017
図書室から執務室へと戻った二人は、ローテーブルの上に先ほど見つけた二枚の図面を広げた。
「地下水路のこの交差点……ここが『裏の六芒星』の核になっていますね。今日判明したこの構造をもとに、さっそく今夜から精鋭に予備調査に入らせます」
冷めてしまった紅茶に軽く口をつけながら、レオンハルトの表情はすっかり「仕事人間」のそれに切り替わっていた。
普段の冷静沈着な彼にしては珍しく、黄金の瞳にはかすかな熱と疾走感が宿っている。
事件の突破口が開けたことに対する純粋な高揚感が、彼の全身から伝わってきた。
「明日には、地下の具体的な魔力濃度の計測結果が出るはずです。クラリス嬢、貴女のおかげで数週間分の捜査をショートカットできました」
「そんな……私はただ、図面を重ねただけで……」
「いいえ。その思いつきこそが、この公都を救う鍵になります。……あの男の助言があったことも、不本意ではありますが認めなければなりませんね」
敵対的で胡散臭い相手であっても、もたらされた情報の価値は公平に評価する。
その私情を交えない誠実な言葉に、クラリスは微笑みを浮かべながら深く頷いた。
「さあ、二人で掴んだこの手がかりを、決して無駄にはさせません」
熱を帯びた言葉とともに未来を見据える彼の姿に、クラリスもまた力になれた喜びに胸を躍らせ、二人は更なる分析へと没頭していった。
しかし、執務室の窓から差し込む光が橙色から少しずつ斜陽の朱へと変わり始めた頃、レオンハルトは壁掛け時計に視線をやり、きっぱりとペンを置いた。
「……名残惜しいですが、ここまでにしましょう。お母上と『十六時までにはお送りする』とお約束しておりますから。
馬車を用意させますので、お送りしましょう」
◇
がたごとと、心地よい揺れを立てながら夜の公都を走る馬車。
執務室での熱気が冷めていくにつれ、車内にはしだいに静寂が満ちていった。
向かい合わせの座席に座り、流れる夜景を窓越しに見つめながら、クラリスは膝の上に置いた手提げ鞄を、ギュッと両手で握りしめた。
(……どうしよう)
仕事のテンションが落ち着いたことで、先ほど地下の図書室で起こった「出来事」が、鮮烈な熱を持って脳裏に蘇ってきたのだ。
あの狭い書架の間で、彼に強く抱きしめられた感触。
耳元で聞こえた、彼の少し速い息遣い。
そして、ランプの光が揺れる中で見つめ合った、あの息が止まるような瞬間――。
(私……なにを意識しているのかしら……っ)
意識すればするほど顔がカッと熱くなり、クラリスは慌てて窓の外へ視線を固定した。
ふと気になって斜め向かいのレオンハルトへ視線を向けると――彼もまた、普段の隙のない佇まいとは少し異なり、窓の外を眺めたまま無言で口元に手を当てていた。
彼の指先が、ほんの少しだけ強張っている。
あの不慮の密着で、レオンハルト様に不快な思いをさせてしまったのではないか。
それとも、お優しい彼のことだから、私に配慮して黙ってくださっているのだろうか。
それとも――単に、頭の中はすでに捜査のことでいっぱいなのだろうか。
確かめる術もないまま、沈黙だけがふたりの間に甘く重く横たわる。
馬車が揺れるたび、重なりかけたふたりの影の記憶がフラッシュバックし、クラリスの心臓は夜の街の静けさとは裏腹に、甘い音を立てて跳ね上がり続けるのだった。
◇
絹のナイトドレスに着替え、天蓋付きのベッドに横たわったクラリスは、天井を見つめながらそっと胸の上に手を置いた。
灯りを落とし、静寂に包まれたがりの中で、今日起きた出来事――レオンハルトの手から伝わった熱や、彼からかけられた誠実な言葉が、今も鮮やかに胸を叩いている。
彼に触られたところが、まだ熱を持っているようで、思わず自分で自分を抱きしめる。
(レオンハルト様……。私、貴方様のお力になりたいのです)
守られるだけの存在から、彼の隣で支えられる存在へ――。
そう強く願った瞬間、クラリスの思考がふっと止まった。
(……私、今『支えたい』って思った……?)
その言葉が、自分の胸の中で変に浮いている気がした。
胸の奥に冷たい雫がポタリと落ちたような、奇妙な違和感。
クラリスはぎゅっと胸元のシーツを握りしめた。
(私……今まで、誰かのために『力になりたい』なんて、思ったことがあったかしら)
一度考え始めると、止まらなくなった。
幼い頃からずっと抱えていた「寂しさ」の正体が、するすると解けていく。
両親にも、お兄様にも、もっと私を見てほしいと願っていた。
婚約者のジュリアン様からも、大切にされることを、どこかで「当然」だと思っていたのではないか。
ジュリアン様が綺麗な花を贈ってくれたとき。両親が声をかけてくれたとき。
自分は微笑んでお礼を言いながらも、心のどこかで『どうせ魔力のない私を哀れんでいるのだろう』と、相手の優しさを素直に受け取らず、ひねくれて見ていたのではないか――。
(私は……ずっと『愛されること』ばかりを求めていたんだわ)
愛してほしい。認めてほしい。自分を見てほしい。
「欲しい、欲しい」と求めるばかりで、傷つくのが怖くて、自分からは何も与えようとしていなかった。
では、自分は誰かを心から愛し、支えようとしたことがあっただろうか。
レオンハルト様に対して抱いたような『この人の力になりたい』という純粋な想いを、今まで家族やジュリアン様に向けたことが一度でもあっただろうか。
(いいえ、一度も……なかった……)
何ひとつ与えようとせず、ただ愛を要求するだけの存在でいようとしていた自分のズルさに気づき、背筋が凍るような思いがした。「愛されない可哀想な私」という悲劇のヒロインの『箱』に閉じこもっていたのは、他の誰でもない、自分自身だったのだ。
あまりの傲慢さに胸が苦しくなり、クラリスは深く息を吐き出した。
暗闇に目が慣れていくにつれ、今まで見えていなかった真実が、ゆっくりと、けれどはっきりと浮かび上がってくる。
この国は、魔力の強さこそが貴族の権威だ。
力のない子どもが突然生まれたら、身内から神の祝福から外れた忌み子として疎まれ、表舞台から隠されたり、いなかったことにされたりしてもおかしくなかったはずなのに。
お父様とお母様は、私を一度だって隠さなかった。
ただ一人の娘として、伯爵令嬢として恥ずかしくない教育を受けさせてくれた。
そればかりか、ジュリアン様のような立派な方との将来まで整えてくれたのだ。
そしてジュリアン様もまた、魔力を持たない私を軽んじることなく、常に一人の令嬢として尊重し、優しく接してくれていた。
彼らが与えてくれていた惜しみない支援も、義務を果たそうとしてくれていた誠実さも見ようとせず、自分はただ「私が欲しい形での愛じゃない」と勝手に腹を立てていただけだった。
目から一筋の涙がこぼれ、枕にしみ込んでいく。
(ごめんなさい……ごめんなさい……)
与えられるのを待つだけの、幼く身勝手だった自分にはもう戻りたくない。
私は、ただ守られて愛をねだるだけの子供じゃなくて、誰かに何かを与えられる人間になりたい。
周囲が注いでくれた愛情に恥じない自分に。
そして――いつか、レオンハルト様のような方の隣にも胸を張って立てるような、強い自分になりたい。
クラリスは流れる涙をそっと拭い、静かに瞼を閉じた。
……はぁ。わざわざ下らない茶番を私に語らせるのか?
公都の脅威という緊迫感も忘れ、狭い書架で密着しただの馬車で沈黙が甘いだのと、浮かれた雄と雌の交尾前戯などどうでもいい。勝手に心拍数でも上げていればよかろう。
後半の泣き言もそうだ。今まで親や許婚の庇護を当然と貪り、悲劇のヒロインを気取っていた愚かさに気づいた……ただそれだけの話だろう。
己の図々しさに気づいて涙を流そうが、悔い改めようが、くだらない人間の自己満足に過ぎん。いちいち大層ぶって決意を語るな。勝手に勝手な理想を追って、勝手に成長すればいい。
……くだらん。こんなもののために私の時間を取らせるな。




