021
正気を失ったとした思えないジュリアンの言動に、クラリスは激しく動揺する。
「な……何を仰っているのですか、ジュリアン様! このようなおぞましい陣、今すぐおやめください!」
必死に袖を引っ張るクラリスに、ジュリアンは心底不思議そうに目を丸くした。
「どうして止めるんだい? クラリス、君はいつも血統魔術が使えないことを気にして、悲しそうに俯いていただろう? だから私が、君に強力な魔力を与えてあげようと思って用意したんだよ。これで安心して、引け目を感じずに私の隣に並べるんだよ? 喜んでくれるだろう?」
「っ……!」
その言葉に、クラリスの胸が激しく締め付けられた。
彼の言葉は一見すると哀れみと善意に満ちている。けれど、そこにあるのは「クラリス自身の心」に向き合う姿勢ではなく、己の歪んだ所有欲を満たすための狂気だった。
「結構です! 私は、そんな力など望んでおりません!」
クラリスが身を翻して部屋を飛び出そうとした、その時――
「ジュリアン様。彼女はただ遠慮して、我が儘を言っているだけですわ。本当に……かわいらしいこと」
冷ややかな声とともに、影からぬっと姿を現したのは、公爵家の賓客として滞在していたヴェロニカだった。その手には、不気味な光沢を放つ太い麻縄が握られている。
「儀式を中断されては困りますもの。少し……おとなしくしていただきましょう」
「ああ、そうだね。クラリス、暴れて怪我をしてはいけないよ」
「離してください! ジュリアン様! ヴェロニカ様!!」
抵抗も虚しく、虚ろな瞳のジュリアンと冷酷な手つきのヴェロニカによって、クラリスの身体は厳重に縛り上げられ、冷たい石床の上に崩れ落ちた。
ジュリアンが呪具に向かって古めかしい詠唱を始めると、床の魔法陣が不気味な光を帯びて脈動し始める。
(いったい……何が始まろうとしているの……!?)
しかし、何かがおかしい。立ち昇りかけた魔力は歪に明滅を繰り返すばかりで、一向に収束する気配を見せないのだ。
「ちっ……計画通りの反応がないわね……」
焦れったさに、ヴェロニカが舌打ちを漏らす。
レオンハルトたちが地下水路で仕掛けた妨害結界が、術式の進行を食い止めているのだ。
暗く昏い瞳でクラリスを見下ろすヴェロニカの口元に、歪んだ笑みが浮かび上がった。
「仕方ないわね、少し待つとしますか……」
◇
西の別邸で歪んだ儀式が強行されようとしていたその頃、公都の街には不穏な空気が満ち始めていた。
街を包む魔力濃度が不自然に急上昇し、路地裏の灯籠が不気味に明滅を繰り返す。
レオンハルトの執務室では、相次ぐ異常報告が慌ただしく飛び交っていた。
その中心で、レオンハルトは手元の羊皮紙から鋭い視線を上げた。
彼の所持する、異端を捉えるアーティファクト『天秤の羅針儀』が、小さく反応しているのだ。
「しまった……いつから反応していた……!?」
レオンハルトの瞳に、見たこともない焦燥が走る。
指し示す方向は――公都の西方面。
「私は先行して術者を直接叩きに行く! 副官、街の警戒態勢を最大に維持しつつ、支援部隊の手配を!」
「はっ、ヴァイス卿!」
レオンハルトは特務審理官の黒衣を翻し、稲妻のような速さで執務室を飛び出した。
◇
一方、西の別邸の大広間では、じわじわと刻限が迫っていた。
思い通りに魔力が立ち昇らない焦れったさに、ヴェロニカは痺れを切らしたように舌打ちを漏らす。
「……ちっ、これ以上待っていられないわね。強引に最終段階へ進めるわ」
ヴェロニカの目的は最初からひとつ――この公都に、莫大な破壊をもたらす悪魔を降臨させること。
釣り合いの取れない婚約者をあてがわれたジュリアンの心の隙に入り込み、利用するのは容易かった。
何より、無能なくせに、貴族という特権階級に生まれたというだけで、安穏とした暮らしを享受し、最上級の貴公子を婚約者に持った、クラリスという存在が、狂おしいほど許せなかったのだ。
「ちょうどいいわ。貴女には最高の供物になってもらうわね」
ヴェロニカは床に倒れていたクラリスの髪を躊躇なく掴み上げると、大広間の中心――不気味な像の真前へと引きずり込んだ。
「ああっ……!」
頭皮を裂くような痛みにクラリスが悲鳴を上げる。
ヴェロニカは懐から、公爵家の家紋が精巧に刻まれた、手入れの行き届いた一振りのナイフを取り出した。そして、それを躊躇なくクラリスの白い首筋へと突きつける。
プツリ、と皮膚が微かに裂け、一筋の赤い血が首筋を伝って落ちた。
「ジュリアン様……! ジュリアン様、助けて……!」
痛みに耐えかね、恐怖に身体を震わせながらクラリスは叫んだ。
しかし、数歩離れた場所に立つジュリアンは、ガラス玉のような虚ろな瞳でただそれを見つめ、どこか無邪気な笑みを浮かべているだけだった。
「大丈夫だよ、クラリス。痛みは最初だけだ……これで君は、生まれ変わるんだから……」
「そんな……ジュリアン様……」
助けは来ない。
その事実に絶望がクラリスの胸を押し潰しそうになる。
ヴェロニカは、そんな焦燥しきったクラリスを見下ろすと、底意地の悪い嘲笑を浮かべた。
「そうよ、その顔! もっと絶望しなさい! 恐怖と悲鳴を撒き散らすほど、贄としての価値が上がるのよ!」
首元に押し当てられる刃の冷たさ。
溢れ出しそうになる涙を堪え、クラリスは引き裂かれそうな胸の奥から、ずっと焦がれていた『彼』の名を叫んでいた。
「助けて……っ! レオンハルト様――」
その悲鳴が響き渡った、まさにその瞬間だった。
ズガッッ―――!!
大広間の重厚な木製扉が、勢いよく跳ね明けられた。
「そこまでだ!!」
そこに立っていたのは、神聖な魔力を全身から猛烈に溢れ出させたレオンハルトだった。
瞬時に室内の状況を把握した彼の黄金の瞳が、クラリスの首元に突きつけられたナイフを捉える。
猶予は一瞬もなかった。
レオンハルトは躊躇なく腰の短剣を抜くと、目にも留まらぬ速さで投擲した。
風を切り裂いて飛んだ短剣が、寸分の狂いもなく、ナイフを持つヴェロニカの手首を正確に刺し抜く。
痛みと衝撃でヴェロニカの手からナイフは離れ、石床に音を立てて転がった。
「なっ……!?」
ヴェロニカが息を飲んだ瞬間には、すでにレオンハルトは一足飛びに間合いを詰めていた。
聖騎士の圧倒的な踏み込み。
そのままの勢いで繰り出された一撃の前蹴りが、ヴェロニカの正中線を捉える。
「カハッ……!?」
肋骨がへし折れる不穏な重低音が響き、ヴェロニカの身体が弾丸のように吹き飛んだ。
そのまま数メートル先の大理石の壁へ激突し、派手な音を立てて崩れ落ちる。
普通の人間であれば、即死しかねないほどの凄まじい破壊力だった。
「クラリス嬢!」
レオンハルトはすぐさまその場に屈み込むと、クラリスを縛り上げていた麻縄を剣の一閃で断ち切った。
そして、そのまま力強く、彼女の華奢な身体を抱き寄せた。
「……っ、レオンハルト、様……」
「無事ですか……! 申し訳ない、到着が遅れた……!」
レオンハルトの呼吸は激しく乱れ、その身体は微かに震えていた。
彼のしなやかで長い指が、怪我がないか確かめる為、クラリスの頬や髪、肩を丁寧に巡っていく。
しかし――その指先が、首筋に残された一筋の赤い傷跡に触れた瞬間。
レオンハルトの身体がぴたりと強張った。
彼の黄金の瞳から熱が失われ、凍てつくような極冷の殺意と激怒が宿るのを、クラリスは間近で感じ取って息を飲んだ。
「……あいつは、貴女の肌に刃を立てたのですね」
低く静かな、けれど地獄の底から響くような声。
「レオンハルト様……どうしてここが……」
「アーティファクトが反応を示しました。……今、公都全体が危険な状態にあります。
安全が確認されるまで、私のそばを絶対に離れないでください」
そう言い含めると、レオンハルトはクラリスを慈しむように背後に庇い、ゆっくりと立ち上がった。
その手には、白銀の光を纏う誓約の剣が握られている。
なぜなら――崩れ落ちた壁際で、胸骨を折られたはずのヴェロニカが、何事もなかったかのようにゆらりと立ち上がり始めていたからだ。
「……くふふ。まったく、レディに対して無作法な男ね……」
ヴェロニカの瞳は不気味な紫黒に濁り、折れたはずの身体が、邪悪な魔力によって無理やり修復されていく。
「クラリス嬢、下がっていてください。……すぐに片を付けます」
ふん、魔法陣ねえ。あの床に描かれた下手くそな術式が見えるか? 異界の力を強引に引き込もうとして魔力が明滅を繰り返している。典型的な素人仕事だな。
勘違いしている人間が多いが、魔法陣というのは「力を呼び出す魔法の図形」などではない。あれはこの世界にとって劇薬である異界の力を、この物質界に排出するための『配管と弁』に過ぎんのだよ。
特にウォーロック——つまり異界の悪魔と契約する術式においてはな。
奴らのような凡夫は、肉体のエーテルキャパシティが低すぎて高位の魔力に耐えられない。だから己の精神や命、あるいは生贄を「ノズル」として差し出し、悪魔側に干渉の【認可】を出させる。要するに、自前のパイプがないから悪魔の蛇口を勝手に捻って、その水圧をそのままこの世界にブチまけているわけだ。
だから配管の設計が甘いと、蛇口を開けた瞬間に水圧に耐え切れず爆発するか、余計な大穴があいて術者ごと呑み込まれる。
あそこで正気を失っている許婚の男も、高括っている女も、自分たちが何を開けようとしているのか理解しておらん。安全装置もなしに爆発物を捏ねくり回しているようなものだ。
……おや、聖騎士様が首筋の傷ひとつで頭に血を昇らせて、白銀の剣を抜いたか。
まあよい。配管が破裂して全員まとめて悪魔の胃袋に収まるか、怒りに飲まれた聖騎士の殺戮ショーが始まるか。くだらん爆発事故の結末など、どれも大同小異だよ。




