005
── 遡ること、一刻ほど前。
レオンハルトはここ数ヶ月間、一人の「ウォーロック」の足跡を追い続け、ついにこのアルテンブルク公国の公都へとたどり着いていた。
生まれ持った才能で術を振るうソーサラーでもなく、膨大な知識を修めて理を解き明かすウィザードでもない。
悪異形との契約により、代償と引き換えに破壊をもたらす契約者――それがウォーロックだ。
彼らが支払う代償は時に凄惨を極め、一国を一夜にして滅ぼし得る。
人間社会の平穏を守る宗教団体「一なる創造神の聖庁」において、彼らは即刻討滅すべき絶対の敵であった。
敬愛する教皇の憂いを払うべく、レオンハルトは公都の雑踏の中に潜む不穏な兆候を探っていた。
その手の中に握られているのは、聖庁秘蔵のアーティファクト『天秤の羅針儀』。周囲の魔力の歪みを察知する追跡具だ。
(さすがは公都だ。人口が多い分、雑多な魔力に引きずられるな。少し感度を絞るか……)
そう思考を巡らせた、次の瞬間だった。
手の中の羅針儀が、かつて見たこともない狂乱を見せた。
一瞬まばゆく発光したかと思えば、内部の針が異様な速度で旋回し、ある一方角を突かれたように指し示してピタリと固定されたのだ。
「……何だ、このけたたましい魔力の乱れは……!?」
思考より先に体が動いていた。レオンハルトは夜の公都を、風のように疾走する。
指し示された方角を見上げ、彼は思わず歯を食いしばった。
(この先は……貴族街か!)
胸の奥を重い予感が押し潰す。
ウォーロックの契約には、時として莫大な代償が伴う。
富と権力を持つ貴族こそが、最も恐ろしい代償を支払える危険な存在なのだ。
もし大貴族がウォーロックと組めば、公都が――いや、国が揺らぐ。
悲劇を、食い止めねばならない。
警備兵の目を素早く掠め、壁を走り、羅針儀が指し示す先――伯爵邸の二階角部屋、そのベランダへと飛び込んだのだった。
最悪の事態……公都崩壊の危機すら覚悟して突入したレオンハルトの視線が捉えたのは――。
ランプの明かりの下、シルクの寝巻きに羽織りを重ねただけで、ただただ困惑しきっている小柄な令嬢。
そして、その隣でどこまでも不遜に腕を組み、つまらなそうに自分を見ている、無駄に美しい男だった。
「……あ、あの……?」
クラリスが震える声で尋ねる。
レオンハルトは金色の瞳を光らせ、大剣の柄に手をかけた体勢のまま、絶句して固まった。
あまりにも凄絶なアーティファクトの反応の先にいたのは、恐ろしい異形の怪物でも、邪悪な儀式を執り行う黒ミサの信徒でもなかった。
「……重ねて問いかける。……貴方方はここで、何をなさっていたのですか」
戸惑いを押し殺し、努めて冷静にレオンハルトは令嬢へ問いかけた。
だが、クラリスが答えるより早く、隣の「偉大なるお方」が鼻で笑い、レオンハルトを一瞥した。
「羽虫がベランダから湧いたかと思えば、随分と喧しいな。
我の目覚めを祝福しに来たのなら、まずはその無礼な鉄くずから手を離すことだな。……犬よ」
「……なっ」」
レオンハルトの額に、ピキリと青筋が浮かぶ。
公都の命運を背負うほどの決死の覚悟で飛び込んできた現場で待っていたのは、謎の美形からの煽りだった。
「待ってください! 落ち着いてくださいお二人とも! ここは私の部屋です!お二人とも、お静かに願います!」
少し平静を取り戻したクラリスの凛とした声が、夜の自室に静かに、けれど強く響いた。
クラリスは深く息を吐き出すと、両手を腹の前で重ね、室内を占拠する二人を静かに見回した。
「夜中にこれ以上騒がれては、屋敷の騎士や使用人が押し寄せてまいります。
そうなれば事態は余計に混乱いたしますわ。大剣をお納めください、特務審理官様。
そして『偉大なるお方』も、少しお口を慎んでいただけますか」
その毅然とした立ち振る舞いに、レオンハルトは一瞬言葉を詰まらせた。
大剣の柄からそっと手を離すと、短く咳払いをひとつして、居住まいを正す。
「……失礼した、ご令嬢。だが、私は任務を遂行せねばならない。
私がここへ来たのは、ここを中心に異様な魔力の狂乱が観測されたからだ。
……貴女はこの男と、何らかの異端儀式を行っていたのではないか?」
金色の瞳で射抜くように問うレオンハルト。だが、クラリスの瞳に揺らぎはない。
「いいえ。この部屋をご覧ください。ただの居室です。
あるのは日用品と本日骨董品店で購入した小さな箱だけです。
儀式用の触媒も、魔法陣もございませんわ。
もし私が何かしらの恐ろしい契約を結んだのなら、私の身体や精神にそれ相応の変調や、魔力の痕跡が残るはずではありませんか?
私をお調べになってみてください」
差し出された華奢な手首。
レオンハルトは一瞬躊躇するが、寝間着姿のクラリスを直視しないように気をつけながら、いつの間にか平静を取り戻している『天秤の羅針儀』を彼女にかざした。
しかし、文字盤の針は静かに凪いだままだ。
「……たしかに、異端特有の反応はないな」
「どうぞ、室内もご随意にお確かめください。」
促されるままレオンハルトが室内を目線で丹念に走査するも、歪んだ魔力の残滓や黒ミサの痕跡はどこにも見当たらなかった。
「私も困惑しているのです。整理したいので、先ほどまでにこの部屋で起こった事をお話します。」
クラリスは机の上の正十二面体の箱をそっと指差し、細い指をひとつずつ折りながら語りかけた。
「ひとつ、私は本日、骨董品店でこの箱を購入しました。珍しい仕掛けの施された構造物で興味が湧いたからです。
ふたつ、先ほど、部屋で構造を解き明かし、箱を開きました。
みっつ、そして…、突如としてこの方が目の前に現れたのです。
……つまり、先ほど観測されたとおっしゃる現象は、悪しき契約などではなく『超高度な封印あるいは構造仕掛けが解除された衝撃』と考えるのが最も自然ですわ」
淀みのない言葉と、微動だにしない佇まい。
嘘偽りのないその姿にどこか圧倒されながら、レオンハルトは詰めていた息を静かに吐き出した。
「……現状、貴女が異端の儀式を行った形跡は確認できなかった。
不躾な疑いをかけたこと、深くお詫びする」
「分かっていただけて幸いです」
「だが――」
レオンハルトは急に鋭さを戻した眼光で、壁際に佇む男を睨みつけた。
「構造物? その者が突然現れた? ……にわかに信じがたい事象だが、それが事実であれば、正体不明の不審人物として聴取の必要が出てくる」
「断る。人間の都合など知るか」
美麗な男が、関心なさそうに冷ややかに言い放つ。
ただ対峙しているだけにも関わらず、レオンハルトの首筋を冷たい汗が伝った。
聖庁に所属する聖騎士の中でも、特級の戦力を誇る特務審理官として、幾度となく修羅場をくぐり抜けてきたレオンハルト。
その彼をして、これまでに経験したことのない途方もない「圧」が肌を刺していた。
(……くそっ、何だこの存在感は。今は無闇に事を荒立てるべきではない、か……)
腹を括ったレオンハルトは腕を組み、改めてクラリスへと向き直った。
「……ご令嬢。提案がある。今ここでこの男を強引に連行しようとしても騒動になり、貴女の家にも迷惑がかかるだろう。
そこで、私が個人的にこの事案の監視担当となり、真相が判明するまで定期的に調査する……というのはどうだろうか」
「監視……ですか?」
「ああ。……私に協力していただけないだろうか」
「我が監視される側だと? 笑わせるな」と男は吐き捨てたが、
「…まあ良い。喜劇も久々の興としては悪くない」と、どこか今の状況を楽しんでいるようだ。
クラリスは頭を抱えそうになるのをぐっとこらえ、顔を見合わせる二人を交互に視線で往復させた。
(……夜中に不審者が現れたかと思ったら、今度は聖庁のエリート審理官様……)
「……承知いたしました、レオンハルト審問官様。
改めまして、私はクラリス。クラリス・ヴィンセントと申します」
そう言って、クラリスは優雅に淑女のお辞儀を執ってみせた。
こうして、公爵邸での苦い一日が終わるはずだった夜。
クラリスの自室において、あまりにも奇妙で密やかな「秘密協定」が結ばれたのだった。
「ではクラリス嬢、私はこれで失礼する。また近いうちに調査の進捗確認に伺う」
レオンハルトは礼儀正しく一礼すると、入ってきた時と同じ手慣れた身軽さでベランダの手すりを乗り越え、そのまま夜の闇へと姿を消した。
施錠されていた窓をどうやって通り抜けたのか、突っ込む余裕すらクラリスには残されていなかった。
嵐のような審理官が去り、静けさを取り戻した自室。
ランプの灯りの中に残されたのは、絹の寝巻きに身を包んだ自分と――未だ不遜な笑みを浮かべたまま立つ、圧倒的な美貌の男。
(……どうしましょう、この人。大きな問題が残ったままだわ……)
クラリスはこめかみを押さえ、小さなため息をついた。
父親からの冷たい叱責やジュリアンへの不安で胸を痛めていた数時間前の自分が、どこか遠い昔のように思える。目の前の「理不尽」が大きすぎるのだ。
「……あの、お話し中でお名前をお聞きしそびれていたのですが」
「ふん。特別に名乗ってやろう。アスタでよい。そう呼べ」
「では、アスタ様。貴方は一体何者なのですか? どこの国の方……いえ、そもそも本当に人間なのですか? あの箱にどれほどの間入っておられたのですか?」
矢継ぎ早の質問に、アスタは楽しそうに目を細め、机の端にすっと腰掛けた。
「我は何者か、か。……そうだな。ある者にとっては『天災』であり、ある者にとっては『導き手』。またある者にとっては『世界の理そのもの』とでも言っておこうか」
「……どれも抽象的すぎて、さっぱり分かりませんわ」
「ククッ、答えなど見る者の器によって変わるものだ。貴様が我が何者であるかを知るには、まだ少し時が早すぎる」
煙に巻くような言い回しに、クラリスは呆れ顔を隠そうともしない。
だが、ふと現実的な疑問が頭をよぎった。
「……はぁ。ところでアスタ様。これからどうされるおつもりですか? 寝床もお食事も、用意がございませんけれど」
伯爵邸の令嬢の自室に、見知らぬ男性を寝泊まりさせるなど前代未聞だ。
明日になれば侍女のマーガレットが朝の着替えにやってくる。
しかし、アスタは底知れない笑みを深めるだけだった。
「睡眠だと? 食事だと? 貴様は我がそのような肉体の枷に縛られているように見えるのか?」
「え……?」
「我に睡眠など不要。食事もまた、人間の娯楽に過ぎん。……それに」
アスタが指先を軽く鳴らした、その瞬間。
すっ、と彼の姿が輪郭から透け始め、次の瞬間にはランプの光が彼の立っていた場所をただ照らすだけになった。
「――ッ!? 消えた……!?」
「消えてなどおらん。我が意志ひとつで、人間の愚かな眼球に姿を映さぬようにしているだけだ」
声だけが、すぐ耳元から聞こえる。
クラリスが驚いて振り返ると、空間がゆらりと揺らめき、再びアスタが何事もなかったかのようにそこに佇んでいた。
「我はただ、気が向いた時に貴様の傍らでこの世界の移ろいを楽しませてもらう」
「まあ……! 便利と言えば便利ですけれど……」
姿を見せるか見せないかも自在、食事も睡眠も不要。
突如現れたこの男は、人間の常識や世界の理の範疇に収まる存在ではないのだと、クラリスは疲弊した脳みそでぼんやりと理解した。
今のところこちらに害意や攻撃性はないようだし、とりあえず静観するしかないか、と早々に諦観する。
アスタは満足そうに顎をしゃくると、
「さあ、小娘。騒々しい夜も終わりだ。貴様はさっさと眠るが良い。我が退屈せぬよう、明日からもせいぜい励むのだぞ」
と言葉を残し、今度こそフッ……と空間に溶け込むように姿を消した。
「……言われなくても休ませていただきますわ。今日は本当に、お腹いっぱいですから」
クラリスは深い深呼吸を一つ吐くと、ベッドルームへの扉に手をかけた。
いつもより少し早くベッドに潜り込み、
(……明日から私の生活、一体どうなってしまうのかしら……)
疲れ果てたクラリスの意識は、混乱とほんの少しの滑稽さを抱えたまま、ゆっくりとまどろみの中へと落ちていった。
ふむ、趣のない小娘の部屋よりも、ここの方が幾ばくかは居心地がよさそうだな。
ここでしばらく土くれどもの遊戯を観賞するか。




