027
ふと、クラリスはいつのまにか姿を消していた存在に想いを寄せた。
(アスタ様……)
その瞬間、クラリスの全身から、急速に「熱」が引いていく感覚が襲った。
先ほどまで視界を埋め尽くしていた、世界を構成する細かなグリッド(格子)の網目。
指先に満ちていた、どんな分厚い壁をも容易く解体できるような無敵の万能感。
それらが、潮が引くように皮膚の奥から抜け落ちていく。
足元が急激に軽くなり、同時に押し寄せる強い疲労感。
アスタが口にしていた「貸与」という言葉の意味を、クラリスは身をもって理解した。
あの圧倒的な力は、あくまであの危機を脱するためだけに、一時的に預けられたものに過ぎなかったのだ。
体の芯に残る微かな痺れを感じながら、クラリスは誰にも聞こえないほどの小さな声で、そっと呟いた。
「……アスタ様。助けてくれて、ありがとうございます」
返事はない。けれど、胸の奥で息づく『知』の残響が、一瞬だけ微かに温かくなったような気がした。
玄関ホールへ辿り着くと、緊張した面持ちで控えていた伯爵家の警護兵たちが、驚きとともに駆け寄ってきた。
「特級審問官殿! クラリス様も……ッ! ご無事でしたか!」
「ああ、危機は脱した。……だが、まだ油断は禁物だ。
緊急ゆえ、ご協力を頼みたい。この女はウォーロックだ。拘束しているが、私の部下が到着するまで厳重に監視していただきたい。
ジュリアン殿は、このウォーロックの影響で衰弱している。どこか客室へお運びし、体を温めて安静にさせるように。
もし目が冷めても、精神に影響が及んでいる可能性もあるので、彼の指示には従わないように。」
レオンハルトは戸惑う警護兵たちへ指示を飛ばした。
「クラリス嬢が念のために侍女を使いに出してくれたおかげで、じきに公爵家本邸からの救援や正規の騎士団も動くはずだ。
それまでの間、この別邸の封鎖と現場の保全を頼む。」
「ハッ! 直ちに取りかかります!」
警護兵たちは素早く動き、罪人であるヴェロニカを縛ったまま奥の小部屋へ連行し、もう一陣は気を失った公爵令息ジュリアンを気遣いながら抱え上げ、近くの応接室へと静かに運び込んでいった。
これで現場の最低限の整理と、双方の身柄の適切な処置は完了した。
レオンハルトは玄関ホールを見まわすと、クラリスの方へと向き直った。
「クラリス嬢。外の街並みは暴走した魔力の余波で混乱しております。ここで軽率に移動されるのは危険です」
彼はヴェロニカたちの連行された方向とは反対側――奥にある静かな別室の扉を指し示した。
「安全な客室でお待ちいただきましょう。私が側で警護いたします。……よろしいでしょうか?」
クラリスは、細やかな配慮を見せる騎士の瞳を見つめ、静かに深呼吸をした。
胸の奥で息づく熱を感じながら、静かに微笑む。
「はい、レオンハルト様。お供いたします」
◇
重厚な木製の扉を閉め、レオンハルトは内部から静かに鍵をかけた。
別邸の一室は、先ほどまでの禍々しい異彩が嘘のように冷え切っている。
部屋を照らすのは、壁の魔導ランプが落とす淡い光だけだった。
レオンハルトは剣の柄に片手を置いたまま、窓の外の気配に耳を澄ませた。
警護兵たちが玄関ホールや廊下で動く音が、分厚い壁越しに低く響いている。
公爵家の本邸へ向かった侍女が救援を連れて戻るまで、一息つけるだろう。
クラリスは部屋の中ほどにある椅子に腰を下ろし、深く息を吐き出した。
体に満ちていたあの圧倒的な万能感が嘘のように消え去り、ずっしりとした疲労感が肩にのしかかっている。
レオンハルトは数歩離れた位置で足を止め、クラリスの様子を確かめるように視線を向けた。
「……気分はどうですか」
「大丈夫です。少し……疲れただけですから」
クラリスが静かに答えると、レオンハルトは短く息を吐き、剣から手を離した。
彼の表情にはまだ緊張のの色が残っている。
それを見て、ふっと笑みを浮かべながらクラリスがレオンハルトに話しかける。
「本当に…、レオンハルト様が来てくださらなければ、私はどうなっていたか分かりません。感謝しています」
「……私は、何もしていません」
レオンハルトは苦いものを噛み潰したような顔で、視線を落とした。
「貴女を助けようと踏み込んだものの……あの時、貴女に何が起こったか、何がなされたのかも、私には理解できていません」
レオンハルトの言葉には、騎士としての無力感と、目の前で起きた現象への困惑がそのまま滲んでいた。
彼はアスタの存在も、クラリスが精神世界で何を見たかも知らない。
ただ「クラリスが一瞬で異様な雰囲気を纏い、自分たちの手に負えない現象をその手で収束させた」という結果だけを目撃したのだ。
クラリスは自分の両手を見つめた。
肌の奥にあった熱は引いている。アスタから貸与された力は去り、今の自分はただのクラリスに戻っていた。
「……私も、守りたかったのです」
ポツリと、クラリスは呟いた。
「なにが起きたのか、上手く説明できません。ただ……あの一瞬、私は恐ろしい力の一端に触れました。
……でも、引き下がるわけにはいかなかった。
レオンハルト様や、周りの方々に守られているだけの私では、いられなかったのです」
レオンハルトは黙ってその言葉を聞いていた。
ただ、まっすぐな視線でクラリスを見つめ、やがて静かに首を振った。
「詳細を聞くつもりはありません。それがどれほど異質なものであれ……
貴女が身を挺してあの状況を収め、無事でいてくれた。今の私には、それだけで十分です」
彼はクラリスとの間に適切な距離を保ったまま、軽く頭を下げた。
「侍女が戻り、公爵家の正規の騎士団が到着すれば、事態の調査が始まります。
……何があろうと、私は貴女の味方として立ちます。」
その硬質な声に込められた揺るぎない意志に、クラリスの胸の奥が微かに温かくなった。
「……ありがとうございます、レオンハルト様」
二人はそれ以上言葉を交わさず、静かな客室の中で、公爵家からの救援が到着する足音をじっと待った。
◇
公爵家の本邸から駆けつけた正規の騎士たちと、レオンハルトに遅れてやって来た大司教座聖堂の精鋭たちが別邸へ到着すると、事態は急速に収束へと向かった。
昏倒していた公爵令息ジュリアンは迅速かつ入念に保護され、術式の主犯であるヴェロニカは聖堂の抑止具によって厳重に縛られたまま、人目を避けて連行されていく。
現場の保全と証拠の押収、そして公爵家内部への根回し――手練れたちの手によって、日中の惨劇は寸分の破綻もなく「表向きの静穏」へと塗り潰されていった。
やがて、本邸から戻った自家の侍女と馬車に乗り込み、忙しなく指示を飛ばすレオンハルトに別れを告げ、クラリスは別邸を後にした。
夕刻。
無事に屋敷へ帰着すると、そこには何事もなかったかのように穏やかな日常が待っていた。
庭園を染める茜色の斜光、行き交う使用人たちの静かな挨拶、そして手際よく整えられていく温かな夕食。
公都を揺るがしたあの凄惨な魔力の狂乱も、アスタの語った世界の理も、すべてが遠い幻であったかのように、いつも通りの生活ルーティンが淡々と過ぎていく。
だが、クラリスの肌の奥には、確かにあの嵐をくぐり抜けてきた感覚が残っていた。
夜――。
一通りの身支度を終え、クラリスは静かに侍女を下がらせた。
重い扉が閉まり、足音が遠ざかると、室内には完全な静寂が訪れる。
クラリスはゆっくりと歩み寄り、自室の奥、鍵の掛かった頑丈なキャビネットの扉を開いた。
暗がりの中から取り出したのは、重厚な装飾が施された箱――『正一二面の連鎖手箱』。
机の上にそれを静かに置くと、クラリスは椅子に腰を下ろし、そっと手箱の表面になぞるように触れた。
指先に伝わる冷ややかな触感。
しかし、その奥底には、精神世界で触れたあのアスタの残香と、世界を解体しうる途方もない「知」の余韻が、今も静かに息づいている。
複雑に噛み合う幾何学的な機構、触れるたびに冷ややかな手応えを返す表面。
昼間の恐ろしい魔力の狂乱、アスタが見せた圧倒的な理、そして己の足で立った感触――。
今日起きた怒涛の出来事を反芻しながら、無意識に指先で手箱の表面を優しくなぞる。
そのとき――。
「……ただの箱に過ぎぬものにしがみつき、感傷に浸るとは。人間はやはり理解できんな」
影が揺れた。
低く、どこか冷ややかで掠れた声が、突如として室内の空気を凍りつかせる。
クラリスが息を呑んで顔を上げると、影の輪郭を溶かしたような姿で、そこにアスタが佇んでいた。
実体というよりは、夜の闇が人の形を結んだかのような、掴みどころのない曖昧な存在感。
「アスタ様……」
驚きに目を見開きながらも、クラリスは手箱からそっと手を離し、胸の前で指を組んだ。そしてまっすぐにその影を見つめ、深々と頭を下げる。
「……改めて、感謝を申し上げます。あの場面で私をお救いくださり、本当にありがとうございました」
「救った?」
アスタは嘲笑うかのように薄く口角を上げた。
その瞳の奥には、星々の死滅を眺めるような果てしない虚無が揺れている。
「勘違いするな。我が動いたのは、我が名を騙り、醜悪な歪みを撒き散らす不快な塵芥虫を潰したまでに過ぎん。貴様という器の存続など、その副物の泡沫だ」
取り付く島もない言葉だが、クラリスは頬をほころばせる。
「それでも、私はあなたに救われました」
「フン……理解を拒む歪んだ認識だな」
アスタは退屈そうに息を吐くと、ゆらりと影を揺らした。
「……まあよい。久遠の微睡みの中で、多少の暇つぶしにはなった。我が意識の波長も、じきに元の深淵へと沈む」
そう呟くと、アスタの視線が机の上の『連鎖手箱』へと落ちた。
「おい、クラリス。その手箱を閉じろ。我が目覚めし痕跡を塞ぎ、世界の観測から覆い隠せ」
「え……?」
不意に命じられ、クラリスは思わず途惑いの声を漏らした。
手箱を閉じる――それは、アスタとの繋がりや、彼が与えてくれた理の余韻を完全に遮断してしまうことを意味するのだろうか。
指先が微かに躊躇い、動きを止めてしまう。
そのクラリスの惑いと逡巡を、アスタは冷ややかに見下ろした。
「……ふん。まあ、よい」
呆れたような、あるいは気まぐれな優しさを孕んだような、捉えどころのない吐息。
「我も好きにするから、貴様も好きにするがいい。そうだ、餞別に祝福を与えてやろう」
そう言って、いつもの傲慢で尊大な態度で、自由に語りだした。
「太古、人間は文明も乏しかった。爪も牙も持たない、か弱き人間を庇護する為に、星環維持神が気に入った個体に祝福を与えた。そいつらが、お前らの言う貴族の先祖だ」
「それが……?」
「愚かなクラリスよ。ここまで言っても解らないのか?庇護が不要になったら、祝福も不要になる。それが道理という事だ」
「それって…もしかして…私……」
「人間は自らの足で進む時が来た、と今更ながら維持神どもが認識したといった所か?まぁ、あいつらに知性なんてものは無いから何とも言えないがな。どう受け止めるかは、貴様次第だ」
言葉が終わると同時に、アスタの姿はまるでランプの煙が夜風に解けるように、不意に、そして完璧に暗闇の中へと掻き消えた。
あとに残されたのは、机の上に佇む静かな手箱と、クラリス一人だけ。
クラリスはそっと手箱の表面に触れた。
無機質な冷たさの中に、ほんの僅か、小さな灯火が残っているような気がしていた。




