002
規則的に並ぶ白い列柱をすり抜ける風を感じながら、クラリスはどこかそわそわとする心を落ち着かせようと、侍女を伴いながらゆっくりと公爵邸の回廊を歩いていた。
すれ違う使用人たちの視線が、どこか気まずそうに泳いでいるように感じる。
……自分の卑屈さが見せる幻影だろうか、と小さくかぶりを振る。
夫人の待つサロンへ案内される途中の廊下。
ふと、大きく取られたアーチ窓から見下ろせる中庭のテラスへ目をやった。
そこには、ジュリアンがいた。
――いたのだが。
(……ジュリアン……様……?)
息が止まった。
そこにいたのは、自分には一度も見せたことがないような、甘やかな恍惚に満ちた表情でひとりの美しい女性を見つめる男の姿だった。
ジュリアンは慈しむように女性の指先を握り締め、甲斐甲斐しくお茶や菓子を勧めている。
――ピキリ、と。
身体の奥で、何かが歪んで軋む音がした。
立ち尽くしそうになる脚を必死に動かし、衝撃に打ち震える心を殺して夫人のサロンへと足を踏み入れる。
豪奢なサロンにいたのは、公爵夫人ひとりであった。
案内されるまま、部屋の中央にある豪華な長椅子の対面、主客のために置かれた一脚の肘掛け椅子へと腰を下ろす。
上滑りするような儀礼的な挨拶と、差し支えのない雑談。
クラリスが必死に平静を装っていると、夫人は薄い磁器のカップを置き、ふと溜息を漏らした。
「実のところ、最近は当家に大事な『賓客』をお招きしていてね。
ジュリアンにはその対応を任せているのですけれど……少し羽目を外しすぎているようで頭が痛いわ」
(賓客……? もしかして、先ほどのお方……?)
胸の奥が、焼けるように痛む。
クラリスは乾いた唇を動かし、努めて穏やかな声を絞り出した。
「まあ……どのようなお方なのですか?」
クラリスの質問に対し、公爵夫人にしては珍しく、少々言葉を選びあぐねるような、重い一拍の間が空く。
夫人が重い口を開きかけた――まさに、その時だった。
コンコン、と控えめながら洗練されたノックの音がサロンの重厚な扉を叩いた。
控えていた老執事が一歩前へ出で、扉をわずかに開けて外の召使いと短く言葉を交わす。
すぐさま向き直った執事は、公爵夫人へ向けて深々と頭を下げた。
「奥様。ジュリアン様が、ご滞在中のヴェロニカ様をお伴の上、ご挨拶にお見えでございます」
公爵夫人はわずかに眉をひそめたが、優雅に手首を傾けて入室を許可した。
「通しなさい」
執事が重厚な両開きの扉を静かに押し開ける。
現れたのは、先ほどテラスで見かけたと思われる女性を伴った、ジュリアンだった。
「久しぶりだね、クラリス。元気そうでなによりだ」
あまりにもいつも通りの、爽やかな笑み。
ジュリアンはクラリスへ形式的な挨拶を済ませると、すぐさま隣の女性を引き寄せた。
「紹介しよう。彼女は大学から特別な推薦状を受けて当家に滞在している、ヴェロニカ嬢だ。
大学が保証するほどの、素晴らしい才能の持ち主でね」
誇らしげに語るジュリアンの横で、ヴェロニカと呼ばれた女性はドレスの裾を優雅に持ち上げ、淑女の礼を披露した。
相手に悟られぬよう、けれど手短に、クラリスはその姿を観察する。
夜の闇を溶かし込んだかのような、艶やかな黒髪のストレート。
一見すれば修道女を思わせる貞淑な黒衣だが、仕立てはどこか南方の装束を思わせ、身体の柔らかな起伏を隠そうともしない。
同じ女性の目から見ても、息をのむほどエキゾチックな色気が漂っていた。
そして――何よりもこの部屋で異彩を放っていたのは、彼女の手にグローブが嵌められていないことだった。
室内であっても高貴な女性は白い絹の手袋を着用し、安易に肌を晒さぬこと。
それこそが、古風で堅牢なるアルテンブルク公国において『高潔さ』を示す不変のプロトコルだった。
他国でどれほど形骸化していようと、この歴史ある公爵邸で破る者などいるはずもない。
……だからこそ、さっき中庭で目にした光景が、鮮烈な苦痛となって脳裏に蘇る。
テラスでジュリアンは、彼女の瑞々しい素手を惜しみなく包み込んでいた。
クラリスに対しては、いつだって正しく手袋を嵌めたまま礼を尽くしていたジュリアンが。
思考の渦に呑まれかけ、思わず視線を彷徨わせていたクラリスの耳に、妖艶さを秘めた美しい声が届く。
「お目にかかれて光栄ですわ、クラリス様。ジュリアン様からはよく貴女のお話を伺っておりますの。『とても可愛らしく、おとなしいお方だ』と」
(ジュリアン様が、私の話をこの女性に……?)
「可愛らしい=幼く、何の値打ちもない」という暗黙の蔑みを孕んだ言葉。
クラリスが固まっていると、ジュリアンは彼女のショックなど目に入らない様子で熱っぽく言葉を重ねた。
「我がローゼンベルク家の今後の発展にも、彼女の存在は不可欠でね。クラリス、君も彼女から色々と学ぶといい」
その瞬間。公爵夫人の扇が、パチンと不穏な音を立てて閉じられた。
「……ジュリアン。言葉を慎みなさい。客人へ注ぐ熱意の半分でも、弁えねばならぬ格式に向けたらどうなのです」
氷のように冷ややかな夫人の制止に、美麗な眉を困ったように寄せながらジュリアンは言った。
「申し訳ございません、母上。クラリスも。……立ち話もなんだ、座ろうか。ヴェロニカ嬢もどうぞ」
そう言ってジュリアンはごく自然にヴェロニカの手を取ると、母である夫人が座る大きな長椅子へと彼女を優雅に誘い、そのまま吸い寄せられるようにその隣へ腰を下ろした。
――本来ならば、婚約者であるクラリスの側へ歩み寄るべき場面で。
公爵夫人の眉根が、ごくわずかに不快感で跳ねる。
手袋すら嵌めぬ異国の客分を持ち上げて未来の正妻を格下に置いた愚かさ。
さらには主母の隣という最も格式高い上座へ当然のように収まった図々しさ。
公爵家の主母として感情を露わにする真似こそしないものの、夫人の瞳には冷ややかな温度が宿り、扇を握る指先に力が込められていた。
そしてクラリスの視界に映し出されたのは、あまりにも滑稽で、残酷な光景だった。
ホスト用の金の彫刻が施された豪華な長椅子に、まるで一つの家族のように肩を並べる公爵夫人とヴェロニカ、そしてジュリアン。
その対面にある、賓客向けの一人掛けの椅子にぽつんと座るクラリス。
夫人の密やかな不快感も、クラリスの疎外感も、今のジュリアンには何一つ届いていない。
クラリスの指先がすっと冷たくなっていく。
「さて、話の続きだが、先ほども伝えたようにヴェロニカ嬢は女性でありながら、この若さで修士課程を修了した類まれなる才女だ。
大学の正式な紹介状も携えており、身元も確かだ。二ヶ月ほど前より、当邸の高潔なる客分として寓居していただいている」
神胤諸公国連合において「大学」といえば、連合の中心たるレオポルド大公国に君臨する最高学府を指す。
ソーサラー魔術の真理から帝王学、領地経営論、貴族血脈史に至るまで、至高の神胤貴族たる知識を叩き込む場所だ。
「彼女は魔術の構成と血統の開花について極めて深く精通していてね。
私も彼女から手ほどきを受けて以降、内に眠る潜在能力の劇的な目覚めを感じている。心から信頼しているんだ」
そう語るジュリアンの瞳には、熱っぽい陶酔の色が宿っていた。
その視線は隠すこともなく、隣に微笑むヴェロニカへと向けられている。
もはや「自分の見間違い」と自分を偽ることすらできない距離で突きつけられた残酷な現実に、クラリスの表情は凍りついたように固まった。
ジュリアンは追い打ちをかけるように甘い声で言葉を重ねる。
「僕たちも結婚すれば、父上から余剰の分家爵位を賜り、いずれどこかの領地を任されて独立するだろう?
領主として立つからには、少しでも力をつけておきたいんだ。
……将来、僕の横に立つ君なら、この情熱をわかってくれると信じているよ。」
――将来、僕の横に立つ君なら。
その言葉を盾にされては、クラリスに「いいえ」と答える選択肢など残されていない。
「……ええ。ジュリアン様のお考えですもの」
乾いた唇から漏れたのは、訓練された人形のような肯定の言葉だけだった。
その後、表面上はどこまでも穏やかにお茶会が進んだ。
だが、クラリスの耳にはすべてが水底から聞こえる音のように遠く、世界から現実感が掠れ去っていく。
自分が淹れ立ての茶を口に含んでいるのか、何を答えているのかすら不鮮明な、虚無の時間。
やがてお開きの時間となり、胸を撫でおろすクラリス。
別れの挨拶の折、優雅に頭を下げたヴェロニカが顔を上げた――その一瞬。
完璧な淑女の笑みを浮かべた彼女の瞳の奥に、クラリスは確かに見て取った。
粘つくような優越感と、あからさまな侮蔑。
―― あ な た は 女 と し て 下 ――
言葉なく発せられたその嘲笑が、冷えた刃のようにクラリスの胸を深く抉り抜いた。




