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がたごとと、心地よい揺れを立てながら夕闇の迫る公都を走る馬車。
執務室での予期せぬ素肌の接触、そして二人を包んだ熱気が冷めていくにつれ、車内にはしだいに密やかな静寂が満ちていった。
向かい合わせの座席に座り、流れる街並みを窓越しに見つめながら、クラリスは手提げ鞄をぎゅっと両手で握りしめた。
(……どうしよう)
手袋を外した素手で触れ合ってしまった、あの指先の温もり。
そして手が離れた瞬間に、胸を襲った寂しさ。
彼の任務の緊迫感を理解しつつも、クラリスは溢れそうになる恋しさでいっぱいだった。
ふと気になって斜め向かいのレオンハルトへ視線を向けると、彼は窓の外を眺めたまま無言で口元に手を当てていた。
(レオンハルト様……誠実で責任感の強い方だわ。あの瞬間を気に病んでくださっているのね、きっと……)
「……クラリス嬢」
沈黙を破ったのは、レオンハルトの低い声だった。
彼はこちらへ視線を戻すと、自身を咎めるような、それでいて甘い熱を帯びた黄金の瞳でクラリスを見つめた。
「昨日の今日だというのに……またしても貴女に無防備な触れ合いをしてしまったこと、恥じ入るばかりです。
……どうか、私の不徳をお許しください」
「レオンハルト様……。いいえ、お責めにならないでください。
私の方こそ、お茶をこぼすような不注意をしてしまったのですから……」
「ですが……」
レオンハルトは一度言葉を切り、苦しげに眉をひそめた。
(彼女の素肌の熱に触れた瞬間、私の中で何かが狂いそうになった……。
神に身を捧げた身でありながら、このような妄念を抱くなど……)
苦悩するレオンハルトの姿に、クラリスは静かに首を振って語りかけた。
「レオンハルト様、私の身を案じての事だと、理解しておりますわ。
そんなにご自身をお責めにならないでくださいませ。」
(私には婚約者がいて、彼には神に捧げた誓いがあるのに……。
眼の前でレオンハルト様が、私の事で思い悩んでくださっている事に、私……)
境界線を越えてはならないという理性が互いを押し留めながらも、
触れ合える距離にいることの幸福感と切なさが、公都の街並みを抜けるあいだ、二人を支配し続ける。
やがてレオンハルトは、何かを耐え忍び、飲み込むように静かに口を開いた。
「……クラリス嬢、貴方のご協力で、調査も進めそうです。
こちらからご協力をお願いしておきながら、誠に勝手ですが、しばらくは調査に集中しようと思います……。
明日以降のご協力は、また改めて必要になりましたら、ご連絡させていただきます」
その言葉に一瞬だけ身体をわななかせたクラリスだったが、すっと背筋を伸ばし、完璧な淑女の笑みを浮かべた。
「左様でございますか……。少しでもお力になれたなら、よかったです。
……実は明日は婚約者様との予定が入りましたので、お時間を捻出できるか懸念しておりましたの。
タイミングがよくて助かりましたわ」
その言葉を受けた瞬間、レオンハルトの濃い睫毛がぴくりと震えた。
「婚約者…殿、ですか」
「えぇ、以前のように、慈しみの籠もったお手紙を、頂きまして…。」
震えそうになる喉を必死に叱咤し、クラリスは言葉を紡ぎ続ける。
「ですので……以前レオンハルト様がご心配くださったことは、もう大丈夫なんですの。
昔のように優しい彼に戻っていただけて、今、とても幸福ですのよ」
ふわりと、全身全霊を込めてクラリスは可憐に笑みを浮かべて見せた。
(あぁ、レオンハルト様……。わたくし、心から貴方をお慕いしております……)
彼を想うからこそ、真逆の言葉を紡ぐ。
神に仕える清廉な審理官に、己の不徳な想いという重荷を背負わせないために。
しかし、そんなクラリスの真意など知る由もないレオンハルトの胸中には、自ら距離を置こうと決めたはずなのに、抑えきれない暗い感情が蠢き始めていた。
(そうだ……元から彼女には愛する相手がいるのだ。私が距離を置こうが置くまいが、最初から関係なかったのだな……)
喉の奥で、苦い自嘲の吐息が漏れる。
「……それは、よかったですね。貴女の誠実な想いが、きっとお相手に届いたのでしょう」
腹の奥で黒く渦巻く感情の名前に気づく前に覆い隠すように、レオンハルトは淡々とした祝福の言葉を口にした。
―――しばらくして、伯爵邸の前で馬車が止まり、レオンハルトがドアを開ける。
手を差し伸べようとして一瞬躊躇した彼だったが、意を決したように丁寧な動作で手袋越しにクラリスの手を取った。
「……公都が慌ただしくなるかもしれません。明日の外出、どうか、お気をつけてお過ごしください」
「はい。レオンハルト様も……どうか、ご無理をなさらないでくださいませ」
クラリスは、静かに深々と一礼して伯爵邸へと入っていく
◇◇◇
翌日。
クラリスは、ジュリアンとの約束の場所である西の別邸の門前にて、侍女のマーガレットと押し問答をしていた。
「クラリス様、本当にお一人で行かれるのですか……?」
マーガレットは、固く閉ざされた館の敷地を不安そうに見つめている。
公爵家の西別邸は、元来、静養や非公式の晩餐会に用いられる格式高い洋館だ。
本来であれば、手入れの行き届いた庭園には庭師の手が入り、玄関前には客人の到着を待つ給仕や執事が整然と列をなしているはずだった。
しかし今、館の窓という窓には重々しいカーテンが下ろされ、使用人の気配はおろか、鳥のさえずりすら途絶えた不気味な静寂に包まれている。
「やはり、どこか雰囲気が妙でございます」
不安そうに馬車から身を乗り出すマーガレットに対し、クラリスは優しく、けれど断固とした手つきでその手を握り返した。
「大丈夫よ。ですが念のため……あなたはこのまま公爵家の本家へ向かい、西の別邸の様子が少しおかしいと伝えてちょうだい。念には念を入れて、ね」
戸惑う侍女をなだめて馬車へ戻すと、クラリスは一人、重厚な鉄門をくぐり抜けた。
護衛として伴ってきた伯爵家の騎士たちには門前での待機を命じ、静まり返った前庭を抜けていく。
カツン、カツンと、敷石を叩く自身の靴音だけが異質なほど高く響いていた。
館の重厚な木製扉に手をかける。押し開けると、広大な吹き抜けのエントランスホールには冷ややかな空気が満ちており、普段なら廊下を照らしているはずの壁掛け燭台の火もすべて消されていた。
(いくら何でも、静かすぎる……)
背筋を小さな冷や汗が伝うのを感じたその時、中央の螺旋階段から軽やかな足音が聞こえた。
「やあ、クラリス。よく来てくれたね」
階段を下りてきたのは、婚約者のジュリアンだった。
いつもと変わらぬ上質な着こなし、柔らかな金髪。
しかし、クラリスを迎えるその笑顔には、どこか焦点の合わない不自然な浮遊感が漂っていた。
瞳の奥はガラス玉のように光を弾き、虚ろな陰りを帯びている。
「ジュリアン様……。あの、館のお手伝いの方々はどちらへ? どなたもお見かけしませんけれど……」
「ああ、彼らなら下がらせたよ」
ジュリアンは至極当然といった様子で首をかしげると、クラリスの腕を優しく、けれどどこか機械的な力強さで引き寄せた。
「だって、せっかくの私の『特別なプレゼント』を、誰にも邪魔されたくないだろう? さあ、こちらへおいで」
「プレゼント……ですか?」
腕を引っ張られるまま、クラリスは奥の大広間へと誘われる。
ジュリアンが押し開けたその室内を見て、クラリスは息を飲んだ。
かつて豪華な絨毯や壁掛け、アンティークの調度品が飾られていたはずの大広間は、すべての家具が撤去され、がらんとした惨憺たる空間に変わり果てていた。そして、剥き出しになった石造りの床一面には、禍々しい紫黒の絵の具のようなもので、巨大な魔法陣がびっしりと描き込まれていたのだ。
その中心に鎮座しているのは、脈動するように不快な気を放つ、黒ずんだ禍々しい異形の像。
クラリスの脳裏に、あの執務室でのレオンハルトの切迫した声が鮮明に蘇る。
『恐らく犯人は、特定の祭壇を用意しているのではない。六芒星の核へ魔力を流し込むための『強力なトリガーとなる呪具』を所持しており、それを公都のどこかで発動させる気です』
(まさか……! レオンハルト様が仰っていたのは、これのこと……!?)
絶句するクラリスの横で、ジュリアンはうっとりとその像を見つめ、大袈裟に両手を広げた。
「さあ、始めよう! 君のための特別な儀式を!」
ふん、役者が揃い、ようやく事態が蠢き始めたか。男女の茶番などどうでもいいが、盤上の駒が最悪の配置へと滑り込んでいく様は、なかなか悪くない鑑賞劇だな。
欺瞞で自責を誤魔化す審理官、正気を失った婚約者、そして自ら罠の渦中へと飛び込んだ愚かなクラリス。完璧な舞台装置だ。さあ、どう足掻く? 愚かな人間どもが紡ぐ破滅の結末、せいぜい楽しませてもらうとしよう。




