011
大図書館の裏手に用意されていたのは、黒塗りの重厚な馬車だった。
側面には聖庁の金銀の紋章が刻まれており、御者が恭しく扉を開ける。
レオンハルトはクラリスの手元に細心の注意を払い、指先一つ触れぬよう、それでいていつでも支えられる絶妙な距離感で彼女を乗車させた。
重厚な扉が閉まり、馬車がゆっくりと滑り出す。
外の喧騒を完全にシャットアウトする防音の施された車内には、二人だけの静寂と、レオンハルトが纏う冷涼な木香が満ちていた。
向かい合わせの革椅子に腰掛けたレオンハルトは、クラリスをまっすぐに見据えると、深々と頭を下げた。
「―さて、クラリス嬢。あらためて、先日の夜会の非礼を心からお詫びしたい」
「レオンハルト様、どうか頭をお上げくださいませ。このような場で……」
レオンハルトは頭を上げたものの、その金色の瞳には強い悔恨の色が宿っていた。
「あのバルコニーで、私は君の婚約者……ジュリアン殿の振る舞いを非難した。彼の不誠実さに怒りを覚えたのは事実だ。……だが、私は君がどれほど傷ついていたか、どれほどの想いであの場に立っていたかを全く配慮していなかった」
彼は膝の上で大きな拳を固く握りしめた。
「『あのような男のために自らを押し殺す必要はない』などと、外部の人間である私が言える立場ではない。君がジュリアン殿との絆をどれほど大切に守ろうとしていたかも知らず、ただ己の正義感を振りかざし、結果として君をさらに追い詰めてしまった。……私の浅はかさと不器用さが、本当に情けない」
その言葉には、聖庁の審理官としての威厳ではなく、一人の男としての嘘偽りのない誠実さが溢れていた。
クラリスは胸の奥がキュッと締め付けられるのを感じた。
あの夜、レオンハルトの言葉が鋭く刺さったのは、彼が間違っていたからではない。
むしろ、彼が言ったことがあまりにも正論で、クラリスが必死に目を背けようとしていた現実そのものだったからだ。
「……いいえ、レオンハルト様」
クラリスは白手袋をはめた自分の手を優しく見つめながら、静かに首を振った。
「謝らないでくださいませ。……レオンハルト様のお言葉は、私を傷つけるためのものではなく、私を真剣に心配してくださったからこそ出たものだと……分かっております」
「クラリス嬢……」
「ただ……あの時の私は、あまりにも惨めで、余裕がなかったのです。
自分の居場所が消えてしまうのが怖くて……貴方のまっすぐな眼差しを受け止めることができませんでした。不躾に言葉を遮って去ってしまったのは、私の方です。……私こそ、申し訳ありませんでした」
伏せられた目元と、儚げに微笑む小さな唇。
自分を傷つけた言葉に対してすら相手の優しさを汲み取り、自らの非を詫びるクラリスの姿に、レオンハルトは胸を突かれた。
(これほど気高く、優しいお方が……なぜあれほど不当に扱われねばならないのだ)
夜会でのジュリアンの態度、そしてヴェロニカという女の影。
さらには、あの異質な男が残した「真実など己の足元で腐臭を放っておる」という不気味な警告。
レオンハルトの胸の中で、ただの「謝罪」であったはずの感情が、より明確で強い「意志」へと変わっていく。
「……クラリス嬢」
レオンハルトの声のトーンがわずかに低く、重みを増した。
「君が公爵家との誓約を重んじていることは理解している。だが……もし、万が一にも君の手に負えない歪みや、君を危険に晒すような事態が起きたときは……どうか私を頼ってほしい」
「え……?」
「私は特務審理官だ。聖庁の名にかけて、君の身と尊厳を護ることを誓う。……これは審理官としての職務ではなく、一人の騎士として、君という人間に捧げる誓いだ」
「レオンハルト……様……」
伯爵邸の敷地が見え始め、馬車が速度を落とし始める。
ほんの三十前後の短い時間。
けれど、その短い車中で提示されたレオンハルトの「誓い」は、婚約者に裏切られ、アスタに希望を打ち砕かれて暗闇にいたクラリスの心に、あまりにも温かく眩しい光となって差し込んできたのだった。
重厚な馬車がヴィンセント伯爵邸の車寄せに滑り込むと、館のエントランスにはすでに出迎える用意を整えた伯爵夫人の姿があった。
先に帰宅した侍女のマーガレットから「聖庁の特務審理官様が、お嬢様をお送りくださる」と報告を受け、慌てて準備を整えたのだろう。
馬車から降り立ったレオンハルトは、完璧な洗練と優雅さをもって伯爵夫人に礼を執った。
「突然の訪問、お許しいただきたい。ヴィンセント伯爵夫人。
お嬢様を無事にお送りできたこと、心より安堵しております」
「まあ……! これはこれは、特務審理官様。娘が無事に戻れましたのも、ひとえに審理官様のあたたかなお気遣いのおかげでございますわ。……ちょうど午後のお茶を用意させておりましたの。こんな何もない邸ではございますが、どうか一杯のお茶でも召し上がっていかれませんか?」
「お心遣い、感謝いたします。では、お言葉に甘えさせていただきましょう」
静謐で品格ある応接室へと通されると、伯爵夫人は優雅な所作でスカートを広げ、レオンハルトに向かって深々とカーテシーを捧げた。
「改めまして、ようこそおいでくださいました。ヴィンセント伯爵家当主が妻、エレノア・ヴィンセントにございます。聖庁の光たる特務審理官様を我が家にお迎えできますこと、大変な光栄に存じます」
レオンハルトは胸に手を当て、見事な礼で応えた。
「丁寧なご挨拶、恐縮いたします、ヴィンセント伯爵夫人。私はレオンハルト・ヴァイス。聖庁にて特務審理官を務めさせていただいております。不躾な突然の訪問にもかかわらず、温かいおもてなしを賜り、感謝に堪えません」
互いに挨拶を交わし、革張りのソファへと腰を下ろす。
侍女が注ぐ最高級の茶葉の香りが漂う中、伯爵夫人はどこか探るような、緊張した面持ちで口を開いた。
「それにいたしましても……審理官様のような高貴なお方が、なぜ我が娘などに……」
母親の言葉の端々に滲む自分への軽視に、クラリスがそっと身を縮めかけた、その時だった。
レオンハルトは茶杯を置くと、端正な顔立ちのまま伯爵夫人に視線を向けた。
「先の公爵家の夜会にて、公爵夫人閣下より直々にクラリス嬢をご紹介賜りましてな。
公爵夫人もクラリス嬢の聡明さと奥ゆかしさを大変高く評価しておられました」
「まあ……! 公爵夫人閣下が、クラリスを……?」
伯爵夫人の表情が一変する。
あのとき、夜会で公爵夫人の前で交わした挨拶など、定型句に過ぎなかったはずだが…、とクラリスは記憶を遡る。
「実は……仕事でこちらに来たものの、私は公都の土地勘や公国の古い歴史に疎く、少々苦慮していましてな。クラリス嬢のような深く豊かな学識をお持ちの方に、ご助言をいただけないかと考えていたのです」
「クラリスの、学識……でございますか?」
「左様です。……もしご迷惑でなければ、今後もクラリス嬢に少々のお時間を割いていただき、私の調査にご協力いただくことは可能でしょうか? もちろん、ヴィンセント伯爵家には聖庁より相応の栄誉と謝礼をお約束いたします」
聖庁からの公式な要請とその先の栄誉。
伯爵夫人のプライドは大いに満たされ、断る理由などどこにもなかった。
「まあ、まあ……! 我が家の娘が聖庁のお役に立てますのなら、これ以上の光栄はございませんわ!
クラリス、審理官様のご要望には誠心誠意お応えするのですよ」
「あ……はい、お母様……」
母親とレオンハルトの間で、うねるように話が進んでいく。
当事者であるはずの自分を置き去りにして交わされる会話を聞きながら、クラリスはそっとレオンハルトを盗み見た。
大図書館で打ち明けた、誰にも知られず重ねてきた学びのこと。
レオンハルトは茶杯を傾けながら、クラリスの視線に気づいたように、一度だけ静かに目元を緩めた。
「……っ」
クラリスは息を呑み、反射的に視線を落とした。
自分を庇い、努力を認めてくれたレオンハルトの存在が、冷え切っていた胸の奥に小さな温度をもたらす。
だが同時に、膝の上で握りしめた手の内に、鉛のような重みが圧しかかった。
脳裏を掠めるのは、五年間ずっと自分に向けられていたジュリアンの穏やかな笑み。
そしてあの夜、彼が自分以外の女性に向けた、見たこともないほど熱を孕んだ瞳。
突きつけられた、自分は愛されていたわけではなかったという悲しみ。
その余韻の中にいる自分が、他人の優しさに救われかけている。
心が整理できず、どうしようもなく戸惑う。
クラリスはそっと伏し目がちになり、胸を突き上げる複雑な感情を隠すように、静かに茶杯へと手を伸ばした。
その時だった。
(石の隙間に隠れ住む虫けらのようにみっともなくうずくまっていたと思ったら、ずいぶんご機嫌になったものだな)
「……っ!」
頭の芯に直接滑り込んできた、アスタの透き通るほど無機質な声。
クラリスの手元がかすかに強張り、持ち上げた茶杯の中で琥珀色の紅茶が小さな波紋を立てて揺れた。
ご機嫌な伯爵夫人は舞い上がるのに夢中で、娘の指先のわずかな震えなど目に入っていない。
だが、伯爵夫人の言葉に優雅に頷きながらも、レオンハルトの黄金色の瞳は、目の端でクラリスの動揺を静かに拾い上げていた。
クラリスは呼吸を整え、必死に指先の震えを抑え込みながら茶杯をソーサーへと戻した。
周囲を伺うように視線だけを泳がせるが、やはりアスタの姿などどこにもない。
(アスタ様……どこから……)
混乱するクラリスの意識へ、あざ笑うような吐息とともに、再び声が落ちる。
(そろそろお楽しみの時間が始まるぞ。貴様は喜劇の傍観者か、それとも踊らされる役者か……どちらになるんだろうな)
(……アスタ様……?)
心の中で問いかけても、返ってくるのは虚無だけだった。
思考が麻痺しそうになるクラリスの耳に、静かで落ち着いた声が届く。
「……クラリス嬢?」
「っ……あ、はい……っ」
顔を上げると、レオンハルトが気遣うように少し眉をひそめ、黄金色の瞳でこちらを見つめていた。
その優しくも鋭い眼差しに射抜かれ、クラリスは慌てて呼吸を整える。
「申し訳ありません、少し心が逸れておりました……」
「無理もありません。急なお願いで驚かせてしまいましたね」
レオンハルトは小さく目元を緩めると、ごく自然な仕草で伯爵夫人とクラリスの双方に視線を向けた。
「ではクラリス嬢、明後日の午前の鐘が十一度鳴る頃にお迎えに上がってもよろしいでしょうか。
聖庁の資料室へご案内します。昼食とお茶もこちらでご用意させていただくので。夕刻の鐘が鳴る前には、必ずこちらへ送り届けます」
「まあ、それなら安心ですわね。クラリス、粗相のないようにしっかり準備をしておきなさい」
「……」
(アスタ様の声に囚われている間に、話がすっかり進んでしまっている……)
呆然としながらも、ここで断る術などどこにもない。
クラリスは膝の上でそっと手袋を握り直し、ゆっくりと頷いた。
「……はい、お母様。レオンハルト様、不手際もあるかと存じますが、どうぞよろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。クラリス嬢」
レオンハルトの唇が、満足そうに穏やかな弧を描いた。
歓談を終え、応接室から玄関ホールへと移動する一同。
浮き立つ公爵夫人が挨拶を重ねる傍らで、レオンハルトは一歩引き下がっていたクラリスへと静かに向き直った。
「それと——初めてお会いした夜にお伺いした件につきましても、改めて詳しくお聞かせ願えればと。
可能であれば、あの時伺った例の品も資料としてご持参いただけますか」
「っ……!」
クラリスは息を呑んだ。
『初めてお会いした夜』——母が思っているような華やかな夜会ではない。
自室に突如レオンハルトが現れた夜の事だ。
母親のエレノアは何も気づかず、ただ社交辞令として微笑んでいる。
レオンハルトはエレノアには柔らかく微笑み返しつつも、その黄金色の瞳はまっすぐにクラリスの揺れる瞳を捉えていた。
「……ではクラリス嬢、明後日を楽しみにしております」
優雅に一礼を残し、彼は静かな足取りで邸をあとにした。




