010
夜会が果て、深い闇に包まれた公都。
アルテンブルク公国の象徴でもある白亜の司教座聖堂——その上層に位置する特務審理官の仮宿舎は、息を呑むほど静まり返っていた。
天井が高く、垂直ラインが美しいゴシック様式の白亜の部屋。
【高地気流と澄空の女神】の加護を宿した聖堂内は、下界の不快な湿気や濁りが一切遮断され、羊皮紙とブナの木香が漂う、張り詰めた冷涼な大気に満ちている。
高窓から差し込む月光の下、レオンハルトは式典服の上着を脱ぎ捨て、細身の上質なシャツ姿でデスクの上の羊皮紙に目を走らせていた。
だが、ペンを握るその指先は、先刻から幾度となく止まっている。
脳裏に浮かび上がるのは、バルコニーで見たクラリスの表情だ。
婚約者に軽視され、傷つき、それでも「大切な婚約者」だと自分に言い聞かせて震えていた小さな拳。
そして、差し伸べかけた手を拒絶するように去っていった、華奢な背中。
(……彼女の、あの哀しげな瞳が拭えない)
胸の奥で、捉えどころのない小さな引っかかりがくすぶっていた。
もとよりの正義感に加え、不躾に彼女の居室へ踏み込んでしまった申し訳なさ。
……だがそれ以上に、彼女の立ち姿に宿る危うさが、どうにも頭から離れなかった。ほんの数回言葉を交わしたに過ぎないというのに。
「……レオンハルト様」
月光の届かぬ影から、気配もなく聖庁の密偵が姿を現した。
「ご命令通り、ローゼンベルク公爵家およびヴィンセント伯爵家の調査報告書を」
「……かたじけない、助かる」
書類を受け取ったレオンハルトに、密偵は低い声で問いを重ねる。
「こちらの二家が標的でしょうか。人数を増やし、監視を強めますか?」
密偵の問いに、レオンハルトは一瞬の躊躇を見せた後、短く首を振った。
「いや、まだそこまでする必要はない。公爵家への対応は慎重を期したい。……今夜は下がってくれて構わない」
「はっ」
短くに応じると、密偵は再び影へと溶け込むように消えていった。
静寂を取り戻した執務室で、レオンハルトは手元の報告書に視線を落とす。
クラリス、そして彼女の身近な人間たちの身辺調査。
あまりに個人的な感情が混ざった過剰な行動であったことに、今更ながら思い至る。
(私としたことが……)
自嘲気味に息を吐き、静かに瞳を閉じた。
あの気丈で、儚げな令嬢。
アルテンブルクの冷涼な風が吹きすさぶ高台に咲く、一輪の花のような。
目を離せば、強い風に煽られてそのまま散ってしまいそうな脆さを孕んでいる。
(……救い出さなければ)
それが不躾な介入だとしても、どうにかして自分の手で彼女を護り、救い出したい。
「……だが」
ふと、あの異質な存在の残した言葉が脳裏をかすめる。
『真実など、己の足元でとっくに腐臭を放っておるというのに』
「……足元か」
レオンハルトはペンを置き、正面の壁に掲げられた重厚なブナ材に彫られたレリーフへ視線を向けた。
風化を知らぬ澄み切った大気と、伝統に守られたこの美しき公都の「足元」には、一体どれほど巨大な毒が潜んでいるというのか。
◇◇◇
静謐な大図書館の二階、羊皮紙と古書の香りが漂う書庫の片隅。
クラリスが本棚の影で一冊の書物に手を伸ばしたとき、背後から静かな、しかし芯のある足音が近づいてきた。
「――クラリス嬢」
驚いて振り返ったクラリスの視界に飛び込んできたのは、黒のロングコートに身を包んだ、背の高い男の姿だった。
聖庁特務審理官―レオンハルト・ヴァイス。
「レオンハルト……様……? どうして、ここに……」
クラリスが息を呑むと、レオンハルトは胸に手を当て、周囲の静寂を害さないよう低く、しかし深く頭を下げた。
「おどろかせてしまって申し訳ない。……この図書館には、貴重な古書が多いと聞いて立ち寄ったのだが……まさか貴女にお目にかかれるとは」
どこか視線をわずかに泳がせ、理由を曖昧に流すレオンハルト。
まさか「報告書で貴女の立ち寄り先を調べ上げた」などと口にできるはずもなく、不器用に言葉を濁した彼は、すぐに表情を端正なものへと戻して真摯な金色の瞳を向けた。
「だが……お会いできたのは幸運だ。クラリス嬢、先日の夜会では大変な非礼を働いた。
貴女の置かれた立場や、傷ついたお心に配慮もせず、一方的な言葉をぶつけてしまったことを……どうしても直接、お詫びしたかったのだ」
「……っ」
あの夜の痛みが蘇り、クラリスはぎゅっと手袋の手を握りしめる。
突然のことに呆然とするクラリスを庇うように、供として控えていた侍女のマーガレットがハッと我に返り、サッと間に割り込んだ。
「お戯れを、騎士様。お若いお嬢様にこのような場所で急にお声をかけるなど……! お嬢様は体調も万全ではございません。どうかお引き取りを」
マーガレットの毅然とした拒絶にも、レオンハルトは退く気配を見せない。
「立ち去る前に、ほんの少しだけでいい。クラリス嬢、私に時間をいただけないだろうか。
言葉だけでは許されないことも分かっている。だが、どうしても貴女と話がしたい」
一歩踏み出し、その大きな体をわずかに低くして目線を合わせるレオンハルト。
その金色の瞳に宿るあまりに真面目で強い情熱に、クラリスは呑まれそうになる。
見かねたマーガレットが再び割って入ろうとした。
「騎士様、淑女が男性と二人きりで時間を過ごすなど、伯爵家の名誉に関わります。お引き取りくだ……」
「――名誉ならば、我がヴァイス家と聖庁の名において完璧に保証する」
彼は懐から、聖庁の金銀の紋章が刻まれた【特務審理官の身分証明証】を取り出し、マーガレットに目視させるように静かに提示した。
「侍女殿。君の主を想う忠心は実に素晴らしい。……だが聞き届けてほしい。
私の無礼を詫び、クラリス嬢と少しだけお話しするためにお時間をいただきたいのだ。
決して不審な者ではないことは、これで理解してもらえるはずだ」
「ですが……二人きりなど……」
「安心するといい。クラリス嬢のお送りは、裏手に待機させている聖庁の紋章付き馬車にて、私自らが伯爵邸の門前まで責任を持って護衛する。髪の毛一本傷つけず、指一本不躾に触れぬと、我が剣と名誉に誓おう。……侍女殿、君は先に馬車で屋敷へ戻り、クラリス嬢は私が責任を持ってお送りすると伝えてくれないか」
提示された身分証。そして、公国の騎士が命と同義とみなす言葉「我が剣と名誉に誓う」。
「……っ」
相手は聖庁でエリート中のエリートたる特務審理官。
本来ならば、しがない伯爵家の侍女が言葉を交わすことすら憚られるような雲の上の存在だ。
その上位者が身分証を提示し、そこまで固い誓約を立てたとなれば、これ以上遮ることは単なる不敬にとどまらない。
マーガレットはぐっと言葉を飲み込み、困惑に満ちた目でクラリスを見つめた。
クラリス自身もまた、まっすぐに自分を見据えるレオンハルトの瞳の強さに気圧され、生唾を飲み込んだ。
「……マーガレット。大丈夫よ。……少しだけ、お話してくるわ。
先に帰って、お母様たちには……私が少し寄り道をしていくと伝えておいて」
「お嬢様……。分かり、ました。
……特務審理官様、くれぐれも、お嬢様をよろしくお願いいたします」
マーガレットは何度も振り返りながら、葛藤の末に引き下がっていった。
残された二人の間にしんと静まり返った気まずい空気が落ちる。
その張り詰めた沈黙を破ったのは、レオンハルトの低く穏やかな声だった。
「……本が、お好きなのか?」
少しでも緊張を和らげようとするような気遣いに、クラリスはハッと顔を上げた。
レオンハルトの金色の瞳は、彼女の抱えていた革表紙の書物へ優しく向けられている。
「あ……はい。大昔の偉大な作家が遺した叙事詩なども読むのですが……」
言いかけて、クラリスは少し言葉を濁した。
だが、レオンハルトが真摯に耳を傾けているのを感じ、意を決したように小さな声で打ち明けた。
「一番の目当ては……ウィザードの教練書なのです」
「ウィザードの……?」
レオンハルトがわずかに眉を上げた。
東部諸公国においては、血統による「ソーサラー魔術」こそが絶対であり、理論や学問によって組み上げる「ウィザード魔術」は軽視されがちだ。
高貴な伯爵家の令嬢が手に取るものとしては、極めて異例と言えた。
クラリスは自嘲気味に、遠い目をして微笑んだ。
「幼い頃……私は血統魔術をうまく使いこなせず、『できそこない』だと周囲から扱われていました。
……ある日、屋敷の庭の片隅で一人で泣いていたことがあったのです」
当時の冷たさと寂しさが蘇り、クラリスの声が少しだけ揺れる。
「貴族家には頻繁にお客様が見えますでしょう?
どなただったのか、今ではお顔も思い出せないのですが……
通りかかったその来客の方が、そっと泣いている私に教えてくださったのです。
『魔法を使えるのは、ソーサラーだけではない。理論を修めたウィザードもまた、立派な魔法使いなのだよ』と」
「……その言葉が、君の支えになったのだな」
「はい。それ以来、空いている時間に少しずつ、隠れるように勉強を続けてきました。
……侍女のマーガレットはあまりいい顔をいたしませんけれど、見て見ぬふりをして見逃してくれていて。
……帝都での社交シーズンは、この大図書館に通って独学で学べる大切な時間なのです」
ぽつりぽつりと語るクラリスの横顔を、レオンハルトはじっと見つめていた。
(……クラリス嬢は、ただ儚く傷ついているだけの女性ではない)
血統という逃れられない呪縛に身を置かれ、「できそこない」と打ち捨てられながらも、彼女は絶望の暗闇の中で自ら光を見出し、たった一人で静かに努力を積み重ねてきたのだ。
誰に誇るでもなく、歪むこともなく。
与えられた小さな道標を頼りに、自らの足で歩み続けようとする、しなやかで強い心。
胸の奥が熱く揺さぶられるのを感じながら、レオンハルトは深く、心からの敬意を込めて呟いた。
「……素晴らしいな」
「え……?」
「東部貴族の価値観に流されず、己の力で知識を修め続けてきたこと。……その心の強さは、どんな血統の奇跡よりも気高く、美しい」
レオンハルトの真っ直ぐな言葉と誇らしげな眼差しに、クラリスは思わず息を呑み、頬が赤く染まっていくのを隠せなかった。
「あ……ありがとうございます、レオンハルト様……」
今まで誰からも認められたことのなかった努力をまっすぐに肯定され、クラリスは赤くなった頬を隠すように俯いた。
その様子を愛おしそうに見つめたレオンハルトは、静かに姿勢を正すと、書庫の出口を示した。
「……長居をしては侍女殿に叱られてしまうな。裏手の馬車へ案内しよう」
「はい……」
ふん、人間どもが気取る「魔法使い」の選別か。下等な分類分けだ。
まずは『ソーサラー』。神の血を継ぐと騙る貴族どもだな。血の濃さだの格式だのでマウントを取り合う様は滑稽だ。まぁ実際、生来の才能で実力が左右されるがな。
『ウィザード』は知識気取りの技術者ども。古代遺物や魔導鉱石をこねくり回し、理屈を捏ねて魔法を再現する学問馬鹿だ。
そして『ウォーロック』……一般的に「異端」と嫌悪される忌み子どもだ。エーテル体の弱い凡夫が、悪魔に肉体や魂を代償として差し出し、異界の力を強引に噴出させる。聖庁からは目の敵にされ拷問・処刑の対象だが、その絶大な毒は裏社会や権力者の闇で重宝される。
神の血を誇るか、理屈を捏ねるか、悪魔に魂を売るか。己の器の小ささを自覚せぬ者どもの、哀れな悪あがきだよ。




