022
レオンハルトの全身から、聖騎士特有の黄金のオーラが爆発的に膨れ上がった。
対するヴェロニカもまた、異界の主と契約した術者――ウォーロックとしての不吉な黒銀の魔力を両手に滾らせる。
「……くふふ、聖庁の犬が」
ヴェロニカが邪悪な笑みを浮かべ、両手から呪いの力波――【エルドリッチ・ブラスト】を放つ。空気を歪める黒銀の閃光が、一瞬でレオンハルトへ迫る。
だが、レオンハルトは眉一つ動かさない。
「【ディヴァイン・バルワルク】」
ただ一振り、白銀の剣を横一文字に払う。
それだけで、迫りくる黒銀の呪導波は、まるで水泡のようにあっけなく雲散霧消した。
「な……っ!?」
驚愕に目を見開くヴェロニカへ、レオンハルトは一瞬のうちに間合いを詰めた。
残像すら残さぬ速度。すれ違いざま、聖なる光を帯びた剣の柄頭が、ヴェロニカの喉元とみぞおちを的確に穿つ。
ガッ、ガアァン!!
「カハッ……あ……っ!?」
黒銀の魔力障壁ごと叩き潰され、ヴェロニカは再び床へ膝をついた。
圧倒的な格の違い。
レオンハルトは一滴の汗すら浮かべず、冷徹な黄金の瞳で彼女を見下ろしている。
「な、なぜ……これほどの力を得た私が……貴族の犬ごときに……!」
屈辱に打ち震えるヴェロニカ。
血を吐きながら、彼女は急に狂ったような笑声を上げた。
「……ふふ、あははは! そうよ、お前たち貴族はいつもそう! 力で奪い、踏みにじる!」
ヴェロニカは立ち上がると、ドレスの上半身を自ら無造作に引き裂き、無残に剥ぎ取った。
「なっ……!?」
後ろで見守っていたクラリスが、思わず息を飲んで口元を覆う。
露わになったヴェロニカの背中――そこには、見るも凄惨な生々しい虐待の烙印、幾重にも隆起した傷跡がびっしりと刻み込まれていた。
さらにその傷を覆うように、おぞましい魔導タトゥーがまるで生き物のように蠢いている。
「どうだ、悍ましいか!? 本当に悍ましいのは、幼い私を玩具のように嬲った、お前たち貴族だ!!」
血を吐くようなヴェロニカの叫びに、クラリスは胸を強く衝かれ、絶句した。
しかし、レオンハルトは眉一つ動かさず、ただ冷ややかな鼻笑いを漏らした。
「くだらん」
「……何だと!?」
「クラリス嬢、貴女が気に病む必要は一切ありません」
レオンハルトは背後のクラリスを庇うように一歩前に出ると、冷ややかな視線をヴェロニカへ投げかけた。
「……貴様、『蝕の結社』の捨て駒だな」
ヴェロニカの身体がピタリと強張る。
「蝕の結社が仲間を増やす際、よく使う手口だ。……幼い子供を浚い、偽の貴族に仕立て上げた配下に過酷な虐待を行わせる。そして救い上げたかのように見せ、『お前を虐げたのは貴族だ』という『偽りの記憶』を脳へ深く刻み込み、結社への揺るぎない忠誠心を植え付ける」
「な……何を……何を言っている……!?」
「そもそも、神の祝福によって魔力と地位を得ている貴族が、その祝福を失うリスクを冒してまで、あからさまな悪逆を行う事はそうそうない。……貴様が憎み、復讐を誓ってきた『貴族』など、結社が作り出した欺瞞に過ぎん」
「嘘だ……嘘だ嘘だ嘘だ!!」
己の人生の根底を支えていた絶望と復讐心が、ただの「作られた偽物」であったという事実。
世界の前提を覆されたヴェロニカは、美しさの欠片もない歪んだ顔でヒステリックに発狂した。
「信じない! 信じない信じない信じない!!」
激しく頭を抱え、叫び散らすヴェロニカ。
だが――ふと、その狂乱がピタリと止まった。
ゆらり、と幽鬼のように立ち上がった彼女は、乱れた黒髪の隙間から、ニヤリと底知れぬ狂気の笑みを浮かべた。
「……滅びろ」
「……何?」
ヴェロニカは両手を掲げると、体内の黒銀の魔力を一滴残らず絞り出し、不気味な像へと吐き出した。
許容量を超えた過剰な魔力が注ぎ込まれ、核が禍々しく脈打つ。
「狂い咲きなさい……! 皆、滅びればいい――!」
制御の事など考えていない、許容量を超えた不気味な像と魔法陣が狂乱し、過剰魔力が爆発的に暴走を始め、空間を浸食していく。
グニャリ、と世界そのものが歪むような気分の悪さに、クラリスは突然襲われた。
(……な、なに……?)
たまらず目を擦る。
しかし、周囲の景色から光線が捻じ曲がり、大理石の床や壁がまるで水面に映る影のように不気味に揺らめき始めていく。
違和感は一呼吸ごとに色濃くなり、空間そのものが崩壊への悲鳴を上げていた。
「――いよいよ、宴の本番というわけだ」
頭上に響いたのは、胸を刺すほどに傲岸で、けれどどこまでも優美なあの男の声だった。
「アスタ様……!?」
「喜ぶといい、小娘。実に三百年ぶりだぞ? ――地獄がこの現世に顕現しようとしている」
闇の底から響くようなその宣告に、レオンハルトの息が詰まった。
「なっ……! まさか、かつての大破滅と同等の災厄が起きようとしているのか……!?」
レオンハルトが見たこともない焦燥にその端正な顔を歪めるのを見て、クラリスは自身が途轍もない厄災の渦中に居る事を認識する。
「そんな……! それでは……!」
栄華を誇っていた大帝国の帝都が、一夜にして『死都』と化した悪夢の再来。
クラリスは恐怖に音を失った。
「ああ。この公都は間もなく終わりを迎え……地獄と融合した『死都』へと変貌するだろう」
レオンハルトの額から一筋の脂汗が伝い落ちるのを目にして、クラリスは脳裏が真っ白になるような激しい目眩を覚えた。
対するアスタは、まるで極上の喜劇を鑑賞するかのように、その美しい唇に笑みを浮かべている。
「さあ小娘、確と目を見開いておくがいい。滅多に拝めるものではないぞ?
これこそが人間の愚かさが辿り着く極致――地獄の顕現だ。せっかくだ、せいぜい楽しむがいい」
「そんな……っ! どうにか……どうにか手を打つ方法はないのですか、レオンハルト様!?」
必死で縋りつくクラリスに、レオンハルトはギリッと奥歯を噛み締め、悔しさに眉をひそめた。
「くっ……申し訳ございません。私の知識をもってしても、この規模の空間浸食を今すぐ止める術は……。
今はただ一刻も早く、公都の民を一人でも多く逃がす算段を立てるしか……」
「そんな……ねえ、アスタ様! 笑ってないで……何か知っているなら、助けてください!!」
悲痛なクラリスの叫び。しかし、アスタは冷酷なまでに美しく細められた瞳で、ただ彼女を見下ろすだけだった。
「不遜だぞ、小娘。……それをなして、この我にどのような利があるというのだ?」
「っ……!」
手立てを知っている気配を匂わせながら、冷ややかに突き放すその態度に、クラリスは息を飲んだ。
胸の奥から湧き上がる怒りと焦燥が、彼女の言葉を激しく突き動かす。
「利だなんて……! 今は社交シーズンなのですよ!?
帝国の各地から、どれほど多くの人々がこの公都に集まっていると思っているのですか!!
人の命がかかっている時に、得があるかどうかだなんて……そんな事言っている場合ではないでしょう!!」
アスタに向かって一歩踏み出そうとしたクラリスの肩を、レオンハルトが静かに、けれど強く抱き寄せた。
「クラリス嬢、ここは一度撤退しましょう。……急いでこの場を離れるべきです」
浸食は進み続け、部屋は硫黄臭に包まれてくる。
「……くふ、くふふふふ!」
その時、大量の魔力を放出し、崩れ落ちていたヴェロニカが、喉を鳴らして引きつった笑いを漏らし始めた。
「そうよ……今は最高の社交シーズン。私の契約悪魔――『七つの歪言』の力をもって、公都に集いし腐れ貴族どもを、ことごとく恐怖と絶望の坩堝へ叩き落としてやるのよ―――!!」
その言葉が出た瞬間だった。
ピリ……と、空気の粒子そのものが氷結したかのような静寂が訪れる。
アスタの雰囲気が、一瞬にして変貌した。
「……七つの、歪言、だと……?」
アスタの低い呟きは、地鳴りのように静かに響いた。
ヴェロニカはそれに気づかず、狂気に満ちた歪んだ笑顔を浮かべ続ける。
「くふふふ! そうよ! 私が契約したのは、地獄の大悪魔『七つの歪言』! 恐れ慄き、跪きなさい……!」
――瞬間。
ドンッ、と全空間を叩き潰すような圧倒的な存在感が爆発した。
次元の揺らめきすら一瞬で呑み込み、塗り替えていく猛絶なる威圧。
絶大な気に当てられ、さっきまで勝ち誇っていたヴェロニカも、正気を失い呆けていたジュリアンも、腰がくだけて石床へ倒れ伏した。
「あっ……く……っ!」
クラリスもまた、呼吸すら許されぬ圧迫感に膝から崩れ落ちそうになる。
「クラリス嬢!」
それを、全身の神聖魔力を絞り出したレオンハルトが寸前で抱き留め、必死に彼女を庇い支えていた。
「……おい、小娘」
アスタがゆっくりと歩み寄ってくる。
その顔は恐ろしいほどに無表情であったが、そこから溢れ出す怒りは、世界を燃やし尽くしかねないほどに濃密だった。
まるで、己の与えられた絶対的な領域を、矮小な存在に穢された神のごとき激怒。
「……そういえば、『箱』を開けた祝いを、まだ貴様に執り行っていなかったな。
――いいだろう、力を貸してやる」
あまりの圧力に途切れ途切れの息を吐きながら、クラリスは彼を見上げた。
「アスタ様……? 貴方……一体……? いいえ、助けて……くれるのですか……?」
「どこまでも傲慢で、愚かな娘だ」
アスタが吐き捨てると同時に、彼の身から放たれる存在感はさらに増大し、もはや視覚できるほどの黄金と紫黒のオーラとなってその身を包み込んだ。
それは悪魔の禍々しさという領域を超えた、神聖にして不可侵な――まさしく『神氣』そのものだった。
アスタは冷ややかにクラリスを見下ろした。
その瞳は、まるで世界の理そのものを看破し、彼女という存在の骨組みまでをも丸裸にするかのような、底知れぬ深さと知性を湛えていた。
絶対者の威厳をもって、アスタは告げる。
「貴様に、機会を与えよう」
その声は、深淵の底から真理を突きつけるように響いた。
「――我こそは、『七つの歪言』が一柱、魔神アスタロスの残響。
原初の『知』にして、停滞した世界に真理の火を破滅ごと投げ渡した反逆の記憶だ」




