012
公都の賑わいから見捨てられた区画。
打ち捨てられた石造りの一室は、昼なお深い闇に沈んでいた。
わずかに差し込む月光のような光の中に、ほの白い女の曲線美が浮かび上がる。
露わになった背中には、痛々しく残る虐待の烙印と、幾重もの深い傷ででこぼこと隆起した皮膚。
幼い頃、ある貴族の手によって刻まれた不快な過去を覆い隠すように、おぞましい魔導タトゥーが密密と彫り込まれていた。
歪んだ皮膚の起伏のせいで、影を吸い込んだ漆黒の紋様は、まるでそれ自体が呼吸し、生きて蠢いているかのような錯覚を抱かせる。
女は背中に回した自分の指先で、隆起した傷痕をなぞり、確かめるようにゆっくりと撫で上げた。
「……私の救い。私の、すべて……」
熱に浮かされたような呟きとともに、女は床に敷かれた黒い陣の前に膝をつく。
中央の皿を満たすのは、冷たく凝固しかけた黒い血液。
女がその水面に指先を静かに浸すと、背中の紋様が脈動するように鈍い光を放ち始めた。
器の黒い血が意志を持ったかのように波立ち、陣を伝って床全体へと広がる。
それと重なるように、漆黒の瘴気が石畳の隙間から地下深くへと染み出していった。
その波紋を受け、部屋の隅の籠に閉じ込められていた小動物が、骨の砕ける音を立てて身悶えする。
体内の血が急速に黒い結晶へと変質し、絶命した。
「もうすぐ……あの大破滅の夢が、再びこの公都に降り立つ……」
暗がりの中で、女の薄い唇が満足げに歪む。
背の紋様が放つ光がゆっくりと失われると同時に、部屋を満たしていた狂気的な気配は、何事もなかったかのように静かな闇の中へと溶けて消えた。
◇◇◇
約束の十一時の鐘が鳴る頃、伯爵邸の門前に到着したのは、聖庁の紋章が刻まれた重厚で格式高い馬車だった。
車内に通され、向かい合わせに腰を下ろすクラリスとレオンハルト。
聖庁の公式な送迎であり、相手が「神に身を捧げた聖職者」である以上、侍女の同乗はなく二人きりの空間だった。
公爵家の夜会で再会した際も驚いたが、今の彼は終始、隙のない一人の紳士だった。
初対面の夜、自室で今にも冷たい刃を突きつけてきそうだった、断罪人めいた騎士と同一人物だなんて、とても信じられない。
揺れる車内、向かいに座るレオンハルトの流れるような仕草や横顔から、クラリスはどうしても目を離せずにいた。膝の上に置いた鞄をそっと抱え直し、盗み見るように視線を送っては、気づかれないうちに慌てて伏せる。
「……クラリス嬢。何か気になることでも?」
視線に気づいたレオンハルトが、優しく目を細めて問いかけてきた。
「あ……不躾で申し訳ありません。ただ……その」
クラリスは恐縮しながらも、ずっと胸に引っかかっていた疑問をそっと口にした。
「レオンハルト様の立ち振る舞いや社交のマナーが、あまりに完璧でいらっしゃるので……。
勝手な思い込みですが、聖庁にお勤めの方々は世俗の礼法にはあまり頓着されないものと思っておりましたので、少し意外に感じてしまいまして」
「なるほど」
レオンハルトは納得したようにうなずくと、穏やかな声音で言葉を続けた。
「クラリス嬢は、聖庁で司教以上の高位に就くためには、聖都レムリアの大学を修めていなければならないことはご存じですか?」
「……はい。聖職者としての最高学府だと伺っております」
「ええ。聖庁へ入る者は、何も全員が幼少期からの敬虔な信徒というわけではありません。
家督を継がない貴族の次男や三男にとって、確固たる就職先でもあります。
さらに高位の司祭ともなれば、貴族や王族が参列する大式典を執り行い、時に彼らと対等に社交をこなす必要がありますから」
レオンハルトはどこか懐かしむように、微かな苦笑を混ぜた。
「ゆえに公国の大学ほど厳格ではないにせよ、聖都の大学でも貴族としての礼儀作法は必須科目として叩き込まれるのです。
……もっとも、私なりに最低限の嗜みは身につけていたつもりですが、貴方にそのように評価していただけたのなら、当時苦労して学んだ甲斐がありました」
そう言って、彼は飾りのない魅力的な笑みを浮かべた。
(……っ)
その不意打ちのような微笑みの眩しさに、クラリスは小さく胸を跳ねさせ、思わず目を逸らしてしまう。
ごまかすように、膝の上に置いた愛用の小型手提げ鞄の革紐を、きゅっと握りしめた。
その鞄の底には今、例の「十二面体の箱」が重々しい手応えを残して収まっている。
◇
馬車は司教座聖堂の脇に広がる関係者専用の回廊へと滑り込み、静かに停車した。
レオンハルトに手を引かれて馬車を降りたクラリスは、見上げるほど高い石造りの建造物を前に、少しだけ息をのむ。
これまでクラリスが訪れたことのある聖堂といえば、色鮮やかなステンドグラスから光が差し込み、パイプオルガンの音が響く一般信徒向けの礼拝堂までだ。
しかし、レオンハルトに導かれて進むのは、重々しい鉄飾りのついた脇扉の向こう——
一般市民の立ち入りが固く禁じられている、聖庁の『執務区画』だった。
ひんやりとした静寂が支配する長い石造りの廊下を進むと、一般の聖堂では決して見ることのない、特有の活気と独特な仕事風景が目に飛び込んでくる。
吹き抜けになった中庭に面した回廊では、漆黒の法衣を纏った若い修道士たちが、羊皮紙の束や分厚い台帳を抱えて忙しない足取りで行き交っている。
「失礼いたします、審理官様」
「ご苦労」
すれ違いざまに深々と頭を下げる修道士たちに、レオンハルトは短く応える。
ふと開け放たれた大部屋の扉の奥を覗くと、壁一面を埋め尽くす書架と、何卓もの長机が並んでいた。
そこでは数十人もの聖職者が写本を作成しているのか、羽ペンの走るカリカリという不気味なほどの集中音が廊下まで漏れ聞こえていた。
「一般の聖堂とはかなり趣が異なるでしょう。神に祈りを捧げるのも務めですが、実務もまた、我々の『信仰』の一部ですので」
「あ……申し訳ありません、物珍しそうに眺めてしまって……」
「構いませんよ。案内甲斐があります」
階段を上り、より静けさの増した上層階へと至る。
やがてレオンハルトは、真鍮のプレートが掲げられた重厚なオーク材の扉の前で足を止めた。
ポケットから取り出した鍵を錠前に差し込み、静かに扉を押し開く。
「どうぞ、お入りください」
通された部屋は、整然と書籍や資料が整理された、静謐で品格のある部屋だった。
クラリスに続いて室内に入ったレオンハルトは、扉のノブに手をかけたまま止まり、静かに振り返ってクラリスを見つめた。
「……クラリス嬢。扉を完全に閉め、鍵をかける非礼をお許しいただけますか?」
「え……」
「先日の夜の件、そして今貴女が購入されたという『例の品』について……私はまだ、聖庁の上層部にも同僚にも一切報告をしておりません」
思いがけない言葉に、クラリスは小さく息をのむ。
「先日のアーティファクトの異常反応についてですが……現状では、貴女の関与を断定することも、また完全に疑いを晴らすこともできません。私の一存で事態を伏せ、こうして個人的に接触しているのは、審理官としては致命的な失策であり身勝手な独断でしょう」
「レオンハルト様……」
「ですが……もしこれを正式に公へ持ち込めば、聖庁の介入により、貴女の名誉を損なうような厳格な調査が行われる恐れもあります。だからこそ、ここから先の話は誰の耳にも入れたくはないのです」
まっすぐに見つめてくる彼の瞳には、職務への背信を承知の上で、クラリスを不当な脅威から守ろうとする強い意志が宿っていた。
「クラリス嬢。人払いは既に済ませてあります。
もし私と二人きりになることに不安をお感じでしたら、扉はこのまま開けておきますが……どうされますか?」
「あ……いいえ。ご配慮、ありがとうございます。……扉を閉めていただいて構いません」
クラリスが深く頷いたのを見届けると、レオンハルトは静かに扉を閉め、カチリと鍵をかけた。
「どうぞ、お掛けください」
レオンハルトに促され、クラリスは大司教座聖堂の一画にある彼の執務室へと足を踏み入れた。
ふん、人間どもが有難がる「大学」とやらか。
幾ら知性を気取ろうと、やることは権力の誇示と枠組み作りだ。
十二歳から入学でき、ボリューム層は十四歳。門戸は開かれているように見せて、女の進学は世間の目とやらで阻まれる。
知識と権力の象徴とされる『諸公国連合の最高学府』は、アルテンブルクの学者どもを集めた貴族のサロンだ。「神の血」を誇るソーサラー至上主義の拠点で、血統なきウィザードの学問を嘲笑い、帝王学や血脈史に興じている。あの女の推薦状の出所ってことになっているな。
一方、聖都レムリアの『聖都大学』は元々、学生どもが身を守るために作った自警組合が始まりだ。かつては地元民と血を流し合った連中を、聖庁が公認と引き換えに抱き込んだのさ。高位聖職者や審理官の登竜門であり、家督を継げぬ次男坊や成り上がりを狙う裕福な市民が群がっている。
どこへ行こうと、知識を盾にした醜いマウントと権力争いが待っているだけだ。愚かしいな。




