014
震える声で、しかし確かに名を呼ぶクラリスに、アスタは片眉をわずかに押し上げた。
「アスタ様……。結局、聞けずじまいでしたけれど……あの箱は何なのですか? 私に……我が家に、何かをもたらそうとしているのですか?」
問いかけるクラリスに対し、アスタは心底可笑しそうに鼻で笑った。
「一個体に興味などないと、言ったばかりのはずだが? 『何をもたらすか』だと? 愚問だな」
アスタは組んだ脚の上の指をわずかに動かし、宙を撫でるように優雅な仕草を見せる。
「『箱』とは何だ? 境界を隔て、内と外を分かつだけの虚無だ。それ自体に意味などありはせん。
……だが、貴様ら凡夫とて、宝を収めるのに泥の箱は選ばぬだろう? 収めるものに相応しい『器』を選ぶ。ただ、それだけのことだ」
「それは……」
「箱は、ただの箱だ。……中に何が満ちているか、あるいは何を注ぎ込もうとしているかは、貴様ら人間の都合に過ぎんよ」
詩的でどこか煙に巻くような言い回しに、クラリスは「ふぅ」と呆れたように小さく息を吐いた。
彼女はそっと身を乗り出すと、レオンハルトが柄に掛けている硬直した手に、己の指先を重ねた。
柄を固く握りしめていたレオンハルトの手に、クラリスの温もりが伝わる。
諫めるように優しく触れられ、レオンハルトは驚いたように手元を見つめた。
「レオンハルト様……。彼……アスタ様は、少し……いえ、とっても嫌なことをおっしゃるんですけれど……」
クラリスは戸惑うように視線を泳がせながら、しどろもどろに言葉を紡ぐ。
「でも……多分、私たちに直接的な害意はない、と思うんです。……その、根拠とかは、何もないんですけれど……だから……」
必死に自分を宥めようとするクラリスの様子に、レオンハルトは詰めていた息をふっと吐き出した。
指先から伝わる彼女の微かな震えと柔らかさ。それらが、戦闘態勢に入っていた彼の全身の緊張をすっと解きほぐしていく。
レオンハルトは柄からゆっくりと手を離すと、静かに剣の構えを解いた。そして、未だ油断なく刺すような視線をアスタに向けたまま、静かに元の位置へと腰掛け直した。
クラリスはハッと我に返り、先程までレオンハルトの手に触れていた自分の指先をもじもじさせた後、きゅっと膝の上で手提げを小さく握りしめて居住まいを正した。
「そ、それで……アスタ様。わざわざ姿を現したということは、何か用があったのではありませんか?」
少々上ずった声をなんとか整え、クラリスはアスタをまっすぐに見つめ返した。
ただ気まぐれに冷やかしに来ただけではないはずだ。
…おそらく、だが。
問いかけられたアスタは、くっと喉を鳴らして可笑しそうに目を細めた。
「ふむ……小娘のくせに、少しは我の理を理解し始めたか」
アスタは宙に預けていた脚をゆっくりと下ろすと、ローテーブルの上の空気を弄ぶように細い指先を滑らせた。
「そうだな。ただの暇つぶしにしては、少々くだらぬ害虫がこの街の陰湿な湿地で湧きすぎている。……審理官、貴様が追っている『黒い影』のことだ」
「……何だと?」
レオンハルトの瞳の奥が険しく光る。公都の闇に潜んでいるであろう魔道士――ウォーロックの存在を、アスタは完全に把握している口ぶりだった。
アスタは退屈そうに謎掛けのような言葉を吐き捨てる。
「獣は己の臭いを隠すために、より強い獣の縄張りに潜むものだ。……あるいは、聖なる光の真下ほど、濃密な影が落ちることを知っているのかもな」
「聖なる光の真下……?」
「答えをそのまま与えては、貴様らのちっぽけな『捜査』という娯楽を奪ってしまうだろう?
まあ、せいぜい足元に気を配ることだな。足元をすくわれてから泣きついても、我は一滴の同情も注がんよ」
嘲笑を残し、アスタの姿が煤のように揺らぎ始める。
「――この公都は実によくできている。表の星が風を呼び、光を集めれば集めるほど……その真下に、どれほど深くて濃い影が生まれるか、凡夫の目には見えんのだろうな。」
レオンハルトが目を見開く。アスタの笑い声が、薄れる影の奥から重なる。
「250年……。澱を溜め込むには、十分すぎる年月だ」
その言葉を最後に、アスタの気配はまるで最初から存在しなかったかのように、跡形もなく消え去ったのだった。
アスタの気配が完全に消え失せ、室内には急に訪れた静寂だけが残された。
嵐のような存在に気圧されていた二人は、呆然としたまま、しばらく言葉もなく固まっていた。
――ゴーン、ゴーン、ゴーン……。
頭上に位置する大聖堂の大きな鐘楼から、13時を告げる重厚な鐘の音が響き渡り、執務室の空気を心地よく震わせた。
その音でハッと正気に戻ったように、レオンハルトがふっと肩の力を抜いた。
固まっていたクラリスと視線が交わると、彼は困ったように眉を下げ、吐息交じりの苦笑をこぼす。
その親しげな表情に、クラリスの胸の奥も小さく温かくなった。
「――クラリス嬢」
「は、はいっ」
自身の名を呼ぶ柔らかな声に、クラリスは弾かれたように背筋を伸ばした。
レオンハルトは彼女の緊張を解きほぐすように、ほんの少し苦笑いを忍ばせた表情を浮かべると、穏やかな声で語りかけた。
「……随分と、騒々しい客人に時間を奪われてしまいましたね。すっかり良い時間です。お約束通り、ランチにご案内させていただいても?」
「あ……はい! 喜んで」
レオンハルトが案内したのは、大聖堂の回廊を抜けた先にある、聖庁の要人や招待客のみを迎える静かなプライベートサロンだった。
陽光が差し込むアーチ窓からは手入れの行き届いた中庭が覗き、白を基調とした落ち着いた空間だ。
二人きりで過ごすには少し広すぎるはずの室内が、なぜか心地よい密やかさに満ちていく。
テーブルに運ばれてきたのは、清涼な水脈に恵まれた公都ならではの清々しい料理だった。
白身魚と季節の野菜を使った澄んだスープに、焼きたての香ばしいハーブパン、そして柔らかく蒸し上げたポルチーニと仔牛のフレッシュクリーム和え。
温かいスープを一口口に含むと、身体の奥に残っていた冷たい緊張がふわりと解けていくのを感じ、クラリスは小さく息を吐いた。
「……彼――アスタ様、結局、何者なのかは分かりませんでしたね」
スープの匙をそっと皿に置き、クラリスは思い返すように呟いた。
向かいに座るレオンハルトも、自身のグラスに視線を落としながら静かに頷く。
「ええ。ですが……あの不遜極まる態度と、空間を歪めて現れる異能。
一般的な魔道士の領域を遥かに超えていることだけは確かです。
そこで言葉を一度区切ると、レオンハルトはテーブル越しに少しだけ身を乗り出した。
声のトーンを落とし、まるで二人だけの秘密を確かめ合うかのような眼差しでクラリスを見つめる。
「……クラリス嬢、改めてお聞きしますが、本当に体調や精神に不調はありませんか?」
自分を案じる真摯な眼差しに射抜かれ、クラリスは胸が跳ねるのを感じた。
「はい。正直、厳しい事もたくさん言われましたけれど……不思議と、私自身に危害を加えるつもりはないのだと分かります。ただ……」
クラリスは恥ずかしさを誤魔化すように、手元に置かれた温かい紅茶のカップに視線を注いだ。
「アスタ様が去り際に言っていた言葉が気になります」
レオンハルトの黄金の瞳が、深く鋭い思考の光を帯びる。
「……公都がこの地に遷都されたのは、およそ250年前。大崩壊の後ですよね。そしてアスタとやらは『表の星が風を呼び、光を集める』と言った」
彼はナプキンの端で軽く口元を拭うと、まっすぐにクラリスを見つめた。その瞳には、彼女という存在への強い信頼と期待が宿っている。
「食事の後、お茶を召し上がりながら……少し公都の古い都市計画図を一緒に見ていただけないでしょうか。貴女の知恵を、お借りしたいのです」
「私の……ですか?」
「ええ。一人で机に向かうより、貴女と視線を並べた方が、見えてくるものがある気がするのです」
そう言って小さく微笑む彼の言葉には、純粋な誠実さと、だからこそ拒みがたい温かな響きがあった。




