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019

約束の十四時ぴったりに、聖庁の馬車が伯爵邸の門前に滑り込んできた。


御者が扉を開けると、そこには昨日と同じ、隙のない佇まいで座席に腰かけるレオンハルトの姿があった。


「クラリス嬢。……昨日に引き続き、急なお呼び立てで申し訳ありません」


「いいえ、レオンハルト様。お迎えまでしていただき、ありがとうございます」


車内に足を踏み入れた瞬間、ふわりと昨日の執務室と同じ、彼の身に纏う清潔な香木と微かな紙の香りがクラリスを包み込んだ。


向かい合わせの座席に腰を下ろすと、扉が静かに閉められる。

がたごとと馬車が動き出すと同時に、昨日二人を包んだあの「息の詰まるような沈黙」が、再び車内に満ち始めた。


(……どうしよう、すごく緊張する……っ)


膝の上で手提げ鞄を抱え直し、クラリスはそっと視線を落とした。

脳裏に蘇るのは、昨日の夕方、この馬車の中で一言も喋れなかった甘い重圧と――その前、図書室の暗がりで彼に強く抱き寄せられた感触。


気まずさを取り払おうと慌てて顔を上げると、斜め向かいのレオンハルトもまた、窓の外の街並みに視線を向けたまま、どこか肩を強張らせていた。


「あの……レオンハルト様」


「っ……はい、何でしょう」


クラリスが声をかけると、彼は弾かれたようにこちらへ視線を戻した。

その黄金の瞳がほんの少し泳いだのを、クラリスは見逃さなかった。


(……レオンハルト様も、昨日のこと……私のことを、意識してくださっているかしら)


「あ、その……地下水路の調査……でしょうか。昨夜は遅くまでお疲れ様でした。お体は……大丈夫でしたか?」


「ええ。恐縮です……! こちらの大司教座聖堂の精鋭たちと共に入りましたので、私自身は何の支障もありません」


「……良かったです。今朝は少し冷え込みましたから、お風邪など召されていないかと心配になりまして」


「お気遣いありがとうございます。クラリス嬢こそ、昨日は私の軽率な対応で……その、

大変な恐怖と……ご不快な思いをさせてしまったのではないかと、胸を痛めておりました」


レオンハルトの言葉に、クラリスの心臓が跳ね上がった。


『不快な思い』――彼が何を指しているのか、お互いに言葉にせずとも痛いほど分かってしまう。

昨日の古文書室で、崩れかけた書架から自分を庇い、強く抱きしめてくれたあの瞬間のことだ。


「そんな……っ! 不快だなんて、滅相もありません! レオンハルト様が瞬時に助けてくださったから、私は怪我をせずに済んだのですから……!」


夢中で否定しながら、クラリスは頬がカッと熱くなるのを止められなかった。

助けられた感謝はある。だが、あの時耳元で聞こえた彼の速い呼吸や、自分をすっぽりと包み込んだ大きな腕の感触に、自分が一人の女性として動揺してしまったことも紛れもない事実だった。


「……そう言っていただけると、救われます」


レオンハルトは小さく息を吐き出すと、動揺を隠すように、手袋を嵌めた己の指先をそっと重ね合わせた。


「私ともあろう者が、我を忘れて貴女を強く引き寄せてしまった……。本来なら、もっと紳士的に対処すべきでした」


「レオンハルト様……」


「……ですが」


レオンハルトは一瞬だけ言葉を詰まらせ、ゆっくりとクラリスを見つめ直した。


「……貴女に怪我がなくて、本当に良かった。……それだけは、心からそう思っています」


真摯で、どこか震えるような低い声。

クラリスは、レオンハルトのどこか熱っぽい眼差しを受け止め、甘く疼く心を素直に受け入れつつ、小さく首を振った。


「私も……レオンハルト様が無事で、本当によかったです」


(私、認めるわ。レオンハルト様の事を、一人の異性として強く意識している…)


けれど、自分には婚約者がおり、彼には神に捧げた立場がある。


(この気持ちを口にしてはいけない……。でも……)


静かに車輪の音が響く馬車の中。

いつでも触れ合えるのに触れ合う事のない距離感が、

公都の街並みを抜けるあいだ、愛おしくも苦しい熱を帯び続けていた。


◇


案内されたのは、昨日と同じ――聖庁にあるレオンハルトの執務室だった。

重厚な木製のドアが閉められると、外界の喧騒は遮断され、室内にはふたりきりの静かな時間が落ちる。


「改めて、お忙しい中、足をお運びいただき感謝します、クラリス嬢」


机の上の書類を整えながら、レオンハルトが振り返る。

いつもの隙のない立ち姿だが、改めて明るい室内でレオンハルトの姿を見ると、どこか疲労が滲んでいた。


「いいえ、レオンハルト様。……昨夜は、その、いかがだったでしょうか」


「ええ。昨夜、特務審理隊で地下の『裏の六芒星』を調査いたしました。

貴女のおかげで、6つの頂点と、中央の核を完全に特定することができました」


レオンハルトはローテーブルに図面を広げ、昨夜の調査結果を静かに説明した。

頂点に施されたおぞましい符詛、そして核へと集まる魔力。

危険な部分は伏せつつも、彼女を一人の対等な協力者として扱い、誠実に事実を伝える彼の姿勢に、クラリスの胸は温かくなる。


「……ですが、肝心の本儀式を行う『場所』が、地下のどこにも見当たりませんでした」


「見当たらない……ですか?」


「ええ。恐らく犯人は、特定の祭壇を用意しているのではない。六芒星の核へ魔力を流し込むための『強力なトリガーとなる呪具』を所持しており、それを公都のどこかで発動させる気です。……そうなれば、どこが起動点になるか予測がつきません」


レオンハルトの黄金の瞳が、焦燥と冷徹な光を孕んで揺れる。

公都を未曾有の危機から守るため、彼の全神経が極限まで張り詰めているのが伝わってきた。


彼は締め切っていた窓へ歩み寄ると、室内に淀んだ熱気を逃すように、重厚な観音開きの窓を少しだけ開けた。

途端に、ひんやりとした公都の風が室内へ吹き込み、机の上に広げられた図面の端がバタバタと音を立てて揺れる。


「あっ……」


「失礼、風が強かったですね」


舞い上がりそうになった図面を慌てて押さえようと、二人同時に机へと手を伸ばす。

端と端を押さえた瞬間、図面の真上で二人の顔が互いの吐息を感じるほどの至近距離で重なった。


「……っ」


「あ……」


至近距離で交差する二人の瞳。

お互いが瞬時に蘇る記憶は、昨日の図書室で感じた眼前の異性の体温だった。

二人の呼吸がピタリと止まり、室内を通り抜ける風の音だけがやけに大きく響く。


レオンハルトが喉を鳴らして僅かに後退し、動揺を隠すように咳払いを一つした。


「……失礼。風が強すぎましたね」


図面を整え直す彼の横顔には、まだ僅かな動揺と、公都の重圧による疲労の色が張り付いている。

彼の張り詰めた緊張をどうにかして解きほぐせないか――クラリスは一瞬考え、ポンと胸の中で手を打った。


(そうだわ……!)


クラリスはそっと手提げ鞄に手を伸ばし、丁寧に包まれたふたつの小さな小袋を取り出して机の上に並べた。


「あの、レオンハルト様。お仕事中にお邪魔でなければ……少しだけ、お茶にいたしませんか?」


「お茶、ですか?」


「はい。精神を安定させるハーブティーの茶葉と、それに合わせた焼き菓子を焼いて参りましたの。

このアルテンブルクでは気候がらハーブの栽培が盛んでして、疲れによく効く特別なブレンドなんです。

……もしよろしければ、いかがでしょうか」


「クラリス嬢が、私のために……?」


レオンハルトは驚いたように目を見開いたあと、胸が熱くなったように目元を緩めた。


「……ありがとうございます。では、お言葉に甘えて……いただきましょう」


そう言うと、レオンハルトは袖を少し捲り上げ、自らサイドボードへ向かってお湯の準備を始めた。


「あ……っ、レオンハルト様自らお淹れになるのですか!? 私がお手伝いします!」


特務審理官が自ら給仕をするなど思いもよらず、クラリスは慌てて立ち上がろうとした。

しかし、レオンハルトは振り返って優しくそれを制した。


「いいえ、座っていてください。……ふふ、驚かせてしまいましたね。

実は昔、聖庁で仕えていた上官が大変お茶にうるさい方でしてね。ずいぶんと仕込まれたのです。……貴女のお口に合えば良いのですが」


自嘲気味に苦笑しながら、慣れた手つきで茶器を温め、クラリスから受け取った茶葉へとお湯を注いでいくレオンハルト。

レオンハルトの過去を垣間見たような、そこはかとなく親しみやすい素顔に、クラリスの胸が温かく躍った。


レオンハルトは優雅な手つきで片方ずつ手袋を外すと、湯気の立つカップをクラリスの前に置いた。

クラリスもまた、お茶をいただくためにそっと手袋を外し、膝の上に重ねた。


カップから立ち上る澄んだハーブの香りと、焼き菓子の甘い匂いが室内に満ちていく。

ひとくち口にしたレオンハルトは、長く深い息を吐き出した。


「……素晴らしい香りだ。身体の芯から強張りが解けていくのが分かります」


「お口に合って良かったです。……レオンハルト様は、公都の全てを背負って戦っていらっしゃいますから。

ほんの少しでも、お心が休まればと……」


「……貴女は、どこまでお優しい方なのだ」


レオンハルトは感銘を受けたようにクラリスを見つめ、それから自戒を込めるように苦笑した。


「私ばかりが癒やされてしまっているな。

……クラリス嬢、貴女の方は大丈夫なのですか? 昨夜はよく眠れましたか……?」


まっすぐ自分を案じてくれる言葉と、どこまでも誠実な瞳。

(ご多忙でお疲れなのに、私のことまで……)

不意を突かれたクラリスは胸が跳ね上がり、動揺のあまり手に持っていたカップを僅かに傾けてしまった。


「っ……あっ!?」


「クラリス嬢!?」


熱いお茶が数滴、彼女の露出した白い手の甲へとこぼれ落ちる。

レオンハルトは瞬時に立ち上がると、卓上のリネンを取ってクラリスの手を優しく包み込み、熱を拭った。


「す、すみませんっ、私ったらお恥ずかしい粗相を……っ」


「謝る必要はありません! 怪我はありませんか? 赤くなっては……」


火傷がないか確かめるため、レオンハルトはリネンを外すと、素手でクラリスの無防備な手に触れた。

レオンハルトの指先は驚くほど温かく、手袋越しではない肌と肌の直接の接触に、クラリスの胸は跳ね上がり、体じゅうの血が急に熱くなったかのようにカッと頬が熱くなる。


「あ……」


レオンハルトもまた、自分の手が彼女の素肌に触れていることにハッと息を呑んだ。


―数拍の沈黙。


互いの視線が交わる。

レオンハルトは一瞬だけ苦しげに眉をひそめ、何かに耐えるように――目を伏せながら、すっと手を離した。


「レオンハルト……様……」

クラリスは自身のふしだらさを恥じ入りつつも、熱を帯びた指先が離れる事に、胸が絞られるような寂しさを感じてしまう。


「誠に申し訳ございません。母君にお約束したにも関わらず、昨日に引き続き、このような失態を…」


「そんな……っ、私の方こそ、不注意で……!」


再び交差する二人の視線。

潤むクラリスの瞳と、どこか憂いを帯びたレオンハルトの瞳が静かに重なり合った――そのとき。


コッコッ、と執務室のドアが不躾に叩かれた。


「隊長! 結界班から緊急の報告です!」


「……っ失礼」


レオンハルトは一瞬だけ瞳を揺らしたが、すぐに審理官としての顔に戻ると、手早く手袋を嵌め直して廊下へ出た。


先ほどまで閉ざされていた扉は、今は実務の会話を始めた際に数センチほど隙間が開けられており、そこから緊迫した気配がクラリスにも漏れ聞こえる。

レオンハルトは、短く、かつ淀みのない的確な指示を矢継ぎ早に下しているようだ。


「結界班の報告は後ほど別室で受ける。予備隊を第二水路へ回し、魔力濃度の変動を三分刻みに記録させろ。

私は客人をお送りしたのち、すぐに合流する」


「はっ!」


廊下から足音が遠ざかるのを確認すると、レオンハルトはクラリスに向き直り、申し訳なさそうに深々と頭を下げた。


「せっかくのティータイムを台無しにしてしまい、申し訳ありません。

昨夜のご報告もできましたので、本日はここまでで……すぐに馬車を用意させますので、お送りいたします」


「いいえ……レオンハルト様、どうかお気になさらないでください。お仕事、頑張ってくださいませ」

アルテンブルクのハーブか。過酷な乾燥と冷涼な気候が、皮肉にも極上のハーブを育てる環境になっているのは興味深いな。


『高地気流と澄空の女神』の領域たる乾燥した高地対流は、植物から余分な水分を急速に奪う。そのため、ラベンダーや青アザミといったハーブは精油成分が失われず、極めて強く凝縮され……


なに、文化的な話には興味がないだと?


ふむ。


では、趣を変えて、違う『世界線』でのこいつらを覗かせてやろう。


§§§

――――数拍の沈黙。

互いの熱い視線が交わる。

レオンハルトは一瞬だけ悩ましげに眉をひそめたが、溢れ出る愛おしさに耐えかねたように、手を、離さなかった。

それどころか、クラリスの細い指の間に、自分の指をそっと滑り込ませ、深く、深く、指を絡め合わせた。

「……っ」

熱を帯びた指先の手触り。手のひらに伝わる強い脈動。

ただ手を繋ぐのとは違う、指先を優しく撫で上げられ、絡め取られ、思わずクラリスは小さく吐息を漏らし、潤む瞳で彼を見つめ返した。

「レオンハルト……様……」

「……勝手なことを言っているのは分かっています。私のような立場の者が……」

レオンハルトは絡めた指に少しだけ力を込め、彼女の瞳をじっと見つめた。

「……私では、貴女を支えるには不相応でしょうか?」

「そんな……っ、不相応だなんて、私の方こそ……!」

二人の鼓動が重なり、互いの想いが指先を通じて溢れ出し、混ざり合っていく。

熱い空気と甘い痺れが二人の間を満たし、これ以上ないほど距離が縮まった、そのとき――

§§§


ちなみに、この世界線のこの都は、酸鼻を極めた大災害が起こって滅びたぞ。まぁ、さもありなん、という話だ。

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