015
サロンでの昼食を終え、静けさの戻った執務室へ戻ると、レオンハルトはローテーブルの上に羊皮紙の古い都市計画図を広げた。
「――さて。アスタの言葉を検証してみましょう」
そう言って立ち襟の喉元をほんの少し緩めると、彼はテーブルに身を乗り出し、真剣な眼差しで地図を覗き込む。
その瞬間――普段は耳の後ろへ綺麗に流されている長めの黒髪から、一筋の前髪がはらりと落ちた。
あのアスタとのやり取りが過ぎ去り、ようやく胸を撫で下ろしたクラリスは、そこで初めて、目の前に座る彼の顔をまじまじと見つめた。
今まで状況に追われてそれどころではなかったけれど……改めて目を向けたレオンハルトの顔立ちは、まるで彫刻家が丹念に削り出したかのように気高く、整っている。
すっと通った高い鼻梁に、知性を宿した澄んだ黄金の瞳。どこをとっても隙のない、神聖さすら感じさせる佇まいだ。
けれど、伏せられたその目元に黒髪が一筋かかった途端、彼の纏う空気がわずかに変化した。
下を向いたことで、後頭部から首筋にかけてキュッと美しく引き締まった髪のラインが際立ち、同時に、その一筋の乱れが、神に仕える男の内に秘められた「ひとりの男性としての影」をふいに匂わせる。
(――あ……)
クラリスの胸が、ひゅっと小さく跳ねた。
レオンハルトは髪の乱れに気づく様子もなく、地図の上でしなやかな指先を滑らせている。
「公都の五大結界……これを結ぶと、確かに整った五芒星を描きます。ですが、彼の言っていた『表の星』という言葉の意味を考えると――」
低く落ち着いた声が、執務室の空気を心地よく揺らす。
けれど、クラリスの耳にはもう、その言葉がちっとも入ってこなかった。
(どうしよう……私、なにを考えているのかしら……っ)
目の前にいるのは、主の御前にて一生を捧げると誓った、気高き特務審理官。
幼い頃から厳しく礼儀作法を教わってきた身でありながら、神に仕えるお方に対して、このような胸の疼きを覚えてしまうなんて。
乙女としての嗜みを踏みにじるような恐れ多さと、胸の奥がキュッと締めつけられる甘い罪悪感に、顔がカッと熱くなる。
赤くなっていく頬を必死に隠すように、クラリスは慌てて手元の紅茶のカップを両手でギュッと握りしめた。
「……クラリス嬢?」
クラリスの異常な静けさに気づいたのか、レオンハルトがふと顔を上げた。
彼は手袋を嵌めた指先で、邪魔そうに落ちていた前髪をさらりと耳の後ろへとかき上げる。
露わになった彼の額と澄んだ瞳にまっすぐ見つめられ、クラリスの鼓動は、いよいよ止まらなくなってしまうのだった。
「……クラリス嬢? 顔色が少し赤いようですが、やはりどこかお体に熱でも?」
レオンハルトは心配そうに眉をひそめると、広げていた地図からすっと身を乗り出した。
「あ、いいえっ! 全く、そのようなことは……! ただ、温かい紅茶をいただいたので、少し熱が上気してしまっただけでございます!」
クラリスは上擦りそうになる声を必死に抑え、教え込まれた通りの淑女の微笑みを貼り付けた。
けれど、握りしめたカップの温もりよりも、自分の両頬の熱さの方がずっと勝っている。
神に仕える清らかなお方に向かって、あのような不純なときめきを覚えてしまっただなんて、口が裂けても言えるはずがない。
「……そうですか。なら良いのですが。あまり無理はなさらないでくださいね」
レオンハルトはほっと安堵の息を吐くと、柔らかな黄金の瞳で彼女を見つめた。
その眼差しには下心など微塵もなく、ただただ目の前の少女を慈しみ、気遣う優しさだけが満ちている。
――それが、クラリスの胸をいっそう切なく絞めつけた。
こんなにも高潔で、真っ直ぐに自分を案じてくれるお方なのだ。
それなのに、自分の不甲斐なさと胸の奥の疼きが情けなくて、クラリスはそっと伏し目になった。
「あ……あの、レオンハルト様。アスタ様の言葉のことですが……」
これ以上、不純な思考に心を囚われないよう、クラリスは強引に話を本来の議題へと戻した。
「『表の星が風を呼び、光を集める』……でしたわね。公都の結界が五芒星を描いているとすれば、その『表』ということは……もしかして、私たちが普段目にしている結界の裏側に、もうひとつの『隠された星』が存在するのではないでしょうか?」
意を決して紡いだクラリスの推測に、レオンハルトの瞳がわずかに見開かれた。
「……隠された星、ですか」
彼は顎に手を当て、深く思考の海へと潜っていく。
先ほどまでクラリスに向けられていた甘く優しい空気は一変し、特務審理官としての鋭く知的な横顔に戻っていた。
「公都の遷都は大崩壊の直後……つまり250年前です。当時の記録では、地下水路の整備と同時に、表向きの結界の基盤が造られたとされています。ですが……もしもその裏で、別の意図を持った陣が刻まれていたとしたら」
彼は地図の上に指先を滑らせ、表の五芒星の結界線をなぞっていく。
その真剣な眼差しと、自分の一言を対等な意見として受け止め、思索を深めてくれる真摯な態度。
(私なんかを……頼りにしてくださるなんて)
先ほどまでの背徳感とはまた違う、温かく誇らしい感情が胸を満たしていく。
自分はただ守られるだけの存在ではないのだと、彼がその態度で示してくれているような気がした。
「クラリス嬢」
ふいに名を呼ばれ、クラリスはハッと顔を上げた。
レオンハルトはナプキンで指先を軽く拭うと、まっすぐに彼女の瞳を見つめていた。
その表情には、ひとりの女性に対する強い信頼と、どこか深い愛おしさが宿っている。
「やはり、貴女にお聞きして正解でした。私ひとりでは、過去の記録という偏見に囚われ、その発想には至らなかったでしょう」
「そんな……私など、思いつきを口にしただけで……」
「いいえ。貴女の豊かな知性と、物事の本質を見抜く真っ直ぐな眼差しのおかげです」
穏やかに紡がれる称賛の言葉。
言葉の端々に込められた熱に、クラリスはまたしても胸が大きく音を立てるのを感じた。
「食事の後に申し訳ありませんが……もう少しだけ、私に知恵を貸していただけますか?
過去の遷都記録のある図書室へ、一緒に行っていただけると助かります」
「はい……! 喜んで、お供いたします」
クラリスは深々と頷いた。
主に身を捧げた清らかなお方を、ひとりの男性として意識してしまう不徳な私。
なにより……私には、大切な婚約者がいるというのに。
決まった未来がある身でありながら、神に仕えるお方へこのような想いを抱くなんて、どれほど浅ましいことだろう。
聖職者という清らかな境界の向こうにいる彼との間には、あまりにも大きくて重い隔たりがあった。
今の私では、彼の隣に並ぶにはあまりにも未熟で、不釣り合いだということも分かっている。
それでも――今はただ、この手が届きそうな距離で、彼の力になりたい。
私を守ると誓ってくれた彼の力に。
クラリスは溢れそうになる切なさを胸の奥へ押し込め、小さく祈りを捧げると、立ち上がったレオンハルトの後ろ姿を静かに追いかけるのだった。
今日は、ここアルテンブルク公国について語ってやろう。寒々しい台地で旧時代の紙屑を大事そうに抱え込んでいる、頭の固い伝統派貴族どもの領地だ。
奉るは『高地気流と澄空の女神』。過度な湿気を追い払う乾燥した風の領域で、おかげで羊皮紙や古文書が傷みにくい。彼らはその「風化しにくさ」を誇り、言葉や精神に破れぬ束縛を刻み込む『絶対約定』なる血統魔術で宮廷の頭脳を気取ってきた。
約250年前、東部へ来た彼らが遷都先に選んだのが、現在の中北部の台地だ。他家が利権を漁る中、彼らは馬車いっぱいに旧帝国の古文書と図書を詰め込み、「最も紙が傷まない場所」を選んで籠もったのさ。白亜の崖と一体化した大図書宮殿を建て、自分たちだけは格式高いままだと現実逃避を続けている。
ツイードを着込み、銀器を磨き、グリフォンや狼を狩って見栄を張る。過去の栄光に固執し、時が止まったままの哀れな化石どもの都だよ。




