001
薄暗く静まり返った館の奥へ、漆黒のロングコートを纏った黒髪の男が足を進める。
「……杞憂で終われば、よかったんだがな」
充満する不快な硫黄臭と腐臭に鼻腔を刺激され、男はわずかに眉をひそめてひとりごちた。
腰に下げられた『断魔の鎖』が、ジャラリと低く不穏な金属音を立てる。
男の視線の先に横たわっていたのは、この館の主であったはずの中年男性――正確には、「かつて人間だったもの」だ。
事前の聞き込み調査によれば、元は強欲だが取り立てて目立つことのない平凡な商人だったという。
だが、ここ数ヶ月ほどでその行動は急速に常軌を散らし、悪い意味で人が変わったようになっていたらしい。
今やその男は、床一面に描かれた邪悪な魔導陣の中心で、うつろな瞳を天に向けている。
全身の皮膚は爛れ、黒ずんだ膿が溢れ出し、言葉にならない低いくぐもった呻きを漏らしている。
「……ぅ……ゔぇ……ぃ……ぁ……」
男は手のひらの『天秤の羅針儀』に目を落とし、冷ややかな眼光を向けた。
(……代償として〝支払った〟命は三から五といったところか)
ウォーロックがもたらす悲劇の末路。
人間ひとりが分不相応な禁忌の力と欲望を求めた結果が、この酸鼻を極める惨状だった。
地元の教会からの連絡は正しかったわけだ。
行方不明者の頻発と商人の異変。手遅れになる前に首根っこを掴めたのは幸いだったが…。
詳しい現場検証や死体の回収は、後から来る後方支援に任せればいい。
自分が今やるべき仕事は、代償を吸い上げて既にここから逃亡した主犯――悪しきウォーロックの足跡を逃さず追うことだ。
男は大剣を引き抜くと、一切の感情を削ぎ落とした無機質な動作で、苦悶する「元商人」の首元へと刃を滑らせた。
せめてもの引導を渡すように。
ジャキン、と刃を鞘へと納める鋭い音が、静まり返った部屋に響く。
黒衣の男は一度も振り返ることなく、血と腐臭に満ちた邸宅を後にした。
◇◇◇
エウロギア大陸東部、諸公国連合。
その中でも冷涼で堅牢な中北部台地に位置する、アルテンブルク公国。
社交シーズンを迎えた公都の街並みは、どこか浮足立っているように見えた。
だが、タウンハウスの自室にある書斎兼居室で、伯爵令嬢クラリス・ヴィンセントは、革装丁の重厚な書物のページを静かに弄んでいた。
書物の題名は『古代魔導における構成素と干渉理論』。
『神胤諸公国連合』を自称するこの国々において、こんなウィザードの学術書を読み込む貴族の令嬢など、間違いなく彼女一人くらいのものだろう。
この東部諸公国において、高貴な貴族とはすべて神々を祖とする「神胤」であり、魔法の才とはすなわち「神の血の濃さ」そのものを意味していた。
書籍を貪り、理論を組み立てて行使するウィザードの魔法は「泥臭い下民の学問」と蔑まれ、血統からなせるソーサラーの魔法こそが至高とされていたからだ。
東部諸公国において、貴族が貴族たる所以は、尊い血を証明する"才能"―血統魔術に他ならない。
そんな風潮の中、クラリスは歴史ある伯爵家の直系という恵まれた身でありながら、男爵家レベルの血統魔術すら行使できない「出来損ない」として生まれた。
――「公国貴族の面汚し」
わざわざ口に出されずとも、両親や周囲の視線がそう訴えかけていた。
そんな彼女が、この息苦しい世界で自分を保つ手段――それこそが、血の濃さに頼らない「知性」と「法則」の獲得だったのだ。
しかし、5年前にクラリスに転機が訪れ、"価値"が与えられた。
それこそが、アルテンブルク公国君主、ローゼンベルク公爵家の次男・ジュリアンとの婚約であった。
この不釣り合いな婚約の背景には、およそ曽祖父の代に結ばれた魔術による契約「血誓契約」が存在する。
当時の戦乱において、致命傷を負ったローゼンベルク公爵をヴィンセント家の先祖が救い出した際、「百年以内に一度、両家の婚姻を結ぶ」という盟約が交わされたのだ。
そして、その期限内にちょうど年齢の釣り合いも良く当てはまったのが、クラリスとジュリアンだった。
公爵家として誓約を破るわけにもいかず、かといって引き取らざるを得ない伯爵家の娘は、よりにもよってまともに血統魔術を発現できぬ「出来損ない」。
しかしながらジュリアンは、黄金の髪に神々の祝福を宿したかのような、まさに『神胤』を体現する優美な公子であった。
十二歳で初めて彼と対面した時、クラリスは己の惨めさと恥ずかしさに耐えかね、終始うつむくことしかできなかった。
だが――そんな惨めな彼女の手を優しく包み込み、
「これからは僕の大切な婚約者だ」と微笑んでくれたのが、他ならぬジュリアンだったのだ。
あれから、五年。十七歳になったクラリスは、今もあの日の救いのような温もりを覚えている。
この五年間、ジュリアンは婚約者としての義務を果たし続けてくれた。
公的なお茶会や夜会のエスコートはもちろん、社交シーズンになれば週に二、三度は顔を出し、クラリスを気遣う言葉をかけてくれたのだ。
その度にクラリスは、ジュリアンを慕う心をふくらませていった。
クラリスは、テーブルの隅に寄せられた一通の手紙にちらりと視線を落とした。
上質な羊皮紙に刻まれているのは、公爵夫人――ジュリアンの母からの優美な筆致だ。
『公都へ出てきたのなら、一度顔をお見せなさい』
明日の午後、公爵邸での小さなお茶会への招待。
公国のファーストレディであり、将来の義母からの誘いを断るべくもない。
(……ジュリアン様のお顔だけでも、拝見することはできるかしら)
ふと、胸の奥で小さく呟いた言葉に、クラリスは自嘲気味に息を吐いた。
今年の社交シーズンが始まってから、早いもので一ヶ月半が過ぎようとしている。
例年であれば、公都に到着してすぐに出迎えの使者が訪れ、週に何度かは顔を合わせていたはずだった。
だが――今年は、いまだに一度も彼と顔を合わせることができていない。
手紙を出しても、「学術的な研究で多忙を極めている」といった内容の短い返信が届くのみ。
五年間暖かく育んできたはずの関係に、今まで感じたことのない、冷ややかな隙間風が吹き込んでいた。
「……考えても仕方のないことですわね」
クラリスは小さく首を振り、再び古い魔導書へと意識を沈めようとした。
けれど、指先に残るページの感触は、どこか冷たく固く思えた。




