ羽目になった。


『落日の宴』などと恐れ、300年経った今も怯えておきながら、また同じように社交シーズンとやらで着飾って集う。喉元過ぎれば熱さを忘れる愚者どもだ。哀れで、実に愛おしいとは思わないか?

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