018
クラリスが自室のベッドで静かに自らの心と向き合っていた、まさにその同じ夜。
公都の底――陽の光が一度も届いたことのない地下水路の最深部に、黒衣の集団が無音で滑り込んでいた。
足元を濡らすのは、泥と落ち葉、そして長年溜め込まれた腐臭を放つ黒い水。
先端に青白い魔導光を灯したランタンを掲げ、レオンハルトを筆頭とした聖庁の精鋭たちが、冷ややかな足音を殺して進む。
「……ヴァイス卿。四箇所目の頂点の確認、完了いたしました」
影の中から現れた副官が、声をひそめて報告する。その顔色は白く、手袋を嵌めた指先には泥と――血のように粘つき、不気味に脈動する黒い膏のようなものがこびりついていた。
「やはり、水路の壁面全体に皮が貼り付けられています。人間のものか、あるいは獣のものか……何者かの剥ぎ取られた皮膚に、血の墨で密教の符詛がびっしりと書き連ねられていました。水流に紛れて、公都中に狂気の発作を伝播させる触媒です」
「……吐き気がするな」
レオンハルトは眉一つ動かさず、ランタンの光を壁面へ向けた。
ぬらぬらと濡れた石壁には、副官の言った通り、剥ぎ取られてから時が経っているはずの生皮が、まるで生きているかのように微かに引きつり、蠢いていた。魔導光を浴びると、皮に刻まれた呪印からシュシュと低い蒸気が立ち上り、腐肉と腐敗した油が混ざり合った吐き気を催す悪臭が立ち込める。
聖職者の衣装に身を包んだレオンハルトの黄金の瞳が、暗がりの中で冷酷なまでに冴え渡っていた。
「クラリス嬢が導き出した通りだ。表の五芒星の陰に隠され、遷都の混乱の中で忘れ去られていた地下水路……この『裏の六芒星』の6つの頂点は、すべてこの生皮の符詛によって完全に機能している」
彼らは、古文書室で見つけた2枚の図面をもとに、今夜だけで六芒星の頂点にあたる地下ポイントを次々と特定していた。
「そして――ここが、その中央。核となる交差点だ」
レオンハルトが立ち止まったのは、数本の地下水路が交差する巨大な空洞だった。
天井からは天井石を突き破って太い樹木の根のようなものが幾重にも垂れ下がり、それが水面へ向かって這い回っている。……いや、樹木の根ではない。
近づいて光をかざせば、それは干からびて黒ずんだ「巨大な血管の束」だった。
頭上の公都から伸びた血管の束が、この地下の交差点に集まり、水面の下にある「何か」へと脈動しながら魔力と人々の感情を送り込んでいるのだ。
「……信じられません。公都の地下全体が、まるで行きている巨大な子宮か、解体途中の肉塊だ……」
隊員のひとりが耐えきれずに口元を押さえ、壁に手をつく。
レオンハルトは静かに水元へ近づき、手袋を嵌めた手で、水面に揺れる黒い澱みを掬い上げた。
「六芒星の頂点は完成し、この核へ向かってすでに莫大な魔力が循環している。……準備は完全に整っているな。あとは、引き金を引くだけだ」
「引き金……本儀式、ですか」
副官が緊張に顔を強ばらせる。
「ああ。これほどの規模の陣を起動させるには、この核で集めた力を一気に爆発させ、公都全体へ流し込むための本儀式の祭壇が必要だ。この地下のどこかに、あるいは――」
レオンハルトは水面に落ちる滴の音を聞きながら、冷徹に思考を巡らせた。
「……だが、その本儀式を執り行おうとしている場所が、まだ見当たらない」
六芒星の頂点も、力を集める核の構造も解明した。
しかし、犯行の最終段階である「本儀式」がいつ、どこで執り行われるのか。肝心の【最後のパズルのピース】だけが、このおぞましい地下空間の暗闇の中に隠されたままだった。
「隊長、これ以上の長居は危険です。地下の魔力濃度が上がり始めています。隊員の正気が保ちません」
「……撤収する。明日、防空・結界班を回してこの核を一時的に封圧する。……急がねばならんな」
レオンハルトは一瞬だけ瞳を閉じ、脳裏に一人の少女の姿を浮かべた。
昼間のあの温かな紅茶の香り、そして自分の手の中で怯えていた小鳥のような可憐な少女。
彼女が眠る地上を、この泥と血と死臭に塗れた狂気が呑み込もうとしている。
(絶対に……地上へは出させん)
黄金の瞳に冷冽な意志を宿し、レオンハルトは漆黒の外套を翻して、暗闇の奥へと足を進めた。
◇
昨夜の深い内省と涙の末、すっきりと冴えた心地で目を覚ましたクラリスのもとへ、朝一番で二通の手紙が届いた。
一通目の差し出し人は、レオンハルトからだった。
『クラリス様
昨夜の調査について、さっそく進展がございました。
もし差し支えなければ、本日十四時の鐘が鳴る頃に、お迎えに上がってもよろしいでしょうか。お時間をいただけるようであれば、幸いです』
レオンハルトらしい、礼儀正しく誠実な文面。
クラリスは迷わず「喜んでお待ちしております」と返事を書き、そのまま使者に持たせた。
そして、二通目の差し出し人は――ここしばらく音沙汰のなかった婚約者、ジュリアンからだった。
『親愛なるクラリスへ。
最近は忙しさにかまけて連絡もできず、寂しい思いをさせてしまって本当に申し訳なかった。
明日、公都の西にある当家の別邸へ来てもらえないだろうか。
君に見せたいものがあるんだ。きっと君にも喜んでもらえると思う。久しぶりに二人でゆっくりと話をしよう』
そこに認められていたのは、かつての関係を思い出す、温かく丁寧な言葉だった。
(ジュリアン様……まるで、以前の優しかった頃に戻られたみたい……)
あんなにも欲していたジュリアンからの誘いの手紙なのに、なぜか胸の奥がかすかにざわつく。
だが、昨夜自室でいろいろと自省し、これからは誠実に向き合おうと決意したばかりだ。
クラリスはいつもジュリアンへ返書を書く際に使っている、一番お気に入りのレターセットを机に広げた。
今度こそ、ジュリアンと向き合うために――明日、伺う旨を丁寧にしたため、侍女へ託した。
あの男の肩書でもある、『特務審理官』とは、なんぞや、か。
すなわち、中央七大省庁の長官(枢機卿)どもが直属として一人ずつ抱える、いわば「七人の狂犬」だな。組織の手に負えぬ異常事態や裏の汚れ仕事を片付ける切り札だ。
高位聖職者の裏切りを独力で粛清する第一席に、広域を崩壊させる第二席、不祥事を裁く第三席、大術式を解体する第四席、生体変異を解剖する第六席、暗闇に潜む第七席……どれも癖のある無法者ばかりだ。
そして、あのレオンハルトは、第五席『死都遺物・異導調査官』だ。
大破滅の遺物を追い、惨劇の現場へ真っ先に突入させられる実動の筆頭だな。
聖庁の利権と秘密を守るために飼い慣らされた手先だが、さて、いつまで大人しく鎖に繋がれていることやら。高みの見物といこうか。




