004
ガタゴトと響いていた馬車の振動が止まり、伯爵邸の玄関前で静かに止まった。
出迎えた執事に軽く目礼を交わすと、クラリスはそのまま自室へと向かった。
まずは重厚な外出着を脱ぎ、室内用の軽やかなドレスへと着替えるためだ。
マーガレットの手際よい手つきによって髪がほどかれ、幾重ものコルセットの締め付けから解放されると、クラリスは小さく息を吐き出した。
身支度を整え、少しだけ顔色を取り戻したところで、クラリスは父である伯爵の執務室へと向かう。
マーガレットが先行して作成した報告書を手に持ち、ドアをノックした。
「失礼いたします、お父様。ただいま戻りました」
重厚な執務机の向こうで、書類から目を上げた父親の視線は冷ややかだった。
報告書を受け取り、目を通す父親の眉間に深い皺が寄る。
「……ジュリアン卿がどこぞの客分に傾倒し、お前への配慮を欠いていた、か」
「……申し訳ございません」
「謝罪など求めておらん。ただ、公爵邸での主導権を他家の女に奪われては我が家の面目丸つぶれだ。……次はもう少し上手く立ち回りなさい」
労いの言葉一つなく吐き捨てられた落胆と叱責。
「……承知いたしました」
冷えていく心を抱えながら、深く頭を下げ、執務室を辞した。
そのまま形式ばかりの静かな夕食を済ませ、夜の帳がすっかり降りた頃。
お風呂を済ませ、寝巻きの上に羽織りを重ねたクラリスは、侍女も下げ、ようやく誰の目も気にしなくてよい自室の執務机の前に座っていた。
部屋の明かりは、机の上に置かれた一台のランプのみ。
クラリスは、骨董品店から持ち帰った布包みを丁寧にほどいた。
現れたのは、あかりの光を浴びてしっとりと光を反射する、美しい正十二面体の箱。
昼間は手袋越しだったその表面に、クラリスはそっと素肌の指先を滑らせた。
「……冷たい」
金属のひんやりとした手応えと、木肌の吸い付くような滑らかさ。
昼間の馬車内での緊張、父親からの冷酷な視線、そしてジュリアンへの切ない不安――それらすべてが、指先から伝わるこの無機質で完璧な立方体に触れている間だけは、どこか遠い出来事のように薄らいでいく。
(……交点と頂点。ここを押し込むだけじゃ駄目……全体のバランスを均等にずらしていくのね)
誰にも邪魔されない夜の静寂の中、クラリスはランプの光を浴びながら、密やかな探究心に瞳を輝かせ、正十二面体のパズルへと没頭し始めた。
これまで幾人もの学者が挑み、単なる「解けない立方体の玩具」として放り出されてきた歴史など、今のクラリスは知る由もない。
クラリスが無意識のうちに――まるでその箱の『波長』に導かれるように――細い指先で幾何学模様のラインを滑らせ、頂点をわずかに捻った、その瞬間。
カチリ
密やかな金属音が響き、完璧な調和を保っていた十二面体の継ぎ目が、滑らかに押し広げられる。
その開口部から、この世界の理では決して観測することのできない高次の「波」が、まるで静かな衝撃波となって全方位へと解き放たれたが、当然クラリスがそれに気づくはずもなかった。
クラリスは息を飲んで箱の中を覗き込む。
「……あら?」
箱の中身は空っぽだった。
何重もの仕掛けを解いた先に待っていたのが、ただの空間。
「……何もない……の?」
拍子抜けして肩の力を抜いた、その時だった。
『――箱を開けたのはお前か』
「ッ!?」
頭の中に直接響いてくるような、低く重厚な声。
誰もいないはずの自室に響いた謎の言葉に、クラリスの背筋に冷たいものが走る。
「……ふむ」
ランプの灯りが不自然に引き引き伸ばされ、影が生き物のように蠢いた。
空間そのものが油絵の具を溶かしたようにゆらりと歪んだかと思うと、その中心から何かが密度を増して形作られていく。
あまりの異常事態に息を呑み、クラリスは動けなかった。
次の瞬間、空間の歪みが収束すると同時に、中から一人の男が唐突に姿を現した。
月光をそのまま紡ぎ出したかのような、美しく輝く白銀の髪。
古代の王を思わせる高貴で圧倒的な美麗さを誇る男の姿に、クラリスの視線は吸い寄せられ、釘付けになる。
男は自身の美貌を惜しげもなく晒したまま、自身の指先を確かめるように軽く曲げ伸ばし――そして、じっと自分を見つめるクラリスの視線に気づいたように、不遜な笑みを深めた。
「……これで視覚の同期も完了したか。愚鈍な人間の眼球にも、我が認識できているようだな」
あまりの出来事に、クラリスは声を出すことすら忘れ、開いた口が塞がらない。
「ん?……我のあまりの偉大さに声も出ぬか?」
男は片方の眉をくいと上げると、その恐ろしいまでに美しい口元を皮肉げに歪めた。
「まあ良い。特別に、貴様に我へ名乗らせる栄誉を与えよう。……さあ、名乗るが良い」
腰に手を当て、どこまでも偉そうに胸を張る男。
あまりにも堂々とした不審者の登場に、クラリスの驚愕は一周回って、パニックと困惑へと変わっていくのだった。
「えーと……」
クラリスの口から漏れたのは、令嬢らしからぬ間の抜けた声だった。
深夜の自室。施錠された扉。逃げ場のない室内に佇む謎の美男子。
不審者以外の何者でもないはずなのに、男から漂う空気はどこかの国の王どころか、神々しさすら感じさせる。
しかし、発している言葉はあまりにも不遜だ。
「……あ、あの」
「む?」
「ど、どちら様……でしょうか……? どちらから入られたのですか……?」
恐る恐る尋ねるクラリスに、男は信じられないものを見るような目を向け、大袈裟にため息をついた。
「どちらから、だと? 貴様が今その手で解き明かした箱の中に決まっているだろう。
眠りから我を醒まさせし者よ、まずは拝謁の礼をとるのが筋というものではないか?」
「えっ、この小さな箱の中に……? ですか?」
クラリスは手元にある、大人の手に収まる程度の正十二面体の箱と、目の前の背の高い男を交互に見比べた。
物理的にどう考えても入るわけがない。
「……おかしな方。疲れすぎて、幻覚でも見ているのかしら……」
「幻覚だと!?」
男の美しい顔が、分かりやすく不快感に歪む。
「無礼な、良いか小娘、我が名は――」
「あ、私はクラリスと申します。クラリス・ヴィンセントです」
「……」
偉そうに名乗りを上げようとした男の言葉を遮るように、クラリスは丁寧にお辞儀をした。
幼い頃から叩き込まれた挨拶が、パニックのあまり勝手に口から飛び出してしまったのだ。
不意を突かれた男は、掲げかけた手を宙で止めたままにクラリスを見下ろした。
「……クラリス、か」
「はい。あの……それで、ええと……様?」
「ふん、そうだな、今の貴様には『偉大なるお方』とでも呼ばせておこう」
「はい……? 『偉大なるお方』様……?」
「『様』は余計だ!」
「は、はい! 偉大なるお方!」
思わず背筋をピンと伸ばして返事をしてしまい、クラリスは(私、なんでこの不審者の指示に従っているのかしら……)と正気に戻りかけた。
しかし、目の前の男はどこか満足そうに頷くと、腕を組んで自室を見回し始めた。
「ふむ……少し狭く、調度品も洗練を欠くが……まあ良い。
久々の目覚めに免じ、当面はこの我が貴様の主となり、導いてやるとしよう」
「主……!? いえ、あの、私は伯爵家の令嬢で、婚約者もおりますので、主とかはちょっと……」
「却下だ。決定事項である」
取り付く島もない。
あまりにも堂々とした態度と、無駄に眩しい美貌、そして圧倒的な自信。
公爵邸での苦い思い出やジュリアンへの不安で冷え切っていたクラリスの頭の中は、突如現れた「自称・偉大なるお方」の理不尽なペースによって、完全に上書きされつつあった。
理不尽さにクラリスが頭を抱えかけた、まさにその時だった。
カツン、とベランダの細い手すりを硬い靴底が叩く音が響いた。
「そこまでだ!」
夜風とともにレースのカーテンが大きく翻り、施錠されていたはずのベランダの窓から、一人の男が躍り込んできた。
揃えられた黒髪に、暗闇の中でも爛々と輝く金色の鷹の目。
左頬から首元へと伸びる小さな傷痕が、厳つい面構えをより一層鋭く引き締めている。
漆黒のロングコートの胸元には、聖庁の権威を示す紋章が刻まれていた。
腰に下げられた武骨な大剣と、ジャラリと不穏な音を立てる拘束用の鎖。
あまりにも場違いな武闘派の乱入に、クラリスは今度こそ悲鳴すら出なくなった。
(な、なに!? 今度はベランダから……聖庁?の人が!?)
躍り込んできた男は、手のひらの中の羅針儀を握りしめたまま、鋭い視線を二人へ向けた。
「第五座枢機卿特命、特務審理官レオンハルト・ヴァイスだ。
……両者動くな。異端行使の疑いがある。状況を説明してもらおう」
荒い息を整えながらも、その口調にはエリート審問官らしい整然とした毅然さが宿っていた。




