016
重々しい鉄の扉を開けると、そこは公都の歴史が眠る地下の図書室だった。
天井の低いアーチ型の室内には、羊皮紙と古い革装丁の匂いが密やかに立ち込めている。
高い壁を埋め尽くす重厚な木製の書架はどれも間隔が狭く、ふたり並んで歩くのがやっとの狭さだった。
壁に掛けられた小さな魔導ランタンが、琥珀色の柔らかな光を投げかけ、ふたりの影を壁に長く落としている。
「足元に気をつけてください。ここは古い資料が多く、あまり人も入りませんので」
「はい……」
レオンハルトの先導で狭い書架の間を進むにつれ、外界の音が完全に遮断され、室内にはふたりの足音と衣擦れの音だけが響くようになった。
密室の静寂と、すぐ目の前にある彼の背中。
サロンで覚えた胸の疼きが、この密やかな空間でいっそう強くクラリスの鼓動を早めていく。
「遷都に関する資料は……このあたりの棚ですね」
レオンハルトがある書架の前で足を止め、振り向いた。
あまりの通路の狭さに、追いついたクラリスは思わず彼の胸元へ飛び込みそうになり、慌てて足を止めた。
「あ……申し訳ありません!」
「いいえ、狭くて申し訳ない。……さあ、ここです」
レオンハルトは小さく苦笑すると、壁際の棚を指し示した。
だが、その棚を見ようとすると、クラリスは自ずとレオンハルトのすぐ隣――肩が触れ合いそうなほどぴったりと身を寄せ合う位置に立つしかなかった。
ふわりと、彼の纏う清涼な香木の香りが鼻腔をくすぐる。すぐ脇にある彼の体温や、服越しに伝わる男らしい体躯の存在感が嫌でも意識され、クラリスの心臓は破裂しそうなほど打ち鳴らされた。
(ち、近すぎます……っ)
赤くなりそうな顔を必死に隠すため、クラリスは急いで棚の古い羊皮紙の束へと視線を逃がした。
「遷都250年前の記録……これでしょうか」
「ええ。ですが、上の段にある分厚い綴じ本が当時の詳細な建築手記のはずです」
レオンハルトが手を伸ばそうとした時、背の高い彼がすっと覆いかぶさるような体勢になった。
クラリスの頭上を彼の腕が伸び、背後から抱きすくめられているかのような錯覚に、クラリスは緊張しすぎて目眩がしそうになる。
「……あ」
レオンハルトの指先が古い本棚の奥に触れた瞬間、バランスを崩した古い資料の一束が、パラパラと崩れ落ちそうになった。
「危険だ!」
「きゃっ……!」
反射的にレオンハルトがクラリスの肩を引き寄せ、自らの背中で庇うように覆いかぶさった。
ドサドサと軽い埃とともに紙束が足元に落ちる音。
そして――静寂。
クラリスが恐る恐る目を開けると、視界いっぱいに広がっていたのは、レオンハルトのしっかりとした胸元だった。
彼の強靭な腕が自分の背中をすっぽりと抱きかかえており、すぐ耳元からは、彼の少し速い呼吸が伝わってくる。
「……クラリス嬢。お怪我はありませんか?」
頭上から降ってきたのは、いつもの冷静な彼とは思えないほど、切なく固く強張った声だった。
至近距離で伝わる彼の体温。守るように背中に回された腕の力強さと、触れ合う胸元越しに伝わってくる、レオンハルトの早い鼓動。
男性にこんなにも力強く抱きしめられたことなど、一度もない。レオンハルトに下心など微塵もなく、ただただ自分を必死に守ろうとしてくれただけなのだと分かっているのに――。
(ああ……どうしましょう、私……っ)
男性特有の固い胸板や引き締まった体躯の存在感がダイレクトに伝わり、クラリスの心臓は跳ね上がり、顔が沸き立つように熱くなる。
私には婚約者がいるのに。
そして、このお方は神に生涯を捧げた気高き聖職者なのに。
頭では必死に自分を戒め、この甘い疼きを胸の奥へと押し込めようとする。
けれど、レオンハルトが無意識に放つあまりにも優しく強い包容力と、重なり合う鼓動の熱さに、クラリスは息をすることすら忘れて呆然と見つめ返してしまうのだった。
あ……と、思わずクラリスは息をのんだ。
揺れる光の中で、レオンハルトの深い黄金の瞳が、まっすぐに自分を見つめている。
冷静で厳格な審理官の瞳ではない。そこには、戸惑いと、どこか熱を帯びた、ひとりの男性としての眼差しがあった。
静寂の中、二人分の跳ね上がる鼓動だけが重なって響く。
吸い寄せられるように視線が交差し、彼の唇がほんのわずかに開いた、その瞬間――。
ランプの揺らぎが収まり、暗がりの中に現実の輪郭が戻ってきた。
互いにハッと正気に戻り、弾かれたように半歩分、距離を取る。
狭い通路の壁に背中を押し付けるようにして視線を泳がせ、赤くなった顔を隠すようにそっぽを向いた。
気まずい沈黙と、甘い緊張感が密室に満ちていく。
レオンハルトは口元に手を当て、短く咳払いをすると、足元に目を落とした。
「……資料を拾い集めましょう。埃が舞いますから、クラリス嬢は少し下がっていてください」
落ち着きを取り戻そうとする彼の言葉に、クラリスは胸の前で手を小さく握りしめ、首を横に振った。
「いえ、大丈夫です。私もお手伝いします」
クラリスは裾を汚さないよう気をつけながら膝をつき、足元に散乱した古い羊皮紙を一枚ずつ拾い集め始めた。動揺で手が少し震えてしまう。
けれど、数枚の黄色く変色した図面を手にした瞬間、クラリスの指先がピタリと止まった。
「……あれ?」
「クラリス嬢?」
クラリスの様子の変化に気づき、レオンハルトも隣に屈み込んだ。
「どうされましたか?」
「レオンハルト様……これをご覧ください」
クラリスは拾い集めた羊皮紙のうち、破れかけた古い透かし紙の図面を二枚、重ね合わせて魔導ランプの光にかざした。
一枚は、先ほどまで議論していた「公都の五芒星の結界図」。
そしてもう一枚は、足元に落ちた紙束の中に紛れていた「250年前の地下水路の設計図」だった。
「これは……」
レオンハルトの瞳が、驚きでわずかに見開かれる。
羊皮紙を二枚重ねて光に透かすと、表の五芒星の線の隙間を縫うように、地下水路のラインが美しい幾何学模様を描き出し――まったく別の、もうひとつの陣を完成させていたのだ。
「表の五芒星の裏側に、地下水路を利用した、もうひとつの星……『六芒星』が浮かび上がっています」
クラリスは上気した頬の熱も忘れ、真剣な眼差しで重ね合わせた図面を見つめた。
「アスタの言っていた『表の星が風を呼び、光を集める』……それは、表の五芒星に人々の意識を集めている間に、この隠された六芒星を使って、地下から何かを動かそうとしているのではないでしょうか?」
二枚の図面を食い入るように見つめ、レオンハルトは深く息を吐いた。
「素晴らしい着眼点です、クラリス嬢。……遷都の混乱の中で忘れ去られていた『裏の陣』が、こんなところに眠っていたとは」
彼は膝をついたまま、クラリスの持つ図面を覗き込み、心からの敬意を込めて彼女を見つめた。
「貴女がいなければ、私はこの図面の存在にすら気づけなかったでしょう」
まっすぐに注がれるその称賛と澄んだ瞳に、クラリスの胸は、事件の謎が解けた達成感とともに、再び温かく跳ね上がるのだった。
発情中の小娘は放っておいて、神の威光を気取る『聖庁』について教えてやろう。
正式名称は『一なる創造神の聖庁』。
主神たる創造神と、星環維持神を祀る絶対宗教で、頂点には『教皇』が君臨する。
教皇の下が聖庁の最高幹部たる『十二枢機卿』だが、その役割は醜く二分されている。なに、枢機卿の数が少なすぎるだと?愚問だ、察しろ。
まず五名の『地方担当枢機卿』。五公国の各大司教を兼任し、各国の宗教トップとして世俗貴族と癒着し権勢を振るう狸どもだ。今あいらが居る大司教座聖堂には、この公国担当の枢機卿が君臨しているって事だな。
そして残る七名が『中央担当枢機卿』。聖都レムリアに常駐し、聖庁の「七大省庁」の長官として絶対的な権力を握っている。教義の正統性を監視する第一席から、軍務、審理、結界、遺物調査、解剖、果ては裏工作を担う外務・密情報庁の第七席まで……権力と利権を貪る省庁のトップたちだ。
教皇の足元で互いの足を引っ張り合う様は、実に見苦しくも愛おしい喜劇だよ。




