006
「お嬢様、おはようございます。朝のお支度の時間でございます」
重厚なカーテンが開かれ、澄んだ朝の光が寝室いっぱいに差し込む。
侍女マーガレットのいつもの声に目を覚ましたクラリスは、ゆっくりと体を起こした。
(……昨夜の、あれは……)
身を起こしたクラリスは、着替えのために控えの間へと向かうべく寝室のドアを開けた。
隣接する書斎兼居室を通り抜ける際、ふと足が止まる。執務机の上に視線を向けると、そこには昨夜と変わらず、あの正十二面体の箱が静かに鎮座していた。
だが、室内には人影もなければ、誰かが潜んでいる気配すら残っていない。
「お嬢様? どうかされましたか? 」
「……いいえ、なんでもありません。少し考え事をしていましたの」
クラリスはマーガレットに向き直った。
姿を消せる、食事も睡眠も不要だと言っていたアスタ。
だが、あれほど圧倒的な存在感を放っていた男が影も形もなく消え去っていると、すべては自分が疲労のあまり見せた「質の悪い夢」だったのではないかと思えてくる。
(そうよ。夜中に突入してきた審理官様に、箱から現れた美麗な……冷静に考えれば、現実であるはずがありませんわね。
……それに、冷静に考えたら、あんな寝巻き姿で、見知らぬ男ふたりと対峙していたなんて……!)
昨夜は怒涛の展開でそれどころではなかったが、改めて思い返すと顔が火が出るほど熱くなる。
そして沸々と怒りが湧き上がり、クラリスはぎゅっとドレスの裾を握りしめたが――
(でも、そう。きっと夢だわ。私ったら、夢の登場人物に怒りを感じるなんて……)
小さく自嘲の笑みをこぼすと、クラリスはいつもの「ヴィンセント伯爵令嬢」の仮面を被り、完璧な日常へと足を踏み出していった。
朝食の席には、厳格な父伯爵と、優雅に紅茶を嗜む母の姿があった。
会話の少ない、冷ややかな家族の食卓。父は昨夜の騒ぎなど知る由もなく、新聞から目を離さないまま重々しい声で問いかけてくる。
「クラリス。来週の公爵家主催の夜会、準備に抜かりはないだろうな。ジュリアン殿のお相手として、ヴィンセント家の恥にならぬよう振る舞いなさい」
「はい、お父様。手配はすべて滞りなく進めております」
淑女らしく可憐に微笑んで答えるクラリス。母も、それが当然であるかのように一瞥をくれただけだ。
午前中は領地の管理書類の点検と、家庭教師を招いての講義。
午後は応接室で、他家からの手紙の精査。
表向きは何の変哲もない平穏な一日。
けれど、頭の片隅には常に、昨日見かけたジュリアンの様子が重くのしかかる。
(いっそ、世界がひっくり返ってしまえばいいのに…。)
叶うはずもない妄想に思考を飛ばし、機械的に作業をこなす身体と、摩耗していく心を分離する。
そうやって、ずっと自分自身を守ってきたのだ。
『答えなど見る者の器によって変わるものだ。』
昨夜のアスタの言葉が、やたらと耳に残っている。
(……アスタ様には、この世界がどう見えているのかしら)
思わず声を出さずに心の中で呼びかけてみたりもしたが、返答は一切ない。
(ふふ……やはり、夢だったのよね)
昨夜の出来事を「夢」として処理できたことで、胸の奥で小さな安堵が広がった。
と、同時に、あの大騒動が幻だったことに対する、拍子抜けのような小さな寂しさを覚えたのも事実だった。
あの理不尽な男の登場が、この息苦しい日常を一瞬だけ忘れさせてくれたのだから。
◇
日の暮れた夜。
入浴を済ませ、居室を通って奥の寝室へと戻ってきたクラリスは、ベッドへと腰を下ろした。
「ふう……今日は少し疲れましたわ」
ぽつりと呟いた言葉は、誰に届くこともなく静かな寝室に消えていく。
表向きはいつもと変わらぬ穏やかな一日だったはずなのに、婚約者や家族との目に見えない距離感に気を張り詰め、精神的な疲労がどっと押し寄せていた。
昨日と同じ就寝前の時間。
どこにも「彼ら」の気配はない。
クラリスは小さく息を吐くと、安らかな心地でシーツをたぐり寄せ、ゆっくりと瞼を閉じるのだった。
◇◇◇
公国都の夜空に、壮麗な「公爵家迎賓館」のシルエットが浮かび上がっていた。
数千の光を放つ魔導ランプとシャンデリアが敷地全体を絢爛に照らし出し、次々と到着する高級馬車の列が、社交界の今期で最も盛大な夜会の幕開けを告げている。
ヴィンセント伯爵家の紋章が刻まれた馬車の車内。
クラリスは膝の上で静かに重ねた手袋の指先に、そっと力をこめた。
馬車の揺れに合わせてきりきりと胃が痛むのは、決して締め付けすぎたドレスのコルセットのせいではない。
(……ジュリアン様)
クラリスは二日前に届いた一通の書簡を思い出していた。
『賓客であるヴェロニカ嬢を公爵家の代表としてエスコートせねばならず、当日の同伴を辞退したい』
そこに記されていたのは、礼儀正しく、しかし婚約者としてのクラリスへの情を一切感じさせない、義務的な文面だった。
自分はここにいていいのだと、誰かに必要とされているのだと思いたかった。
ジュリアンとの婚約は、居心地の悪い伯爵家の中でクラリスが唯一見出した「自分の居場所」だったはずなのに、その足場がすうっと崩れていくような強い焦燥感が胸を締め付ける。
その手紙を提示した際、父伯爵から浴びせられた「相手の心すら繋ぎ止められぬ不肖の娘」という冷酷な叱責が、今も耳奥に残っている。
「クラリス。ヴィンセント家の名に傷をつけるような真似は許さんぞ」
馬車が停車し、扉が開く。父の冷ややかな一言に「承知しております、お父様」と淑女の笑みを返し、クラリスは父の手をとって車外へと足を踏み出した。
ふん、社交シーズンというやつか。
公国議会の開会に合わせて各領地から領主が集まってくるから、ついでにお祭り騒ぎをしよう、という俗物らしい発想だ。
見渡す限り、着飾った愚か者どもが婚姻という名の商談に精を出している。
若き令嬢を商品のごとく陳列し、舞踏会の片隅で品定めだ。昼は庭園を練り歩いて見栄を張り、夜は夜会で腹を探り合う。何とも効率の悪い生殖行動だな。
己の能力の無さを血統や財力で覆い隠そうとする様は、実に滑稽で愛おしいほどだ。
……まあ、退屈しのぎの観察対象としては、これ以上の喜劇もあるまい。




