003
ガタゴトと規則正しく揺れる馬車の室内には、重苦しい沈黙だけが満ちていた。
クラリスは窓の外へ視線を投げたまま、すっと固まっている。
膝の上で重ねた指先は、公爵邸を出てなお、凍りついたように冷たいままだ。
向かいの席には、お茶会の最中も部屋の壁際に気配を消して静かに控えていた侍女のマーガレットが座っている。
彼女はクラリスがどれほど惨めな扱いを受け、ショックで立ち尽くしていたかも、そのすべてを至近距離で目撃していたはずだった。
けれど、マーガレットの顔には悲壮感も、クラリスへの同情も、あるいは苛立ちすら浮かんでいない。
彼女にとってクラリスは心を寄せる主人ではなく、あくまで「伯爵から任された管理対象」でしかないのだから。
「――クラリス様」
静寂を破ったのは、マーガレットの起伏のない、どこまでも平坦な声だった。
「お召し物に皺が寄ります。お背中をお伸ばしください」
「……あ」
ハッと息を呑み、クラリスは小さく背筋を伸ばした。
「ごめんなさい、マーガレット」
「謝罪は不要でございます」
それ以上追及することもなく、マーガレットは無駄のない所作で手帳を開き、
胸元から取り出した銀の軸で挟まれたペンシルで、手元で淡々と文字を滑らせ始めた。
厳しく叱るわけでも、慰めるわけでもない。ただ職務として『報告書』を作成しているだけの仕草。
「本日公爵邸で起きた一連の出来事につきまして、帰邸後に閣下へご報告いたします。少々事実確認をよろしいでしょうか」
「……ええ。なんでしょう」
「ジュリアン様がお連れになった客分――ヴェロニカ嬢についてです。
あの方の言動、およびジュリアン様の傾倒ぶり。
閣下へは『ジュリアン様が客分に深く傾倒し、婚約者であるクラリス様へのご配慮を欠いている状態』とそのままお伝えしてよろしいでしょうか」
「……」
感情の籠もらない淡々とした問いかけ。
マーガレットは同情や苛立ちから言っているのではない。
ただ伯爵へ正確な報告を届けるため、機械的に事実の確認をしているだけだ。
「……ええ。間違いではないわ」
「畏まりました。では、そのように記載いたします」
マーガレットは静かに頷くと、再び手帳へ視線を落とし、カリカリとペンを滑らせる作業に戻った。
「契約がございますゆえ、婚姻そのものが破談になることはございません。
……ですが、ジュリアン様のお心が完全にあの女へ移り、公爵邸での立場や主導権を握られては、伯爵家としても不都合が生じます。
次回からは少しお気をつけください」
どこまでも人事のように添えられた一言。
自分は伯爵家の利益のために公爵家へ送り込まれる、無機質な駒でしかないのだと、クラリスは改めて実感する。
自分を温かく受け入れてくれる居場所などどこにもない。
魔力が薄く、周囲から正当に評価されることのなかった自分を「婚約者」として迎えてくれたジュリアンだけが、人との繋がりにおいて唯一の救いであり、心の拠り所だった。
(ジュリアン様……私を置いていかないで……)
冷たくなった指先を強く握り締めながら、クラリスはただ、すがるように心の中で乞うことしかできなかった。
一通りのメモを書き終えると、マーガレットは静かな所作で手帳をパタンと閉じた。
そのままちらりと窓の外の太陽を仰ぎ、わずかに肩の力を抜く。
「……ふぅ。まだ陽も高いようでございますね」
「え……?」
「このままの青ざめたお顔で帰邸されては、伯爵閣下に余計なご懸念を抱かせてしまいます。
私の管理不足を問われるのも本意ではございません。……クラリス様、少々寄り道をなさいますか?」
どこまでも自分の職務を円滑にこなすための提案。
けれど、そこにほんの少しだけ含まれた「やれやれ」という雰囲気の気遣いに、クラリスは小さく息を吐き出した。
「そうね……ありがとう、マーガレット」
「礼には及びません。……では、この先の区画で馬車を止めさせましょう。
気分転換になるようなお買い物をなさるとよろしいかと」
馬車を降りた二人が足を踏み入れたのは、格式あるショップが並ぶ静かな街並みだった。
普段なら流行のドレスショップや高級な紅茶商、あるいは装飾品店へ立ち寄るところだったが、ふとクラリスの足が止まる。
「あら……こんなところに、お店があったかしら」
街角の少し奥まった場所に佇んでいたのは、古びた、けれど重厚な木造りの店構えをした骨董品店だった。
ショーウィンドウには、年代物の天球儀や古い羊皮紙の書物、繊細な銀細工の燭台などが整然と並べられている。
貴族の令嬢が訪れる場所としては少々マニアックかもしれない。
けれど、日頃から独学で魔術や古典の勉強に勤しんでいるクラリスにとって、その店の放つ独特の知的な静けさは、今の荒んだ心に不思議としっくり馴染んだ。
「珍しいですね。……怪しい露店というわけでもなさそうですし、中をご覧になりますか?」
マーガレットも一通り店構えを視認し、伯爵令嬢が入るに耐えうる格式があると判断したようだ。
「ええ、入ってみましょう」
ドアを押し開けると、小さなベルが澄んだ音を鳴らした。
店内は、古い紙と乾燥した木材、そしてかすかな香辛料の香りが混ざり合った独特の空気に満ちている。
乱雑に見えて計算し尽くされた棚の隙間をぬって奧へ進むと、クラリスの視線はある一つの棚に吸い寄せられた。
ベルベットの布の上に、ぽつんと置かれた小さな物体。
正十二面体――整った十二の五角形が組み合わさった、美しい幾何学構造の箱だった。
金属のようであり、木のようでもある不思議な質感の表面には、緻密で見たこともない細密な装飾が彫り込まれている。
「これは……」
吸い寄せられるように、クラリスはその正十二面体の箱へと手を伸ばした。
「……美しい箱ですね」
後ろに控えていたマーガレットが、クラリスの手元を静かに覗き込んだ。
正十二面体の箱は、クラリスの両手にすっぽりと収まるほどの小ぶりなサイズだった。
革の手袋を嵌めた指先からでも、重厚な金属の冷たさと、滑らかな木肌の柔らかさが合わさった不思議な手応えが伝わってくる。
表面に刻まれた繊細な幾何学模様は、ただの意匠というにはあまりにも規則的で、まるで何かの数式や陣図をそのまま立体に起こしたかのようだ。
「お目が高いですね、お嬢様」
奥のカウンターから現れたのは、眼鏡を鼻先に乗せた小柄な老店主だった。
彼はクラリスの手元にある箱を愛おしそうに見つめ、静かな微笑みを浮かべた。
「それは他国の古い学術都市から流れてきた品でしてね。
古代の学者や魔術師が作っただの、世界の構造を模したものだのと色々と言われておりますが……
ふふ、実際のところはどうなんでしょうねぇ。
ですがね、そういうロマンに惹かれて買い取ったものですよ。
ご覧の通り正十二面体、実に完璧な調和を持つ形でしょう?」
「世界の構造……」
「ええ。ただ、店主の私ですら『開け方』が解らぬ代物でして。
鍵穴も継ぎ目も見当たらず、仕掛け箱のようにも思えますが……
あるいはただの美しく堅牢な飾箱かもしれませんな」
鍵穴のない、完璧な十二面体。
店主の言葉に、クラリスの胸の奥で何かがかすかに琴線に触れた。
日々、孤独の中で貪るように読み込んできた古典書物や魔術の理論。
魔力そのものは薄くとも、複雑な構造や理屈を解き明かすことにおいて、クラリスの知性は人一倍研ぎ澄まされていたのだ。
「お開けになれない……のですか?」
「ええ。どの面をどう押し引きしてもビクともしません。ですから、ただの美術品として手頃なお値段で置いていたのですが……」
クラリスが指先で箱の頂点と幾何学模様の交点をそっと撫でると、かすかに、本当にごくかすかに内部でカチリと小さな金属が噛み合うような感触が手に伝わった。
(……これ、仕掛けがあるわ。きっと緻密な細工が仕掛けられているんだわ。)
誰かに評価されることもなく、誰かに褒められることもない、クラリスだけの密やかな学びの時間。
ヴェロニカのように華やかな魔術の才能はなくても、この緻密な構造を読み解く知識と集中力なら、自分の中に確かにある。
公爵邸で傷つき、冷え切っていた心が、小さな知的好奇心の灯火によってじわじわと温められていく。
「マーガレット。私、これが欲しいわ」
「かしこまりました」
マーガレットは箱の素性と価格を素早く精査すると、異論を挟むことなく静かに革財布を取り出した。
「お買い上げ、ありがとうございます。……その箱が、お嬢様のよきお相手になるとよろしいですな」
店主から丁寧に布で包まれた箱を受け取り、二人は静かな骨董品店を後にした。
再び乗り込んだ馬車の中。
膝の上に置かれた小さなパッケージを慈しむように触れながら、クラリスは窓の外を見つめた。
胸の奥に渦巻いていた不安と悲しみは、今はその神秘的な箱への密やかな期待によって、少しだけ和らいでいた。




