013
レオンハルトの執務室の一角には客を迎えるための重厚な革張りソファが置かれている。
クラリスがそこに腰を下ろすと、レオンハルトもローテーブルを挟んだ向かいの席に着いた。
クラリスは手提げの中から慎重に例の品を取り出すと、静かにテーブルの上へと置いた。
「……手に取らせていただいても?」
レオンハルトは丁寧に断りを入れ、クラリスが頷いたのを確認してから、箱へと静かに手を伸ばしながら思案した。
あの日から一週間ほどが経過している。
自分の手の者を使って公都の動向を探らせていたが、街や公爵家に目立った異常は報告されていない。
そもそも、あの日あの時に反応を捉えたのは、レオンハルトが聖庁から持ち込んでいる特別な魔道具の観測針だけだった。大司教座聖堂に備え付けられている一般的な計測器具には、何ひとつ影響が出ていない。ここは最高位の格式を誇る聖堂だ。器具の不具合とも思えなかった。
(……やはり、この箱そのものが通常の魔力とは異なる波長を発しているのか)
手袋越しに持ち上げた箱は、木とも金属とも断定しがたい異質な触感を残す。レオンハルトはそれに視線を落としたまま、静かに問いを重ねた。
「そういえば……箱を開けた際に現れたという、例の無礼な男ですが」
「はい……」
「公爵家の夜会会場にも姿を現し、あっという間に消えてしまった……その後、何か動きはありましたか?」
クラリスの脳裏に、一昨日声だけで不躾に話しかけてきた謎の存在――アスタの姿が浮かんだ。
「私にとりましても、なんだか……突如として現れては、好き勝手なことばかり口にして去っていくような状態でして……」
「貴女に実害はありませんか?……そう言えば昨日の図書館で、侍女殿が貴女のお身体を案じておられましたが。異常な魔力消耗や、不自然な疲労感などを感じてはおられませんか?」
レオンハルトの問いかけに、クラリスはアスタと最後に顔を合わせて会話したときのことを反芻する。
彼女の儚げな顔立ちに、すっと小さな影が落ちた。
レオンハルトはその僅かな変化を逃さなかった。
「……やはり、何かあるのですね?」
レオンハルトは手にしていた箱をゆっくりとテーブルに戻すと、浅く腰掛けていたソファから身を乗り出し、ローテーブル越しにクラリスへ視線を合わせた。
その黄金の瞳でしっかりと彼女の目を見つめる。
「私は現状、貴女の力になりたい。……味方であるつもりです。どうか、隠さずにお話ししていただけませんか? これ以上、貴女の名誉を損なうような真似は決してしないと誓います」
――『これ以上』。
その真摯な言葉の響きに、クラリスの思考が一瞬で、レオンハルトとの邂逅の記憶へと引き戻された。
目の前の男性から向けられる真っ直ぐな眼差し。
その誠実さゆえに、かえってあの夜の失態が鮮明に思い出され、クラリスの頬は一気に熟した林檎のように赤く染まっていく。
恥ずかしさで思わず視線を泳がせ、胸元をそっと押さえながら、クラリスは慌てて首を横に振った。
「い、いえ……っ! 決して隠し事をしようとしたわけではございません! 体調の異変なども、特に感じておりませんので……!」
赤面しながらも一生懸命に答えるクラリスの様子に、レオンハルトは一瞬だけ呆気にとられたような顔をし、やがて自分の言葉が思わぬ誤解を招いたことに気づいたのか、珍しく僅かに気まずそうに咳払いをしたのだった。
気まずくなった空気を打開しようと、レオンハルトが新たな問いを口にしようとしたその時――。
「――なんだ。我に用向きか?」
静寂を切り裂き、嘲るような低く不遜な声が執務室内に響き渡った。
次の瞬間、ローテーブルのすぐ脇の空間が歪み、まるで闇の奥から滲み出るように一人の男――アスタが姿を現した。
脚を組み、空中に置いたソファにでも腰かけているかのように身を委ねるその姿は、あまりにも横柄で不躾だった。
「な……ッ!?」
レオンハルトの全身の神経が一瞬で跳ね上がる。
彼は目にも留まらぬ速さでローテーブルを回り込み、クラリスを庇うようにその前へと立ちふさがった。腰の柄へ手をかけ、射抜くような鋭い視線でアスタを睨みつける。
(どこから侵入した……!? 扉の鍵も結界も破られた形跡がない)
ここは公都の信仰の象徴であり、アルテンブルク公国の神職者を統べる枢機卿が座する大司教座聖堂だ。
よしんば高位の魔道士であっても、無断で入り込もうとすればただでは済まない。
それを、易々と通り抜けて見せたのだ。
「貴様……改めて問う。先日のアーティファクトの異常反応は貴様の仕業か? クラリス嬢に何を施した?」
レオンハルトの低く圧を孕んだ問いかけに対し、アスタは気にした風もなく、薄く笑みを浮かべた。
「ふん、相変わらず騒々しい男だ。だが……ふむ、我という存在への『知識』を望まれるのは、決して悪い気分ではないな」
どこか愉悦を孕んだ瞳でレオンハルトの警戒を眺めると、アスタは退屈そうに肩をすくめた。
「だが、勘違いするなよ審理官殿。貴様の本来の目的が我ではないことくらい、貴様自身が一番理解しているはずだ。……己の仕事を全うするがいい。そのような小娘にかかずらう余裕も、必要も、貴様にはないのだからな」
眼の前の男の不遜な物言いに、レオンハルトの黄金の瞳が冷たく澄み渡る。
「……私の判断に口を挟むな」
レオンハルトは剣から手を離さないまま、きっぱりと、一切の迷いなく言い放った。
「少なくとも私がこの公都に滞在している間、どれほど迷惑がられようと、私はクラリス嬢へ助力を尽くすと決めている。……これは聖庁から与えられた使命とは別の、私個人の決断だ」
一歩も引かない強い眼差しが、アスタを見据える。
「いかがわしい古代の呪物や、素性の知れぬ存在に彼女が囚われているというのなら――第五座枢機卿特命・特務審理官の名に懸けて、命を賭しても彼女を守り抜く覚悟がある」
凛とした声と、一切の迷いがない横顔。
その言葉が、クラリスの胸の奥をふわりと揺らした。
(あ……)
思わず、小さく息をのむ。
自分を護るように立ちふさがる頼もしい背中と、その向こうに見える横顔から目が離せない。じんわりと頬が熱くなっていくのを止められなかった。
高鳴る鼓動を静めるように、心の中で必死に言い聞かせる。
幼い頃に読んだ絵本の中の『お姫様と騎士』のようなシチュエーションに、少しのぼせ上っているだけなのだと。
(私は……ジュリアン様をお慕いしているのだから。他の誰かに心を寄せるなんて、あるはずがないもの)
自分の気持ちにそっと言い訳をしながら、クラリスはぎゅっと手提げを握りしめ、レオンハルトの背中を見つめることしかできなかった。
「――まあ、貴様の都合などどうでもよいがな」
アスタは組んだ脚の膝の上で優雅に指を組むと、心底くだらなそうに鼻で笑った。
「我とて、人間が極端に減ることを望んでいるわけではない。愚かに作られた種族とはいえ、簡単に滅びてしまっては退屈しのぎにもならぬからな」
嘲笑を孕んだ妖しく輝く瞳が、レオンハルトへと注がれる。
「……で、貴様のおもちゃがなぜ反応したか、であったな? 凡庸な職人が捏ね上げたにしては、あれは奇跡的に美しい琴だ。この世の雑音ではなく、神々がまどろむ深遠――至高神の息吹に共鳴して弦を震わせる。せいぜい壊さぬよう、大事に手元へ飾っておくがいい」
皮肉混じりの比喩を口にしながら、アスタは退屈そうに顎をしゃくった。
「それから……その小娘一個体に、我がわざわざ手を施しただと? 愚問だな。巨人が蟻の一匹に刻印を穿つか? 凡夫の想像力など、知と呼ぶことすらおこがましい」
アスタのどこまでも見下すような物言いに、レオンハルトの背の緊張が一層高まる。
その固く強張った背中の脇から、おそるおそる、ひょこりと小さな頭が覗いた。
「アスタ様……」
対峙する二人に、クラリスが恐る恐る割って入った。




